2019年12月05日

13年10ケ月通って初めて降りた十三駅の居酒屋 漁師めし

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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上の写真は2019年10月19日に行われた第76回ハイクで通ったクリックすると拡大竹の径(たけのみち)です。右の写真は竹林公園に植えられていた金明孟宗竹です。第76回とすごい回数のハイキングですが私は第72回に初めて参加して、今回が2回目でした。会社で初めて配属になった神戸事業所の人達とのハイキングなので、最後はやっぱり打ち上げ飲み会となります。阪急京都線・東向日駅についたのは14時10分のため開いている居酒屋がありません。幸いなことに阪急京都線から神戸方面および宝塚方面への乗換駅である十三(じゅうそう)は、朝から居酒屋が開いていることで有名な場所なのです。ハイク参加者全員が、十三駅で乗り換えて帰ることもあり、十三で打ち上げ飲み会をすることになりました。実は私が宝塚の逆瀬川に住んでいた学生時代の4年間は通学で電車(逆瀬川→西宮北口→(十三)→梅田)が停車した駅ですが、1度も改札から出たことが無かったのです。さらに神戸事業所から大阪事業所に組織ごと転勤になって結婚して住んだ神戸から大阪事業所に通う電車(神戸三宮→(十三)→梅田)も十三を通りましたが1度も改札から出たことがなかったのです。学生時代と結婚後を合わせた13年10ケ月と15日間に1度も改札から出たことのなかった十三で初めての飲み会であったことから本記事で紹介したいと思います。

今回のハイクの記事は下記の通りです。竹の径(たけのみち)の記事で最後に紹介した桓武天皇の皇后である藤原乙牟漏(天之高藤広宗照姫之尊)の御陵である高畠陵から坂を下りてきたのが下の写真です。写真の中央に石碑(石柱)があるので本写真を撮りました。写真の左端には道案内の柱も建てられています。
右の写真は物集女車塚古墳です。クリックすると拡大
 物集女車塚古墳(もずめくるまづかこふん)
 次は「竹の径」を目指しました。
 洛西の竹林公園(BAMBOO PARK)
 竹の径(たけのみち) 洛西
 初めて降りる十三駅の居酒屋 漁師めし
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こちらが上の写真の左端に写っていた道案内の柱です。竹の径、竹林公園、阪急東向日駅、五塚原古墳などの文字が読み取れました。クリックすると読める大きさに拡大します。
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こちらが2枚上の写真の中央に写っていた石碑(石柱)です。石碑には桓武天皇皇后御陵と書かれています。写真を撮った時はこの辺りが桓武天皇皇后御陵なのだと思いましたが、よく考えると坂の上で見て来た高畠陵が桓武天皇皇后御陵なので、広大な御陵なのだとその場を離れました。
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記事を書くために撮った写真を見ていると石碑の一番下に「北ニ」の文字があることに気が付きました。つまり昔に建てられた道しるべだったのです。北二の下は埋もれて分かりませんが、「北ニ上ガル」のような意味が書かれているのだと思います。建てられた年代は判りませんが、道しるべに「ひらがな」ではなく「カタカナ」が使われていたころだと思われます。元々の計画では桓武天皇皇后御陵の後は五塚原古墳→文化資料館→東向日駅と歩く予定でしたが、雨模様でもあり五塚原古墳と文化資料館は省略して、まっすぐに東向日駅に向かうことにいたしました。
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駅に向かう途中に、このような「願徳治宝菩提院跡」などの遺跡に関する表示などがいくつもありました。ここは例慶公園で寺戸城跡でもあるようです。
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寺戸城跡の横には神社もありました。このようなものを見ていると真直ぐに駅に行ってしまうのはもったいなくなってきました。この時まだ13時24分であったこともあり五塚原古墳に行ってみることになりました。
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五塚原古墳へ行く道標もありました。ただし、この後、雨が本降りになってきたことからカメラは服の中に袋に包んで懐にしまったので途中の道の写真は撮ることが出来ませんでした。
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ここが五塚原古墳(いつかはらこふん)に隣接した芝山公園です。かなりの雨でしたが雨が掛かりにくい木の下から撮りました。
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五塚原古墳と書かれた石碑だけは、なんとか撮りました。この後は駅に着くまでは写真は撮りませんでした。
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 長さ 91.2m
 高さ 8.7m(後円部)
 埋葬 竪穴式石室
 築造 3世紀中葉-後半
 史跡 国の史跡
 分類 乙訓古墳群(おとくにこふんぐん)
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こちらが阪急京都線の東向日駅です。ここで打ち上げ飲み会を十三で行うことにしたわけです。この時が14時10分でした。
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ハイキングのルート(━━)は最終的に次のようになりました。緑色ライン(━━)が今回のハイクのメインイベントである竹の径(みち)です。
洛西口駅(阪急)→物集女車塚古墳→竹の径→竹林公園→竹の資料館→子供の広場(昼食)→竹の径→高畠陵→桓武天皇皇后御陵→五塚原古墳→東向日駅(阪急)


こちらが我々が降りた阪急・十三駅の西改札口です。この写真は、第76回ハイクの時の写真ではなく、太陽の塔の内部見学をした第77回ハイクの2019年11月16日の写真です。
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こちらが開いているお店を探した十三の居酒屋街(通称:しょんべん横丁)です。しょんべん横丁は第2次世界大戦後に闇市や飲食店が集まって出来たそうです。名前の由来を調べてみると、昔はトイレすらない店舗が多く、クリックすると拡大あたり一体がションベン臭かったことから呼ばれたそうですが、現在の正式名はトミータウンだそうです。驚いたことに、しょんべん横丁と呼ばれる場所が新宿にもあります。そちらの正式名は「思い出横丁」です。開店前のお店もありましたが、確かに14時56分にもかかわらず沢山のお店が開いていました。十三に着く前から候補のお店がありました。ぐじら料理や鯨焼肉が食べれる「くじらや」でしたが、そのお店は残念ながら開店前だったので、写真に看板が写っている「漁師めし」にはいることにいたしました。「くじらや」は写真に写っている「玉一」の手前隣にあります。
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こちらが我々が入った居酒屋「漁師めし」です。こちらのお店は12時開店でした。驚いたことに後日に十三駅の写真を窓から撮った磯丸水産は24時間営業の居酒屋でした。クリックすると拡大
 店名 漁師めし
 住所 大阪府大阪市淀川区十三本町1-2-6
 電話 06-6302-0208
 営業 12:00~24:00
 定休 年中無休
 最寄 阪急十三西改札口 徒歩1分
 開店 2016年10月1日
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おすすめのメニューを紹介します。クリックすると裏と表の両方を拡大して表示します。クジラもありました。
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さっそくビールで乾杯です。
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こちらはお通しの枝豆です。
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先ずはおでんを頼みました。
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よく炊かれておでんは柔らかくて味がしみて美味しかったです。
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もちろんクジラを頼みました。これは鯨の尾の身の刺身です。
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この鯨の尾の身は美味しかったです。
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こちらもクジラです。オバケと呼ばれる部位です。オバケは尾っぽの部分で尾羽毛と書くそうです。クリックすると拡大2つ以外にくじら料理として本日のおすすめには鯨ユッケ、鯨トロ鉄板焼き、せせりポン酢がありました。実は上で紹介の「くじらや」と関係があったのです。食べログでの説明に「2軒隣の【くじらや】は姉妹店でございます。」と書かれていました。
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定番の唐揚げも頼みました。唐揚げはビールに合います。
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本日のお刺身も頼みました。8種類が乗って580円はお得でした。クジラの刺身も入っていました。
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厚揚げも美味しかったです。
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これもなかなかの銘品でした。名前は山芋の鉄板焼きです。
最近行われた神戸のメンバーのハイキングと予定のハイキングを紹介します。☆マークが参加あるいは参加予定です。
 第70回 2019年01月19日(土) 兵庫七福神巡りハイク
 第71回 2019年03月16日(土) 金比羅宮参拝と讃岐うどんを賞味するハイク
☆第72回 2019年04月20日(土) 神戸市北区の重要文化財巡りハイク
 第73回 2019年05月18日(土) 奈良斑鳩の里での散策ハイク
 第74回 2019年06月15日(土) 神戸にある世界の宗教寺院巡りハイク
 第75回 2019年09月20日(土) 神戸鶉野飛行場跡各種設備など散策ハイク
☆第76回 2019年10月19日(土) 京都洛西の竹林と古墳巡りハイク
☆第77回 2019年11月16日(土) 太陽の塔の内部見学(予約)と周辺散策ハイク
 第78回 2020年01月16日(木) 神戸井植記念館と周辺散策ハイク
 第79回 2020年01月30日(木) 京都迎賓館と周辺散策ハイク
☆第80回 2020年02月15日(土) 丹波篠山???ハイク
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お店の場所を地図で紹介します。翌月の「太陽の塔の内部」と「万博記念公園の紅葉」を見るハイキングでも16時の時点で十三以外では開いている居酒屋が見つからなかったことから十三の居酒屋で打ち上げ飲み会をしてしまいました。
 2019年10月19日 漁師めし 第76回ハイク 竹の径+竹林公園+古墳
 2019年11月16日 磯丸水産 第77回ハイク 太陽の塔+万博記念公園
posted by SORI at 11:33| Comment(18) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月11日

洛西の竹林公園(BAMBOO PARK)

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事で竹の径(たけのみち)の全工程を紹介いたしましたが、その途中で寄ったのが今回紹介する竹林公園です。クリックすると拡大ここが竹林公園の正門(北入口)です。すでに紹介の通り入社当時の神戸事業所での仲間を知友審の9名での第76回ハイク「京都洛西の竹林と古墳巡りハイク」で訪れた場所の一つが今回の竹林公園でした。右の写真が竹の径です。

こちらが門の前にあった竹林公園案内図です。ここでは洛西竹林公園(RAKUSAI BAMBOO PARK)と書かれています。公園内の竹の資料館で頂いたパンフレットでは京都市洛西竹林公園と書かれていました。当初の予定では現在地と書かれている北入口から入り「竹の資料館」で昼食をとった後にクリックすると拡大公園内を散策して約350体ある石仏や生態園や東屋や百々橋などを見て南入口から出で竹の径の散策を続けるつもりでした。竹の資料館に着いて確認したところ竹の資料館の館内も含めて竹林公園の園内では飲食が出来ないことが分かりました。さらに昼食は公園に隣接した子供の広場で食べることを薦められたので、竹林公園内を散策した後に南入口を出て子供の広場に行くことにいたしました。
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竹林公園の注意書きがあったので紹介したいと思います。
 開園時間 9:00~17:00(入園は16:00)
 休園日  毎週水曜日 12月29日~1月3日
 料金   無料
 目的   竹・笹の知識の普及 学術研究
 遵守事項 ペット同伴不可 小学生以下は保護者必要
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いよいよ中に入ります。右の門柱に墨で文字が書かれた看板(表札)が取り付けられています。
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看板の文字が読みにくいので拡大して看板だけ露出調整いたしました。看板には竹林公園と書かれていました。
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門を入ってすぐの景色です。この道を下っていきますが、いろんな種類の竹を見ることが出来ました。園内には110種以上の竹が植わっているそうです。
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京都市はウクライナのキエフ市と1971年9月7日から姉妹都市のようで、1982年10月25日にキエフ市長の入洛記念に植竹が行われていました。竹林公園は1984年6月に開園したので、公園が造られている時に植竹が行われたことになります。キエフ市側はワレンチン・アルセンティェビッチ・スグールズキー市長で京都市側は今川正彦市長でした。入洛の洛は京都を意味しているので入洛は「京都に入る」を意味しているのですが、時代劇などで大名などが京都に入ることを意味している上洛の方が効き馴れています。ただし、上洛は上下関係を感じるのに対して、入洛(じゅらく、にゅうらく)は対等感があります。
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最初に沢山植えられていたのはスホウチク(蘇枋竹)でした。
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クリックすると拡大スホウチク(蘇枋竹)には黄色の幹(稈)に緑の筋が入ていました。名札の説明には「熱帯性の株立ち。稈は黄色で緑条がある。庭園の竹として、また生け花など監視用用に適する。」と書かれていました。
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スホウチクの右側には同じような色合いの太い竹が植わっていました。
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その太い黄色の竹はキンメイモウソウ(金明孟宗竹)でした。
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キンメイモウソウ(金明孟宗竹)の名札の説明には「モウソウチクの園芸品種。黄金色の稈に緑色の縦縞が交互に発現したもの。宮崎県と福岡県で天然記念物に指定。観賞用。」
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クリックすると拡大歩いていると目立つ竹が次々と現れました。こちらの竹の名前はキッコウチク(亀甲竹)です。突然変異で節が斜めになっていますが、右の写真のように節の内部の境も斜めだそうです。右の写真は資料館の内部の竹のサンプルを撮った写真から切り取りました。
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キッコウチク(亀甲竹)の名札です。説明には「モウソウチクの園芸品種。竹稈下方部の節間が亀の甲羅のように膨れるのが特徴。竹材は京都府指定伝統工芸品の一つ。」と書かれていました。竹稈は「チクカン」と読みます。稈は「カン」と読み、両方共に竹の幹を意味しています。
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竹の資料館に近づいてくると、こちらの竹が植わっていました。名前はカンザンチク(寒山竹)でした。
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カンザンチク(寒山竹)は別名ダイミョウチクと呼ばれているそうです。名札には「中国南部産。九州で広く植栽されている。稈は3~8mで直立性。タケノコは美味。防風用。」説明の中の「タケノコは美味」が気になります。
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竹の資料館の入口前には2種類の笹(ササ)が植えられていました。こちらはヒメシノ(姫篠)です。
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ヒメシノ(姫篠)にも名札が立てられていました。名札の説明には「通称コグマザサの名称で流通しているコガシアズマザサの矮性変種。鑑賞用や地被用として広く栽培されている。」とかかれていました。
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もう一つの植わっている笹はオカメザサ(阿亀笹)でした。
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オカメザサ(阿亀笹)の別名はブンゴザサです。説明には「稈の高さ1~1.5m。枝は短く、各節から3~6本束生。葉は丸形で2~3枚。全国で広く植栽。園芸用、地被用。」とありました。
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類似した名前の竹が3種類まとまって植えられていました。
こちらはギンメイチク(銀明竹)です。説明にば「マダケの園芸品種。緑色の稈の節間芽溝が淡黄色になる。稈麺の配色が珍しく、観賞用に植栽される。」と書かれていました。
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上がギンメイチクに対して、こちらはキンメイチク(金明竹)です。名札の説明には「マダケの変種。稈が黄金色で、節間の芽溝部に緑条が入る。葉には時に黄色の縦縞が入る。観賞用。」と書かれていました。
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金明竹(キンメイチク)に対して黄金竹(オウゴンチク)もありました。こちらもマダケの変種で、説明には「稈は見事な黄金色で、葉にも少数の白い条がある。庭園・公園等に観賞用に植栽される。」と書かれていました。クリックすると拡大中国の西安市とも姉妹都市で記念植竹でオウゴンチクが植えられたようです。友好都市(姉妹都市)が提携されたのは1974年5月10日です。入洛記念植竹は1982年11月15日に行われました。西安市側は張鉄民市長で京都市側は今川正彦市長でした。
中国との友好関係に私が接することが出来た経験としては河南省の開封市にある大相国寺でした。右の写真のように開封市の大相国寺と京都市の相国寺と友好関係にありました。
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もう1種類。マダケの園芸品種を紹介します。縦縞のあるシボチク(絞竹)です。説明には「稈面に深い縦じわが現れる珍種。竹材はかなり肉厚。花器。茶器などの工芸品に利用される。」と書かれていました。竹林公園に植わっていた竹や笹の紹介はこれで終わりといたします。110種類以上(資料館の方の説明では120種)植わっているほんの一部を紹介させていただきました。下からは竹の資料館の周辺を紹介します。
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竹の資料館の中から見た前の庭です。石の橋を渡って坂を登っていくと約350体の石仏が設置されているそうです。驚いたことに織田信長が築いた旧二条城の石垣に使われていた石仏だったそうです。坂の上には、あずまや(四阿 or 東屋)があります。散策しようと外に出たところ雨が強くなってきたので、橋のところまで行って資料館に戻ってきてしまいました。雨が弱まるのを待っていましたが、強くなるばかりなので、石仏などの散策は断念いたしました。
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強い雨のためにほとんど散策が出来なかったので、竹の資料館で頂いた案内図を掲載いたします。クリックすると文字が読める大きさに拡大いたします。
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上の案内図の範囲が分かるGoogleの航空写真を紹介します。上の案内図には北方向を書き込みましたので頭の中で右に回転して北を上方向にすると本航空写真とイメージが合うと思います。


案内図の裏面も掲載いたしました。こちらもクリックすると文字が読める大きさに拡大いたします。京都市洛西竹林公園と書かれています。竹の径の竹林のほとんどが向日市物集女町なので竹林公園は向日市だ思い込んでいました。前記事の中で②~③の竹の径は京都市と向日市の市境で、沈淪公園は京都市側でした。
 名前 京都市洛西竹林公園
 住所 京都市西京区大枝北福西町2-300-3
 電話 075-331-3821
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強い雨のために石仏群を見ることも写真を撮ることも出来なかったので、上の竹林公園のパンフレットから石仏群の写真を切り取らせていただきました。パンフレットの一番左下の写真です。
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クリックすると拡大竹林公園に入る前に竹の径から東屋を撮った右の写真の東屋(あずまや)の屋根の上の竹林の隙間から資料館が見えていたのです。歩いている時は気が付きませんでした。
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1467年5月の応仁の乱ゆかりの石橋です。橋の名前は百々橋(どどばし)で、架かっていた小川が埋められたのを機会に、1963年に竹林公園に移築したそうです。橋脚を支える4基の礎石(そせき)の内2つが竹林公園に橋と共に移され、クリックすると拡大残りの2つの内の1つは架かっていた場所(百々橋ひろば/百々橋跡:京都市上京区大猪熊町)に、もう一つが京都市立室町小学校(京都市上京区室町通上立売上ル室町頭町261)に保存されているそうです。説明板の手前の四角い石が当時の橋の礎石だそうです。
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礎石を比較するためにたの2ヶ所の礎石の写真をネットから転用させていただきました。クリックすると転用させていただいたサイトを表示します。応仁の乱の時代は板橋だったようで、その後に石橋に改築されたそうです。航空写真の中の茶色と黄色のマークが礎石の位置です。
      百々橋ひろば          京都市立室町小学校
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百々橋(どどばし)の説明を枠内に転記いたします。ここに来た時は、かなりの雨だったので、すぐに資料館に戻りました。ちなみに説明文の中の小川は「おがわ」ではなく「こかわ」で、れっきとした川の名前(固有名詞)です。
百々橋の由来

宝鏡寺門前の東西の通りを百々の辻と呼ぶのは平安時代からであるが、小川にかかるこの小橋が、いちやく有名となったのは、戦国時代この橋をはさんで合戦が行われたからである。

応仁元年(一四六七)五月、応仁の乱最初の大合戦にさいし、この橋には、細川勝元配下の三宅、吹田、茨木、茶川氏など攝津の武将が布陣し山名方の平賀氏と激しく戦った。ここから、南の方一条戻り橋付近までが、その時の主戦場となり、付近一帯が戦火で焼失いた。

それから四十年後、細川勝元の子、政元の後嗣をめぐって、養子の澄元と澄之が対立、永正四年(一五〇七)六月二十三日澄之が、香西元長(嵐山城主)薬師寺長忠らと謀って養父政元を殺し翌二十四日澄元を攻めて、この橋で激しく戦った。澄元は近江へ敗走したが、八月一日には京都に還り、澄之、元長、長忠攻め亡ぼした。

この小さな橋には、かくて戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれている。

なお、明治四十年(一九〇七)に改築したもので小川が昭和三十八年(一九六三)に埋められ、石橋の貴重な遺構として現地に礎石を遺しここに移築したものである。
京都市
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江戸時代以降の絵図と地図から推定された小川(こかわ)と百々橋(どとばし)です。地図と航空写真が切り替わるようにしました。百々橋の礎石の置かれている場所が分かると思います。→ストリートビュー 航空写真
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クリックすると拡大こちらは狩野永徳23歳(桃山時代・16世紀)の作品である上杉本洛中洛外図屏風に描かれた小川(こかわ)と、小川に架かる橋です。下の絵も上の絵も百々橋ひろばに立てられている右の案内板から切り取ったものです。案内板の写真はネットから転用させていただきました。
この絵からだけでは百々橋がどれかは判りませんが、当時は石橋ではなくこの図のように木造の板橋だったようです。クリックすると拡大江戸時代に石橋に改築されたそうです。上の推定図に描かれているのは石橋です。下記の絵は右の上杉本洛中洛外図屏風の黄色の枠で囲った部分です。
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建物全体の写真を撮っていなかったので本写真を掲載します。本写真は右の写真から人物を消す加工をしたものです。クリックすると拡大
 資料館面積 約450㎡
 公園の面積 35,068㎡
 生態園面積 約5,000㎡
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雨の中で庭の手入れをされている方がおられました。
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和の空間が溢れていました。細い竹が敷き詰められた桟敷(さじき)です。後ろの竹垣は建仁寺垣です。
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小さな庭園も建物の敷地にありました。こちらの後ろの竹垣も建仁寺垣です。本写真には写っていませんが光悦寺垣もありました。
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建物に戻って雨が止むのを待ちました。
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資料館の方に竹に関する説明をしていただきました。外人の方には英語で説明されていました。一番手前はモウソウチク(孟宗竹)です。モウソウチクは日本のタケ類の中で最大種です。学説によって異なりますが、世界で600種または1,200種、日本では150種あるいは600種があると言われているそうです。その中の一つのモウソウチクの分類を紹介します。一般的にタケ類と言われているのはタケ亜科あるいはタケ連になるそうです。タケ亜科はタケ連(Bambuseae連)とOlyreae連の2つに分類されますが、右下のようにArundinarieae連を加えた3つへの分類も提案されているそうです。クリックすると拡大
  界 植物界    Plantae
  門 被子植物門  Magnoliophyta
  綱 単子葉植物綱 Magnoliophyta
  目 イネ目    Poales
  科 イネ科    Poaceae
クリックすると拡大 亜科 タケ亜科   Bambusoideae
 (連 タケ連    Bambuseae )
  属 マダケ属   Phyllostachys
  種 モウソウチク Phyllostachys heterocycla
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竹のサンプル部分を拡大しました。手前の方が乾燥した竹そのものですが、奥の方は加工した竹が並んでいます。表面に薬品で模様をつけたり、四角い枠を付けて四角い竹を作ったりして竹材を作ることが分かりました。竹林の中に積まれているのも表面の色を変えるためであることを知りました。クリックすると特別に大きく拡大いたします。一番手前がモウソウチク(孟宗竹)ですが、今までに見たことが無いほど太い孟宗竹が展示されていました。クリックすると拡大
上で紹介したキッコウチク(亀甲竹)のサンプルも写っています。
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資料館の中にはいろんな説明がありました。
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復元されたものですがエジソンの電球も展示されていました。
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6000種類の植物繊維を実験して選ばれたのが、京都の八幡の真竹(マダケ)が使われたそうで宇。1882年のことでした。


竹の地下部分も展示されていました。根のように見えるのは地下茎で、根はそこから出ている細い短い毛のようなものです。
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竹の地下部分は2019年4月10日に放送されたNHK{ガッテン」の収録後に寄贈されたものだそうです。
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クリックすると拡大竹の資料館でお土産として竹の刷毛を買いました。薬味おろしでおろした薬味を集めるのに使うつもりです。竹材の産地なだけに竹細工をする人も多いと思います。皆さんいろんな竹細工を買われていました。
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薬味おろしと竹のハケの写真を撮りました。
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いくら待っても雨が止まないので、雨の中ですが昼食のために子供の広場に移動いたしました。
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こちらの子供の広場の東屋(あずまや)で昼食にいたしました。食事の後は時間がたっぷりあったので、皆さんで持ち寄ったスイーツや日本酒を飲んで時間を過ごして雨が止んでから出発いたしました。私はお酒を2合ほど飲んでしまいました。
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丹波の黒豆の枝豆を持て来てくれた人もおられました。
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四阿(あずまや)から見た子供の広場です。広場の周囲にも竹が沢山植わっていました。園芸種ではなくWikipediawで掲載されていた分類学的な種の日本の代表的なものを紹介します。キッコウチクは形は大きく違いますが、種としてはモウソウチクで、亜種的存在です。
 モウソウチク Phyllostachys heterocycla f. pubescence
(キッコウチク Phyllostachys heterocycla f. heterocycla)
 マダケ    Phyllostachys bambusoides
 ハチク    Phyllostachys nigra
 ホテイチク  Phyllostachys aurea
 ホウライチク Bambusa multiplex
 ナリヒラダケ Semiarundinaria fastuosa
 チシマザサ  Sasa kurilensis(ネマガリダケ)
 トウチク   Sinobambusa tootsik
 シホウチク  Chimonobambusa quadrangularis
 カンチク   Chimonobambusa marmorea
 ヤダケ    Pseudosasa japonica
 メダケ    Pleioblastus simonii
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子供の広場からは、この坂をのぼって竹の径の四辻に戻りました。
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こちらが四叉路(四辻)です。写真は竹林公園に向かっている時に撮った四辻なので向いている方向は反対で、実際には右奥方向(東向日駅方向)に歩いて行きました。
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こちらが四叉路から東向日駅方向の最初の竹の径の景色でした。
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竹林公園の範囲をGoogle航空写真で紹介します。緑色ライン(━━)の竹の径(たけのみち)より左側の緑の部分が全て竹林公園です。駐車場の場所が北入口(正門)で、そこから橙色ライン(━━)のように入りました。真ん中の建物が「竹の資料館」でそこに着くころには雨が本降りとなっていました。そのため竹林公園内の散策は資料館の北東側を少し歩いただけで資料館内の見学が主になりました。竹の径(━━)の右上側が向日市で左下側が京都市です。向日市が京都市側に食い込んでいる(向日市の西と北と東が京都市)ためにイメージと反対のことが起こるのです。
 緑色ライン(━━) 竹の径(たけのみち)
 橙色ライン(━━) 歩いたルート


洛西竹林公園(Rakusai Bamboo Park)の英語のPRサイトにあった竹の魅力を表現した動画を紹介します。音楽だけでナレーションはありません。
10秒間だけですが、頭から3分33秒から竹の径の映像も出てきます。
posted by SORI at 21:12| Comment(22) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月06日

竹の径(たけのみち) 洛西

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大上の写真が前記事および前々記事(物集女車塚古墳)で掲載予告をしていた竹の径(Takenomichi)です。2019年10月19日に参加した第76回ハイク「京都洛西の竹林と古墳巡りハイク」のメインイベントである「竹の径」を紹介いたします。名の通り竹林の中に作られた道です。

本写真は竹の径の入口近くあった案内板です。赤い字で現在地と書かれているのが次のGoogle地図のと書かれているところです。道の形が違うように見えるかもしれませんが案内板は右方向が北なので、左に90度回転してもらうと、次の地図の竹の径の形に似てくると思います。
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下記の地図のように竹の径への主な入口は4ケ所( )あります。今回は竹の径の入口から竹の径の入口に歩きました。竹林公園から竹の径の入口は雨も降っており時間を短縮するために残念ながら歩きませんでしたが、十分に満足できる景観に出会えました。②~③の道には西ノ岡竹林通という名もついています。本記事では竹の径の入口から竹の径の入口までを順に紹介したいと思います。
 緑色ライン(━━) 竹の径(たけのみち)
 青色ライン(━━) 竹林道
 橙色ライン(━━) 歩いたルート


こちらが竹の径の出発地点です。上の地図の竹の径の入口です。この幹線道路は御所海道です。
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入口から見た竹の径方向です。この辺りは右側だけが竹林ですが、進んでいくと冒頭の写真のように左右ともに竹林になります。画面では分かりにくいけれども上り坂です。竹で作られた垣根である竹垣が見事です。この竹垣の名前は竹穂垣(たけほがき)です。
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竹林の中を撮りました。立派な竹でした。濃い緑の竹でなく黄色の肌の竹も沢山ありました。
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上り坂なのが分かってもらえると思います。この写真の左側は竹林の中に作られた向日回生病院です。カーブミラーのポールに竹の径の表示があります。参考ですが向日回生病院の住所は京都府向日市物集女町中海道92-12です。
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本格的な竹の径に出ました。竹垣のタイプも変わりました。2種類の竹垣が使われていました。この2種類を組み合わせた竹垣が「来迎寺垣(らいこうじがき)」なのです。物集女町にある紫雲山来迎寺にちなんで名づけられたそうです。長めに切り揃えられた竹穂垣と扉の配置が特徴的だそうです。
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道の両側に竹垣がある景観は見事です。ここのエリアは左側が竹林です。道の両脇に立つ竹垣には、竹の枝を約1.5メートルの高さで束ねて並べた「竹穂垣」を始め、「来迎寺垣」「かぐや垣」「物集女垣」「寺戸垣」「古墳垣」「深田垣」「海道垣」の8種類で構成されているそうです。
ここの竹垣も上の写真と同じ「来迎寺垣」です。
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竹林の方を撮りました。平安京を「洛」と表現した区分が今でも使われています。今回の場所は洛西(らくさい)になります。洛東と洛北と洛西と洛南をまとめて洛外(らくがい)と言います。京都だけで使われる「洛」は「都」を意味しており、由来は中国の洛陽が唐の副都であった時代に遡るそうです。洛陽と言えば龍門石窟に行ったことを思い出します。
 洛中(らくちゅう) 上京、中京、下京の各区の辺りの呼び方
 洛東(らくとう)  左京区銀閣寺辺りから東山区まで
 洛北(らくほく)  北区上賀茂から北大路通辺りまで
 洛西(らくさい)  右京区南部から西京区、乙訓辺り
 洛南(らくなん)  九条通り以南、伏見辺りまで
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見事に手入れされた竹林でした。
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竹の径は向日丘陵の中にあります。竹林と言えば竹の子(筍)です。筍は向日市の特産品でもありますが、向日丘陵の竹林では工芸や建築用の竹の生産が本業であることを竹林公園で教えていただきました。だからこそ竹垣で竹の径を整備しいてるのだと感じました。
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こちらは脇道です。竹林を管理している人が使うのだと思います。私有地になるので我々は入ることは出来ません。切った竹が置かれています。これも意味があることを後で知りました。
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ここの竹林の竹も見事でした。
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竹の葉の写真です。風を感じます。
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竹垣のタイプが変わりました。
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この竹垣のの名前は「かぐや垣」でした。説明によれば竹筒と竹穂を組み合わせた珍しい竹垣で、竹筒の長短によりかぐや姫の着る十二単衣の袖元をイメージして命名されたようです。
竹垣の名前の「かぐや垣」の文字が一瞬「かぐや姫」に見えてしまいました。
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また違った竹垣が現れました。こちらの竹垣は「海道垣」だそうです。
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海道垣が続く景観は見事でした。
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分かれ道(T字路)に出ました。右方向に竹の径が続いています。
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右に曲がってすぐに撮った景観です。
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真直ぐに続いていました。見事なので少し進んだところで全員で記念写真を撮ることにしました。全員で撮るために少し重いけれども小形の三脚を持ってきたのです。
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右の写真の三脚を使って全員で撮った記念写真です。大きな一眼レフでも使える頑丈な小形の三脚です。クリックすると拡大重い一眼レフは持ってこなかったのでコンデジで撮りました。三脚は縮めると188mmですが写すときは477mmになるので地面から約500mmの高さの写真です。一番左側が私です。竹穂垣が途切れているところは竹林への出入口です。関係者以外は入れないように竹で編んだ門扉が付けられています。
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ここの「竹穂垣」は長く続きました。
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竹林に入るためのところは開けてありました。
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竹の子販売店の看板がありました。ほんまもん 物集女特産たけのこ 和田農園と書かれていました。期間は4月上旬~5月上旬と書かれていました。
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四叉路に出ました。金属製の柵の内側は竹林公園でした。昼食場所の竹林公園の近くまで来たのです。
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竹林公園の正門方向に行く道です。左の金属製の柵内が竹林公園です。
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上の写真のカーブミラーの部分を拡大いたしました。右方向(実際は左方向)から歩いてきました。左方向(実際は右方向)の道は昼食の後に歩く竹の径です。左端(実際は右端)に立っているのが写真を撮っている私です。括弧内に「実際は」と書いたのは鏡だから左右反対に写っているからです。
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四叉路の4方向の道が写った写真を紹介します。左の道から歩いてきて、手前の竹林公園の正門に向かっています。向こう側の道が昼食後に歩く竹の径で東向日駅の方向です。右の道に進むと竹林公園の南入口と子供の広場に行けます。朝食後はこの右の道からこの四叉路に戻ってきました。
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竹林公園内のあずまや(四阿 or 東屋)です。由緒ある石仏も沢山見えました。
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竹林公園の正門(北入口)です。正式名は京都市洛西竹林公園です。ここから園内に入って先ずは昼食予定場所の竹の資料館に行きました。竹林公園内は本記事では割愛したいと思います。次の記事で紹介します。
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クリックすると拡大竹の資料館および竹林公園園内は飲食が禁止されていたために竹林公園に隣接した子供の広場のあずまや(四阿 or 東屋)で昼食にいたしました。右のように「飲食は子供の広場でお願いします」と書かれていました。下の写真が昼食を食べたあずまやです。竹の資料館からこの子供の広場に来るまでは雨が土砂降りでした。雨が止んでから出発いたしました。
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子供の広場で昼食を食べて、すでに紹介した四叉路に戻ってきて東向日駅の方向の竹の径に入った最初の景観です。初めて見る竹垣が続いていました。
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竹垣ま名前は物集女垣でした。名前は地元の物集女町に由来していて、前記事で紹介した中世の物集女城の城壁をイメージして考案されたそうです。竹の表面を縦横に配して竹の表面の美しさを強調したそうです。
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竹の子が出た時の皮が竹の根元に残っていました。今年に出た竹なのだと判ります。竹の子が出てから半年近くたっているにも関わらず竹も川も生き生きとした色合いでした。
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こちらでは左右が違う竹垣になっていました。右が「竹穂垣」で左が「深田垣」です。
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赤色の案内板は119番通報ポイントです。119番に電話した時に「向-01」と伝えればこちらの位置がすぐに分かるのだと思います。救急車や消防車をイメージしているのだと思います。他にも案内板がありました。
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農家組合からは「たけのこは大切な親竹です。みんなで大切にしましょう。」との案内でした。下は各場所への所要時間が書かれていました。「寺戸大塚古墳 徒歩1分」の表示をこの時に読んでいたら、寺戸大塚古墳を見落とすことはありませんでした。
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竹の径はまだまだ続いていました。
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右側明るく開けたところに出てきました。また左右違う竹垣になりました。左側は「竹穂垣」です。右側の竹垣の名前は後で調べて分かったことですが「古墳垣」でした。つまり「古墳垣」の右側の丘が寺戸大塚古墳だったのです。クリックして拡大すると小さな石柱があるのが分かると思いますが、その小さな石柱にが、ここが寺戸大塚古墳であることを示していたのです。
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上の写真を目いっぱい拡大したのがこちらの写真です。実は「古墳垣」の範囲にはもう一つ石柱が建っていたのです。この写真よりも大きな石柱です。
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大きい方の石柱も撮った写真の中に写っていました。竹の径を振り返って皆を撮った写真の中に写っていたのです。
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クリックすると拡大角度の関係から私の写真に写った大小の石柱の文字を読むことが出来ないので、ネットから2つの石柱の写真を転用させていただきました。背景に寺戸大塚古墳が写っています。寺戸大塚古墳を紹介します。
 全長  98m
 後円部 直径54m 高さ10m 三段築成
 前方部 幅45m        二段築成
 くびれ 幅35m
 史跡  国の史跡
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古墳の大きさのイメーシジを感じるために古墳の配置図とGoogle航空写真の縮尺を合わせてみました。Google地図に書かれていた緑色文字の寺戸大塚古墳のマーク(私が書いたマークの下に隠れている)が円方部の中心であると仮定しているので、位置に関しては若干(数m)のズレはあるかもしれません。
航空写真の中に引いている2本のクロスの黄色の線は98mと54mです。




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 全長    98m
 後円部直径 54m 

この写真のすぐ右側に小さい方の石柱が立っているはずです。私の建っている右・真横が古墳の後円部の丘です。「古墳垣」は前方後円墳の丸みを帯びたイメージで考案したそうです。職人の技で生かされた竹垣です。
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クリックすると拡大寺戸大塚古墳の写真を撮っていなかったのでGoogle地図ストリートビューを掲載させていただきました。丘の頂上が後円部の頂上です。左右に回転させると上で紹介の2つの石柱が確認できます。


ここの竹の多くは建築材料や竹細工の材料なるものです。長期間、ここにあるように置いておくことで風合いを出しているそうです。沢山並べられています。
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また「竹穂垣」になりました。そしてさらに奥が「寺戸垣」となっています。Googleのストリートビューで探すと④に抜ける竹林道にも「寺戸垣」がありました。
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上の写真の「寺戸垣」の部分を拡大いたしました。これで8種類の竹垣全て紹介したことになります。寺戸垣は地元寺戸町に由来して、つけられた名前で、格子の間から見える景色が趣があるそうです。結び目の位置や格子の間隔に職人の技生かされているそうです。
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また「竹穂垣」になりました。竹の径で最も多く使われている竹垣だそうです。竹の枝のボリュームを十分に生かした作りです。この記事の最初に使わさせてもらった写真です。竹垣もきれいな上にまっすぐに上に伸びた太い沢山の竹も美しいです。この竹の径は京都においては「京都府景観資産」や「京都府文化的景観」に選定され、全国レベルでも 「全国遊歩百選」や「歩きたくなるみち500選」に認定されているそうです。
竹林浴の地としても人気のようです。
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カーブした竹の径もきれいです。
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8種類の竹垣をバラバラに紹介したのでここでまとめて紹介したいと思います。編集が間に合わなかったので、とりあえずこの8枚の写真はネットの写真を使わさせていただいています。 追伸:自分の写真を下に並べてみました。
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竹穂垣      来迎寺垣     かぐや垣     物集女垣
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
寺戸垣      古墳垣      深田垣      海道垣
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大

竹垣の最後の写真から少し進むと、平安時代の第50代天皇である桓武天皇の皇后である藤原乙牟漏(天之高藤広宗照姫之尊)の御陵である高畠陵がありました。藤原乙牟漏は平城天皇(第51代)と嵯峨天皇(第52代)の生母です。ここに来ると竹の径もほぼ終了です。
 氏族 藤原氏(式家)
 父親 藤原良継
 母親 阿倍古美奈
 夫  桓武天皇
 子女 平城天皇 嵯峨天皇 高志内親王
 諡号 天之高藤廣宗照姫之尊
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高畠陵に対する宮内庁の注意書きありました。
 1.みだりに域内に立ち入らぬこと
 1.魚鳥等わ撮らぬこと
 1.竹木等を切らぬこと
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ここでもみんなで記念写真を撮りました。私は右から3人目です。
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高畠陵は航空写真のように竹は生えていないので、円墳の形がよく分かります。直径約65メートル、高さ約7メートルの円形をしています。もとは古墳時代前期の円墳であったとされています。
古墳としての名前は伝高畠陵古墳です。
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伝高畠陵古墳の位置と共に今回の第76回ハイクに関連した物集女車塚古墳と寺戸大塚古墳と五塚原古墳の位置と大きさの規模を示した地図をネットから転用させていただきました。
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クリックすると拡大右の写真の標識の位置である竹の径の入口③から住宅地に入ります。したがって、今回の「竹の径」の記事は、ここで終了したいと思います。元の計画では、この後は五塚原古墳と文化資料館に寄ってから阪急・東向日駅に行く計画で下が、雨も降ったり止んだりが続いていたことから東向日駅に直行することにいたしました。つまり皆さんの気持ちは打ち上げ飲み会ムードになっていたのです。


朝一に洛西口駅に到着した人から頂いた阪急電車発行のパンフレットの中の悠遊一日機構マップ(洛日口コース)では洛西口駅を出発して洛西口に戻る竹の径の入口から竹の径の入口に抜けるルートが書かれていてのでマップを紹介します。小さなリュックに入れていたので、しわくちゃになってしまいました。クリックすると拡大するので文字が読めるようにはなりますが、しわも確認出来ると思います。歩いていない竹の径や竹林道をGoogleストリートビューで確認したところ美しい景観が多いという意味において、お薦めは我々が歩いたのコースだと確信いたしました。
本案内図にも入口の①②③④を書き込みました。ただしの辺りには道が書かれていないので大凡の位置に書き込みました。
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京都府の向日市観光協会サイトに掲載されている竹の径イメージビデオを紹介します。先ずは竹の径を見てもらいたくて、LoopとStart機能を使い、竹の径の動画が始まる1分41秒からビデオが始まり終了した後に、頭から繰返し見れるように設定しています。竹の径の動画は走っている車から撮られています。前半は竹林の映像です。かなり前に撮られたビデオのようで画質は良くありませんが雰囲気は伝わるかもしれません。


京都中心から方向が分かる地図を掲載いたします。
posted by SORI at 21:23| Comment(32) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月02日

次は「竹の径」を目指しました。

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事で紹介した右の写真の物集女車塚古墳(もずめくるまづかこふん)をクリックすると拡大見た後は竹の径(竹の道)を目指しました。竹の径が今回のハイキングのメインイベントなので外せません。本記事では物集女車塚古墳から竹の径の入口までの景色を紹介したいと思います。下記のルートの緑の文字のところが今回の記事で紹介の部分です。
洛西口駅→物集女車塚古墳→旭米顕彰碑→竹の径→竹林公園→竹の資料館→子供の広場(昼食)→竹の径→高畠陵→桓武天皇皇后御陵→五塚原古墳→東向日駅

今回紹介のルートは次のGoogle航空写真内のからです。
歩いたルートはほぼ計画と同じでした。太い橙色ライン(━━)が歩いたルートです。緑色ライン(━━)が今回のハイクのメインイベントである竹の径(みち)です。


物集女車塚古墳を出発して最初反対方向に進みそうになりました。最初の出だしで間違えると大変なので地元の人に確認して反対方向であると判ったわけです。写真は反対方向を撮った写真です。
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クリックすると拡大最初は物集女街道(西国街道 および 新西国街道)を歩きます。出発してすぐに洒落た交番がありました。物集女交番です。右の図のように阪急電車発行のパンフレットの中の悠遊一日機構マップ(洛日口コース)にも交番の絵が入っていました。クリックすると悠遊一日機構マップ全体を表示します。
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物集女街道の進行方向右側は畑や田んぼが続いていました。左側は住宅が続きます。こちらの田んぼの稲は刈り取られていました。冒頭の写真がこちらです。このように稲わらを干している景色は最近見なくなったように感じます。
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野菜の無人販売もありました。農地と住宅地が混在した地域なのだと感じました。
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色づいた柿も撮りました。井戸も懐かしいです。
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方向から判断して、遠くに見える山は比叡山だと思われます。つまり山の手前に京都の町の中心である京都御所があります。上で紹介のGoogle地図の中の細い水色の線が写真を撮った位置から比叡山を結んだラインです。
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物集女街道に石碑がありました。
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つい立ち止まった読みたくなります。
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石碑の名前は旭米顕彰碑です。石碑を拡大いたしました。最初に山本新五郎の名前が出てきました。
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石碑の横に立てられていた説明板です。明治時代の終わりに稲の新品種「旭」を発見した山本新五郎の功績をたたえて建立されたものでした。当時広く栽培されていた「日の出」と「神力」の間から悪天候でも倒れない新品種を作り出して「日の出」より優れている意味を込めて「朝日」と名付けたそうです。同名の品種があったことから、のちに「旭」に改められたそうです。現在よく作られているコシヒカリは「旭」が遠い祖先にあたるそうです。
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洛西口駅が見えました。実は洛西口駅付近を東西に走る幹線道路に先ずは出ることを目指していたのです。
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標識はありましたが竹の径へ行く方向が分かりませんでした。同じように歩いている方に竹の径へのルートを確認して迷わず幹線道路に向かって真直ぐに物集女街道を進みました。あとで地図で確認すると、ここから近い場所に物集女城跡がありました。物集女城跡も見どころの多い遺跡のようでした。
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ネットにあった物集女城主郭の想像復元図を転用させていただきました。中世の城の多くは天守郭はありません。クリックすると拡大城内の構造が分からないようにするのが中世の城の特徴です。物集女城は、中世に乙訓の土豪のリーダーとして活躍た物集女氏の居城でした。1575年に織田信長の支配下の細川藤孝の居城(勝龍寺城)で当主の物集女忠重が謀殺され、物集女城も廃城となったそうです。右の地図で橙色に着色したところが今回歩いた物集女街道(もずめかいどう)です。廃城になったあと周辺に沢山の住宅が出来てるのにも関わらず堀や土塁などの地形が444年間も残されているのには驚かされました。
 水がある堀の部分は今でも地図では水色です →ポチッ
 堀から水が流れ出た辺りのストリートビュー →ポチッ
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駅から伸びている幹線道路に出ました。上り坂です。幹線道路の名前は御所海道でした。街道ではなく海道が使われている理由が知りたくなりました。調べ切れていませんが、海道は「しらなみ海道」や「東海道」と比較的使われています。
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新しい家が多い中で、純日本家屋も見ることが出来ました。
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竹の径の入口に到着いたしました。竹の径への入口は3ケ所ありましたが、ここは御所海道沿いの入口です。冒頭のGoogle地図内で「竹の径の入口①」と書いているところです。
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クリックすると拡大竹の径の案内板も設置されていました。案内板の中で現在地と書かれているところが、今回の竹の径の入口です。
次の記事で右の写真の竹の径を紹介したいと思います。
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posted by SORI at 21:29| Comment(24) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月30日

物集女車塚古墳(もずめくるまづかこふん) 第76回ハイクの最初の目的地

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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私が会社に入社して最初に配属になったのが神戸事業所でした。その時の先輩の方々が数年前からハイキングを年に7~8回行っていることを昨年(2018年)の年末に知って初めて参加させていただいたのが2019年4月20日で第72回でした。毎回散策したいところですがタイミングよく関西に行く時に限られるので第73回~第75回は参加できませんでしたが、私としては2回目の参加の第76回ハイクを紹介したいと思います。現時点で第78回まで案内が来ています。第78回は都合が付きませんが第77回は参加予定です。ここでは第76回ハイクを紹介したいと思います。上の写真は待ち合わせ場所の阪急・洛西口(らくさいぐち)駅のホームです。☆マークが参加あるいは参加予定のハイクです。
 第70回 2019年01月19日(土) 兵庫七福神巡りハイク
 第71回 2019年03月16日(土) 金比羅宮参拝と讃岐うどんを賞味するハイク
☆第72回 2019年04月20日(土) 神戸市北区の重要文化財巡りハイク
 第73回 2019年05月18日(土) 奈良斑鳩の里での散策ハイク
 第74回 2019年06月15日(土) 神戸にある世界の宗教寺院巡りハイク
 第75回 2019年09月20日(土) 神戸鶉野飛行場跡各種設備など散策ハイク
☆第76回 2019年10月19日(土) 京都洛西の竹林と古墳巡りハイク
☆第77回 2019年11月16日(土) 太陽の塔の内部見学(予約)と周辺散策ハイク
 第78回 2020年01月16日(木) 神戸井植記念館と周辺散策ハイク
 第79回 2020年01月30日(木) 京都迎賓館と周辺散策ハイク
☆第80回 2020年02月16日(土) 丹波篠山???ハイク

クリックすると拡大車内の阪急・京都線の案内図です。実家のある宝塚の阪急・今津線・逆瀬川駅を8時33分に乘り、西宮北口駅で神戸線の特急に乗り換えて、さらに十三駅で京都線の準急に乗って洛西口駅で降りました。桂駅の一つ手前の駅です。ネットの路線検索では十三駅で特急に乗り高槻市駅に同じ準急に乘るルートが出ていましたが、右図のように十三駅でぎりぎり準急に乘れたので十三駅から座っていくことが出来ました。クリックすると京都線全線を表示します。
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ルートの計画では緑色でしたが、この日は雨が降っていたことと、竹の資料館内は飲食不可であったことから赤色となりました。歩いたルートはほぼ計画と同じでした。太い橙色ライン(━━)が歩いたルートです。緑色ライン(━━)が今回のハイクのメインイベントである竹の径(みち)です。本記事では洛西口駅から物集女車塚古墳までの道の景色と物集女車塚古墳(もずめくるまづかこふん)を紹介したいと思います。徒歩で歩いた時のGoogleルート図→ポチッ
洛西口駅→物集女車塚古墳→竹の径→竹林公園→竹の資料館(昼食)→竹の径→寺戸大塚古墳→桓武天皇皇后御陵→五塚原古墳→文化資料館→東向日駅
(実際)
洛西口駅→物集女車塚古墳→竹の径→竹林公園→竹の資料館→子供の広場(昼食)→竹の径→高畠陵→桓武天皇皇后御陵→五塚原古墳→東向日駅


洛西口駅の改札口です。今回が私にとって2回目の参加ですが、2019年04月20日に初参加した第72回の神戸市北区の重要文化財巡りハイクで記載した8つの記事を紹介します。着色タイトルをクリックすると記事を表示します。
 久しぶりに神戸電鉄に乗りました。
 下谷上農村歌舞伎舞台
 現存する日本最古の民家が神戸にありました。  箱木千年家
 つくはら湖の湖畔の散策
 山田町に室町時代の三重塔がありました。    六條八幡宮
 山田町に重文の仏像が六体もある寺がありました。無動寺
 室町時代前期建立の神社が残されていました。  若王子神社
 ハイキングの最後はやっぱり打ち上げ飲み会   いけや食堂(箕谷)
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洛西口駅(らくさいぐちえき)の外観です。新しい駅なので調べてみると現在の高架ホームになったのが上り線が2013年10月26日で、下り腺は2016年3月5日でした。地上駅として開業したのも比較的新しく2003年3月16日でした。ただし、1946年2月1日~1948年3月1日には物集女(もずめ)駅がこの場所にあったそうです。つまり今回訪れた物集女車塚古墳の名前がついた駅が73年前~71年前の間に存在したのです。
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駅の時刻表です。待ち合わせ時間は10時だったので9時41分の電車でここに来ました。同じ電車で私以外に3名が乘られていました。それより前に1名が来られていて、次の9時51分の電車で全員が集まりました。
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駅からは少し幹線道路を歩きました。後ろに見えているのが洛西口駅の高架です。


幹線道路を少し歩いたところで左(南)に曲がって、こちらの道に入りました。正面方向が南です。
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水田で広がっていて、写真のような刈り取り前と刈り取り後が半々程度に広がっていました。
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田園風景の中を進みました。


今回のハイクの最初の目的地の物集女車塚古墳(もずめくるまづかこふん) に着きました。
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物集女車塚古墳(もずめ・くるまづか・こふん)は史跡・乙訓古墳群に分類されます。乙訓古墳群(おとくにこふんぐん)は桂川西岸の長岡丘陵周辺である乙訓地域(長岡京市・向日市・大山崎町・京都市の一部)に所在する古墳時代(3世紀~7世紀)の首長の古墳だそうです。 向日市の乙訓古墳群としては五塚原古墳・元稲荷古墳・寺戸大塚古墳・南条古墳・物集女車塚古墳 が知られていてその中の一つが本記事で紹介する物集女車塚古墳です。向日市以外では天皇の杜古墳(西京区)・寺戸大塚古墳(西京区)・恵解山古墳(長岡京市)・井ノ内車塚古墳(長岡京市)・井ノ内稲荷塚古墳(長岡京市)・今里大塚古墳(長岡京市)・鳥居前古墳(大山崎町)があります。
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物集女車塚古墳の形が分かりやすい角度から撮った写真です。この古墳は6世紀中頃(古墳時代後期)に造られた前方後円墳(全長約46m・高さ9m)のです。車塚が名前の中にある古墳は全国に沢山あり、前方後円墳を横から見た形から車塚と呼ばれるのが一般的ですが、淳和天皇(840年没)の棺を運んだ車を納めた地という伝承が「車塚」の名の由来とも言われています。埋葬されているのは継体天皇(大王)にゆかりの深い人と考えられていますが、名前は特定されていません。継体天皇は第26代天皇で、在位は明確ではありませんが、通説では507年3月3日?~531年3月10日?となっています。日本書紀によると継体天皇と言えば、511年に樟葉宮(現:大阪府枚方市楠葉丘)から筒城宮(現:京都府京田辺市)に遷都し、さらに518年に筒城宮から弟国宮(現:京都府長岡京市今里)に遷都したことが有名です。長岡京市は比較的この古墳から近い場所です。
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地上からだと形が分かりにくいのでGoogleの航空写真を紹介します。上の写真は本写真の右下から撮りました。上から見ると前方後円墳であることがよく分かります。一部が道路で削られたことが分かります。向日丘陵の前期の古墳は南北方向に規則的に築かれているのに対して、物集女車塚古墳は丘陵から伸びる尾根を利用してほぼ東西方向に築かれているそうです。
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道路に接する部分は石垣になっていました。上の航空写真では右上の道路(物集女街道)に接する部分です。開発などで昔の文化財が壊されてしまうと元に戻すことが出来ないことを実感いたしました。でも調べているうちに、大部分は保管されているすばらしい古墳であることが分かってきました。
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北方向から南西方向を撮った写真です。毎年5月末頃に横穴式石室の内部が公開されるそうです。出土遺物には、埴輪、須恵器、土師器、馬具、刀剣類、装身具などが多くあるそうです。1984年に京都府の指定文化財となりました。
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物集女車塚古墳があるこのエリアは車塚緑地と言われていて周辺地域の人達の憩いの場所でもあるようです。
クリックすると拡大正面から見た物集女車塚古墳です。全員で記念写真を撮りました。左端が私です。
 全長  46m(二段築成)
 後円部 直径24~32m 高さ9m
 前方部 長さ18~23m 幅39m 高さ8m
 くびれ 幅36m
 史跡  京都府の史跡
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大きな説明板が設置されていました。クリックすると文字が読める大きさに拡大いたします。
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こちらの写真で説明板の大きさが分かってもらえると思います。


クリックすると拡大物集女車塚古墳の右の写真の石室から2,000点以上の埋葬品などの遺物が出土し、それらの全てが2018年3月23日に京都府指定等文化財に指定されたそうです。ネットからそれらの一部を転用する形で紹介したいと思います。これらの写真は向日市教育委員会より1995年3月31日に発行された「向日市埋蔵文化財調査報告書第40集別冊」に掲載されていたものだそうです。右の石室の写真もネットから転用させていただきました。左上から「ガラス小玉・なつめ玉・トンボ玉」「広帯金銅製冠」「馬具(鞍金具・杏葉・雲珠・辻金具・鉸具・鋲)」「土器(高杯)」「各種副葬品」「武器(鉄鏃)」です。
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周囲には周濠が残っている部分もありました。
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石室と石棺の詳しい説明もありました。こちらもクリックすると文字が読める大きさに拡大いたします。右側の2枚の写真は上が玄室と家形石棺で下が玄室から外方向を見た写真です。
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石室への入口の写真を撮り忘れたのでGoogleのストリートビューで紹介します。中央のステンレス製のドアが石室(玄室)入口です。


キケン!! のぼらないでください。」の注意看板が立てられていました。


古墳の側面には上に登るった跡がが残されていました。登りたくなりますが看板が立てられていたので断念いたしました。
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正面側にも上に登った跡が残されていました。
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石室の断面図もあったので掲載いたしました。
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古墳の側面に排水溝の出口がありました。上の図の左の端に人が立っているところの赤丸()部分の写真で、石室内の水が排水溝を流れてきて外部に出るところです。
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排水溝の説明板です。中央の下側の排水溝の出口は写真ではなく本物なのです。説明板がくり抜かれていて本物が見えるように工夫されているのです。上の写真は、ここを撮った写真です。こちらもクリックすると文字が読める大きさに拡大いたします。2枚上の石室の断面図は本説明板の写真から切り取って掲載いたしました。
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古墳の周囲を歩いたルートを紹介します。


赤線の内側が京都府向日市物集女町です。8世紀~江戸時代までは山城国・乙訓郡・物集女村(荘)で、7世紀は乙訓郡の部分は弟国評であったようです。
物集女車塚古墳は物集女町の中の最も右下(東南)にあります。のアイコンのすぐ左の真横で、病院のマーク(⛨)の真下です。周辺との位置関係を知りたい方は、最右下ののアイコンを数回クリックしてみてください。
posted by SORI at 07:47| Comment(22) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月18日

るり渓温泉

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

お盆の連休中のゴルフのために2014年8月11日に1泊したのが、るり渓温泉です。るり渓温泉は2002年4月にオープンした公共リゾート施設「心と身体の癒しの森 るり渓温泉」です。お盆休みで夏休みということもあり満席で、この時期は早くから予約しないと泊まれないそうです。
ただし、瑠璃渓は都市圏から近くにあり、子供連れの日帰り客の人が沢山来られていました。大きな駐車場が、ほぼ満車状態でしたが、朝には空の状態であったことからも日帰りでレジャーを楽しみに来られている方が多いことを実感しました。

子供づれの家族の方も多いことから子供さんが喜ぶようなバーベキューなどの施設も充実しているようでした。
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やはり泊りでは夕食が楽しみです。この日の夕食は和会席でした。食前酒として梅酒が添えられていました。


こちらが前菜です。


記念写真を右に紹介します。左側の写真の左端が私です。いつもであれば料理の写真を撮るのですが、神戸に入社した同期の懐かしいメンバー計6名との初めて宿泊しての食事だったので、話に夢中で写真を撮り忘れていました。
料理の写真を撮っていないことに気が付いたのが最後の鍋料理です。下の写真の鍋が3人前です。つまり6名で2つの鍋が並びました。
鍋と前菜以外の写真が無いのでネットのホームページの10月平日の夕食の写真を右に紹介いたします。料理の内容は10月平日の方が少し豪華で今回とは違いますが、雰囲気は判ってもらえると思います。
写真はクリックすると拡大します。
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鶏肉のつみれです。鍋のダシが美味しかったです。
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最後の締めの「おじや」です。地場の自慢の卵でおじやを作ります。
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「おじや」以外に「ちりめん山椒ごはん」も選ぶことが出来ます。4人が「おじや」で、2人が「ちりめん山椒ごはん」を選びました。
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私は「ちりめん山椒ごはん」を選択いたしました。たっぷりと乗ったチリメン山椒は美味しかったです。もちろん鍋には沢山の「おじや」が出来るので「おじや」もいただきました。
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こちらのレストランの昼食のお薦めは大きな器に入った「うどん」のようです。「うどん」以外の料理の器は普通の大きさなので、「うどん」用の器が、いかに巨大であるかが判ってもらえると思います。器からも「うどん」に力が入っていると感じました。
右下の5つがうどんです。クリックすると「うどん」の部分を拡大するように設定いたしました。「うどん」を「おうどん」と呼ぶところが京都らしい気がしました。
クリックすると拡大  680円 きつねのおうどん
  980円 博多明太子のおうどん
 1000円 天ぷらのおうどん
  780円 京たぬき餡かけのおうどん
  980円 カレーのおうどん
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総合リゾート施設のようなところでした。大浴場以外のバーデゾーン、露天風呂、温泉プールは水着着用エリアのため水着が必要ですが、無料で貸してくれます。
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サウナや岩盤浴もありました。この案内の写真のフィッシュテラピーに気が付いたのは朝でしたが、残念ながらゴルフがあるので宿舎の出発が7時30分のためフィッシュテラピーは体験は出来ませんでした。フィッシュテラピーは8:00~20:00でした。その他の時間はお魚の休憩時間でした。


こちらが温泉エリアでこの中に大浴場やフィッシュテラピーなどがありました。るり渓温泉の源泉は「るり渓高原温泉」と「るり渓フラワー温泉」の2つがあり、その両方から送られてきています。源泉温度は低いために加熱して使われているようです。基本的に両方ともにラドンを含む放射能泉で、浴場には2つの源泉から導入された浴槽が隣接しており、片足ずつまたがることができるそうです。 温度の差は小さいけれども成分総計の数値に表れているように成分の差で皮膚に受ける感触の違いは大きいそうです。
  源泉名    るり渓高原温泉    るり渓フラワー温泉
  泉質     単純弱放射線温泉  単純弱放射線冷鉱泉
  分類     低温泉         冷鉱泉
  源泉温度  26.6度         15度
  PH      7.90          6.92
  湧出量    159L/分        116L/分
  成分総計  3130mg/kg     72mg/kg


2段のお重に入った朝食もなかなかのものでした。
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サバの塩焼きは、もう一度網の上で焼くので熱々を食べることが出来ました。
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サバを焼いている写真です。
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土鍋で炊いたご飯でした。地場でとれた玉子の、卵かけご飯は最高でした。
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空色マークが、るり渓温泉で赤色マークが通天湖です。るり渓を紹介いたします。るり渓(瑠璃渓または瑠璃渓谷)は、京都府南丹市園部町大河内にある大堰川支流の園部川が流れる全長4kmの渓谷です。赤色ラインが瑠璃渓の遊歩道1.5kmです。瑠璃渓は1932年に国の名勝に指定され、府立自然公園にも指定されています。そして日本の音風景100選にも選定されています。
名前の由来は渓谷上部にある通天湖から流れ出る清流が、光の反射によって瑠璃色の輝石のように見えることによるそうです。地質は流紋岩で、浸蝕による奇岩が多く見られ、瀑布が点在します。錦繍巌、双龍渕、渇蚪澗、座禅石、水晶簾などの12の名所があり、紅葉の名所としても知られています。
  名称 るり渓温泉
  住所 京都府南丹市園部町大河内広谷1-14
  電話 0771-65-5001

より広い範囲の地図で 瑠璃渓 の位置を表示
posted by SORI at 19:19| Comment(22) | TrackBack(0) | 京都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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