2024年02月10日

江戸時代の「出石城」 と 安土桃山時代の「有子山城」

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前記事で紹介したように長男の家に訪問した後、みんなで最初に行ったのが出石城でした。上の写真の場所が出石城の御殿が建っていた本丸です。城の本丸と言えば普通は天守閣が建てられますが、出石城には天守閣は建てられなく広い御殿が建っていたそうです。上の写真の左端の建物が復元された本丸の東隅櫓で左端の石垣の上が稲荷曲輪で神社が建っています。最初に見た時は稲荷曲輪が本丸で天守閣が建っていたのだと思いました。右下の写真が復元された本丸の西隅櫓です。今回紹介する出石城は、標高321mの有子山山頂に天守のあった安土桃山時代の防御のための山城の有子山城の麓の居館と郭を改築する方法で造られた平和な江戸時代(1603年~1868年)の城です。
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 城郭構造 梯郭式平山城
 天守   建設されず
 築城主  小出吉英
 築城年  1604年
 時代   江戸時代
 廃城年  1871年  
 主な城主 小出氏松平忠周仙石氏
 遺構   櫓、石垣、堀
 住所   兵庫県豊岡市出石町内町

それでは順番に紹介していきたいと思います。福知山線と山陰本線を乗り継いで、長男の家の最寄駅に着いた後、迎えに来てくれた車で一旦長男の家に行って全員で出石城を目指しました。目的地の出石に近づいて来て出石の文字が増えてきました。
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クリックすると拡大この有子橋の前の駐車場に車を停めて出石城を目指しました。この道からも出石城には登れますが、登城橋を渡ったところにある登城門から登りました。
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駐車場の辺りから見た登城門と橋です。
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門の正面まで来ました。橋には登城橋と名前が付けられていました。
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こちらが登城門です。江戸期には石垣の中の下の部分がトンネルになった形式の埋門(うずみもん)でした。
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上の写真の登城門は沢山の人の寄付で作られたようです。500人近い人が寄付をされていて、最も高額の寄付は300万円です。
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長男の子供たちが案内してくれました。
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昔の絵図に登城門のあたりに黄色の矢印を書き込みました。本丸や曲輪なども赤色文字を書き込んでみました。車を停めた辺りは昔は三の丸だったことになります。上方向が南です。
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ネットにあった想像図にも赤色文字で本丸や曲輪など書き込んでみました。クリックすると拡大こちらも山頂方向(右上方向)が南です。出石城は山頂に天守のあった有子山城の麓にあった居館と郭(但馬守護所)のみを改築して出石城とし、山頂部分を廃城(江戸幕府に届出)にして出来たものでした。出石城の築城年も有子山城の廃城年も同じ1604年(慶長9年)なのです。江戸幕府(1603~1867年)が出来た翌年のことでした。登城門は下曲輪の文字の右側で三の丸から下曲輪に上がるところです。 
有子山城:1574年~1604年  出石城:1604年~1871年
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登城門から二の丸に上っていく登り坂です。進んで行く方が南側なので逆光の写真になっています。
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こちらは本丸の西北隅に建てられた西隅櫓(にしすみやぐら)です。1968年に東隅櫓(ひがしすみやぐら)と共に復元(模擬復元)されました。
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ここを上ると二の丸です。
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ここが二の丸です。赤い鳥居が並んだところを登ると本丸です。
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二の丸から見た出石の町です。出石の町のシンボルの辰鼓楼が見えます。辰鼓楼の楼閣本体は1871年6月1日に完成し、辰の刻の城主登城を知らせる太鼓を叩く楼閣であったそうです。その後、地元の医師が機械式大時計を寄贈し1881年9月8日に時計台として稼働し始めたそうです。同年1881年8月12日には北海道の札幌市時計台が27日早く稼働していることから、僅か27日差で日本で2番目に古い時計台となったそうです。
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この道が本丸に上る道です。稲荷曲輪まで真直ぐに伸びています。一番上から有子山城への登山道になっています。
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ここが本丸です。当時は、塀の内側に大きな御殿が建てられていました。奥に建っているのは復元された西隅櫓です。
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本丸である石碑も立てられていました。
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石が置かれている辺りは庭園があったと思われます。左の柵の皿に左側には池がありました。
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こちらが本丸御殿の絵図です。クリックすると拡大クリックすると拡大
左端に池がある庭園がありますが、上の写真の石が置かれている辺りです。二の丸と本丸とはかなりの高低差がありますが、二の丸の建物(役所)と本丸の御殿は渡り廊下でつながっていたそうです。下の絵図をクリックすると右の絵図のように、二の丸も含めた大きな絵図を表示します。この絵図は特別公開されていた西隅櫓(にしすみやぐら)の中に展示されていました。
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上の絵図の中の左端の池が、この池の場所になります。
後ろの石垣の上が、本丸の上にある稲荷曲輪です。ネットでは出石城の標高は54m(比高40m)と書かれています。標高54mは本丸の標高なのか稲荷曲輪の標高なのかは見つけられていません。稲荷曲輪の石垣の高さは但馬地域の城の石垣として最大級の高さの13.5mとの記載があることから、類推できる標高は下記のようになります。写真で見る限り二の丸と本丸の標高差は26mもあるように見えない(10m前後に見える)のでクリックすると拡大稲荷曲輪の標高が54mのように感じます。
 麓     標高14m(=54m-40m)
 辰鼓楼の前 標高14m(Googleマップ)
 二の丸   標高28m(Googleマップ) 
 本丸    標高40.5m or 標高54m
 稲荷曲輪  標高54m or 標高67.5m
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こちらが東隅櫓です。
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こちらが西隅櫓です。
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西隅櫓と東隅櫓は姫路城に関わりのある姫路の職人によって建てられたと書かれていました。
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クリックすると拡大本丸の中にあった神社です。奉納と書かれた幟には仙石科野御神木奉納と書かれていました。この社殿は感応殿と言うそうです。横に感応殿の由来の説明板があったので内容を枠内に転記いたしました。
感応殿(かんのうでん)

この社殿は、感応殿といい、出石藩主仙石氏の祖権兵衛秀久公を祀っています。公は美濃(岐阜県)の人で、豊臣秀吉に仕えて功があり洲本、高松の城主となり一時勘気を受けて浪人しましたが、小田原攻めで奮戦し小諸城主に返り咲きました。その豪勇のほどは大盗賊石川五右衛門を捕らえた豪傑として伝説化されています。仙石氏は、公のあと子の忠政が信州上田に移り玄孫政明が宝永三年(一七〇六)に出石に移封されて五万八千石を領し以来廃藩まで七代百六十三年間続きました。明治に入って旧家臣らによって本丸跡に公を祀る感応殿が建立され今日に至っています。以後町の人々は本丸を権兵衛さんと愛称をもって呼び、例祭は五月の祥月命日に行われています。
仙石科野大宮社御神木奉賛会
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普段は、西隅櫓は非公開ですが、特別公開されていたので入ってみました。
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西隅櫓の内部を紹介します。
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格子の間から見える景色です。
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西隅櫓の別の格子の間から撮った出石の町です。
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2階に上がってみました。
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2階に上る階段です。
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太い木が使われていました。
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ここでも長男家族の記念写真を撮りました。
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西隅櫓の中には貴重な絵図や説明がありました。上で紹介した本丸と二の丸の御殿の絵図は左上のものです。説明内容を紹介します。
稲荷曲輪
稲荷曲輪は高さ13.5mという但馬地域でも最大級の高さを誇る石垣の上にあります。出石城築城当初から今の場所に鎮座していたと伝わり、現在の社殿は江戸時代後期に建設されたものです。
本丸
本丸にはかつては御殿があり、城主の生活の場として使われていました。かつては西側には多門櫓、東側に隅櫓が備え付けられていて、本丸庭園も現在残る庭園の倍の大きさがありました。
現在は仙石氏の祖である仙石護兵衛秀久をまつる観応伝や姫路城の改修工事を手掛けている大工により復元された模擬建築東西隅櫓があります。
二の丸
二の丸は政治を執り行う役所が建てられていました。江戸時代には西に二層の隅櫓、東に一層の隅櫓が立っていました。二の丸下の曲輪とは枡形虎口で結ばれており今もその跡が残っています。かつては本丸と二の丸を結ぶ渡り廊下のようなものが存在しており、現在でも石垣に当時の面影を見ることができます。
西の曲輪
西の曲輪には1815年に仙石久道が自分の隠居所を建設した西御殿が存在していました。また、ここでは久道の趣味でコウノトリが飼われていたそうです。
山里丸
山田丸の石垣は城内で最も新しい年代のものであるといわれており、江戸時代にはおもてなしの場として利用されていたと考えられています。今は何もありませんが、かつてこの場所には小さな動物園があったそうです。
三の丸
三の丸には上級武士の屋敷などが立っていました。また、松平氏以降は現在の振興局が立っている場所に御対面所が建てられ本丸と二の丸の機能がすべてここに移されました。現在でも江戸時代の遺構として辰鼓楼の場所にある大手門の石垣跡や内堀、家老屋敷や西門跡の石垣などを見ることができます。
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西隅櫓を出たところからの本丸の景色です。左端に移っている東隅櫓のところから、右方向に稲荷曲輪に上がる階段があります。
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これが稲荷曲輪(稲荷郭/稲荷丸)に上がれる階段です。稲荷曲輪に上がってみることにしました。この鳥居の道を上がりきると稲荷曲輪です。城の麓から数えると鳥居は37基並び、石段は157段だそうです。
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階段を登り切って稲荷曲輪方向を見ると神社がありました。
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クリックすると拡大こちらが有子山稲荷神社(別銘:城山稲荷)の本殿です。創建は出石城と同じ1604年です。城郭内にありながら、江戸時代から身分を問わず参詣が許可されていたそうです。 主祭神は稲荷神です。狛狐が印象的です。狐は神の使いだそうです。
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狛狐には1円が沢山乗せられていました。
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稲荷曲輪の真中にある井戸は印象的でした。
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クリックすると拡大井戸のアップです。有子山城の時代のものか、出石城の時代のものかによって用途(有事の備え 生活のため等)が変わってきますが、今のところ井戸がいつの時代に作られたのかはネットで見つけられていません。かなりの深さがあるように感じましたが、右の写真のように深いところは暗くて底は見えませんでした。
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稲荷曲輪から見た本丸です。こちらは東隅櫓側です。
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西隅櫓側の本丸です。
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麓からの157段の石段を登りきったころには恵方稲荷が祀られていました。
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そこには有子山への登山口です。木に隠れた石柱には「史跡 有子山城跡」と書かれています。
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麓までは157段の石段を真直ぐに下りることにしました。37基の鳥居も全て潜ることになります。
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石段の麓に近いところに稲荷神社の拝殿がありました。上まで登るのが難しい人のために作られたのかもしれません。
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拝殿のすぐ下に出石城の説明板がありました。
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出発地点の車の近くの鳥居のところまで降りて記念写真を撮りました。
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黄色のラインが散策ルートです。上で紹介した昔の出石城の絵図や想像図は上方向が南でしたが、この航空写真は上方向が北になります。


ここまでに書いているように出石城と有子山城は大きなつながりがあるので有子山城を少し紹介します。
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こちらすでに上の方で紹介した写真ですが、こちらが有子山への登山口です。木に隠れた石柱には「史跡 有子山城跡」と書かれています。
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有子山城の説明板です。内容を枠内に転記する形で紹介します。
国指定文化財 山名氏城跡(有子山城跡) 平成8年11月13日指定

城史

この城は天正2年(1574)、山名祐豊がそれまで本城であった此隅山城にかわって築城しました。その名は落城した「子盗」(此隅)の名前を嫌って「有子」と命名したといわれています。しかし、わずか6年後の天正8年(1580)、天下統一をねらう織田軍によって城は陥落、城主は因幡へと逃亡し山名氏による但馬支配は終わりました。その後、織田系の大名が城主となりましたが、江戸時代にはふもとに出石城が築かれ廃城となりました。

現状

標高321mの有子山山頂には主郭があり、その西側には5段の曲輪が階段状に築かれています。また、主郭の南東には千畳敷と呼ばれる広い曲輪があります。石垣は織田軍の大名によって作られたもので、中世城郭が近世城郭に移行するまでの過渡期の形態をよく残しています。

山名氏

山名氏は室町幕府において侍所の長官に任じられた、有力な大名の一人です。最盛期には全国66か国のうち11国を守護として領国支配をしていたことから「六文の一衆」と呼ばれ、後の応仁の乱では西軍の総大将として参戦しました。但馬では、南北朝時代から戦国時代までの約200年間、一貫して山名氏が守護の地位にありました。この山名氏の最後の本城が有子山城です。
豊岡市教育委員会
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上の説明板の地形図部分に赤色文字を書き込みました。地形図をクリックすると全体を表示します。右のSVは有子山全景です。安土桃山時代は1573年~1603年であることから、まさに安土桃山時代の山城であったと言えると思います。
クリックすると拡大 城名   有子山城
 城郭構造 連郭式山城
 天守構造 不明
 築城主  山名祐豊
 築城年  1574年(天正2年)
 時代   安土桃山時代
 廃城年  1604年(慶長9年)
 主な城主 山名氏前野長康小出氏
 遺構   石垣、曲輪、堀切、竪堀、土橋
 文化財  国の史跡
 住所   兵庫県豊岡市出石町伊木1

説明板の中に掲載されていた地形図への赤色文字の記入はタクジローの日本全国お城めぐりこにるのお城訪問記を参考にさせていただきました。
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有子山城の主郭あたりの航空写真も紹介します。


有子山城の主郭からのストリートビュー(SV)を紹介します。


有子山の等高線の入ったGoogle地図を紹介します。クリックするとオリジナルを表示します。
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ラベル:兵庫県 出石
posted by SORI at 09:43| Comment(26) | 出石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年02月02日

福知山線(宝塚駅→福知山駅) 山陰本線(福知山駅→某駅)

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  電車マークのない部分の福知山線(宝塚~大阪)と山陰本線(福知山~京都) 
  播但線(和田山~姫路)と加古川線(谷川~加古川)と舞鶴線(綾部~東舞鶴)
  宝塚駅(出発駅)   福知山駅(乗換駅)  2005年脱線事故
  出石城       竹田城        城(城跡)  
関西に勤めていた長男夫婦2人は2014年3月に北海道に転勤になり、子どもたちが生まれて、家族4人なって、2022年3月に北海道から兵庫県の日本海に近い場所に転勤になりました。長男家族は車で実家の宝塚に簡単に来れることから、お盆や正月や私の母の誕生日に実家で会えることから、今まで長男家族が住んでいる兵庫県の日本海に近い場所の家に訪問したがありませんでした。そこで関西から関東の家に帰る時に、長男家族の家に寄ってから下のスケジュールで関東の自宅に帰りました。宝塚駅~福知山駅が福知山線で、福知山駅~某駅までが山陰本線です。最近、注目されるようになった竹田城(SV 標高353.7m)も長男の家の近くにありました。この航空写真の中だけで約80の城跡(城)があります。沢山の数を感じていただきたいので城跡に城の絵( )を書き込んでみました。
 1日目 実家→宝塚駅→福知山駅→某駅→出石城(出石蕎麦など)→長男の家
 2日目 長男の家→某駅→福知山駅→京都駅→品川駅→自宅の最寄駅→自宅

こちらが出発地点の宝塚駅です。実家の最寄駅の逆瀬川から阪急に乘ってきました。表示板の一番上の福知山行6時24分発の普通電車に乗りました。写真に写っている橙色のスーツケースが私のスーツケースです。
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こちらの電車が福知山行の普通電車です。福知山に行ける1番電車です。
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宝塚駅から3つ目の武田尾駅の直前の写真です。武田尾駅のホームの一部は武庫川の上まで伸びていて、そのホームが写真に写っています。川に架かっている橋は水道管(水道橋)です。
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こちらは新三田駅に停まっている時に撮った写真です。ドアの上の電光表示部分にShin-Sanda(G62)と表示されているで分かっていただけると思います。
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福知山線沿いには渓流が流れているところが沢山あります。
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福知山線は大阪駅から篠山口駅までは複線ですが、篠山口駅からは単線になります。篠山口駅から2つ目の下滝駅です。つまり単線区間に入っているのです。
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福知山線単線区間の動画を楽しんでください。 


こちらは加古川線との接続駅の谷川駅です。見えている列車は加古川線を走る列車です。 
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見えている線るが加古川線です。上の写真の谷川駅では福知山線も加古川線も進行方向は西方向ですが、別れた後、福知山線は北東方向に、加古川線は南西方向に向いて離れていきます。
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こちらは谷川駅から3つ目の黒井駅です。黒井駅は上りの列車と下りの列車のすれ違い駅です。 
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すれ違い駅で長く停まっているのでホームに出てみることにしました。「あける」のボタンを押すとドアが開きます。
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ホームに降りて私が乗っている電車の写真を撮りました。
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黒井駅での特急とのすれ違いの動画も取りました。最初は我々の列車が黒井駅に止まるところで、次がすれ違い列車が入ってくるところで、最後は我々の列車が出発するところです。


まだ霧が続いていました。おそらく竹田城から見える雲海は、このような霧が低いところに溜まることで出来るのだと感じました。   
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福知山駅に着きました。まだ通学通勤の時間帯でした。8時54分発の普通電車に乗り換えます。特急でも行けるのですが、時間差5分だけで、短い距離で特急料金を払うのはもったいないので普通電車で行くことにしました。
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乗換までに時間があったので改札口の階に下りて写真を撮りました。
 山陰本線下り 8時29分 2番線 東舞鶴  普通
 山陰本線下り 8時38分 1番線 京都   特急きのさき8号
 山陰本線下り 8時53分 1番線 園部   普通
 山陰本線上り 8時49分 3番線 城崎温泉 特急きのさき1号
 山陰本線上り 8時54分 4番線 豊岡   普通 私が乘った列車
 福知山線上り 8時40分 2番線 新大阪  特急こうのとり8号
 福知山線上り 9時01分 5番線 篠山口  普通
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右側のホームが1番線と2番線で、私の橙色のスーツケースが起これているのが3番線と4番線用のホームて線路を挟んで左側にあるホームが5番線用です。
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福知山駅で撮った動画も紹介します。
私が宝塚から乘ってきた列車が回送列車として出ていく場面と普通電車と特急電車が出発する場面を紹介しています。


こちらは新大阪行きの特急こうのとり8号で、私の乗った普通電車が走ってきた福知山線に入っていきます。
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私が乗る8時54分発の豊岡行の普通電車が来ました。
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さっそく乗り込んでセルフタイマーで記念写真を撮りました。
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電車に乗ってから気が付いたのですが、福知山駅前広場に蒸気機関車が展示されていました。場所は福知山駅南口公園にある転車台の上です。
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ストリートビュー(SV)でも転車台を紹介します。蒸気機関車はC11です。C11は1932年~1947年に381両製造されたそうです。このC11には「C11 40」と書かれていることから1933年に製造された21台の中の1両です。これは2次形(C11 24~140)と呼ばれている機種で、アーチ管が取付けられ、1次形では第2缶胴上にあった砂箱と蒸気ドームの位置が互いに入れ替わったそうです。これは、下り勾配で缶水が前方に偏った場合に、蒸気ドーム内に缶水が入る恐れがあったための対策として行われたそうです。


山陰本線に入りました。古い立派な家が沢山ありました。昔、城下町だった名残なのかもしれません。
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山陰本線の動画も紹介します。下夜久野駅と上夜久野駅の間から上夜久野駅に到着するまでの動画です。


上夜久野駅の次の駅の梁瀬駅の近くには銘酒「竹泉」を作っている酒蔵(田治米合名会社)がありました。→SV1 SV2クリックすると拡大
実家に長男家族が来てくれる時は、ここで日本酒を買って持ってきてくれます。今年の正月も右の写真のように、ここの冷酒を持ってきてくれました。
さらに先の和田山駅からは姫路につながっている播但線が出ています。 
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こちらが昨年の正月に持ってきてくれた冷酒です。クリックすると拡大
元禄15年創業の蔵元で、いろいろ試飲して選んだお酒「純米吟醸雄町」を樽口から直接入れてもらう槽口直詰の冷酒を持ってきてくれました。下の写真のように簡単なラベルを張り付けてくれるのです。他は何も貼られていません。このお酒がちょっと不思議な味わいの美味しいので、話が盛り上がりました。お酒の名前の雄町は使われているお米の名前で、その米の雄町は1859年(安政6年)に備前国上道郡高島村字雄町(現:岡山市中区雄町)の農家が発見した酒造好適米だそうです。クリックすると拡大
 蔵元 田治米合名会社
 住所 兵庫県朝来市山東町矢名瀬町545
 電話 079-676-2033
 お米 兵庫県和田山産 雄町100%
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長男家族と待ち合せた駅に着くと長男が車で迎えに来てもらっていて、一旦は長男の家まで行って全員が車に乗って出石城のある出石に向かいました。
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次の記事では下記の写真の出石城を詳しく紹介したいと思います。
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posted by SORI at 08:08| Comment(26) | 出石 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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