2021年05月30日

山口縣立岩國高等女學校・跡地 川西第一街区公園

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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上の路線ルート情報は2021年3月17日に周防久保に墓参りに行った時の清流新岩国から周防久保までのものです。この墓参りではすでにいくつかの記事で紹介しているように、墓参りの前に錦川清流線に乗ってみました。清流新岩国から錦川清流線に乗って根笠駅で折り返して川西駅に着いたのは10時49分でした。岩徳線の徳山行きの発車時刻11時31分まで42分あったことから、母が通っていた山口縣立岩國高等女學校(山口県立岩国高等女学校)の跡地に出来た川西第一街区公園(Kawanishi Daiichi Gaiku Park/かわにしだいいちがいくこうえん)に行ってみることにいたしました。公園の住所は山口県岩国市川西1丁目21です。
川西駅から川西第一街区公園までの距離は337mと歩いて4分で行ける距離なので、墓参りの往復のルートを決めた時から計画に入れていました。目的は写真や動画を撮って母に見せるためでした。母は岩国市街地にあった家から往復8kmの距離を歩いて通っていたそうです。山口縣立岩國高等女學校の校歌は2番まであって作曲は進藤ユキだそうです。
ネットから転用させていただいた約100年前に撮られた「山口縣立岩國高等女學校」と書かれた門の表札(看板)の写真(左側)と、今回撮った公園の門柱の写真(右側)を並べてみました。同じものかどうかは分かりませんが同じ形式の門柱のようです。公園の門柱のの下側の蝶番の位置を昔の門柱の蝶番の位置を合わせました。つまり公園の門柱は当時よりも深く埋められている可能性があります。

こちらが撮った写真と動画と昔の女学校の写真などで編集して作った動画です。バックで流れているBGMはIndian Walk(2分39秒)です。興味のある方は是非ともプレーボタン( )をクリックしてみてください。

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薄赤色に着色したところが川西第一街区公園です。母の記憶などから女学校の敷地は、クリックすると拡大今の川西第一街区公園よりは広かったようです。岩徳線は走っていましたが川西駅はなかったそうです。川西駅が出来たのは1960年4月16日なので岩日線(現在:錦川清流線)の開業(1960年11月1日)を見越して作られたものと思われます。今は建物があって岩徳線は見えませんが、当時は建物が無く校庭から岩徳線や錦川の土手が見えたと母が話してくれました。現在は住宅に囲まれていますが、当時は周辺の住宅はまばらだったようです。右の図は1965年時点の統合後の川西校舎です。この図から校舎と岩徳線の間の敷地は運動場であったことが判りました。航空写真内の想定される「想定される女学校の敷地」は山口県立岩国高等学校に統合後の川西校舎と同じとして薄紫色に着色いたしました。
 ━━ 川西駅→女学校跡地への徒歩ルート 337m
 ━━ 川西駅→錦帯橋への徒歩ルート   1326m


川西駅の最も岩国側のホームの端から女学校跡地方向を撮った写真です。矢印の位置が女学校跡地(川西第一街区公園)の中心位置です。写真をクリックすると矢印のない拡大写真を表示します。ただし、周囲の建物のために川西第一街区公園を確認することは出来ません。上の航空写真の黄色の直線が方向を示すライン(直線距離 248m)です。線路方向に見える山は岩国山(標高277.8m)です。
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クリックすると拡大ネットから1925年(大正14年)の山口縣立岩國高等女學校の写真を2枚転用させていただきました。母が入学する前の体育会の写真のようです。岩徳線が開業する前で、女学校が山口県玖珂郡立から山口県立に変わって2年後の写真です。
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山口県立岩国高等女学校と関連事項の.Wikipediaに書かれていた沿革を紹介します。学校の歴史は1902年から119年続いて、その間に女学校の呼名が使われていたのは1902年から1949年の47年間です。今回の場所が学校として使われたのは1915年から1968年の53年間で、その間に女学校の呼名が使われていたのは1915年から1949年の34年間です。写真は上の写真と同じ1925年(大正14年)に撮られたものです。動画の最初に出てくる山口懸立岩國高等女學校跡地と刻まれた石碑は川西第一街区公園が開設された翌年の2000年(平成12年)に建立されました。4年後の1929年に右半分の小高くなっている部分と住宅の間あたりに岩徳線が建設されました。右の遠くに霞んで見えている山は岩国山と思われます。
 1868年10月23日 明治元年
 1902年04月01日 山口県玖珂郡立実業補修女学校が創立(明治35年)
 1903年04月01日 横山の元・岩国中学校舎に移転
 1907年04月01日 山口県玖珂郡立岩国女学校と改称
 1909年04月01日 山口県玖珂郡立岩国高等女学校と改称
 1914年03月    宇野千代が岩国高等女学校を卒業
 1915年01月13日 岩国町大字川西の新校舎に移転 現:川西第一街区公園
 1918年10月31日 校旗を制定 八稜鏡の絵を背景に「高女」の文字を置く
 1923年04月01日 県立移管 山口県立岩国高等女学校に改称(大正12年)
 1929年04月05日 岩徳線が開業
 1940年04月01日 岩国市発足 岩国町 麻里布町 川下村 愛宕村 灘村が合併
 1941年12月08日 太平洋戦争の開戦
 1944年       光海軍工廠などへ学徒動員が開始
 1945年04月    学校での授業を停止。ただし学徒動員は継続。
 1945年08月15日 太平洋戦争の終結
 1945年09月    学校での授業を開始
 1946年04月    修業年限が5年となる
 1947年04月01日 学制改革 六・三制の実施
 1949年04月01日 統合により山口県立岩国西高等学校・川西校舎となる
 1950年04月01日 統合により山口県立岩国高等学校に改称
 1960年04月16日 川西駅が開業
 1960年11月01日 岩日線(現:錦川清流線)が開業
 1968年06月01日 全学年を向山の新校舎に移して川西校舎を廃止
 1999年04年01年 川西校舎跡地に川西第一街区公園を開設
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クリックすると拡大ネットから転用させていただいた1963年の航空写真を紹介します。
山口県立岩国高等女学校は上で紹介している沿革のように統合されて名前は山口県立岩国高等学校になっています。母が通っていた時の右の集合写真などから判断して運動場に沿った細長い校舎は母の時代にはなかったと思われます。2枚の集合写真が交互に表示されていますが、1枚は校舎を背景に運動場で撮られたもので、もう1枚はいくつかの校舎の間の庭で撮られたものと思われます。クリックすると拡大校舎が建てられた場所は運動場よりは高くなっていることが集合写真やネットの右下の写真で分りました。もしかしたら錦川の氾濫に備えた対策だったのかもしれません。運動場の手前には岩徳線も写っています。1963年なので川西駅はすでにできていますが、写真より左の方なので写っていません。左上に写っている道路は現在の山口県道112号藤生停車場錦帯橋線ですが、当時はまだ県道にはなっていませんでした。
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校舎内の写真もネットから転用させていただきました。ただしいずれの写真も母の時代より少し後に撮られた写真と思われます。左上から順番に職員室、階段教室、作法室、調理教室(1951年)、廊下です。
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クリックすると拡大門に「山口縣立岩國高等女學校」の表札がかかった写真もネットの約100年前の玖珂郡から転用させていただきました。右の写真は女学校の建物ではありませんが、女学校の校舎の一部を基にして1916年に旧制岩国中学校に建てられた御大典記念武道場で、今は岩国高校記念館として吉香公園に保存されています。白黒写真の女学校の建物の色を想像していただくために役立つと思います。
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川西第一街区公園の入口の写真です。門柱と門柱の間が広いし、女学校の門はもう少し山口県道112号線に近い方(背中方向に進んだ場所)にあったので当時の門柱を移設して建てたのかもしれません。いずれにしても門柱自体は当時の門柱だと思われます。記事の冒頭で紹介した公園の門柱の写真は本写真の右側の門柱です。門柱には扉を取りつける蝶番の金具がついています。下側の金具は地面に近いので門柱は当時よりも深く埋められているように感じます。当時の航空写真から判断すると、この広場は運動場ではなく校舎が建っていたエリアのようです。


以前の記事「岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色」の中の女学校に関しての記載内容を転記する形で掲載いたします。

写真の中の右上端にある川西駅から臥龍橋と錦帯橋を渡ってこの写真を撮った岩国城まで来たのです。クリックすると拡大錦帯橋が写ったこの写真の中に母が通っていた女学校(山口懸立岩國高等女學校)と叔父さん(母の弟)が通っていた高等学校(山口懸立岩國高等學校)がありました。それは女学校跡地と岩国高等学校跡地と書いている場所です。現在の女学校跡地は川西第一街公園となり、クリックすると拡大岩国高等学校跡地は吉香公園となっています。右の2枚の写真は現在の川西第一街公園です。母たちは、家のあった岩国の町から毎日片道4km(往復8km)を歩いて通っていました。118年と173年の長い歴史のある女学校と岩国高等学校の2つの学校は統合して、いろんな変遷を経て現在は川西駅のさらに向こう側に山口県立岩国高等学校として存在しています。
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母の女学校時代の錦帯橋をバックにした友達同士の記念写真です。右から2人目が女学校時代の母です。女学校には2年生の時に広島県三原から転入したそうです。父親が一時期三原に転勤していて2年生の時に岩国に戻ってきたとのことでした。3年生からは級長もしていたということなので、すぐに女学校になじんだのだと思います。クリックすると拡大母の出身校である山口懸立岩國高等女學校出身で最も有名な人は右下の写真の宇野千代(1897年11月28日~1996年6月10日)さんだと母が話してくれました。多才な小説家で4度結婚(藤村亮一、藤村忠、尾崎士郎、北原武夫)するなど多くの著名人との恋愛・結婚遍歴も有名で一度は卒業名簿から除名されましたが、世の中の価値観が変わってくるとともに積極的に宇野千代の出身校であることを宣伝されるようになったそうです。小説家だけでなく随筆家、編集者、着物デザイナー、実業家の顔も持っていました。
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クリックすると拡大母に関わる7枚の写真を切り替えて表示しています。その中の2枚の大人数の集合写真は女学校の構内での写真なので、今は無き女学校の建物が写った貴重な写真なのです。学校は木造瓦葺きの歴史がありそうな建物であったことが判ります。母が判るように黄色の矢印をつけています。4年生の時は梅組と桜組と楓組の3組あり、クリックすると拡大母は梅組だったそうです。右の「4年 梅組」の文字は集合写真の裏に書かれていました。
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かつて山口縣立岩國高等女學校があった川西第一街区公園のストリートビュー(SV)を紹介します。クリックすると拡大個人の井上一雄さんがGoogle地図に登録したSVです。公園の中心から撮った数枚の写真を組み合わせて360°の景色が見えるように作られています。初期画面は山口縣立岩國高等女學校と書かれた石碑がある南東方向です。水平に回転させて西方向にすると女學校の門と思われる2本の石柱が右下の写真のように確認できます。クリックすると拡大
母が写った右上の集合写真に写っている石柱と同じものかはわかりませんが似た石柱です。母の記憶によれば岩徳線に近い方(南東方向)にグランドがあり、遠い方向(北西方向)に校舎が沢山建っていたそうです。


クリックすると特別に大きく拡大出来るように写真を家に持ち帰ってスキャンいたしました。クリックすると4倍に拡大いたします。つまり面積では16倍に拡大いたします。拡大して見ると石柱の部分は石段になっていることが分かりました。金属製のフェンスも一段高いところに建てられていました。つまり現在の石柱と写真の石柱は違うことから現在の公園の入口とは違う入口の石柱のそばて写真が撮られたと思われます。写真の左上の白い部分は破れて無くなっているのです。
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4年の梅組の時の写真も家でスキャンして4倍にクリックすると拡大拡大(面積で16倍)するようにいたしました。拡大写真を見てもらうと当時の校舎がよく分かると思います。日本初の知的障害児通園施設しいのみ学園を設立した右の写真の曻地三郎(しょうち さぶろう)が岩国高等女学校の教員だったことがあり、その時に母は授業を受けたことがあるそうです。受けた科目は修身(1890年~1945年に存在)で今で言えば道徳のようなもののようです。 その後1948年に姓が山本から曻地に変わったので母は山本先生と呼んでいます。右の写真をクリックすると曻地三郎が105歳の時の動画を表示します。
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posted by SORI at 22:20| Comment(28) | 山口県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月31日

新岩国駅前のカレー専門店で食事をしました。 アリス

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事の「清流新岩国駅 錦川清流線」で、2019年09月の墓参りの時に昼食で利用させていただいたアリスの写真を掲載させていただいたのを機会に、その時の昼食を紹介させていただきます。実は2019年9月の墓参りは叔父夫婦と行く最後の墓参りだったのです。叔父さん運転免許を2019年9月末で返納したしまうからだったのです。そのため新岩国駅前のレストランで食事をしてみることにしたわけです。ここならば運転免許を返納後も錦川清流線かタクシーかバスで来てもらって会うことが出来ると思ったからです。上の写真がアリスです。2021年3月に新岩国駅から清流新岩国駅につながった連絡通路から撮った写真です。

今までに周防久保の墓参りに行った時に昼食を食べた場所( )を紹介します。山賊(いろり山賊、桃李庵、竈)は離れているので2枚の地図を掲載いたしました。
2013年3月からの墓参りの時の昼食を食べたお店を紹介します。2012年12月以前は母が1人で新岩国まで行き、そこから車で迎えに来た叔父夫婦の3人で墓参りをして昼食を一緒に食べて新岩国から母が1人で帰っていました。墓参りは基本的に3月と8月と9月と12月の年に4回ですが、抜けている部分は私の姉と母と叔父夫婦の4人で行っていたはずです。
2019年12月以降は叔父さんが運転免許を返納したため、母と私(レンタカー)、又は母と姉(タクシー)の予定でしたが新型コロナのため、2020年3月と2020年8月の墓参り中止し、2020年9月以降は私1人の墓参りとしました。2020年3月はレンタカーを予約していましたがキャンセルいたしました。
山賊は、新岩国とお墓のある周防久保の間にあることから、ほとんどの昼食は下記のリストのように山賊でいただきましたが、岩国四川飯店と'わたぼうし'は事前に予約して入ったお店です。右の写真は上から山賊(15回)、錦果楼(1回)、岩国四川飯店(2回)、よ志だ 新館(1回)、わたぼうし(1回)、アリス(1回)、たんぽぽ(1回)です。括弧内数値は食事をした回数です。写真をクリックすると山賊は掲載記事を表示し、他は拡大写真を表示します。リストの頭に SC-00.jpgが付いている時に錦帯橋の傍で名物のソフトクリームを食べました。→ポチッ1 ポチッ2
  墓参り年月  人数 昼食場所   移動手段       料理の写真
クリックすると拡大  2013年03月 4人 山賊     叔父さんの車
  2013年08月 4人 山賊     叔父さんの車
  2013年09月 4人 錦果楼    叔父さんの車
  2014年03月 4人 山賊     叔父さんの車
  2014年09月 4人 山賊     叔父さんの車
クリックすると拡大2014年12月 4人 山賊     叔父さんの車
2015年03月 4人 山賊     叔父さんの車
2015年08月 4人 山賊     叔父さんの車
2015年12月 4人 山賊     叔父さんの車
2016年03月 4人 山賊     叔父さんの車
クリックすると拡大2016年09月 4人 山賊     叔父さんの車
2016年12月 4人 山賊     叔父さんの車
  2017年03月 4人 山賊     叔父さんの車
2017年09月 4人 山賊     叔父さんの車
2017年12月 4人 山賊     叔父さんの車
クリックすると拡大  2018年03月 6人 岩国四川飯店 叔父さんの車
2018年08月 4人 よ志だ新館  叔父さんの車
2018年09月 4人 わたぼうし  叔父さんの車
2018年12月 4人 山賊     叔父さんの車    
2019年03月 5人 岩国四川飯店 叔父さんの車
クリックすると拡大  2019年09月 4人 アリス    叔父さんの車
  2019年12月 2人 たんぽぽ   レンタカー
  2020年09月 1人 列車内   路線バスと岩徳線
2020年12月 1人 列車内   路線バスと岩徳線
  2021年03月 1人 列車内  錦川清流線と岩徳線
クリックすると拡大         4人:叔父夫婦と母と私
         5人:叔父夫婦と母と姉と私
         6人:叔父夫婦と従妹夫婦と母と私
         2人:母と私
         1人:私のみ(新型コロナのため)



アリスの店内の写真です。アリスはGoogle地図やぐるなびなどには「カフェ&ランチ アリス」と登録されています。営業時間と定休日は上方が古い可能性があるため電話での確認をお薦めします。
 店名 カフェ&ランチ アリス
 住所 山口県岩国市御庄1-107-10
 電話 0827-46-0107
 営業 11:00~14:00 17:00~23:00
 定休 第3木曜日
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注文したカレーライスです。
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アリスはカレーとハンバーグのお店でした。メニューを見るとカレーの種類が豊富なのでタイトルにカレー専門店と書かせていただきました。沢山のカレーが書かれていたので紹介します。上の写真は一番シンプルなカレーライスでした。書かれていたカレーの種類を紹介します。つまり、上の写真のカレーライスが最もシンプルなカレーだったのです。
カレーライス、お子様カレー(ジュース付き)、エビフライカレー、とりからカレー、あじフライカレー、カツカレー、カキフライカレー、メンチカツカレー、ハンバークカレー、ふわとろオムカレー、石焼カレー、チーズカレー、焼きカレー、納豆チーズカレー、カレードリア、超・激辛カレー
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こちらがエビフライカレーです。
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私はハンバークカレーにいたしました。カレーとハンバーグのお店なので両方味わいたかったのです。
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ハンバークを切ったところを拡大いたしました。
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もちろんビールをいただきました。ハンバーグがビールに合いました。もちろんお替りいたしました。
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今までであれば昼食の後は錦帯橋に移動してソフトクリームを食べました。こちらのお店にはソフトクリームはありませんでしたが、かき氷があったので、デザートにかき氷をいただきました。
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こちらが私が食べたかき氷です。
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クリックすると拡大みぃにゃんさんとkazu-kun2626さんから上の写真のかき氷がブルーハワイと教えていただいたので、上から2枚目の店内の写真(右の上段の写真)の中で、探した結果、下の写真のようにブルーハワイの文字を見つけました。ブルーハワイ以外にイチゴとレモンとグレープと抹茶が書かれていました。ミルクのかき氷はメニューにはなく特別に頼んで作っていただきました。クリックすると拡大この写真をクリックすると今月のお薦めが、骨付フライドチキン(250円)とQUEENセット(特製ハンバーグのオリジナルソースカレーセット 1500円)であることが分かっていただけると思います。予約して食べに来られる方もおられるレストランでした。
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posted by SORI at 16:56| Comment(28) | 山口県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月27日

錦帯橋 戻りは動画ではなく写真を撮りました。

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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山口県の周防久保の墓参りをした2020年12月23日の帰りに錦帯橋や岩国城や武家屋敷や吉香神社に行きました。岩徳線の川西駅から岩国城に行く時は、上の写真の奥側から手前側に錦帯橋を渡り、帰りは手前側から奥側に錦帯橋を渡って岩国国際観光ホテルまで行き、タクシーを呼んでいただいて新岩国まで行き実家の宝塚まで帰りました。奥側から手前に歩いた時は動画を撮ってすでに紹介いたしました。本記事では手前から奥側に歩いた時に撮った写真を紹介したいと思います。上の写真は山の上の岩国城から撮った錦帯橋です。写真をクリックすると文字なしの拡大写真を表示します。

上の岩国城から撮った写真の奥側(南東/左岸/岩国市岩国)側から手前側(北西/右岸/岩国市横山)側に第一橋、第二橋、第三橋、第四橋、第五橋です。地上から撮った下の写真にも第一橋~第五橋を書き込んでみました。錦帯橋に関しては2020年10月07日にも詳しい説明の記事を掲載いたしました。→ポチッ
クリックすると拡大 橋名 錦帯橋
 川名 錦川
 完成 1673年(初代落成) 348年前
 形式 5径間木造アーチ橋
 全長 193.3m
 幅  5m
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江戸期には中央の3つのアーチ橋(第二橋、第三橋、第四橋)は定期的に約20年ごと、両端の桁橋(第一橋、第五橋)は約40年ごとに架け替えらたそうです。その結果、9回~16回の架け替えが行われ、具体的な現在までの架け替え工事回数は次の通りです。錦帯橋は単に昔の橋が残されているのではなく伊勢神宮のように架け替えの技術が伝承されてきた橋なのです。右の小さな写真はネットから転用させていただいた架け換え工事等の写真です。
クリックすると錦帯橋の拡大写真を表示         架け替え
 第一橋  約40年ごと 10回
 第二橋  約20年ごと 14回
 第三橋  約20年ごと 14回
 第四橋  約20年ごと 16回
 第五橋  約40年ごと  9回


Googleマップの航空写真でも錦帯橋()の第一橋~第五橋の位置を紹介します。さらに橋脚の部分は薄黄緑色に着色いたしました。クリックすると拡大
橋の上流側(右上方向)は川の水量が少ない時でも水を湛えていて、屋形船に乘ったり右の小さな写真の鵜飼を見ることが出来ます。
クリックすると拡大右の小さな写真が錦帯橋の入橋券です。山頂の岩国城に行った後に戻ってくるので往復券を買いました。河原に降りて撮ると魅力的な同じ構図の写真が撮れることを知りました。クリックすると裏面も表示します。


写真は撮った順に紹介します。つまり第五橋から第一橋に向かって紹介していくわけです。こちらの写真は第五橋に足を踏み出す前に撮った錦帯橋です。右側が錦川の下流側です。川は左側から右の方向に流れたいます。
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同じ場所から橋の渡る方向の正面を撮った写真です。
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同じ場所から上流側をとりました。写っている橋は錦城橋で、その橋の右側の大きな建物が岩国国際観光ホテルです。上の航空写真のところで説明させていただいたように、水が湛えていることが分かっていただけると思います。
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第五橋から見た錦川の上流側の水面です。この日は水量が少なくて橋から離れると鏡のような水面でした。橋がある部分の川底は石垣のように石が組まれています。これによって大雨で激流になっても川底がえぐられることを防ぐとともに、上流側に水を貯めているのだと思います。
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上の写真と同じ場所から第四橋を撮りました。第四橋には階段が付いていました。階段が付いているのが第二橋と第三橋と第四橋です。
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第五橋と第四橋の間の橋脚の部分まで来ました。
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橋脚の部分から第四橋の階段を撮った写真です。
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第四橋のトップの部分まで上がると階段はありませんでした。次の第三橋が見えます。
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第四橋のトップからズームで第三橋と第二橋を撮った写真です。
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第四橋と第三橋の間の橋桁の上流側です。水嵩が増しても水が切れるように上流側は尖っています。
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錦帯橋が作られた初期の頃に激流により橋脚が流された経験が今の橋脚に行かされているのだと思います。見るからに頑丈そうです。
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石の楔で石どうしつないでいました。橋の上の雨水を流す樋上の溝も橋脚に掘られていました。
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第三橋の上から見た下流側の景色です。
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第三橋と第二橋の間の上流側の橋脚です。
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第三橋と第二橋の間の下流側の橋脚です。橋脚の上流側と下流側は同じ形をしていることが分かりました。石をつなぐ楔や雨樋がありました。
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第二橋を登り始めた位置からの下流側の景色です。一番高いところが城山の山頂だと思われます。
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第三橋と第二橋の間の橋脚の位置から撮った第二橋の階段です。右側が下流側の欄干です。
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第三橋と第二橋の間の橋脚の位置から撮った上流側の欄干と岩国国際観光ホテルです。
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第二橋のトップから撮った下流側の左岸の方向の写真です。
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第一橋を渡り切った位置から第一橋と第二橋を撮った写真です。右側の山の上に岩国城の天守閣が見えます。この写真は左岸から岩国城に行く時に撮った写真です。、
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左岸の上流側から撮った写真です。この後、冒頭で説明したように岩国国際観光ホテルまで行き、タクシーを呼んでいただいて新岩国まで行ったわけですが、ホテルで大失敗をしてしまいました。
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ホテルの入口の写真は撮っていなかったのでSVを掲載させていただきました。
タクシーが来るまで少し時間がかかるとのことで、ホテル内でタクシーを待っていて乗ったわけですが、カメラをホテル内に忘れてしまったのです。気がついたのは新岩国の改札を通った時でした。いつも手にカメラをぶら下げているので手ぶらなので気がつきました。携帯(スマホ)のバッテリーが切れかかっていたし、新幹線がすぐに到着するために電話して見つかっても取りに行けないので、実家に着いてからホテルに電話することにしました。


実家に着いて右の小さな写真の岩国国際観光ホテルに電話するとカメラはすぐに見つかりました。クリックすると拡大着払いで送ってもらった時の宅急便の伝票です。ほんと、助かりました。カメラが無くなってしまっていたら本記事を含めて次の8つの記事を書くことが出来ませんでした。新年の挨拶の記事も内容が変わっていました。
 錦帯橋 戻りは動画ではなく写真を撮りました。
 岩国城の麓の城(御土居)跡に建立された吉香神社(きっこうじんじゃ)
 武家屋敷 旧目加田家住宅
 錦帯橋のソフトクリーム 初めて「むさし」で食べました。
クリックすると拡大 岩国城
 岩徳線の動画 その2 錦川清流線との合流
 岩徳線の動画 その1 柱野駅到着
 岩徳線の川西駅から錦帯橋を経由して岩国城までの景色
 新年あけましておめでとうございます。2021年 元旦
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岩国国際観光ホテルの方には大感謝です。岩国国際観光ホテルを利用させていただいたのは4度記憶にあります。2003年と2007年は法事で利用させていただきました。2003年には両親と姉と私の4人が泊まりました。2003年の写真は法事の翌朝の朝食時の写真で、父と母と姉と叔父さんと叔母さんが写っています。2018年と2019年は墓参りの時の昼食で四川飯店を利用させていただきました。
     2003年09月14日           2007年04月14日
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     2018年03月25日           2019年03月23日
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2007年04月14日には桜に囲まれて岩国城も見ることが出来ました。
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2003年09月14日から2020年12月23日までの間に少なくとも錦帯橋に13回来ていますが、錦帯橋を渡ったのは2020年12月23日のみです。ただし子供の頃は何度も渡っているはずです。桜が咲いていた2007年04月14日の錦帯橋の写真を拡大いたしました。クリックするとさらに面積で16倍の拡大写真を表示します。
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往路の時に撮った錦帯橋の動画は一度掲載させていたたきましたが、あらためて紹介させていただきます。第一橋から第五橋に向かって歩いた動画です。


溺愛猫的女人さんから金鳥のCMに錦帯橋が出てきたのを聞いて探してみました。小柳ルミ子さんが歌う渦巻音頭です。 


記事の最初の方で小さな写真で説明していた岩国旅なび岩国市観光協会HPに掲載されていた錦帯橋の鵜飼の写真を紹介します。
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2021年2月23日22時19分に累計アクセス数(累計閲覧数)を確認すると1500万アクセス数を越えて15,001,655アクセス数になっていました。
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今までに到達アクセス数を報告したのは次の6回で、今回が7回目となりました。
クリックすると拡大     初記事掲載      2009年05月05日15時ごろ
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posted by SORI at 22:51| Comment(44) | 山口県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月24日

岩国城の麓の城(御土居)跡に建立された吉香神社(きっこうじんじゃ)

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
上の写真は山口県岩国の錦帯橋の近くにある吉香神社の一ノ鳥居です。真直ぐに進むと順にニノ鳥居、神門、拝殿、本殿があります。
吉香神社は前記事の武家屋敷 旧目加田家住宅で紹介した古地図の中の御城跡と書かれている場所に1884年(明治17年)に建立されました。吉香神社の社殿(本殿、拝殿、神門など)は元々は西側に隣接した白山比咩神社内に吉川興経を祀る治功大明神として1728年(享保18年)に造営されたもので1884年(明治17年)に移築に近い形で建立されたそうです。

クリックすると拡大クリックすると拡大古地図(作製年不明)の中に吉香神社の文字はなく御城跡と書かれていることから、古地図が描かれたのは幕末から吉香神社が建立された明治17年までの間に作られたと思われます。さらに絞り込むとするならば廃城令が出た1873年(明治6年)から1884年8(明治17年)の間の可能性が高い気がします。右の小さな古地図に白山社と書かれているのが、白山比咩神社です。
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クリックすると拡大上の古地図を部分的に切り取った全体の古地図である旧岩国城下図(横山)を紹介します。旧岩国城下図(横山)は錦川の右岸(上流から見て)の地図で、上流から見て左岸の地図が右の慶応絵図「岩国城下図(錦見)」です。右の小さな古地図をクリックすると横山地区と錦見地区の両方が描かれた古地図を表示します。
クリックすると拡大

現代の航空写真で吉香神社と白山比咩神社と武家屋敷(目加田家住宅)の位置関係を紹介します。岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に吉川広家が築き始めた城です。戦時のために山上と、住むために麓の2ケ所に城が築かれました。麓(ふもと)の城(御土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。山上の城は4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(御土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。明治になった、その麓の城(御土居)跡に白山比咩神社から社殿が移築されて吉香神社になったわけです。
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吉香神社の部分を拡大して参道が水平になるように回転させました。左端の掘から拝殿までを撮った写真で紹介したいと思います。
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堀を渡る石橋の上からの景色です。写真の中の建物は錦雲閣(きんうんかく)です。錦雲閣は旧藩時代の矢倉に似せて1885年(明治18年)に造られた絵馬堂です。岩国市の登録有形文化財となっています。
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岩国城の天守閣からは錦雲閣を見ることが出来ました。クリックすると拡大拝殿や本殿は木が多くて全体は見れませんでしたが黄色の丸印(〇)の部分に本殿の屋根を見ることが出来ました。写真をクリックすると本殿の屋根が写った写真を表示します。
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冒頭の写真の一ノ鳥居です。
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進んでいく道の右側に茶店のような建物がありました。調べてみると星出茶屋で食事などが出来るようです。
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更に進むとニノ鳥居がありました。
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こちらが社殿の入口の神門です。12月23日ですが既に門松が置かれていました。
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神門を拡大いたしました。本写真をクリックすると特別に大きく(面積で16倍)拡大いたします。
クリックすると拡大

神門から拝殿に向かう途中の左側の景色です。


こちらが吉香神社の拝殿です。奥に本殿があります。
吉香神社は岩国藩主の祖先吉川元春公が、天文年間安芸国山県郡新庄村日の山城主の時、一祠を建て祖霊を奉祀したことに始まるそうです。慶長5年吉川広家は関ケ原役後雲州から岩国に移封されたが、このとき当地横山に居館を構え築城し、正徳年間に本社をこの地へ奉遷し、居館の西、城山のふもとに社殿を造営したそうです。明治4年に廃藩置県の令があり、同年5月に吉川経健は東京に帰住後、有志数百人と相はかり同7年本社を後世に残すべく認可をうけて8神を合祀して吉香神社と称したそうです。
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内部が写っている部分を拡大いたします。格子の奥が本殿です。
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本殿の位置を紹介するためにGoogleマップの航空写真を掲載いたしました。マイナスのアイコン(-)を5回クリックすると岩国城天守と錦帯橋が表示されます。


堀に架かる石橋から拝殿前までのストリートビュー(SV)を紹介します。
さらに調べてみると二ノ鳥居から岩国城の山頂駅までの徒歩ルートもSVで見ることが出来ました。→ ポチッ① ポチッ②
山頂への道は徒歩はOKですが、自転車を含む車両は通行できません。→ ポチッ


上で触れた横山地区と錦見地区の両方が描かれた古地図を紹介します。吉香神社のところは屋敷と書かれていることや岩国村の文字があることから江戸時代の古地図だと思います。古地図は山口県文書館などから転用させていただきました。錦帯橋も描かれています。
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posted by SORI at 09:54| Comment(22) | 山口県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月12日

錦帯橋のソフトクリーム 初めて「むさし」で食べました。

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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我家の父方の墓は山口県の周防久保にあり、父が亡くなってからは母は一人で3月と8月と9月と12月の年4回ほど墓参りに行っていました。2013年からは私か姉が付き添い始めました。2019年9月までは叔父さん(母の弟)が新岩国駅まで車で迎えに来ていただき昼食を一緒に食べて新岩国駅まで送っていただきました。2019年9月末に叔父さんが運転免許を返納したことから、2019年12月はレンタカーを新岩国で借りました。2020年3月もレンタカーを予約していましたが、新型コロナ感染拡大のために墓参り中止しました。2020年8月も墓参りを中止しました。2020年9月と12月は母への感染防止のため私一人で墓参りに行ったわけです。1人で身軽なためにレンタカーは使わずに岩徳線と路線バスを利用して墓参りいたしました。叔父さんが車を出していただいている時に下記のリストで小次郎とかかれている時に錦帯橋までソフトクリームを食べに連れてきていただいたのです。すべて佐々木小次郎店でソフトクリームを食べたので、むさし店でも食べたいと思っていました。今回(2020年12月23日)は錦帯橋と岩国城に訪問したので、むさし店でソフトクリームも食べました。佐々木小次郎店が新型コロナのため閉まっていたので、むさし店で食べました。小次郎店が開いていたら迷ったと思いますが、迷わずにすみました。したがってタイトルの通り初めて「むさし」で話題のソフトクリームを食べることが出来ました。それが上の写真です。今回が錦帯橋で食べた14回目のソフトクリームになります。昼食場所に人数を書いていないのは、叔父さんと叔母さんと母と私の4人です。
  墓参り年月 昼食場所     食べた店 ソフトクリームの種類数
  2013年03月 山賊
  2013年08月 山賊
  2013年09月 錦果楼
  2014年03月 山賊
  2014年09月 山賊
2014年12月 山賊       小次郎  140種(むさし)
2015年03月 山賊       小次郎  140種(むさし)
2015年08月 山賊       小次郎
2015年12月 山賊       小次郎
2016年03月 山賊       小次郎
2016年09月 山賊       小次郎
2016年12月 山賊       小次郎
  2017年03月 山賊
2017年09月 山賊       小次郎  165種(むさし)
2017年12月 山賊       小次郎  165種(むさし)
  2018年03月 岩国四川飯店 6人
2018年08月 よ志だ新館    小次郎
2018年09月 わたぼうし    小次郎
2018年12月 山賊       小次郎    
2019年03月 岩国四川飯店 5人 小次郎
  2019年09月 アリス(新岩国駅前)
  2019年12月 たんぽぽ 2人
  2020年09月 列車内 1人
2020年12月 列車内 1人     むさし  170種(むさし)
  2021年03月 列車内 1人
          小次郎:佐々木屋小次郎商店  むさし:食事処むさし

こちらが、むさし店てす。テレビ朝日のナニコレ珍百景で紹介されたようです。右の小さな写真がいつもソフトクリームを食べていた佐々木小次郎店です。写真のように閉まっていました。
クリックすると拡大 店名 食事処 むさし
 住所 山口県岩国市横山2-1-23
 電話 0827-43-6340
 営業 09:00~18:00
 定休 無休
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2020年の時点で170種類のソフトクリームが食べれました。錦帯橋では1995年6月27日に小次郎店でソフトクリームが販売されたそうです。1999年時点では16種類でした。それ以降は、むさし店と小次郎店で競争することで有名になり100種類以上になったそうです。
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私は真ん中の紫いもソフトクリームを頼みました。
クリックすると拡大

これが紫いもソフトクリームです。ただしカメラのピントは前のお店に合わせています。その正面に見える長州屋の前にある縁台でソフトクリームを食べることにいたしました。一時期は長州屋でソフトクリームが売られていて3店で競争している時期もありました。
クリックすると拡大

むさし店を背景にして撮った紫いもソフトクリームです。今までに錦帯橋で食べたソフトクリームの写真を掲載した記事は次の3つあります。
 2015年03月 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2015-03-25
 2015年12月 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2016-01-23
 2017年12月 https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2020-10-08
クリックすると拡大

クリームの食感を感じてもらうためにクリームの部分を拡大いたしました。写真をクリックすると特別に大きく拡大たします。
クリックすると拡大

クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
クリックすると拡大

むさし店のソフトクリームの種類数が偶然写った写真を紹介します。
 2014年12月 140種  2017年09月 165種  2020年12月 170種
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大

2014年12月から食べたソフトクリームの写真を紹介します。残念ながら2014年12月と2018年08月は私が食べたソフトクリーム自体は撮っていませんでした。ソフトクリームの写真をクリックすると大きく拡大いたします。ちなみに2017年12月5日に17歳8ケ月で亡くなった我が家のワンコの名前が「むさし」でした。その「むさし」の写真を空いた最後の空間に入れました。
  2014年12月      2015年03月      2015年08月
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
  2015年12月      2016年03月      2016年09月
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
  2016年12月      2017年09月      2017年12月
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
  2018年08月      2018年09月      2018年12月
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
  2019年03月      2020年12月       むさし
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大

むさし店と佐々木小次郎店の位置を地図で紹介します。長州屋の位置も判ると思います。


昼食を食べた山賊以外のレストランの位置も紹介します。地図内の臙脂色マーク( )が昼食を食べた「錦果楼、岩国四川飯店、よ志だ 新館、わたぼうし、たんぽぽ、アリス」で、橙色のソフトクリームのマーク( )が「佐々木屋小次郎商店、食事処 むさし」です。マイナス(-)のアイコンを3回クリックして広い範囲を表示させると山賊も出てくると思います。
posted by SORI at 17:21| Comment(28) | 山口県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月27日

岩国城

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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川西駅(JR岩徳線)から錦帯橋を通って岩国城までの道沿いの景色を2021年1月13日の記事で紹介しましたが、本記事では岩国城に関して記載したいと思います。道沿いの景色を紹介した時にも記載しましたが、岩国城は関ヶ原の戦いの1年後の1601年に毛利輝元の一族の吉川広家が築き始めた城です。山上の城は戦時の城で、麓(ふもと)にも住むための城(御土居)が築かれました。麓(ふもと)の城(御土居)は1602年に完成し、山上の城(横山城)は7年を費やして1608年に完成しました。4重6階の唐造りの見事な天守閣を持つ城だったそうです。山上の城が堅固であったことと、城が2ケ所に分かれていたことが悲劇を生みました。徳川幕府(1603年~1867年)の一国一城の令により山上の城は完成からわずか7年後の1615年に廃城させられたそうです。麓の城(御土居)は岩国領の陣屋として明治維新まで存続したそうです。上の写真の現在の天守閣は絵図「天守構造図」を元に1962年3月21日に建てられました。鉄筋コンクリート構造であることから復興天守に分類されています。
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山上の岩国城の配置図です。
実は現在の天守閣は1608年に完成した天守閣より意識的に南方向に約30mずらして建てられているのです。下からの見栄えを重視して現在の位置に建設されたそうです。本配置図の北は右上方向です。配置図の中の赤枠()の部分が元の天守閣の位置で、青枠()の部分が現在の天守閣です。復興天守に分類されるのは大阪城や岐阜城や小倉城など14天守あります。名古屋城は木造復元天守へするための工事中です。着色文字は記事として書いたことがあるお城です。
 現存天守  12天守 姫路城 彦根城 松本城 犬山城 松山城 など 
 木造復元天守 5天守 白河小峰城 掛川城 白石城 大洲城 新発田城
 外観復元天守 9天守 名古屋城 大垣城 広島城 和歌山城 岡山城 など  
 復興天守  14天守 大阪城 岐阜城 福山城 小倉城 岩国城 など
 模擬天守  51天守 洲本城 郡上八幡城 富山城 大多喜城 今治城 など
クリックすると拡大

岩国城と錦帯橋の位置関係が判るようにGoogleマップの航空写真に城の絵のマークを入れてみました。地図記号の史跡・名勝マーク(⛬)は昔の天守間の跡があるところです。


昔の天守間の跡と現在の天守間の位置関係を航空写真で紹介します。北は上方向です。クリックするとオリジナルの航空写真を表示します。
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天守閣が建っている辺りから錦帯橋を咲かしてみると木の間に見つけることが出来ました。木が多いことから広く見渡せるところがないので、天守閣に入って上から見ることにいたしました。
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こちらが天守閣への入口です。
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この入城券を買って天守閣に登りました。
こちらもクリックすると裏面も表示しますね
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急な階段で最上階まで上がりました。
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こちらが最上階です。
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こちらが岩国城の天守閣から見た景色です。すでに紹介したように遠くまで見渡せました。錦帯橋が中央にあります。クリックすると面積で16倍に拡大いたします。
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錦川がカーブしている範囲を拡大いたしました。こちらもクリックすると面積で16倍に拡大するように設定いたしました。
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錦帯橋あたりの景色です。こちらもクリックすると面積で16倍に拡大するように設定いたしました。
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岩国城から見た錦帯橋を紹介したので、地上から見た岩国城の写真を掲載しました。
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屋根瓦の写真も撮りました。
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東方向の景色です。
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最上階以外には刀剣や鎧や火縄銃などの古い品が展示されていました。特に刀剣の数はすごかったです。
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刀剣が並べられているエリアです。
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見事な長刀もありました。江戸中期の御太刀で銘には「陸奥守藤原包保作 於好以南蛮鉄鍛之」とクリックすると拡大なっていました。全長2mを越える刀から、佐々木小次郎の刀「物干し竿」を連想しました。ただし佐々木小次郎の「物干し竿」の刃長が約3尺なのに対してこの刀の刃長は約5尺(151cm)です。
クリックすると拡大 刀身重さ 5.0kg
 全重量  8.5kg
 刀身長さ 197cm
 刃長   151cm
 全長   210cm
クリックすると拡大

こちらは甲冑です。鎖鎌も展示されていました。
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外に出て天守閣の周囲を廻ってみました。
クリックすると拡大

北東方向から天守です。
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天守を見上げた景観です。守りの仕掛けもしっかりと再現されていました。
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石垣の写真も紹介します。
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石垣と天守閣です。
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冒頭の写真より少し遠くから撮った写真です。
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二の丸広場の花木園の中に建っている四阿(しあ/あずまや)です。この後、ロープウェイ乗場に向かいました。
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ロープウェイ乗場の近くに岩国のパノラマ写真があったので紹介します。岩国基地や飛行場や海の向こうの島々も写っていました。クリックすると特別に大きく拡大するので島の名前も読むことが出来ると思います。島の名前を左から読むと大黒神島、倉橋島、鹿島、甲島、柱島、周防大島、前島です。
クリックすると拡大

パノラマ写真が置いてあるところから写真を撮ればよかったのですが、遠くが霞んでいたので撮らなかったのでロープウェイのゴンドラから撮った写真を紹介します。かすみが無くなると上の写真のようにきれいだったと思います。
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錦帯橋の写真です。奥側(上流から見て左岸側)から第一橋、第二橋、第三橋、第四橋、第五橋です。クリックすると面積で16倍に拡大するので是非とも見てほしいです。
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ロープウェイの上りは2人だけでしたが帰りは沢山乗られていました。
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すれ違った上りにも沢山乗られていました。時間帯でかなり違うようでした。
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JR在来線の岩国駅と新幹線の新岩国駅を入れた地図で岩国城の位置を紹介します。城の絵のマークのところが岩国城の天守閣です。
posted by SORI at 06:39| Comment(38) | 山口県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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