2020年02月07日

戦闘の回廊 Galerie des Batailles

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2016年9月20日掲載 タイトル:戦闘の回廊 Galerie des Batailles
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この写真は「王子の階段」から小さな入口から入って最初に目に入って来る「戦闘の回廊」です。

今回紹介する「戦闘の回廊」はヴェルサイユ宮殿の中で最も大きな部屋です。この回廊は、下の航空写真でも判るように、南翼の2階全体を占めていて、1837年にルイ=フィリップ王によって作られました。ちなみにルイ=フィリップ王の在位は1830年8月9日から1848年2月24日です。ヴェルサイユ宮殿自体は1624年にルイ13世の狩猟の館として建てられたのが始まりで、その後に増築が行われて1682年にルーブル宮殿から、政府と宮廷が移されて宮殿となり、その後も増改築が行われました。
  ヴェルサイユ宮殿    1682年建設 Château de Versailles 本館
  鏡の回廊  長さ 73m 1687年完成 Galerie des Glaces
  戦闘の回廊 長さ120m 1837年完成 Galerie des Batailles


ヴェルサイユ宮殿で最も大きな部屋の大きさは
 長さ 120 m
 幅   13 m   です。
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壁に掛けられた35点の絵画は、トルビアックの戦い(496年)からワグラムの戦い(1809年)まで、フランス軍の歴史における最も重要な出来事を描いたもので、ウジェーヌ・ドラクロワ作の「タイユブールの戦いの聖王ルイ」、フランソワ・ジェラール作の「アンリ4世のパリ入城」、オラス・ヴェルネ作の「フォントノワの戦い」などがあります。
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上の写真と似ていますが見ている方向が違います。こちらの写真は窓が左にあり、上の写真は右にあります。つまりこの写真は南から北方向を撮った写真なのです。この部屋では600人から800人までのディナーパーティーを開催することができます。
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こちらの写真も窓が左にあるので南から北方向を撮った写真です。「戦闘の回廊」では北端と中央と南端にそれぞれ8本(北端)、32本(中央)、8本(南端)の柱が建てられており、それが回廊のアクセントになっていました。写真に写っているのは中央と北端の柱群です。
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中央の32本の柱群からの「戦闘の回廊」の景観です。ここが回廊の中心部になります。片側が60mで総長さが120mになります。
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天井は天窓になっていました。
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天窓と梁の間の天井の装飾です。
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中央の32本の柱群と天井の飾りです。
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その柱群の部分の天井の装飾を拡大いたしました。
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35点の絵画はいずれも大きかったです。
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絵画をいくつか紹介したいと思います。こちらは1807年6月14日の戦闘を描いたもののようです。額の下の説明板の拡大写真を追加いたしました。
BATAILLE DE FRIEDLAND

GAGNÉE PAR L'EMPEREUR NAPOLEON.

14 Juin 1807.
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絵画と絵画の間には沢山の石像が飾られていました。
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こちらの絵画は1242年7月21日の戦闘を1837年に描いた作品のようです。こちらも額の下の説明板の拡大写真を追加いたしました。タイユブールの戦いで1242年7月21日にセントルイスで勝利した瞬間のようです。コメント頂いたじみさんによれば、ウジェーヌ・ドラクロワ(Fedinand Victor Eugene Delacroix 1798年~1863年)の作品だそうです。クリックするときれいな飾りも含めた拡大写真を表示します。(2020年2月6日追記)
BATAILLE DE TAILLEBOURG

GAGNÉE PAR SAINT LOUIS

21 Juillet 1242.
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こちらの絵も大作です。こちらは1214年7月27日の戦いのようです。こちらも額縁の下の説明板の拡大写真を追加いたしました。
BATAILLE DE BOUVLNES

GAGNÉE PAR PHILIPPE AUGUSTE

27 Juillet 1214.
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回廊の一番北側の部分です。
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その北側の壁の絵がこちらです。
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そして、こちらが南の端です。
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南の端の壁の絵を拡大いたしました。
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回廊の南端に近い場所から見た外の庭園の景色です。
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回廊の南端からは元の場所に戻る細い廊下がありました。その廊下の写真を紹介したいと思います。
  戦闘の回廊
  廊下


戦闘の回廊の南端の出口を出てすぐの通路(廊下 )です。突き当りを左に曲がるとまっすぐな廊下を見ることが出来ます。
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こちらが、その長い廊下です。回廊と呼んでもいいかもしれません。石像が沢山並んでいました。
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途中で窓がなく暗くなる所かせありました。
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暗いところを過ぎるとまた明るくなりました。
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外には煙突が沢山見えました。
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出発地点である「王子の階段」に戻ってきました。
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下から見上げた「王子の階段」です。ここから1階に下りました。
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追伸
今日2016年9月20日から9月27日まで関西に行っています。その間はネット事情の関係で皆様のところに訪問できないことお許しください。


2016年9月20日 14時10分追伸 タイトル:飛行機が欠航になりました。
成田空港11時55分発で関西空港行きのフライトに乗るつもりで成田空港まで行きました。台風16号のために、結局12時20分に欠航との結論になりました。今日の新幹線に乗るつもりで、搭乗口を一番で離れて駅に向かいましたが、念のため航空会社のチェックインカウンターの一部に欠航扱いカウンターが開かれたので、話を聞いてみようと行ってみると、先頭に並ぶことが出来ました。今日のフライトは満席だったので、明日の朝一のフライトを聞くと空いていたので、そちらに変更してもらい、先ほど家に帰ってきました。幸いにも台風16号は9月20日21時ごろに、静岡県沖で温帯低気圧に変わりました。
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2020年2月07日修正 タイトル:紹介の絵画のタイトルを修正
コメント頂いたじみさんの指摘により掲載した絵画のタイトルが間違えていた(別の絵のタイトルを記載)ことが分かりました。クリックすると拡大修正のために再掲載させていただきます。間違いが出ないように絵画の下に額縁の下の説明板(右の写真)を3枚の絵画の下に追加させていただきました。
1,365/62/14
追伸
2020年2月7日~2月18日まで関西に行きます。ネット事情の関係で皆様の所に訪問出来ないことをお許しください。
posted by SORI at 09:36| Comment(20) | TrackBack(1) | ヴェルサイユ宮殿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月23日

王の散歩道 L’Allée royale(ロイヤル通り)

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大ヴェルサイユ宮殿の庭園の中でランチを食べた後は宮殿に戻りました。上の写真は大運河(Grand Canal)の湖畔から宮殿を見た景色です。
一番手前にある噴水は「アポロンの泉水(Bassin d’Apollon)」です。右の写真は宮殿から大運河の方向を見た景色です。この景色の中を歩いて宮殿に戻りました。その景色を順に紹介したいと思います。
大運河から宮殿前のラトナの階段までを「王の散歩道」と呼ばれています。あるいは「ロイヤル通り」とも言われています。「王の散歩道」は中央に緑の芝生が帯状に広がっていることから別名「 緑の絨毯」とも呼ばれ、全長335m、幅40mあります。設計はルイ13世の時代で、後にル・ノートルが大々的な整備を行って拡張し、12体の彫像と12の壷を対称的に配置したそうです。
両側には、それぞれの木立ちが配置され、歩を進めるにしたがって人々が異なった木立ちを発見できる仕組みになっているそうです。

航空写真で歩いたルートを紹介します。航空写真の中の橙色のライン(━━)がランチを食べたレストランから歩いた「王の散歩道」です。
  ━━ 散策ルート
  ━━ ミニ・トレインのルート
   ランチを食べたレストラン La Flottille
   ヴェルサイユ宮殿 


こちらの写真も冒頭の写真と同じ場所から撮ったものです。カメラのレンズのズームの倍率が違うだけなのです。冒頭の写真は拡大されていることが判ってもらえると思います。
この写真はレンズの焦点距離が24mmに対して、冒頭の写真のレンズの焦点距離は105mmなので4.375倍に拡大されていたのです。
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同じ場所から大運河の方向も撮りました。大きな十字架の形をした湖である大運河(Grand Canal)は日本語では大水路とも訳されています。フランス語の Grand Canal は Le Grand Canal とも書かれます。
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大運河の湖畔を歩いて最も右側(南側)まで来たところからの宮殿方向の景色です。木々に隠れて宮殿は見ることは出来ません。
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さらに進んで「アポロンの泉水」の真横まで来て撮った写真です。
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「アポロンの泉水」と反対側の景色です。緑の中の小道がきれいでした。
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庭園の中央まで移動して宮殿を撮りました。撮影は105mm(4.375倍)なのでズームレンズ24-105mmで精一杯拡大した写真です。
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王の散歩道は右側(南側)を進むことにいたしました。焦点距離24mm(1.0倍)での景色です。
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こちらは105mm(4.375倍)で撮ったので、進んでいるように見えますが、上の写真とほぼ同じ場所からの景色です。
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道の脇には素敵な雰囲気の場所がいくつもありました。
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こちらも105mm(4.375倍)で撮った写真です。2枚上の見比べてもらうと少し進んだことが判ると思います。
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このような小道がいくつもありました。上で写っていた女性は右に曲がって、その小道の方に進みました。焦点距離は67mm(2.79倍)です。
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大運河の方向に振り返った景色です。105mm(4.375倍)での景色です。
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同じ場所から24mm(1.0倍)で撮った大運河方向の写真です。
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同じく24mm(1.0倍)で撮った宮殿方向です。まだ宮殿まで距離があります。
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宮殿前のラトナの階段(Escaliers de Latone)下の広場まで来ました。見えている大噴水は「ラトナの泉水(Bassin de Latone)」です。こちらの焦点距離は47mm(1.958倍)です。
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同じ場所から大運河方向を撮りました。焦点距離は105mm(4.375倍)です。
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ラトナの泉水の頂部の女神と思われる彫像です。女神にとまっているカラスが気になりました。
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頂部の彫像以外の彫像は金色に飾られていました。彫像のカエルとカメが大部分を占めていました。こちらが北側です。特にカエル(蛙)の数は多かったです。
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そしてこちらが南側です。
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こちらがラトナの泉水(噴水)の全体です。ラトナの泉水はオヴィデウスの変身物語の中の一場面で、アポロンの母とディアナの伝説を描いたものだそうです。カエルたちは変身させられた農民たちのようです。
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宮殿が建っている高さまで上って王の散歩道の方を振り返った写真です。
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ラトナの伝説を枠内に転記いたしました。

ラトナの伝説

アポロンとディアナの母でジュピターの愛人であるラトナは、ライバルのユーノーから生涯追放の宣告を受けます。ある日、現在のトルコ南部に到着し、喉の渇きを癒そうと沼に近づきます。しかし地元の農民に愚弄され、それに腹を立てたラトナは、農民に呪いの言葉を浴びせ、蛙に変身させてしまいます。ラトナの泉水は、オヴィデウスの『変身物語』の第6巻に語られたエピソードに由来しています。


ラトナとジュピターのライバル関係

ギリシャ神話のレト神と同一視されるラトナ神は、コイオス神とフォイベ神の娘。ジュピターの愛人となり、アポロとディアナの二子をもうけます

ジュピターの妻ユーノーは、ラトナの妊娠を知って激怒します。ユーノーはライバルを国外に追放し、いかなる土地も彼女の出産を受け入れてはいけないという命令を発します。生涯追放の不遇に見舞われたラトナは、東西を放浪し、デロス島に一時的な隠れ場を見つけてアポロンとディアナを出産します。

ラトナは双子を出産するや、ユーノーの憤怒から逃れるために再び逃亡を始めなければなりませんでした。ラトナの旅はリュキア国境まで続き、そこでおきたエピソードがヴェルサイユの庭園の物語の由来となっているのです。


ラトナとリュキアの農民との遭遇

逃走中のある時、ラトナは現在のトルコ南部にあたる小アジアのリュキアに到着します。くたくたで喉もからからの彼女がその地に足を止めると、谷底に池があり、その周りで農民達がイグサや海藻を採っているのを発見します。澄み切った沼の水に引かれ、喉の渇きを潤そうと近づきます。水面に顔を傾けると、農民達がそれをはばみ、水を飲ませてくれません。驚いたラトナは農民達をなだめてこのように答えます。

「どうして私にこの水を拒むのですか? 水は皆のものです。善良で賢い自然は、万人に空気、光、水を与えました。皆に等しく与えられた恵みに私もあずかりたいのです。ですが、私はあえてあなたたちに懇願します。私が望むのは、疲れたはてたこの体を冷やすためではなく、喉の渇きを潤すだけなのです。口の中がカラカラで声を出すのもままなりません。私にとってこの水は美酒に相当します。一生のお願いです。どうかこの水を飲ませて下さい。ああ! この胸にもたれているわが子2人が差しのべるひ弱な腕に、どうか触れてあげてくださいませ。」

こうした哀願にも耳を貸さず、農民達は拒み続けます。命令に従ってこの場を去りなさいととラトナを脅します。ラトナに水を飲ませまいと、農民達は沼に飛び込み、水の底で足踏みをし腕で水をかき混ぜ、水面に厚い泥を浮き上がらせます。


ラトナの怒りと変身

逆上したラトナは、喉の渇きも忘れ手を天に差しのべこう叫びます。「汝らよ、いつまでも池の淵で生きるがよい!」 やがて彼女の願いがかない、農民の体が変身していきます。

狂気に捕らわれた農民達は、たちまち池に飛び込みます。もぐっては浮かび、再びもぐっては水面に顔を出し、最後にはまた水中に消えていきます。潜水を繰りかえしながら、農民らはラトナを罵り続けます。罵倒の声は水中からも聞こえました。やがて農民達の声が変化し、喉が膨れ、口が大きくなり、首が肩に陥没し、背中が緑色にそしてお腹が丸く白くなっていきます。こうしてリュキアの農民の体は蛙となり、ラトナが誓った復讐どおり、蛙となって永遠に池の淵で生きることになったのです。


ヴェルサイユの庭園の逸話の意味

ヴェルサイユの庭園の中心であるラトナの泉水は、こうしたラトナとリュキアの農民の出会いの逸話がもとになっています。

最上段にある集合像は白い大理石で作られました。アポロンとディアナの2人の子供は哀願するように農民に手を差し延べています。レトナは空を見上げ、口を半ば開いて農民達に呪いの声をつぶやきます。壇上にある大理石のまばゆい白さが、下段に設置された鉛の像とのコントラストを印象づけています。

 半人半獸の像は、6人の農民の体が変身しているところです。ほぼ人間のままの者もいれば、手がシュロの葉の形に変わりすっかり蛙に変わっている者もいます。彼らの口から吐き出される水は、ラトナに浴びせるののしりを表しています。

追伸
今日(2016年10月23日)から10月28日まて中国に行ってきます。フライトは下記の通りですが、帰国までの間は、ネット事情から皆さんのところに訪問できないことをお許しください。最寄駅が7時21分の電車に乗る予定なので、7時10分には家を出る予定です。
posted by SORI at 18:30| Comment(12) | TrackBack(2) | ヴェルサイユ宮殿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月18日

涼みの間(Le salon Frais)の気圧・温度計

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先日掲載した大トリアノン宮殿の記事で一つ書き忘れていたものがありました。それが「涼みの間」にあった時計のようなものです。絵画の下の時計のようなものは、なにか判りますか。時計のようなものは?と質問しているので時計ではありません。

その時計のようなものを拡大したのがこちらです。やはり明らかに時計ではありません。下の方は、なんとなくわかります。
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下の部分を拡大したのがこちらです。見て判るように温度計(寒暖計)であることが判ります。温度を示す数字だけでなく記録のような内容が沢山書かれているのが印象的でした。
この時に表示している温度は17.5度どした。どうやら摂氏(℃)を表しているようです。もし17.5℉ならば-8.056℃になってしまうからです。240年前の温度計なのに正確な温度を表示しているように感じました。なんと-30℃から70℃まで測れる温度計でした。
目盛板に最低気温と思われる年が書かれていました。
  1749年:-30.0℃   1788年:-17.5℃   1795年:-17.0℃
  1776年:-16.5℃   1769年:-15.5℃   1740年:-10.5℃
地名と思われる文字も沢山、書かれていました。+50℃のところにはSyrie(フランス語:シリア)の文字が書かれています。-12℃のところにはParis(パリ)の文字が読み取れます。0℃のところにはGLAとCEが書かれていました。
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上の文字盤のようなところには、次のような文字が書かれていました。
 27 28 29
 BAROME TRE Três Sec   Beau Fixe  Beau Tems
 Variable    Pl.on Vent  Gr" Pluye  Tempêle
調べた結果、時計の文字盤のような部分は気圧計であることが判りました。文字盤に書かれているBAROMETREも気圧計を表しています。気圧計は、1769年頃に、小間物商のシモン・フィリップ・ポワリエが世に出したそうです。そして1769年から1770年にかけて流行しましたそうです。書かれている数字は27 / 28 / 29気圧を表していると思いますが単位は分かりません。ただし標準気圧が28の数値に近い単位であることは想像できます。
標準気圧1013.25hPa(ヘクトパスカル)をいろんな単位に換算すると次の通りです。28に近いのは水銀柱インチ(29.9212725inHg)ですが、それでも数値的には離れています。
 ヘクトパスカル           1013.25hPa
 メガパスカル            0.101325MPa
 キロパスカル            101.325kPa
 重量キログラム毎平方センチメートル 1.033515kgf/cm2
 重量ポンド毎平方インチ       146.92125lbf/in2
 気圧                0.999976425atm
 水銀柱メートル           0.760038825mHg
 水銀柱センチメートル        76.0038825cmHg
 水銀柱インチ            29.9212725inHg
 水柱メートル            10.33515mH2O
 水柱フート             33.903345ftH2O
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クリックすると拡大温度計と一体になった気圧計は珍しく残っているのは数点のみだと言われています。つまりこれは貴重な一体となった気圧計・温度計だったのです。一体なので気圧・温度計と呼ばせていただきます。ネットで調べた結果、この気圧・温度計はバイイによって製作されたことが判りました。製作年代の記述は見つかっていませんが、ルーブル美術館で所蔵している右の写真の気圧・温度計は1776年頃に制作されたとのことなので同年代の物と考えられます。つまり16世紀には精巧な気圧計と温度計がフランスには存在したことになります。右の写真はネットから転用させていただきました。今から240年前の1776年と言えば日本では江戸時代です。それも幕末(1868年)の92年前なので江戸中期です。
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クリックすると拡大右の文字盤はフランスのウジューヌ・ブルドンが1849年に発明した小型のブルドン管式の気圧計の文字盤です。数値以外は今回の気圧計の文字盤とそっくりです。数値は73~79が書かれていて中心が76であることから水銀柱センチメートル(76.0038825cmHg)で目盛られた気圧計であることが判りました。
上の気圧計はブルドン管式気圧計が発明されるより73年も前の1776年であることから、気圧の精度が高くないために水銀柱インチで27~29の数値を書いた可能性はあると感じました。
気圧計自体は1643年に「トリチェリの真空」を発見したエヴァンジェリスタ・トリチェリ(Evangelista Torricelli)によって発明されました。それは機械式ではなく水銀気圧計でした。水銀気圧計は原理上非常に精度の高い測定方法です。機械式の主なのはアネロイド型気圧計(1797年)とブルドン管気圧計(1849年)があります。両方ともにフランスで発明されました。アネロイド型気圧計に分類される重錘形気力計が、それ以前にもあったので、それに近いものなのかもしれません。

温度計の形式はガラス棒温度計です。ガラス棒温度計、液体を蓄える球部と毛細管部分の液柱で構成されています。このような毛細管を持つ液柱(アルコール)温度計が発明されたのは1650年頃と言われています。正確な年代ははっきりしていませんが遅くても1654年だそうです。今回の温度計が230年以上前の1776年頃であれば、液体には着色したアルコールか、アルコールと水の溶解液が使われていたと思われます。現在では水銀か着色した灯油が使われています。ただし灯油が使われた温度計でもアルコール温度計と呼ばれています。水の沸点が100℃に修正されたのは1742年で、それ以前は80℃がでした。今回の温度計が作られたのは1776年頃のため水の沸点は100℃で目盛りがつけられていると思われます。
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一番下の液体を蓄える球部が渦巻になっていました。沢山の液体を蓄えて目盛部の液柱を長くするのが目的だと思われます。これほど大きな渦巻きの球部は初めて見ました。
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posted by SORI at 20:13| Comment(14) | TrackBack(1) | ヴェルサイユ宮殿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月16日

マリー・アントワネットが暮らした村里(Le Hameau / ル・アモー)

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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マリー・アントワネットが住んでいた北側と東側には自然のままを特徴としたイギリス式庭園が広がっていました。そのイギリス式庭園を発展させて人間の住んでいる村を作り込んだのが、「王妃の村里」の呼ばれる空間です。日本では「王妃の村里」と呼ばれていますがフランスでは単に村里(Le Hameau または Hameau )と呼ばれています。ヴェルサイユ宮殿の中の村里と言えば、ここしかないのでわざわざ「王妃の村里」と呼ぶ必要がないのかもしれません。

その村里あたりの航空写真の建物を着色してマークを入れてみました。黄色のライン( ━━ )は村里の中を歩いたルートです。
離宮の庭園に大きな池を掘り、池のほとりには塔や納屋、はと小屋やニワトリ小屋、風車小屋などを作り、更には番人小屋や小さなわらぶき屋根の家まで作りました。
村落の周りには田園が広がり、住み込みで働く農夫婦、庭師、牛飼いなどもいて、ヤギや羊、うさぎや牛、ニワトリ、はとなども連れてこられたそうです。本物そっくりに作られたこの田舎を、のんびり散歩するのがマリー・アントワネットは好んだそうです。農夫が牛の乳を搾ったり、それでチーズを作ったりするのを見て満足していたそうです。まさに世界に一つしかない、究極のイギリス式庭園だったのです。建物の名前は撮った写真と、ネット上に掲載されている沢山の記事を比べて決めたました。もし間違いがある場合は指摘していただければ嬉しいです。ちなみに掲載している写真は全て私が撮った写真です。
名前の決定の参考にした記事の一例です。→記事1 記事2 記事3J 記事3F
 ① 水車小屋       Le Moulin
 ② 私室         Le Boudoir
 ③ 王妃の家       La maison de la Reine
 ③'  ビリヤードの家    La maison de la Reine
 ④ 料理保温室      Le Réchauffoir
 ⑤ マルボローの塔    La tour de Malborough
 ⑥ 酪農小屋       La Laiterie de propreté
 ⑦ 鳩舎         Le Colombier
 ⑧ 庭師の家       La Maison du Jardinier
  又は 衛兵の家       La Maison du Gardien
 ⑨ 建物跡(酪農仕込小屋) La Laiterie de préparation
 ⑩ 建物跡(納屋)     La Ggrange
 ⑪ 農場         La Ferme


より判りやすくするために配置図でも建物の位置を紹介します。
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小トリアノンの方から歩いて来て最初に目に入って来た景色です。この村里が作られたのはマリー・アントワネットがヴェルサイユ宮殿の生活から遠ざかりたいと思い始めたことが発端でした。親しい宮廷の女性たちに囲まれながら田園生活のひと時を求めて1783年に今回のような村里を欲したことから作られました。村里はノルマンディー地方の本当の村を真似て作られていて、大きな湖の周りに11軒の家が建てられて上の航空写真のように今でも残っています。
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大きな湖の畔に建っているのはマルルボローの塔(⑤)で、ボート遊びや釣り遊びに出かける時の出発点となっていたそうです。
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遠くには農場(⑪)が見えます。
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花が咲いた木のあたりには人が集まっていました。おそらくここが村里のベスト撮影ポイントなのだと思います。
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ベスト撮影ポイントに近い場所から撮った村里です。左端が上の花の咲いていた木が立っている場所です。この写真は、クリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
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それでは①の水車小屋から⑪の農場までを順番に紹介したいと思います。ネットから転用させていただいた、この航空写真には建物跡も含めた①~⑩の建物が写っています。写真クリックすると沢山の畑も確認できると思います。
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水車小屋(Le Moulin)
こちらが歩いて来た方向から最初に間近で見た水車小屋です。
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水車小屋は湖のほとりから流れる川岸に建てられていて、その水車によって、実際に穀物が挽かれたそうです。この小屋には共同洗濯場もあり、村里での生活に利用されたそうです。
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裏側から見た水車小屋です。
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私室(Le Boudoir)
ここは王妃の私室として利用されました。ブドワール(Boudoir)と呼ばれた王妃の小さい家は、広間と衣装部屋から構成され、周りを囲む庭は密閉されたものだったそうです。その建物は、葦葺きの屋根、屋根窓、庇、石階段などが特徴的です。
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別の角度から撮った私室(Le Boudoir)で広い畑に囲まれていました。
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Le Boudoirと書かれた案内板と一緒に撮った写真です。クリックすると判ると思いますが1783年と書かれています。広い畑の中に建っていることが判ってもらえると思います。
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王妃の家(La Maison de la Reine)
③'  ビリヤードの家(La maison de la Reine)
王妃の家は補修工事中でした。
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補修中の建物の横に写真が貼られていました。その写真がこちらです。
王妃の家は村里にある建物の中で最も大きな建造物で、2つの建物から構成されています。2つの建物はマリー・アントワネットのモノグラムが入った青や白の陶製植木鉢で飾られた木の回廊でつながれています。厳密に言えば右側奥に位置するのが王妃の家(La Maison de la Reine)で、その1階には食堂と遊戯の間、2階には大広間、小広間、中国様式小部屋があります。左側手前に位置するのがビリヤードの家(La Maison du billard)で、その1階にはビリヤード室、2階には小居室があります。
小トリアノンの女主人であるマリー・アントワネットは、麦藁帽子と質素な白モスリンのドレスに身を包み、回廊の上から畑仕事の模様を見晴らしていた想像されています。
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湖の対岸から撮った「王妃の家」です。シルエットのように建物の形が確認できると思います。
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料理保温室(Le Réchauffoir)
奥まった場所にあったので写真は遠くから撮ったこの一枚だけでした。
建物の中には大きな調理場、食料戸棚、小さな配膳室があるそうです。
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マルボローの塔(La tour de Malborough)
酪農小屋(La Laiterie de propreté)
マルボローの塔と呼ばれた漁場監視塔は、小舟で行く池の散歩コースの出発点であり、川カマスやコイなどの魚を捕らえるための釣り具も収容されていたそうです。上階は展望所の役割を果たし、そこからヴェルサイユ宮殿と信号の交信を行うこともできたそうです。塔の名前は、その当時流行した「英国びいき」を反映したもので、1722年のマールバラ公(フランス語の発音でマルボロー公)の死を悲しんで作られた曲からきているそうです。
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右の建物が酪農小屋(La Laiterie de propreté)と思われます。ただし100%の確証はありませんが、本建物を酪農小屋(La Laiterie de propreté)と書かれているネットでの記載がもっとも多かったのです。
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写真の一部から⑥の酪農小屋(La Laiterie de propreté)を切り取って拡大いたしました。この建物の向かいにあった酪農仕込小屋で作られて乳製品を、マリー・アントワネット王妃が、この酪農小屋で試食されていたそうです。そのために、この酪農小屋には大理石のテーブルや磁器食器類が備えられていたそうです。
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湖の対岸から見たマルボローの塔(La tour de Malborough)と酪農小屋(La Laiterie de propreté)です。絵になる景色でした。
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鳩舎(Le Colombier)
この小屋が鳩舎(Le Colombier)にはとても見えないので、これが鳩小屋であることは一番自信がなかったのですが、この建物をLe Colombierと記載した記事が沢山掲載されていました。さらにネットので鳩舎(Le Colombier)に対するHPの公式の記載内容の中の石橋や川の記述から、これが鳩小屋(鳩舎)である確証を得たのでした。そのネットでの記載内容を枠内に転記いたしました。
今ではなくなってしまった舞踏室、納屋、鶏小屋の横には、風情のある鳩舎が現在でも残っています。その傍らに流れる川にはコイが溢れ、石橋がかかっています。
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上の写真の裏側から撮った鳩舎(Le Colombier)です。確かに鳩(はと)が出入する穴とも思われる穴が9つ見えます。近くにあった酪農仕込小屋の跡地の⑨ の近くには⑥ と⑦ しかないので、この⑦が鳩舎であればれぱ、自信がなかった⑥も酪農小屋であるとの確信が持てたのでした。
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鳩の出入口と思われる穴がある部分を拡大いたしました。上に3つ、下に6つの穴を確認してもらえると思います。間違いなく鳩小屋/鳩舎(Le Colombier)でした。
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別の角度から見た鳩舎 / 鳩小屋です。
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庭師の家(La Maison du Jardinier) 又は、
    衛兵の家(La Maison du Gardien)
ネットで見るとこの建物のことを衛兵の家(La maison du Gardien)と書かれていましたが、小屋の前に建てられていた案内板にはLa Maison du Jardinierと書かれていたのです。La Maison du Jardinierを翻訳すると庭師の家だったのです。    
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こちらがLa Maison du Jardinierと書かれていた案内板です。1784年と書かれています。
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庭師の家(衛兵の家)にはかつてスイス人ジャン・ベルシーが住んでいたそうです。その囲いの一部は格子細工のアーチで覆われた小道に隣接し、そこでは球遊びが楽しまれました。正面に見えているのは鳩舎(Le Colombier)で、今は補修中ですが王妃の家も望めました。
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建物の中に入ることが出来ました。中は展示室になっていました。
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トイレもありました。トイレが少なかったので貴重な存在でした。
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建物跡(La Laiterie de préparation)
酪農小屋の向かいにあった酪農仕込小屋の跡です。第一帝政時代に壊されたそうです。
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案内板に書かれていたLa Laiterie de préparationから酪農仕込小屋の跡であることが判りました。ここではクリームやチーズが製造されていたそうです。牛乳からクリームを分離する作業やバターを作るための攪拌作業なども行われていたそうです。そこで仕込まれた乳製品は、すでに紹介した酪農小屋(La Laiterie de propreté)で王妃によって試食されていたそうです。案内板には1783年と書かれています。
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建物跡(納屋 La Ggrange)
酪農仕込小屋跡の横にも建物跡がありました。こちらは納屋(La Ggrange)の跡地です。奥の建物は⑧の庭師の家です。
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農場(La Ferme)
湖のエリアから離れた場所にも村がありました。それが農場でした。。
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農場は沢山の建物と広い敷地で構成されていました。
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突然に足元に座ったニワトリ(鶏)を見つけました。
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よく見ると沢山の鶏が放し飼いにされていました。
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建物の一部です。
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農場の建物も趣がありました。本格的な農場でした。
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少し離れた位置からの写真です。
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農場の門です。入口の門(ポーチ)は二つの石球で装飾されていました。
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門の辺りも、離れた位置からの写真を紹介します。
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豚さんも放し飼いになっていました。
農場では、王妃の要望に応えてスイスから持ち込まれた動物たちが飼育されていたそうです。その動物の中には雌牛、雄牛、子牛、雌山羊、ヤギ、ヒツジ、強暴でない白雄山羊 なども含まれていたそうです。
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離れると農場の広さが判ってもらえると思います。
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羊(ひつじ)や山羊(やぎ)達も幸せに暮らしているようでした。
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羊をアップいたしました。
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山羊は人なつっこくて手から草を食べてくれました。
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さらに遠くから撮りました。王宮の敷地の中にこのような場所があったのです。
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何度も紹介した地図ですが、王妃の村里( )の位置を紹介したくて地図を掲載いたしました。
   王妃の村里 マリー・アントワネットが暮らした村里
   ヴェルサイユ宮殿(Le Château de Versailles)
   大トリアノン宮殿(Le Grand Trianon)
   小トリアノン宮殿(Le Petit Trianon)
   ランチを食べたレストラン La Flottille
  ━━ 庭園内で乗ったミニ・トレインのルート
  ━━ 徒歩で歩いた散策ルート
  ━━ ヴェルサイユ宮殿敷地境界
posted by SORI at 23:59| Comment(28) | TrackBack(0) | ヴェルサイユ宮殿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月14日

ヴェルサイユ宮殿の緑の中を散策

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ヴェルサイユ宮殿の庭園は幾何学的なフランス式庭園ばかりとだと思いましたが、自然な森のような庭園や自然豊かなイギリス式庭園が広がっていました。本記事では大トリアノン宮殿から出発して、小トリアノン宮殿や、王妃の村里(Hameau)を散策した景観を紹介したいと思います。王妃の村里(Hameau)内に関しては、特別にとりあげる値打ちがあると思いましたので、別途掲載したいと思います。

下記のGoogle地図で、散策したルート(━━)を紹介したいと思います。建物の部分はマークと同じ色で着色をいたしました。  
   大トリアノン宮殿 (Grand Trianon)
   小トリアノン宮殿 (Petit Trianon)
   フランス式あずま屋 (Pavillon Français)
   フランス式あずま屋 涼みの館 (Pavillon Frais)
   愛の殿堂(Temple del Amour) 
  ━━━━ 徒歩で歩いた散策ルート


大トリアノン宮殿を出発してすぐの景色です。広い道が真っすぐに北西方向に延びでいました。
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歩いている女の子たちがダンスしたくなるような雰囲気でした。道の突き当りに見えるのはBuffet d'eauと呼ばれている噴水です。ただし、時間の関係で途中で引き返したので噴水までは行きませんでした。
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途中にはこのような噴水もありました。
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この道は橋なのです。
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その橋の下には石畳の小道が通っていました。
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庭園の中に小さな建物が見えました。これが小トリアノン宮殿ではないかと思いましたが、庭園の中のフランス式あずま屋でした。
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そのフランス式あずま屋を拡大いたしました。このあずま屋は、当時流行し始めていたイギリス式庭園に対して、フランス式と呼ばれ始めた左右対称の庭園の中に位置しているために「フランス式あずま屋」と呼ばれています。1750年にガブリエルによって築かれたもので、トリアノンにおけるルイ15世の最初の建造物の一つだそうです。ルイ15世は幼少の頃からこの地所に強く惹かれていたそうです。ポンパドゥール侯爵夫人を連れたルイ15世は、植物庭園を散歩したり、あるいは隣の「涼みの間」で軽食を取った後にここで休息を取ったり音楽を鑑賞したりしたそうです。
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航空写真で上から見るとこのような四方向点対称の建物でした。
円形の大きな広間が中心にあり、周囲に私室、料理保温室、厨房、衣装部屋の4つの小さな部屋を配した構造です。


あずま屋の北側の庭園です。
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あずま屋の南側にも趣のある建物がありました。この建物は「涼みの館(Ppavillon Frais)
」です。これはフランス式あずま屋の第2の別館として建てられて、酪農小屋と菜園の産物を味わうための食堂として使われたそうです。
この建物を修復した時の動画があったので紹介します。→ポチッ
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小トリアノン宮殿から東側には広いイギリス式の庭園が広がっていました。遠くに見える丸い建物は「愛の殿堂(Temple del Amour)」と呼ばれています。マリー・アントワネットの自室(2階)から見えた景色でもあります。ただし写真は1階から撮った景色です。
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こちらが近くで撮った「愛の殿堂(Temple del Amour)」です。
この愛の殿堂は1778年にリシャール・ ミックにより建設されました。この建物には新古典主義様式が採用されています。全体が大理石で出来ていて、コリント式柱頭、 浮彫装飾、そして内部にデシャンの彫刻が彫られた円屋根を特徴としています。中央にはフランスの彫刻の傑作として知られるブーシャルドンの作品「ヘラクレスの棍棒で弓を作るキューピッド」が飾られています。ただし現在はレプリカで、オリジナルの彫像はルーブル美術館にあります。レプリカと言えども18世紀のもう一人の偉大な彫刻家、ムシーによって作られたレプリカです。
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広い庭園には細い道が沢山あり、迷ってしまうほどでした。
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鳥さえも庭園の一部の景色になっていました。
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庭園の散策をした小トリアノン宮殿に戻ってきました。
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posted by SORI at 15:53| Comment(12) | TrackBack(0) | ヴェルサイユ宮殿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月12日

小トリアノン宮殿(Petit Trianon) マリー・アントワネットが住んだ家

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

前々記事でヴェルサイユ宮殿の敷地内の離宮である大トリアノン宮殿(Grand Trianon)を紹介いたしましたので、ここでは、同じくヴェルサイユ宮殿敷地内にある小トリアノン宮殿(Petit Trianon)を紹介いたします。フランス語ではLe Petit Trianonと書かれていますが、日本語ではは小トリアノン宮殿あるいは単に小トリアノンあるいはプティ・トリアノン離宮と訳されています。その小トリアノン宮殿は新古典主義建築で、建物は2階建ての正方形です。内装はロココ様式の最高峰とも評されるそうです。1762年から1768年に、ルイ15世の公妾のポンパドゥール夫人のために建てられたものでアンジュ=ジャック・ガブリエル(Ange-Jacques Gabriel)の設計によるものです。しかしながら、本宮殿が完成した時には、ポンパドゥール夫人はすでに亡くなっていました。その後1774年に、国王のルイ16世により彼の王妃であるマリー・アントワネットに与えられることで、マリー・アントワネットの専用の住居となりました。そのためにマリー・アントワネットと言えば「小トリアノン宮殿」と、周辺のイギリス式庭園である「王妃の村里」と連想されるようになったのです。

小トリアノン宮殿(Petit Trianon / プティ・トリアノン)はヴェルサイユ宮殿の北西方向の直線距離で1.4kmの位置にあります。
下記の地図のが小トリアノン宮殿です。
   ヴェルサイユ宮殿 紫色で囲った部分
   小トリアノン宮殿 臙脂で囲った部分
   大トリアノン宮殿 緑色で囲った部分
   マリー・アントワネットが暮らした村里
   ランチを食べたレストラン La Flottille
  ━━ ヴェルサイユ宮殿の敷地境界
  ━━ 徒歩で歩いた散策ルート
  ━━ 乗ったミニ・トレイン


周辺のフランス式庭園とイギリス庭園を散策した後、イギリス式庭園方向から小トリアノン宮殿が見えてきました。
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西に広がるフランス式庭園の方向から見た小トリアノン宮殿です。
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南方向から見た小トリアノン宮殿です。右奥に小さく見える小さな丸い建物はイギリス式庭園の中にある「愛の殿堂」と呼ばれているあずま屋です。
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小トリアノン宮殿から南側の石畳の広場を見た写真です。
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こちらは小トリアノン宮殿から西方向のフランス庭園の景観です。見えている建物はフランス式あずま屋です。
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そして、こちらが北方向の自然豊かな庭園の景観です。
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小トリアノン宮殿脇から見た東方向の景観です。左の建物が小トリアノン宮殿です。見えている丸い建物は「愛の殿堂」と呼ばれています。
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建物に入ると、最初に階段が目に飛び込んできました。豪華なヴェルサイユ宮殿や大トリアノン宮殿に対して、小トリアノン宮殿の内装は簡素さに特徴がありました。簡素さの中にも整然とした豪華さ、秩序、完璧さにあると書かれていました。
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見事な食器が飾られている部屋がありました。壁はシンプルで知らないで来ると王妃が住んでいたとは思えない内装でした。
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建物の石材がそのままの部屋もありました。
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通路も石材が直接見えました。ただし滑らかに仕上げられていました。
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一番印象に残ったのはこちらの部屋でした。装飾はありませんが壁の曲線と暖炉の曲線が美しかったです。
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右の壁際のレンガのテーブル状のように見える物は竈(かまど)で6つの焚口がありました。それぞれの火力を調整できたのだと思います。現代で言えばコンロである竈(かまど)の後ろの壁には鍋やフライパンが並べられていました。つまりここは小トリアノンの厨房だったのです。
お陰で16世紀のコンロである竈(かまど)の構造を勉強することが出来ました。写真をクリックすると拡大するので竈(かまど)の構造がわかると思います。
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次に2階を見学するために階段を登りました。
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2階に上がりました。
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クリックすると拡大階段や窓のの手摺は、錠前職人フランソワ・ブロショワによって作られたマリー・アントワネットの頭文字「MA」と王家のユリの紋章で装飾されていました。右の写真は玄関ホールから見た階段の写真です。このことからも小トリアノンがマリー・アントワネット王妃のための宮殿であったことが覗えました。
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階段ホールも石材がそのままの壁でしたが、見事な彫刻が施されていました。
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こちらの壁の彫刻は髪の毛が蛇で有名なメドゥーサです。直接に見ると石になってしまうことで有名です。メドゥーサ(Μέδουσα / Medoūsa)はギリシア神話に登場する怪物で、ゴルゴーン3姉妹の一番下の三女でした。姉はステンノー(強い女)とエウリュアレー(広く彷徨う)です。メドゥーサ(Medousa)の語源は女支配者、王妃、女王だそうです。
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クリックすると拡大2階に上がると金色の装飾がが使われていて、王妃の宮殿であったことが実感されてきました。最初の部屋に入ると、マリー・アントワネットの肖像画の中でもネット上で最もよく使われている1枚が飾られていました。この肖像画は、マリー・アントワネットが最もお気に入りだった女流画家ヴィジェ・ブランによる作品で、1783年に描かれたそうです。右の肖像画はWikimediaから転用させていただきました。
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次の居間も見事でした。大きなシャンデリアがありました。
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次の部屋は、また違った雰囲気でした。部屋の中央が見学通路になっていて、こちらの写真は通路の右側です。
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こちらの写真は通路の左側です。
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次の小部屋も女性の部屋らしい華麗さがありました。徐々にプライベートの空間に入ってきたように関しました。
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次の部屋がマリー・アントワネット王妃の寝室でした。見事なベット(寝台)が印象的でした。
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不思議な椅子状の物もありました。写っている説明書きには「Garde-robe à chaise Salle de bainsl」と書かれていました。Garde-robeはロードローブ(クロゼット/衣装ダンス)です。Garde-robeの部分は不鮮明で読み間違いがあるかもしれません。à chaiseは椅子で、Salle de bainslはバスルームです。全体的な意味は分かりません。ロードローブの意味がカギになって来るようです。今回の場合は収納箱的な意味の可能性が高いです。
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2階の見学が終り、階段を降りました。
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最初に見ていない1階の空間を見学いたしました。石の廊下です。
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芸術的に曲がった廊下も印象的でした。ここでフランス最高権力者の王妃(マリー・アントワネット)が住んでいたと思うと、感慨深いものがありました。
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posted by SORI at 18:18| Comment(22) | TrackBack(3) | ヴェルサイユ宮殿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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