2016年10月08日

神話の戦いの大舞台 戦場ヶ原

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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中禅寺湖から北に行くと戦場ヶ原が広がっています。戦場ヶ原の標高は1394mで中禅寺湖より更に120m高い場所にあります。この日は夕刻に行ったために西に広がる原野は逆光できれいに撮るのは難しく、上の写真の通りですが、戦場ヶ原の広さは実感してもらえると思います。一番広く見える方向にカメラを向けると太陽が真正面の状況でした。上の写真より、もう少しカメラを左に廻すと太陽の光がカメラに入ってくるくらいぎりぎりで撮りました。

逆に男体山(なんたいさん)は戦場ヶ原から東側にあるので、きれいに見えました。戦場ヶ原(せんじょうがはら)は日光国立公園内にある湿原で、湯川(湯滝の下流)が男体山の噴火で堰き止められた堰止湖であったのが、堆積によって湿原化したものだそうです。
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木のシルエットと男体山がマッチしていました。戦国時代に、この高い高原で戦いが行われたと到底思えないので戦場ヶ原の名前が気になっていました。調べてみると神話の世界の戦いでした。
戦場ヶ原の名前はアカギの神(赤城山 1827.6m)とニッコウの神(二荒山:男体山 2,486m)がそれぞれ大ムカデ(赤城山)と大蛇(男体山)に化けて戦った戦場であるという神話伝説に基づくものだそうです。スケールの大きな戦いにふさわしい広さが戦場ヶ原にはありました。ちなみに、この伝説で勝ったのはニッコウの神(男体山)だそうです。
男体山(なんたいさん)は標高2,486mの山で、古くから山岳信仰の対象として知られ、山頂には日光二荒山神社の奥宮があります。
男体山噴火により中禅寺湖、戦場ヶ原、小田代原、華厳滝、竜頭滝が出来たことは有名です。
男体山という山名を調べると、東北側の山続きの女峰山(2483m)との対で付けられたものと考えられています。男体山と女峰山は、間に大真名子山(2375m)、小真名子山(2323m)という二つの「愛子(まなご)」を抱え、また男体山の北西側には太郎山(2367m)を擁し、火山一家を成しているところが特徴的だそうです。
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遊歩道を歩くのもいいですね。今回は枯れ草の状態でしたが初夏はすばらしい湿原の景色になるそうです。戦場ケ原を湯川と国道120号線が縦断しています。湯川沿いはカラマツ、ミズナラ、ハルニレ、シラカンバ、ズミなどの樹木が生い茂る。高山植物の宝庫で、野生の鹿や兎が棲息しているそうです。2005年に湯ノ湖、湯川、小田代原と共に「奥日光の湿原」としてラムサール条約湿地に登録されました。
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落葉した木も美しいものです。高山植物の花を楽しめるのは、だいたい6~8月だそうです。クロミノウグイスカグラから始まって、ワタスゲ、ズミ、レ ンゲツツジ、イブキトラノオ、カラマツソウ、ノハナショウブ、ホザキシモツケと続くそうです。この時期に是非、行ってみたいと思っています。
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完全に葉は落ちて細かい枝が規則正しく並んでいることがわかります。
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この山は男体山ではなくて隣の太郎山(標高 2367m)です。これもきれいな景色だと思います。
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上の写真は全て三本松茶屋の近くを歩いて撮りました。
この日は東京をバスで出発して華厳の滝を見た後に来ました。この後、宿泊する中禅寺湖の湖畔のホテルに泊まりました。三本松茶屋の現在の天気や気温をライブで表示しているサイトがありました。 → ポチッ
ライブと言っても1時間くらい前なので、そのつもりで見てください。 ライブの観測地点です。
  三本松茶屋
    住所 栃木県日光市戦場ヶ原三本松
    電話 0288-55-0287 FAX 0288-55-0525
    営業 A.M7:00 ~ P.M7:00
    北緯 36度46分  東経 139度27分
    高度 1394m
    URL  http://www.sanbonmatsu.com/
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上のポチッをクリックして出てくる画面と類似の構図の写真を撮っていたので掲載いたします。比べてみてください。ライブ(2008年11月22日)を見るとすでに雪らしきものが写っています。一週間前(下の写真)は雪の気配もありませんでした。一週間で大きく変わりますね。
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戦場ヶ原の呼び方以外に戦場ガ原と戦場ケ原があります。どれが一番一般的かYahoo検索で数を比べてみました。どうやら戦場ヶ原が最も使われているようです。ところが2018年5月に検索すると同じ数値になりました。
  戦場ヶ原 約2,280,000件
  戦場ガ原  約125,000件
  戦場ケ原   約83,100件

戦場ケ原の名前の由来に関する詳しい説明 があったので枠内に転記いる形で紹介 します。
神戦伝説「戦場ヶ原神戦譚」と呼ばれる伝説からきています。

事の起こりは中禅寺湖だった。これがどこの領土に属するか、下野(栃木県)の二荒山(いまの男体山)の神と、上野(群馬県)の赤城山の神の間で争いが起こった。そこで両神による神戦で雌雄を決することになったが、どうも二荒山の旗色がよくない。二荒山が鹿島大明神に相談すると、奥州にいる小野の猿丸という弓矢の名人を教えてくれた。猿丸は、二荒山の神の孫にあたった。

二荒山の神は見事な白鹿に化身して奥州の阿津加志山に現れ、この鹿を追う猿丸を二荒山まで誘い出した。事情を知って助勢を承知した猿丸は、戦地となっている戦場ガ原に赴いた。なるほど、赤城山の化身ムカデの大群と、二荒山の化身ヘビの大群が、刺したりかんだり、絡み合って戦っていた。

ムカデ軍に目をこらすと、2本の角を持つ大ムカデが戦の指揮をとっていた。これぞ敵の大将とばかり、猿丸はその左の目を狙って矢を放つと、見事に的中。敵は見る間に撤退を始め、二荒山の勝利に終わった。この戦いがあったところが、戦場ヶ原。大百足の流した血がたまったのが、赤沼。勝負が付いたのが菖蒲ヶ浜。勝利を祝ったのが歌ヶ浜と呼ばれるようになったと言われています。
ラベル:日光 中禅寺湖
posted by SORI at 22:39| Comment(10) | TrackBack(1) | 日光 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月31日

笹の輪くぐり

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今年は大変お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。
世界遺産に登録された日光の社寺の一つである二荒山神社の門をくぐったところに大きな輪が置かれていました。

説明書きには「笹の輪くぐり」とありました。そこには「正面に向かってくぐり左に回り、次にくぐって右に回り、次に正面真中をくぐる」と書かれていました。
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願いごとが書かれた紙が沢山結ばれていました。これは「結び札」と言うそうです。「古より当社境内にある縁結の笹に因みあらゆる良縁を願う」とありました。写真をクリックして出てきた拡大写真の右端に「笹の輪くぐり」のくぐり方が書かれています。
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二荒山神社の本殿や拝殿です。☆けめさんのコメントのおかげで「笹の輪くぐり」の由来がわかった気がします。
二荒山神社の「笹の輪くぐり」はどうやら全国で沢山残っている神事「茅の輪くぐり(ちのわくぐり)」に由来しそうです。二荒山神社にはもともと『縁結び笹』があり、これに願いを込めると男女の縁はもとより、あらゆる良い縁に恵まれると言われていることに因んで2004年に『笹の輪』をつくったそうです。新しい風習ですが、茅(かや)を使った「茅の輪くぐり」とは、また違う雰囲気がありました。
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東照宮側(東)参道に建つ楼門の額には「正一位勲一等 日光大権現」と書かれています。二荒山神社の本殿が遠くに見えます。
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ラベル:大祓 日光 神社
posted by SORI at 23:50| Comment(38) | TrackBack(0) | 日光 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月17日

奥宮(奥社) 徳川家康の墓


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こちらが日光東照宮の徳川家康が埋葬されているの墓の上に建てられた宝塔です。拝殿なども含めて奥宮あるいは奥社と呼ばれており日光東照宮の中でも標高の最も高い位置になります。徳川家康は元和2年(1616年)に駿府で数え年の75歳(満73歳)で亡くなり、家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て元和3年に江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬されました。それが現在の日光東照宮なのです。久能山東照宮は今も徳川氏祖廟として尊ばれています。
 徳川家康
  生誕 天文11年12月26日(1543年1月31日) 470年前
  死没 元和 2年 4月17日(1616年6月 1日) 397年前 満73歳(数え75歳)
  改名 竹千代(幼名)→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康
     1543年~   1555年・元服~   1563年~ 1567年~
  神号 東照大権現
  戒名 安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士
クリックすると拡大徳川家康は死後の処置に関して下の遺命(遺言)を残しました。勧請とは神仏の分霊を他の地にも祭ることです。
右の狩野探幽により描かれた家康の肖像画はWikipediaから転用させていただきました。
   1.遺体は駿河の久能山に葬ること
   2.葬式は江戸の増上寺で行うこと
   3.位牌は三河の大樹寺に立てること
   4.一周忌後に下野の日光山に小堂を建て勧請すること

こちらが陽明門( )から奥宮( )までの参道( )です。
  陽明門 →  眠り猫 →  坂下門 →  奥宮拝殿
眠り猫から奥宮まで順番に紹介します。

より大きな地図で 日光東照宮 奥宮石段 を表示
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奥宮への入口にあたる東回廊にある入口で、この入口の上に「眠り猫」の彫刻があることで有名な場所です。入口の奥に坂下門があるのが判ってもらえると思います。ここから奥宮への石段を登り始めます。
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こちらが坂下門です。右側の立て看板には「坂下門 この門を潜り石段を約二百段登ると家康公の御墓所奥宮がある。」と書かれていました。
正確な石段の数知りたいところです。坂下門からの石段の段数として一番多い表現が「約200段」で、次に多い表現が「207段」でした。眠り猫の位置と坂下門の間にも数段の石段があります。江戸時代には、坂下門は将軍しか入れなかった「開かずの門でした。奥宮が一般に公開されたのは1965年からだそうです。
全体的には清楚な感じですが柱や天井の金具は七宝焼の上、軒下の欄間には鶴などの彫刻がありました。
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石段の上から見た坂下門です。


坂下門から少し進むと長い行列になっていました。待たされながら一歩一歩進むので奥宮に着くまでかなりの時間を要しました。撮った写真の時間で確認すると坂下門を潜ったから拝殿に着くまで16分を要しました。200段を普通に歩けば3分弱だと思うので待たされながら進んだことが判ってもらえると思います。もし自分で石段の数を数えるとすれば、待たされない下りで数える方が楽だと思います。
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石柵は石をくり貫いて作ったものだそうです。


石段は結構な幅がありますが一段毎に一枚石を用いられています。やっと奥宮の鳥居が見えてきました。
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鳥居近くから見た石段です。


鳥居には徳川家康の神号「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」が書かれていました。鳥居は最初は石製でしたが1683年の大地震で破損して唐銅鳥居にかえられたそうです。
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鳥居の横には1654年創建の御宝蔵がありました。案内板によると、御宝蔵には朝廷から家康公並びに東照宮におくられた官符宣命等の文書を収められていたそうです。


御宝蔵の屋根の部分は青銅で包んである感じでした。
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御宝蔵の脇から、やっと奥宮の拝殿が見えてきました。
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拝殿に昇る最後の階段の両脇には狛犬が置かれていました。2体の狛犬は松平右門大夫正綱と秋元但馬守泰朝の二人から寄進されたもので二人は徳川家康の遺臣であり、寛永年間の奥宮造営の功により特に奉納を許されたそうです。こちらが右側の狛犬です。
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こちらが左側の狛犬です。頭の真中に角がある狛犬でした。
角がある狛犬は珍しいと思われがちですが、元々は2体のうち1体には角がありました。1体は角がなく口を開いた阿形(あぎょう)で、1体は角があり口を閉じた吽形(うんぎょう)と呼ばれていました。阿(あ)と吽(うん)は、息がぴったり行動することを「阿吽の呼吸」といわれている由来にもなっているそうです。昭和時代以降は左右ともに角が無いものが多くなったそうです。
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最後の石段です。拝殿が目の前でした。
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やっと長い行列が出来ている理由が判りました。一人一人が拝殿に参拝されていたのでした。
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拝殿正面です。神社の参拝作法が書かれていました。二礼・二拍手・一礼です。


拝殿の全景です。
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拝殿の飾りです。
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こちらが鋳抜門(いぬきもん)と宝塔です。石造りの玉垣の中心に放蕩があります。
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見事な鋳抜門を拡大いたしました。鋳抜門の前にも狛犬があり、拝殿階段下の狛犬と同じように左側の狛犬の頭には角がありました。
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南東方向から見た宝塔です。高さは5mです。
宝塔は最初は木造でさらに石造に改められましたが天和3年(1683年)に大地震で破損したものを5代将軍綱吉公が現在の唐銅製(金・銀・銅の合金)に造り替えたそうです。
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宝塔は八角九段の基盤を築きその上に設置されており、前面には寛永20年に朝鮮から献上された三具足(香炉、燭台、花立)が備え付けられています。八角九段の基盤や朝鮮からの献上品が写っていたので、この写真だけは今回ではなく2008年11月14日に撮ったものを使いました。
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クリックすると拡大上の写真の朝鮮から贈られた三具足の部分を切取り・拡大・露出調整いたしました。奥から花立(花瓶)、香炉、燭台です。鶴のクチバシの部分がロウソク立てになっているようです。日本の真宗大谷派・真宗仏光寺派・真宗高田派では燭台に鶴亀燭台(亀の上に鶴が乗った形)を用いるそうです。
右の写真はネットから拝借したもので、朝鮮国王から対馬藩に贈られた三具足(万松院所蔵)ですが、日光東照宮のものに似ています。


南西方向から見た宝塔です。ここの標高は700mを越えています。
宝塔の製作者は幕府お抱えの鋳物師衛椎名伊豫です。
納められているのは家康公の遺骸(神柩)は建立以来、一度も開けられたことがないそうです。
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こちらが奥宮だけで売られている眠猫絵馬(魔除け)と眠猫守(開運招福)です。奥宮限定だけに人気でした。
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宝塔の西側にも短い行列が出来ていました。
これは叶杉(かのうすぎ)で、皆さん順番に拝まれていました。
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説明文には「諸々の願い事をこの杉のほこらに向かって唱えると願い事が叶うと伝えられている」とありました。なるほど、皆さん、叶杉にお参りしているわけです。案内板を見ると叶鈴守もあるようです。
上の写真の中に叶鈴守の見本が写っていました。


クリックすると拡大ムサシママさんから鬼門に関してコメントをいただいたので方向を示した地図を追加掲載させていただきました。
よく「日光は江戸の鬼門に当たる」あるいは「江戸の鬼門に寛永寺が建立されその延長線上には日光がある」との記載があります。地理的な方向は次の通りで、江戸からは北方向なのです。鬼門方向と言われている理由は謎のままです。
 赤色ライン 江戸城( )→日光東照宮( )    北
 緑色ライン 江戸城( )→寛永寺( )の延長上  北東(鬼門方角)
 青色ライン 久能山東照宮( )→日光東照宮( ) 北東(鬼門方角)
 大樹寺 家康位牌
 高野山 徳川家康霊屋
マークやラインをクリックすると写真を表示します。

より大きな地図で 各方角 を表示
posted by SORI at 07:22| Comment(27) | TrackBack(1) | 日光 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月15日

日光東照宮の参道

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

より大きな地図で 日光東照宮参道 を表示
日光東照宮の真っ直ぐに延びる参道も独特の趣があります。ここでは、その参道を紹介いたします。この参道の赤色ピン( )の場所がスカイツリーの高さ634m(ムサシ)と同じ数値である標高634mの場所だそうです。ちなみにムサシは左のサイドバーに写真を掲載している我が家のワンコの名前でもあります。福餅を売っていた場所は石鳥居と表門の間の右側です。菊花展が行われていたのも石鳥居と表門の間の右側です。
地図上のアイコン写真をクリックしてみてください。杉の木々に覆われていることが判ってもらえると思います。地図上のマークをクリックすると写真が出るようにいたしました。写真の下の「記事」の文字をクリックすると、そのブログの記事を表示いたします。
上の太い赤色ラインが一直線に延びる参道(参道入口→石鳥居→表門)です。
地図の中で参道( )ならびに参道脇のマークは次の通りです。
  参道入口     石鳥居       表門
  輪王寺 三佛堂  輪王寺 大護摩堂  標高634m
  福餅の販売所   菊花展
表門より内側は参拝料を払って入る有料エリアです。
細い青色ライン( )は 表門から陽明門を経由して奥宮拝殿までの道のルートです。
  表門       陽明門      奥宮拝殿
  眠り猫      三猿       想像の象
  坂下門

参道入口( )から撮った参道の写真です。この中に標高が634m(ムサシ)の場所があるそうです。参道入口( )から表門( )までの距離は約325mです。
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輪王寺護摩堂( )近くの参道からの景色です。丁度、参道の真中あたりです。
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石鳥居に近づきました。石鳥居も大きく見えてきました。
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同じあたりから参道の入口方向を撮った写真です。
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東照宮と書かれた大きな石の社号標が印象的でした。元和4年(1618年)に九州の黒田藩主黒田長政により奉納された石鳥居( )は重要文化財です。
石鳥居の大きさは高さ9m、柱の太さ3.6m(周長)、柱の間隔が6.8mで京都の八坂神社、鎌倉の鶴岡八幡宮の鳥居と共に日本三大鳥居の一つに数えられています。江戸時代に作られた石造りの鳥居としては日本最大だそうです。


表門から参道の入口方向を撮りました。石鳥居( )と表門( )の間には広場があり、写真の右側に五重塔がありました。
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その五重塔のです。この時、五重塔の特別拝観が行われており、五重塔の初重(一層目)の内部の金に彩られた心柱と初重外回りの十二支の彫刻を見ることが出来ます。
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こちらが表門( )です。有料エリア側(内側)から撮った写真です。
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クリックすると拡大参道の横に日光二社一寺の一寺である日光山・輪王寺がありますが、輪王寺本堂三佛堂( )も陽明門と同様に補修工事中でした。
右の写真は2008年11月14日に訪問した時に撮った輪王寺本堂三佛堂の写真です。創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めたそうです。明治初年の神仏分離令によって寺院と神社が分離されてからは、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称されていますが、近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていたそうです。
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参道のもみじです。もみじの後ろにある建物は輪王寺護摩堂( )です。
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もう一枚もみじのきれいな写真を掲載します。同じ輪王寺護摩堂前です。
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追伸
標高が634mの位置を示す表示をネットから拝借いたしました。五重塔まで90mの位置とのことなので石鳥居まで80m位の位置だと思われます。最初は左の看板だったと思われますがモニュメント形式に変更したのだと思います。
スカイツリーの高さ634mは、地面から高さで標高ではありませんがスカイツリーが建っている黒田区は海抜0m地帯なので標高もほぼ634mと理解していいようです。従ってスカイツリーと同じ標高634mという表現でいいようです。

冒頭の地図に赤色ピン( )でモニュメントの位置を追加いたしました。下の写真でもわかるように記念切手を売っている赤色の建物のすぐ横です。右の写真はスカイツリーが完成した2012年2月29日より前の2011年5月のGoogleのストリートビュー(SV)の画面です。最新のSVは2015年10月です。
 ストリートビュー → 2011年5月 2015年10月
クリックすると拡大クリックすると拡大
posted by SORI at 12:25| Comment(20) | TrackBack(0) | 日光 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月13日

日光東照宮で福餅を買ってきました。

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日光東照宮の表門の前で福餅が売られていることを菊花展の記事の中で紹介いたしました。上の写真で左端の白いテントで売られていました。

こちらが福餅が売られていたテントです。幟(のぼり)には「福徳 東照宮の福をお持ち帰りください 大福」と書かれていました。福徳は日光東照宮に大福を献上している福徳庵のことで、このテントが唯一のお店のようです。
  店名  福徳庵
  店舗  栃木県日光市山内2301 東照宮境内
  営業  9:00頃~16:00頃
  定休  不定休 ただし冬季は休業
  事務所 栃木県日光市御幸町578番地1
  電話  0288-25-7508 
  HP   http://fukutokuan.com/index.html 2013年10月7日開始


福餅は大福(大福餅)で、沢山の種類があり、買うのに待たされるほどの人気でした。クリックすると大福餅の種類が判ると思います。写真から読み取れる大福を紹介しますと、「塩大福」「塩大福よもぎ」「ずんだ大福」「竹炭ごま大福」「白つぶ大福」「桃大福」「豆大福」「抹茶大福」です。これ以外にも沢山の種類がありましたがこの中から3種類を買いました。値段はすべて200円でした。
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買ったのが、こちらの「塩大福よもぎ」と「ずんだ大福」と「豆大福」でした。福徳庵は下記のメディアで取り上げられたこともあり人気のようでした。
 2013年10月31日 テレビ東京 L4YOU ! プラス 特集

 2013年03月01日 NHK総合 どすこい! スイーツ旅~とちぎの恵みにごっつぁんです

 2010年10月23日 フジテレビ もしもツアーズ No.1争奪!

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柔らかいうちに食べたかったので家に帰ってすぐにいただきました。こちらが「ずんだ大福」です。ずんだ豆の餡が入った大福餅でした。
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食感を感じていただくために「ずんだ大福」を拡大いたしました。
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こちらが最もオーソドックスな「豆大福」です。
大福の由来は江戸時代初期に生まれた鶉餅(うずらもち)にさかのぼるそうです。その鶉餅が1771年(明和8年)に江戸・小石川の未亡人により小形化され、餡に砂糖を加えられたものが始まりとされています。腹持ちがよいことから腹太餅(はらぶともち)、大腹餅(だいふくもち)と呼ばれていたものが、吉字を使った大福餅に変化したそうです。
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上の「豆大福」の写真はクリックすると拡大しますがクリックするのが面倒方のために拡大写真を掲載いたしました。
ラベル:日光東照宮
posted by SORI at 21:13| Comment(28) | TrackBack(1) | 日光 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日光東照宮の菊花展

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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先々月のことになりますが2013年10月28日に、日光東照宮に行ったときに参道を進んで表門に入る手前の右の林の中で菊花展が行われており、一番手前の、よしず張の展示場の中を覗いて見事な花と多様な花の形に驚かされましたので、菊の花を紹介したいと思います。私が見た、よしず張の展示場には大菊が展示されており大別して三種類菊が展示されていました。菊に関しては詳しくないので調べた範囲で記載いたします。もし間違いがあれば修正いたしますのでご指摘を、お願います。上の菊は「大菊 厚物」で私の中で大菊と言えばこの菊がイメージされていました。

下の菊は「大菊 管物」で2種類が展示されていました。こちらも見事な黄色の菊でした。
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こちらも「大菊 管物」で見事な臙脂色の菊でした。見事な長さの花びらです。針金は輪台で、白い紙は台紙と呼ぶそうです。
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クリックすると拡大こちらは「大菊 一文字」に分類されるようです。「御紋章菊」とも言われるそうです。その名の通り、天皇の「菊のご紋」のように、平たい花弁が一重で並んでいます。花弁の数は14~16枚程ですが「菊の御紋」と同じ16枚が理想とされています。
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上の臙脂色の菊の花を拡大いたしました。どうやら理想的な16枚の花弁のようです。
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こちらは菊の御紋のように黄色の一文字です。
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こちらはピンクの一文字です。今回、紹介した「厚物、「管物」、「一文字」以外に「厚走り」や「大つかみ」があるそうです。沢山の展示場所があったのですが、時間の関係で一つの展示場だけになってしまいました。次回には、すべてを周ってみたいと思いました。
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一文字菊は綿玉を使って花の形を優しく整えるそうです。そのやり方を紹介したいので写真をネットから拝借いたしました。左端が整える前で右端が完成した姿です。



表門から参道方向を撮った写真で菊花展が行われていた場所をあらためて紹介します。左端の大きな杉の木裏の建物が、今回の菊の花の写真を撮った「よしず張の展示場」です。もっと左の奥に沢山の「よしず張の展示場」がありました。すぐ横の白いテントでは福餅が売られており人気でした。
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posted by SORI at 16:25| Comment(18) | TrackBack(2) | 日光 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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