2021年12月31日

叔父さんからのお土産の「岩国寿司」の仕入れ先(作っているところ)が判りました。

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母は昔から山口県の周防久保駅の近くにある私の父方のお墓に年に4回(3月 8月 9月 12月)に一人で墓参りに行っていました。母は足が少し不自由なことから2013年3月の墓参りから念のために、私か姉が一緒に行くようになりました。その中で私が一緒に行ったのが下記のリストです。2019年9月までは岩国に住んでいる叔父さん(母の弟)が車で新岩国駅からお墓まで行き、帰りは新岩国まで送り届けてくれました。一緒に昼食を食べて、錦帯橋でソフトクリームを食べて、新岩国駅でお土産を渡されるのが恒例になっていました。そのお土産の中に上の写真の岩国名物の岩国寿司が必ず入っていました。その岩国寿司は新岩国駅の売店に予約を入れていて別れるときに渡されました。叔父さん夫婦の話だと岩国にもっとも人気のある岩国寿司だと言われていたので、作っているお店が気になっていました。叔父さんは2019年9月末に運転免許を返納して会えなくなってしまったことから、岩国寿司のお店の場所は分らずじまいになっていました。2019年12月はレンタカーで母と一緒に行きましたが、新型コロナの感染リスクがあるので2020年3月と8月は中止して、2020年9月からも私一人で墓参に行きました。のマークは錦帯橋に行ってソフトクリームを食べた時です。
  墓参り年月  地元の移動  叔父さんからのお土産 岩国寿司の購入場所
  2013年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭 新岩国駅の売店に予約
  2013年08月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2013年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2014年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2014年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2014年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2015年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2015年08月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2015年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2016年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭
2016年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2016年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2017年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2017年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2017年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2018年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2018年08月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2018年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2018年12月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
2019年03月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2019年09月 叔父さんの車 岩国寿司+もみじ饅頭      〃
  2019年12月 レンタカー  母と一緒に岩国の母方のお墓にも行く
  2020年09月 岩徳線+バス JR在来線で広島まで行く
2020年12月 岩徳線+バス  初めて、むさし店でソフトクリームを食べる
  2021年03月 岩徳線+バス 錦川清流線に乗る
2021年09月 岩徳線+バス  錦帯橋近くで岩国寿司を購入 本記事
  2021年12月 従妹の車   下関にある従妹の両親の墓にも墓参り

2020年09月以降に一人で墓参りに来た時も岩繰寿司を買いたかったのですが、新岩国駅では予約を入れないと手に入らないので、母へのお土産は、もみじ饅頭と広島菜の漬物と広島のお好み焼きと穴子めしになっていましたが、2021年09月に錦帯橋に行ったときに錦帯橋の入橋券の購入窓口で岩国寿司のお勧めのお店を教えてもらって、吉川家墓所などを見学した後に最後に寄ったお店がこちらです。お店の名前が岩国寿司のお店とは思えないけれども、入ってみました。お店の右隣りが岩国市観光協会の建物で観光案内所があります。
 店名 Panser(パンサー)
 住所 山口県岩国市岩国1丁目5-11
 電話 0827-41-2707
 定休 不定休
 営業 9:00〜16:00
 SV https://goo.gl/maps/qfzda9PRDee4Y7Ja9
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さっそく店内に入ってみました。イメージは料理店あるいは居酒屋という雰囲気でしたが、すでにお客さん(地元の方のようでした。)が来ていて鯖寿司などを沢山買い込んでおられました。そのお客さんが帰られた後に岩国寿司を注文しました。注文してから作るので少し待たされました。その代わり出来立てを持って帰ることが出来るのです。一度はお店で出来立てを食べてみたいものです。机の上の赤色のリッックは私のです。
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クリックすると拡大こちらが食事のメニューです。クリックするとお酒類を含む飲み物やスイーツやソフトクリームなどのメニューも表示します。新型コロナがなければ、メニューの料理でビールを飲みたいところでした。
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地元の方と思われる先客は左側の岩鯖寿司を沢山買い込まれていて、から揚げなども買っておられたので家で飲み会をする雰囲気でした。次の機会があれば、岩国寿司だけでなく岩鯖寿司も買いたいと思います。
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こちにが今回買って帰った岩国寿司です。これ(1個入り)を2つ買いました。上の説明のように2個入りもありました。今までに何度も岩国寿司をお土産にいただいて食べていたので、不覚なことに蓋を開けたお寿司を全体の写真を撮り忘れました。しかし切り分けてから気が付いたのですが、海老とレンコンが並べられている雰囲気がそっくりなので、叔父さんたちが新岩国駅の売店に予約して買っていたのはパンサーの岩国寿司ではないかと感じたのです。
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そこで昔の岩国寿司の写真を探して製造者を確認すると、やはりお土産でいただいていたのはパンサーの岩国寿司でした。こちらが2013年3月の時のパッケージです。冒頭のリストではすべて新岩国駅の売店に予約と記載していましたが、3度ほど予約出来なかったので別のお店の岩国寿司となりましたが、現時点では特定できないのですべて「〃」としました。確かに別のお店よりはパンサーの岩国寿司が良かったことだけは記憶しています。少なくとも2016年9月はパンサーでないことは分っています。スーパーで売られている岩国寿司も食べてみたかったので、お願いしてスーパーで売られていた2種類買ってきてもらったのです。墓参りの帰りに下松SAに買いに行ったこともあります。一般道側にも駐車スペースが作られているのです。
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上が今回(2021年9月)で、下が2013年3月の時の表示です。どちらも製造者の住所は同じ山口県岩国市岩国1丁目5-11でした。名前は斉藤良人から斎藤伸也に代わっていますが同じ斎藤(斉藤)の姓なので関係者だと思います。今回の人が若かったので息子さんなのかもしれません。
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上で記載したスーパーで売られていた2種類の岩国寿司を紹介します。2016年3月に叔父さんにお願いした2016年9月に買ってお土産としていただいた岩国寿司です。
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パッケージから出したスーパーの岩国寿司です。パンサーの岩国寿司とはかなり違いました。両方ともに錦糸卵の下に具が隠れています。
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2017年9月には製造者は今と同じ斎藤伸也さんになっていました。
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パッケージを開けた2017年9月の岩国寿司です。大きな海老です。
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2017年12月の岩国寿司です。この時は2個入りのパッケージで、今も1個入りと2個入りがあります。
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こちらが2018年8月の岩国寿司です。2018年8月にはパッケージに書かれている岩国寿司の字体が今と同じになりました。
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2018年8月と2021年9月を並べると字体だけでなく全体が、ほぼ同じであることが判りました。左が2018年8月で右が2021年9月です。
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今回は岩国寿司以外に、乗り換え駅の広島駅で穴子めしと広島のお好み焼きを買いました。
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こちらが広島のお好み焼きです。
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お好み焼きと穴子飯があったので、岩国寿司は少しだけ食べて、残りは翌日の昼にいただきました。海老が冒頭の写真と同じように乗っているのが判っていただけると思います。
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岩国寿司を購入したPanser(パンサー)の場所を航空写真で紹介します。
航空写真の中の赤色マーク( )が人気の岩国寿司を製造販売しているパンサーです。オレンジ色(橙色)のラインが錦帯橋です。マイナス(-)のアイコンを3回クリックすると沢山の赤色マークが出てきますが、その赤色マークが今回初めて訪れたところです。


2013年3月22日に掲載した「岩国寿司」の記事はこちらです。→ポチッ続きを読む
posted by SORI at 06:28| Comment(36) | 山口県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月25日

迷路としても楽しめる「岩国藩藩主の吉川家墓所(きっかわけぼしょ)」

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今回の墓参で錦帯橋の周辺を下記の記事で紹介してきましたが、実は最も紹介したかったのが今回の「岩国藩藩主の吉川家墓所」でした。何度も錦帯橋に来ているのに吉川家墓所は初めて知ったのです。また、これほど第1代から第13代の藩主の墓をはじめとして家族の墓がまともっていることにも驚かされました。上の写真が吉川家墓所の入口の門です。

最初の門をくぐったところにもう一つの門があります。こちらの門には入れません。ただし沢山の墓がある吉川家墓所は左方向に曲がったところにあります。門の左にある説明板は吉川家の移り変わりや13代藩主までの歴史が書かれています。吉川は「よしかわ」ではなく「きっかわ」と読みます。つまり、吉川広家は「きっかわ ひろいえ」です。
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説明板を拡大いたしました。クリックすると文字が読める大きさに拡大いたしました。下記の名前は吉川元春からの当主です。吉川広家が岩国藩の初代であり、それ以降は吉川家の当主が岩国藩(岩国領)の藩主(領主)でもあります。ちなみに江戸幕府は1603年~1867年(大政奉還)です。右下の写真はWikipediaから転用させていただいた初代藩主・吉川広家です。吉川家(吉川氏)の名は寿永2年(1183年)まで遡りますが、岩国藩(周防国大島郡+玖珂郡南部)を治める藩主としての吉川家の祖は吉川元春(安芸国吉川氏としては14代目)となるそうです。
 吉川家当主(1550~1586) 吉川元春 毛利元就の次男で吉川氏へ養子
 吉川家当主(1586~1587) 吉川元長 広家の兄
  初代藩主(1600~1614) 吉川広家 当主(1587~1614) 岩国城を築城
  2代藩主(1614~1663) 吉川広正
  3代藩主(1663~1679) 吉川広嘉 錦帯橋を建造
クリックすると拡大  4代藩主(1679~1696) 吉川広紀
  5代藩主(1696~1715) 吉川広逵
  6代藩主(1715~1764) 吉川経永
  7代藩主(1764~1792) 吉川経倫
  8代藩主(1792~1803) 吉川経忠
  9代藩主(1803~1806) 吉川経賢
 10代藩主(1807~1836) 吉川経礼
 11代藩主(1837~1843) 吉川経章
 12代藩主(1844~1868) 吉川経幹
 13代藩主(1868~1871) 吉川経健 明治元年~明治4年(廃藩置県)
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大きな建造物がありました。あとでネットで調べると吉川家納骨堂であることが判りました。
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こちらが吉川家墓所の配置図です。写真を撮った墓に赤色の番号(①~㉟)を書き入れました。つまり①→㉟の順に歩いたのです。白壁の塀で仕切られていてタイトルで書かせていただいたように、まさに迷路のようでした。実際に訪れて写真を掲載させていただいた墓石は下記のリストのように35塔です。写真を撮っていないのが2塔あるので、全体でお墓が37塔あることになります。写真を撮っていない2塔は印の宣姫(10代・経礼の長女)と順姫(7代・経倫の次女)です。岩国藩主は13代まで続きましたが藩主の墓は9塔しか見つかりませんでした。理由は後ほど説明させていただきます。
 藩主   9塔 2代 3代 4代 5代 7代 8代 9代 10代 11代
 正室   9塔 8塔が藩主の正室 1塔が吉川元春の正室
 後妻   1塔 継室
 息子   6塔
 娘    9塔 姫
 合祀   1塔 息子 4名 姫 2名
 合計 35塔 
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Googleマップの航空写真表示画面に回った順番①~㉟をプロットしました。画面の中の③と㉝のマークは半分しか見えていません。マイナス(-)を1回クリックすると広い範囲の表示になるので欠けたマークはなくなります。航空写真の中の印が写真を撮り損ねた宣姫と順姫のお墓の2塔です。
 藩主   9塔  ①⑩⑪⑱⑳㉑㉓㉔㉕
 正室   9塔  ②⑫⑰⑲㉒㉘㉛㉞㉟
 後妻   1塔  ㉖
 息子   6塔  ⑦⑭⑮⑯㉙㉚
 娘    9塔  ③④⑤⑥⑧⑨⑬㉗㉝
 合祀   1塔  ㉜


納骨堂方向から歩いてきて最初に目に入る景色がこちらです。複雑な白壁の塀の中に墓あるのです。迷路のようだと少し感じていただけると思います。まっすぐに進んでいきました。
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①② そこにあったのは8代藩主の吉川経忠(左側)とその正室の喬松院の墓(右側)でした。いきなり、その大きさに驚かされました。
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墓にはタイル製の説明板がつけられていました。正室の喬松院は経忠の死後41年後に亡くなったことが判ります。こちらの区画にも
 吉川経忠 8代藩主
  戒名 招徳院殿孝運祖沢大居士
  没年 享和3年(1803年)5月30日 享年38歳
 喬松院 8代藩主経忠の正室
  戒名 喬松院殿妙境日悌大比丘尼
  没年 天保15年(1844年)1月30日 享年61歳
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次の区画に最初の場所に小ぶりですが立派なお墓がありました。こちらは6代藩主の吉川経永の3女の益姫のお墓でした。近くに6代藩主の吉川経永の墓はありませんでした。この区画には7つの墓があり、その中の6つが藩主の姫で、1つが藩主の息子でした。
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説明板を見ると3歳という幼さで亡くなった姫の墓であることが判りました。可愛かった娘が幼くして亡くなった悲しみが伝わってくる立派なお墓でした。偶然かもしれませんが、吉川家墓所で見た9人の姫の墓の内、1歳と5歳と13歳が1~2人なのに対して、驚いたことに5人が3歳でした。享年3歳は数え年のため満年齢では2歳ということになります。
 益姫 6代藩主経永の3女
  戒名 亨恵大童女
  没年 延亨2年(1745年)6月15日 享年3歳
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同じ区画で次に見たのは7代藩主・吉川経倫の長女の万千代姫の墓でした。多くの墓は丸石が使われていますがこちらは長方形の石が使われていました。
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説明板を紹介します。こちらも5歳という幼さで亡くなった姫の墓でした。亡くなった月を?月と書いているは木の葉で数字が見えないためです。
 万千代姫 7代藩主経倫の長女
  戒名 英雅大童女
  没年 安永3年(1774年)?月2日 享年5歳
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こちらもこちらも立派なお墓でした。12代藩主吉川経幹の娘の数姫のお墓です。
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説明板です。こちらも3歳で亡くなりました。
 数姫 12代藩主経幹の娘
  戒名 玉光映珊大童女
  没年 安政5年(1858年)5月26日 享年3歳
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こちらはこちらは6代藩主・吉川経永の4女の三千菊姫のお墓です。ことらも享年は3歳でした。
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説明板を紹介します。
 三千菊姫 6代藩主経永の4女
  戒名 智玉大童女
  没年 宝暦9年(1759年)閠7月7日 享年3歳
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初めて藩主以外の男子の墓です。10代藩主・吉川経礼の長男の憲太能のお墓です。
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説明板を紹介します。享年は不明となっていますが、今回見た藩主の息子の墓の説明板では2歳と5歳と7歳と、いずれも幼くして亡くなっていることから、こちらも幼くして亡くなったものと推察されます。可愛い盛りだったと思います。
 憲太能 10代藩主経礼の長男
  戒名 知憲院殿慈厳玉容大童子
  没年 文政5年(1822年)6月30日 享年不明
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この区画の雰囲気を紹介します。左橋が健太能のお墓でその右側に2の墓が並んでいます。次にそちらを紹介します。
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⑧⑨ 4代藩主・吉川広紀の娘の礒姫(左側)と6代藩主・吉川経永の次女の佐久姫(右側)のお墓です。
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2つの説明板を紹介します。礒姫は1歳で佐久姫も1歳でした。
 礒姫 4代藩主広紀の長女
  戒名 円珠大童女
  没年 元禄3年(1690年)10月12日 享年1歳
 佐久姫 6代藩主経永の次女
  戒名 慈忍大童女
  没年 寛保2年(1742年)9月8日 享年1歳
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不思議な迷路の入口のようなところがありました。
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その奥には第十一代藩主のお墓があることが書かれていました。
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こちらが11代藩主吉川経章のお墓です。藩主のお墓で丸ではなく四角の石が疲れけているのを見ました。今回見た見た中で藩主のお墓として四角い石が使われていたのは2つで、他派すべて丸い石が使われたお墓でした。
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墓に近づけないので説明板があることに気が付きませんでした。あとで写真から左下に写っていることに気が付きました。
 吉川経章 11代藩主
  戒名 亮功院殿英山道雄大居士
  没年 天保14年(1844年)11月19日 享年50歳
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⑪⑫ 岩国藩七代藩主吉川経倫の木製の看板があったので道を入っていきました。
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突き当りを右に曲がった瞬間に前が開けて2つ大きなお墓(塔)が現れました。
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2つ大きなお墓(塔)は7代藩主の吉川経倫(右側 ⑪)と、その正室の華厳院(左側 ⑫)でした。目線の2.5倍ほどの高さの巨大のお墓(塔)でした。
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説明板を紹介します。
 吉川経倫 7代藩主
  戒名 大乗院殿前城門郎即心円通大居士
  没年 享和3年(1803年)9月7日 享年58歳
 華厳院 7代藩主経倫の正室
  戒名 華厳院殿梅玉妙聯大姉
  没年 安永5年(1775年)5月18日 享年21歳
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7代藩主の吉川経倫のお墓の前にあったのがこちらのお墓です。経倫の3女の勝姫のお墓です。お墓の場所からして大切にされていたのではないかと推察します。 
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説明板です。これによると13歳ででなくなりました。
 勝姫 7代藩主経倫の3女
  戒名 仙寿院殿桃顔倍香大姉
  没年 寛政3年(1791年)6月13日 享年13歳
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こちらが7代藩主経倫の次男のお墓です。案内板によれば、7代藩主のお墓があるエリアにはこれ以外にもう一つお墓があります。そちらは経倫の次女の順姫ですが、正室の墓の左奥にあったことから気が付きませんでした。
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こちらが次男のお墓の説明板です。
 吉五郎 7代藩主経倫の次男
  戒名 崑岳良瓉大童子
  没年 安永6年(1777年)9月23日 享年2歳
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塀の外に出ると白塀に囲まれた道がまっすぐに山の方に伸びていました。正面に木の門が見えますが、先ずはその手前で左に入ってみました。
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こちらは説明板を撮り損ねたので名前はわかりませんでしたが、案内図から6代藩主吉川経永の長男の友千代であることが判りました。説明板を撮っていなかったので戒名や没年や享年はわかりません。吉川経永の男子はいずれも夭折(幼くして死去)したため、養子として迎えたのが、後の7代藩主の吉川経倫ですが、吉川元春以来の血筋はここで絶えることになったそうです。
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上の友千代の墓の写真の右端に写っている灯篭が、こちらも6代藩主吉川経永の息子(次男)である代八の墓です。
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代八の説明板を紹介します。
 代八 6代藩主経倫の次男
  戒名 徳岸院殿恩樹日長大童子
  没年 宝暦4年(1754年)1月12日 享年7歳
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立派なお墓です。5代藩主の吉川広逵の正室である正理院のお墓です。友千代や代八からだと祖母になります。正室のお墓が立派なのは次の藩主(息子)の母という立場もあるのかもしれません。
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正理院の説明板を紹介します。
 正理院 5代藩主広逵の正室
  戒名 正理院殿妙常日久代比丘尼
  没年 天明元年(1781年)1月12日 享年86歳
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㉑⑳⑲⑱㉒ 上で紹介した白壁の塀に囲まれた通路の先にあった木の門の中には大きなお墓が5つありました。藩主のお墓が3つと正室のお墓が2つで構成されていました。クリックすると拡大徐々に初代の藩主である吉川広家のお墓に近づいている予感がしてきました。
左側からは次の通りです。
 ㉑ 9代藩主    吉川経賢
 ⑳ 3代藩主    吉川広嘉
 ⑲ 2代藩主の正室 高玄院
 ⑱ 2代藩主    吉川広正
 ㉒ 10代藩主の正室 円成院
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外側からでも5つはお墓を1枚の写真に収められなかったので、左側と右側に分けて撮りました。こちらが左側の3つお墓(⑲⑳㉑)の写真です。
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こちらが右側の3つお墓(⑱⑲㉒)の写真です。
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先ずは中央の3つ(⑳⑲⑱)を紹介したいと思います。
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⑱⑲の説明板です。
 吉川広正 2代藩主
  戒名 浄性院殿前倉部鉄堂宋閑大居士
  没年 寛文6年(1666年)5月5日 享年66歳
 高玄院 2代藩主広正の正室
  戒名 高玄院殿超誉珠英大姉
  没年 正保元年(1644年)9月10日 享年45歳
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⑳の説明説明板です。
 吉川広嘉 3代藩主
  戒名 玄真院殿前城門郎快巌如心大居士
  没年 延宝7年(1679年)8月16日 享年59歳
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左端㉑は9代藩主の吉川経賢のお墓です。
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吉川経賢の説明板です。吉川経賢は16歳の若さで亡くなった藩主でした。
 吉川経賢 9代藩主
  戒名 文恭院殿徳巌道馨大居士
  没年 文化3年(1806年)12月16日 享年16歳
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こちらが5つの大きなお墓の左端のお墓(㉒)です。10代藩主の吉川経礼の正室のお墓です。正室の名前は円成院です。
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円成院の説明板です。
 円成院 10代藩主経礼の正室
  戒名 円成院殿妙実日相大叔姉
  没年 文化10年(1813年)6月11日 享年 不明
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㉓㉔㉕ すぐそばに3人の藩主の墓がありました。この場所も木の門がありました。4代藩主の吉川広紀と5代藩主の吉川広逵と10代藩主の吉川経礼です。
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こちらが3つの藩主のお墓で右側から5代藩主・吉川広逵(㉓)、4代藩主・吉川広紀(㉔)、10代藩主・吉川経礼(㉕)です。10代藩主・吉川経礼は四角の墓石でした。藩主の中で四角の墓石が使われていたのは11代・吉川経章と10代藩主・吉川経礼だけでした。
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こちらが丸い墓石の5代藩主・吉川広逵(㉓右側)と4代藩主・吉川広紀(㉔左側)です。
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説明板を紹介します。藩主と言えどもこの時代は長生きする人は少なかったようです。
 吉川広逵 5代藩主
  戒名 涼雲院殿玉顔元鮮大居士
  没年 正徳5年(1715年)6月19日 享年21歳
 吉川広紀 4代藩主
  戒名 普恩院殿前少府郷徳峯祖天大居士
  没年 元禄9年(1696年)7月13日 享年39歳
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10代藩主・吉川経礼(㉕)の四角の墓石を正面から撮りました。藩主の中で四角の墓石が使われていたのは11代・吉川経章と10代藩主・吉川経礼だけでした。
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説明板を紹介します。
 吉川経礼 10代藩主
  戒名 謙光院殿慈雲藤蔭大居士
  没年 天保7年(1836年)11月26日 享年44歳
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上の3人の藩主(㉓㉔㉕)のお墓に正面に建てられていた立派なお墓がありました。10代藩主・吉川経礼の継室(後妻)の成豊院のお墓でした。
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成豊院の説明板を紹介します。すでに㉒の墓として紹介した10代藩主・吉川経礼の正室の墓の円成院は文化10年(1813年)6月11日に亡くなっていて30年の差があることから正室の円成院は若くして亡くなったと推察できます。
 成豊院 10代藩主経礼の継室(後妻)
  戒名 成豊院殿慈観瑟大姉
  没年 天保14年(1843年)7月17日 享年53歳
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上の㉖の成豊院のお墓を見た後は、最も山側(北側)のエリアで最初に訪れたのが8代藩主・吉川経忠の長女のお墓でした。名前は修姫です。
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修姫のお墓の説明板です。
 勝姫 8代藩主経忠の長女
  戒名 真峯知影大童女
  没年 享和2年(1802年)5月18日 享年3歳
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修姫のお墓(㉗)のあたりから見た最も北側(山側)のエリアの写真です。山に登っていく道も写っています。このエリアにも沢山のお墓がありました。その中に3つの大きなお墓がありました。
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山側で3つ大きなお墓の一つです。3代藩主・広嘉の正室の天長院の墓でした。
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3代藩主・広嘉の正室の天長院の説明板を紹介します。19人の成人のお墓で3番目の長寿です。最も長寿なのが86歳の正理院(5代藩主の正室)の86歳で2番目が吉川広正(2代藩主)の66歳です。ちなみに4番目は吉川広嘉(3代藩主)の59歳です。
 天長院 3代藩主広嘉の正室
  戒名 円成院殿妙実日相大叔姉
  没年 元禄10年(1670年)4月12日 享年63歳
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㉙㉚今までに見てきたお墓に比べて比較的小さなお墓がありました。2代藩主・吉川広正の 7男の新八郎と9男の道祖太郎のお墓です。
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説明板を紹介します。7男は満1歳で亡くなり9男は4歳で亡くなったのでした。
 新八郎 2代藩主広正の7男
  戒名 幻漚大童子
  没年 万治2年(1659年)2月22日 享年2歳
 道祖太郎 2代藩主広正の9男
  戒名 自照大童子
  没年 寛文5年(1665年)8月15日 享年5歳
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こちらは吉川元春の正室の慈光院お墓です。吉川元春は岩国藩の藩主の家系となった吉川家の初代当主です。吉川元春の子が初代藩主の吉川広家です。吉川元春は毛利元就の次男で養子となって毛利元春から吉川元春に改名したそうです。
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慈光院のお墓の説明板です。新庄局(しんじょうのつぼね)とも呼ばれています。初代藩主の吉川広家の母になります。
 慈光院 吉川元春の正室
  戒名 慈光院殿玉窓芳珪大姉
  没年 慶長11年(1606年)12月11日 享年 不明
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小さなお墓がありました。今回のお墓の中で唯一の合葬(合祀)のお墓でした。初代藩主と2代藩主の6人の子供たちが埋葬されたものでした。
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説明板に書かれていた6人の子供たちです。初代藩主・広家の3男は享年不明となっていますが幼くして亡くなったものと推察されます。
 初代藩主 広家の 3 男 俗名不明 享年不明
 2代藩主 広正の10女 竹搥姫  享年4歳
 2代藩主 広正の11女 千代松姫 享年4歳
 2代藩主 広正の 4 男 長吉   享年4歳
 2代藩主 広正の 5 男 金三郎  享年2歳
 2代藩主 広正の 6 男 大助   享年2歳
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㉙㉚㉛㉜が並んだ写真です。
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こちらは6代藩主・吉川経永の長女の富姫のお墓です。
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こちらが富姫の説明板です。
 富姫 6代藩主経永の長女
  戒名 本如大童女
  没年 享保9年(1734年)6月13日 享年3歳
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㉞㉟ 最後に紹介する大きなお墓です。石の柵に囲まれた立派なお墓でした。
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説明板を紹介します。4代藩主の正室の蓮得院と6代藩主の正室の瑞蓮院のお墓でした。結局は初代藩主の吉川広家の墓はありませんでした。
 蓮得院 4代藩主 広紀の正室
  戒名 蓮得院殿玉妙諦日観大淑姉
  没年 享保2年(1717年)2月7日 享年47歳
 瑞蓮院 6代藩主 :経永の正室
  戒名 瑞蓮院殿徹底妙心日境大比尼
  没年 明和6年(1769年)5月25日 享年57歳
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㉖の成豊院のお墓を見た後は、㉗~㉟のお墓が建つエリアに移動しました。最も山側のエリアでした。
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上の写真はこちらの案内図の右上端に描かれている階段のところから撮りました。上の写真の左端に写っている横の方向に大きな墓石が5つ並んでいるところが、すでに紹介した㉑⑳⑲⑱㉒(9代藩主 3代藩主 2代藩主の正室 2代藩主 10代藩主の正室)のエリアです。その5つの墓石を除く大きな墓石は上の写真の右側に並ぶ㉘と㉞と㉟でした。しかしながら、いずれも正室のお墓で、藩主のお墓ではありませんでした。
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こちらは階段を上に登って撮った同じエリアの写真です。
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実は階段をさらに登っていくと初代藩主(吉川広家)、6代藩主(吉川経永)、12代藩主(経幹)、13代藩主(吉川経健)の墓があったのです。今回、見たのは地上の墓所は「寺谷のお塔」と呼ばれていて、山の上の墓所は「山のお塔」と「実相院山のお塔」と呼ばれています。山の上には19塔のお墓があるので地上の37塔のお墓と合わせると56塔のお墓が吉川家墓所にあることになります。
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つまり、写真に写っている道を登ると初代藩主(吉川広家)、6代藩主(吉川経永)、12代藩主(経幹)、13代藩主(吉川経健)の墓があったわけで、すべての藩主のお墓を見ることが出来るので機会があれば行ってみたいと思います。山の上の4つの藩主のお墓と今回見た9つの藩主のお墓を合わせると4+9=13となりなり初代から13代の藩主のお墓が吉川家墓所にすべてそろっていることになります。
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クリックすると拡大航空写真では木が多くて「山のお塔」と「実相院山のお塔」の位置が判らないのでネット上の右の地形図から大まかな感じを黄色の枠で書き込んでみました。
感で書き込んだので正確ではないことをお許しください。


吉川家墓所(①~㉟)と錦帯橋と吉香公園との位置関係が判る地図を紹介します。
ラベル: 岩国 錦帯橋
posted by SORI at 12:29| Comment(30) | 山口県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月11日

吉香公園のシンボル 城の石垣をイメージした大噴水

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前々記事で紹介した武家屋敷/旧目加田家住宅を見た後向かったので吉香公園の中央あたりに作られている噴水です。遠くからは何度か見ていて気になっていたので見に行くことにしました。武家屋敷あたりから噴水方向を撮った写真です。そっそく画面の左半分に写っている大噴水と名前がつけられている場所に向かいました。ここを訪れたのは2021年9月18日でした。実は前日の9月17日に台風14号が近くを通過していました。

これが大噴水です。岩国城の石垣をイメージして作られた大噴水であることはすぐにわかりました。大噴水の前が浅い「ちびっ子プール」になっていました。小さな子供さんを連れた家族の方が沢山来ていたので岩国の人たちの憩いの場所になっているのだと感じました。岩国には米軍基地があるためか外人の子供連れの家族が半分近くを占めていました。
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噴水を出している石垣の面は単純な左右対称ではなく変化を持たせていました。高い噴水は4本なのに対して低い噴水は3本でした。
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近くからだと噴水は高く上がっていて全体が撮れませんでした。
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上の写真と合わせてみてください。城の石垣をイメージした大噴水であることがわかっていただけると思います。
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少し離れて撮った大噴水です。大放射噴水あるいは放射噴水と表現されているサイトもありました。検索エンジンで "吉香公園のシンボル" で検束するとほとんどが大噴水(大放射噴水/放射噴水)の記事でした。→Yahoo Google   
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以前(2020年12月23日)に来た時に大噴水が映り込んだ写真もスライドショーで紹介します。この時に遠くから大噴水を見て、いつか近くで見てみたいと思っていました。
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もう一つ気になる噴水がありました。石がきれいに敷き詰められた噴水です。名前が知りたくてネットで調べてみると夏に人気の噴水でした。結局は名前はわかりませんが子供たちがびしょびしょになりながら遊んでいる写真が沢山掲載されていました。でも今はロープが張られていて中には入らないようです。
おねがい! このなかは すべりやすくあぶないため クリックすると拡大はいらないてください。」と書かれた立看が設置されていました。ネット内の2011年2012年の記事ではロープや立看はなく右の写真のように子供たちが楽しそうに遊んでいました。今は遊べませんが仮の名前として「水遊び噴水」と名付けておきます。
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全体が円形をしていて真ん中が通路になっています。その通路の両側に半円状に石が敷き詰められていて全体が円形をしています。半円状の大きさは左右が違うように作られています。この写真だと左側(南側)の方が大きいです。
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半円状に部分の真ん中に円形状に石が並べなれていて水が真上に向かって噴き出していました。円形状の大きさも南側と北側で違います。北側は小さいな円形が1つですが、南側は大と小の円形で構成されています。この写真の南側なので2つの円形が確認できると思います。
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こちらが北側の半円状の部分です。
噴水パイプの溝が大きくて深いので確かに遊ぶのは危なそうです。クリックすると拡大したがって仮の呼名は「水遊び噴水」から「石畳噴水」にしたほうがよさそうです。さらに検索してみると「ゴロタ噴水」が正式名でした。右の小さな写真が「おねがい! このなかは すべりやすくあぶないため はいらないてください。」と書かれた立看板です。2011年や2012年のネットの写真では噴水パイプの部分は水が沢山入っていて見えない状態でした。
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ゴロタ噴水は吉香公園の別の場所(旧目加田家住宅の南東側に隣接した場所)にもあるようなのでストリートビュー(SV)で紹介したいと思います。画面の左下に例の立看板が見えます。画面の正面にある建物が武家屋敷の旧目加田家住宅で、その右側の高い建物は柏原美術館(岩国美術館)です。このSVは2021年1月にpotaro67さんによって 掲載されたもので、ロープと立看が写っています。2017年9月にCHAN LAM YEUNGさんによって掲載されたSVもありました。→ポチッ


真ん中の通路を進んで噴水の方向に振り返って撮った写真です。遠くに石垣をイメージした大噴水があります。
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モニュメントが2つあったので紹介します。手前が山内壮夫(やまうち たけお)の「和」で、後ろの石の塔のような作品は澄川喜一(すみかわ きいち)の「石の翼」です。
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今回、紹介した噴水とモニュメントの位置をGoogle地図で紹介します。その位置に赤色マーク( )をつけました。


ネットに掲載されていた大噴水のライトアップの動画を紹介します。プレーボタン( )をクリックしていただくと、点灯式(2020年12月18日)の中でライトアップが点灯した瞬間(2分43秒)から紹介します。クリックすると拡大最後まで見ていただくと先頭に戻ります。ちなみに先頭は岩国市の福田良彦市長の挨拶から始まります。右の小さな写真は岩国市公式Webサイト「岩国 旅の架け橋」から転用させていただいた大噴水のライトアップで、クリックするとサイトのオリジナルを表示します。
posted by SORI at 17:07| Comment(34) | 山口県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月24日

武家屋敷 旧目加田家住宅

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2021年11月21日更新 タイトル:旧目加田家住宅の2度目の訪問
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前記事で紹介した白山比咩神社の次は、2020年12月に一度訪問したことがある武家屋敷である旧目加田家住宅に来てみました。2020年12月の時は岩国城の天守間に登るために時間的制約からあまり時間をさけなかったことから十分に見れなかったので、今回はじっくりと見ることにしました。上の写真は白山比咩神社方面から来た場合の入口です。前回はこちらから出て岩国城の天守閣が建つ山に登るロープウェイに乘りました。

この門の内側の庭のエリアには前回は入らなかったのです。最後の部分に追加いたします。またそれ以外に撮った写真は前回の記事の途中に差し込みます。その写真には<追加>と記載いたします。
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2021年02月17日掲載 タイトル:武家屋敷 旧目加田家住宅
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年末の記事「岩徳線の川西駅から岩国城までの景色」の中で触れた錦帯橋の近くの吉香公園に建っている武家屋敷(国指定重要文化財)を紹介したいと思います。吉香公園は岩国城の土居(麓の城)で、明治維新まで岩国領の陣屋として使われていたことから、その吉香公園の場所に建っていた武家屋敷であることから、上位の武士の屋敷であったと想像されます。文化財の名称は旧目加田家住宅です。目加田は「めかだ」と読みます。

旧目加田家住宅の説明板があったので紹介します。武家屋敷は全国に沢山ありますが、多くが下級武士のものが多いのが私の印象です。この武家屋敷は百七十石の中級武家の住宅で全国的にも珍しいことから国の重要文化財に指定されたのだと思います。
国指定重要文化財  旧目加田家住宅  指定年月日 昭和49年2月5日

旧目加田家は、近江国愛知郡の出身で、天正年間に吉川元春に召し抱えられ、吉川広家が慶長5年(1000)関ケ原の戦いの後、出雲国富田から岩国に移封された時に広家に従ってこの地に移り住んだ。江戸時代中頃の屋敷割図によると、既に現在地に住居が構えており、文政の頃には御用人役を勤めて知行百七十石取りであったことが御家中系図に記録されている。この住宅は18世紀後半の建築と推定され、中級武家の住宅としては全国でも数少ない遺構の一つとして、昭和49年2月5日重要文化財に指定された。

建物は入母屋作り、浅瓦葺きで、土間側面を除いて三方に庇(ひさし)を巡らし、南西に面して建つ。間取は正面に式台付の玄関の間を設け、向って右に仲間部屋、左に表座敷2間を配している。仲間部屋の裏の土間で平常の出入口とし、続いて中の間、台所、板の間等を設け、表座敷の背後には中廊下をはさんで裏座敷3間を配し、裏座敷上部には屋根裏部屋が設けてある。総体的に木割が細く、松を主材とし簡素ではあるが隅々まで端正な構えを見せている。なお、筋葺きに用いられている特殊な形の浅瓦は「両袖瓦」と呼ばれ、この城下町西岩国地区に集中してみられる地方色として注目される。

建築後、およそ200年を経て建物は全体に緩みをきたしたほか、数回に及ぶ床下浸水による腐朽に加え、蟻害も広範囲に及んでいたため、昭和50年10月から解体修理工事を起し、同53年12月に竣工した。修繕に当たっては、できるだけ古材の再用に務め、やむを得ず取り換えを必要としたものは同種材をもって補足し、形式、工法等は従来の技法を踏襲とて、当初の姿に復旧した。

平成31年1月         岩国教育委員会
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ネットから目加田家住宅の平面図を転用させていただきました。この図を見ながら上の説明を読むと部屋の配置がよく分かると思います。旧目加田家住宅で風呂が置かれていた場所が気になるところですが、湯殿などの記述がありません。170石の武家の家なので風呂はあったと思います。他の武家屋敷では1畳程度の土間がある部屋に風呂が置かれていることから、風呂が置ける場所の候補としては、建物の最も右上の1畳半の部屋か、厠の「たたき」か、台所の横の板の間か土間などです。クリックすると拡大右の写真は参考として掲載させていただいた千葉県の佐倉藩の300石の武家屋敷の風呂(湯殿)です。ちなみに佐倉藩の150石と50石の武家屋敷の平面図には湯殿はありませんでした。西日本の風呂と言えば五右衛門風呂が有名ですが、江戸時代は鉄は貴重であったことから全鉄製の五右衛門風呂は高価で、まだまだ普及はしていなかったようです。
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3間の裏座敷側からの写真です。障子があるのが裏座敷です。左から4畳、8畳、3畳の裏座敷です。右端の建物が厠(かわや/便所)です。上の平面図の左上(北北東)から撮った写真です。
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今回は厠の写真を撮りました。 <追加>
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裏座敷を大きく撮った写真も紹介します。平屋の建物のように見えますが、裏座敷の上に中二階があります。その中二階の窓が写真から分かると思います。
上で紹介の平面図をクリックすると中二階の位置を赤色で書いた平面図を表示します。
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平面図の右下(南)方向から撮った写真です。一番手前に3畳の仲間部屋があり、その左側の凹んだ部分が脇玄関で、脇玄関の左側に式台のある玄関の間があります。
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クリックすると拡大前回掲載した時の冒頭の写真に写っている「建物について」と「両袖瓦について」の説明板を紹介します。クリックすると読める大きさに拡大いたします。右の写真は両袖瓦の説明板の中にある写真と同じ位置を撮った写真です。ただし、撮った角度と範囲は少し違います。右の写真も拡大します。 <追加>
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前回は撮っていない角度からの写真を紹介します。
右端に井戸があります。 <追加>
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井戸を単独で撮りました。 <追加>
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井戸の石組も見事でした。 <追加>
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少し離れた位置からの全景の写真を紹介します。 <追加>
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こちらが玄関の間です。玄関の間の奥に中二階に上がる階段が写っています。その奥に裏座敷を見ることが出来ます。
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二階への上り階段の下の2段はには引き出しが付いていました。 <追加>
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遠くから式台のある玄関の間を正面に撮りました。今までに掲載した武家屋敷が下記です。170石は米俵が約425俵に相当します。着色文字をクリックすると記事を表示します。
 千葉県 佐倉   佐倉の武家屋敷 3軒     300石 150石 50石
 兵庫県 丹波篠山 丹波篠山の御徒士町と武家屋敷 高12石3人扶持
 山口県 岩国   旧目加田家住宅        170石
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岩国市公式観光Webサイトに目加田家住宅の30秒の動画があったので掲載させていただきました。


Googleマップの航空写真に目加田家住宅を書き込みました。橙色の枠が目加田家住宅の敷地で、臙脂色の部分が武家屋敷の建物を示しています。青色のラインが岩徳線の川西駅から岩国城に上がるロープウェイの山麓駅までの散策ルートです。シロヘビ館や鵜の里(鵜飼育施設)の隣りにあるので、錦帯橋から少し足を延ばす価値があると思います。黄色のラインが2021年11月の更新で紹介した初めて庭のエリアに入ったルートです。


岩国徴古館で保管されていた古地図「旧岩国城下図(横山)」に目加田家が記載されているので紹介します。作製年は不明だそうですが、岩国城の御土居(麓の城)のところに御城と書かれていることから明治維新から1884年(明治17年))の間の可能性が高いように感じます。 明治17年に御土居(居館)跡に吉香神社が建てられたからで、もし明治17年以降であれば御城跡ではなく吉香神社と書かれていると思われるからです。本地図をクリックすると広い範囲の大きな地図を表示します。今回の武家屋敷が城のそばであったことが本地図でも判りました。
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クリックすると拡大目加田家あたりを拡大いたしました。「目加田」の文字が読めると思います。目加田の後ろの一文字は名前と思われますが、折り目部分で滲んでいるために現時点では読み取れていませんが、我家で検討した結果の名前の第一候補は甫(はじめ)です。もし名前が正しいとすれば古地図が描かれた時の主の氏名は目加田甫(めかだ はじめ)ということになります。下の古地図の右端の大きな文字は御城跡です。御城跡と書かれている場所は現在は吉香神社となっています。ホリ(堀)は現在も同じ配置で存在しています。
古地図のオリジナルはこちらです。→ポチッ
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Google地図の航空写真と同じように北が上になるように回転した古地図です。
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クリックすると拡大上の回転させた古地図に近い範囲を表示させたGoogleマップです。本地図で堀が昔のままだあることが分かっていただけると思います。右の小さな写真は堀の写真で、堀の写真の中の建物は錦雲閣です。



初めて入った庭の部分の写真をこの下に追加します。ここから下の写真は全て今回(2021年11月)に追加したものなので<追加>は省略いたしました。
この写真の中の小さな門から庭に入りました。
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こちらがその門です。飛び石が門から続いているのが判っていただけると思います。
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庭に入る門の位置から撮った景色です。家の中からの庭の景色が想像されます。
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こちらが庭の写真です。
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庭の方から建物を撮った写真です。広い縁側部分が印象的でした。右側の部屋が次の間で、左側の部屋が表座敷です。次の間も表座敷も客用の部屋です。つまり客用の部屋の前に手入れされた庭があったようです。
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部屋についての説明板がありました。1977年と1978年の修理の時に改築されていた部分を建設当時の間取りに復元したそうです。説明内容を枠内に転記いたします。
部屋について

旧目加田家住宅の内部には様々な部屋があり江戸時代岩国の武家住宅の様相を残しています。昭和49年(1974)に国重要文化財の指定を受けた後、昭和52年(1977) 53年(1978)の修理によって、これまでに改築がなされた部分を建設当時の間取りに復元しています。
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座敷は客を迎え入れる表座敷と家族が利用する裏座敷があり、表座敷の前には次の間と呼ばれる控えの部屋があります。

このほかにも、台所や、主人の身の回りの世話をする中間(ちゅうげん)がつめる中間部屋などがあります。
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庭のコーナー(西方向)からの建物の全景写真です。
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厠(かわや/便所)につながる廊下がよくわかります。
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目加田家に関する説明板も紹介します。これに寄れは目加田家は元々は近江国愛知郡(滋賀県愛知郡愛荘町)の出身だそうです。その出身地の滋賀県愛知郡愛荘町に今も残されている目賀田城跡の写真が掲載されていました。ネットでの目賀田城の説明では目加田城とも記載されていました。岩国に関する記述も出てきました。目賀田家(目加田家)は分家も多くあったと書かれていたことからその中の一つではないかと想像されます。説明内容を枠内に転記いたしました。
目加田家について

目加田家は元々、近江国愛知郡(滋賀県愛知郡愛荘町)出身の豪族です。天正年間(1573-93)に吉川元春に仕え、関ヶ原の合戦後、吉川広家に従って出雲国富田(島根県安来市)より岩国に移り、以降吉川氏の家臣として明治まで仕えます。屋敷地は江戸中期の屋敷割図によると現在地のままであり、この地で続いていたことが伺えます。

吉川氏の家臣達の系図を編纂した「御家中系図」によると、天保年間(1831-45)は御用人役と呼ばれる藩の政策を審議する役所の政務官を勤め、知行(武士の身分に与えられる俸禄)は170石でした。


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目賀田城跡

(滋賀県愛知郡愛荘町教育委員会提供)
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クリックすると拡大以前に紹介しましたが建物は一見は平屋に見えますが、2階建であることはこの角度の写真だと良く分かると思います。右の写真の2階部屋は洪水の時の避難場所として設けられたと考えられています。数回の床下浸水は記録されているようです。
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敷地外からの旧目加田家住宅の景観を紹介するためにGoogleのストリートビューSV)を掲載させていただきました。このSVは真下を是非とも見てほしいです。画面を真上にスクロールすると真下が見れます。
posted by SORI at 10:46| Comment(48) | 山口県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月21日

白山比咩神社 岩国

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

シロヘビ館の次に訪れたのは白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)です。本記事では白山比咩神社を紹介したいと思います。敷地内の建物の配置をGoogle地図の航空写真で紹介します。クリックすると拡大
 A 一の鳥居
 B 手水舎
 C 錦川水神社
 D 桜門
 E 白山比咩神社 拝殿
 F 御霊神社 拝殿
 G 御霊神社 本殿
 H 倉庫 ?
 I 白山比咩神社 本殿
水色のラインが白山比咩神社境内の散策ルートです。錦帯橋の右岸側から一の鳥居までの距離は徒歩で約500mで、左岸側からだと約710mです。錦帯橋の左岸からだと錦帯橋を渡ることになります。

こちらが白山比咩神社の一の鳥居(A)です。鳥居の正面に見えているのが手水舎です。本写真をクリックすると全体の写真を特別に大きく(面積で16倍に)拡大するように設定させていただいたので、手水舎も確認できると思います。
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上の写真の右端に写っている説明版です。説明の内容を転記する形で枠内に紹介します。説明文では現在の社殿は1897年に建てられたものと書かれていますが、社殿の中で一番大きな建物の拝殿は2004年5月13日に火災により焼失したことから、2005年12月に再建された建物です。
しら やま ひ め じん じゃ
白山比咩神社

この神社は白山比咩神社(別命菊理媛の命)大己貴の命(大国主命の別命)を祭っている。創建年代は明らかでないが、伝えられるところによると、加賀国(石川県白山神社の分霊を移し祭ったものという。永興寺伝記によればもとこの社は永興寺の鎮守社であったと記してあり、永興寺所蔵の神輿には永禄二年(一五五九年)正月の字が刻まれている。萩の近藤清石の風土記によれと、鎮守云々は誤りで一時永興寺僧徒の奉仕したことが推し図られるとしている。

社前の石鳥居は元禄七年(一六九四年)吉川広紀(第四藩主)のご寄進で石柱に宇都宮遯庵(漢学者)の碑文がある。享保十二年(一七二七年)に再建された大規模の社殿は明治二十三年(一八九〇年)に焼失した。現在の建物は明治三十一年二月(一八九八年)に完成したものである。
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鳥居の正面に見えた手水舎(B)です。ここを右に曲がると神社の拝殿や本殿に進みます。
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手水舎を拡大いたしました。
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クリックすると拡大手水舎の水盤を拡大いたしました。正面に取り付けられている紋は岩国藩の藩主の吉川家の家紋です。クリックすると拡大
右の大きい方の写真は下の写真から家紋の部分を切り取ったものです。クリックすると拡大いたします。
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手水舎の前から進行方向を見た写真です。正面に見えているのは錦川水神社(C)で、左に見えている建物は白山比咩神社の社殿入口の楼門です。
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こちらが錦川水神社(C)です。右の石柱には恭仰神徳と書かれていて、左の石柱には揁謝水恩と書かれています。左の揁謝水恩は水の恵みに感謝する意味だと思われます。恭仰神徳は神に敬意表す言葉のようです。ちなみに8月には錦川の豊かな恵みに感謝する祭である水恩感謝祭が行われるそうです。
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錦川水神社の本殿です。御祭神は弥都波能売神(みづはのめのかみ)です。
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真横から見た錦川水神社の本殿です。
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錦川水神社の由来の説明板です。転記する形で枠内に説明内容を紹介します。
  錦川水神社

  御祭神 弥都波能売神(みづはのめのかみ)

岩国市を貫流する錦川は古代より優れた水質と豊富な水量によって近代産業誘致の原動力となり一面天下の奇橋錦帯橋によって観光面に於いても岩国市今 日の繁栄をもたらしたものであるが近来世情一般に動もすれば此の偉大な水恩に対する感謝の念薄れつつ有るを愁へ岩国市観光協会会長坂井正夫氏が発起して神社を建立して永々錦川の守護神として崇め水恩に感謝すると共に岩国市永遠の発展を祈念すべし昭和四十九年十一月十日竣工せしものにて偶々前年第六十回伊勢神宮式年御遷宮に際会し神宮の古材の一部の御分譲を得て当白山比咩神社境内に建立せしもので有ります。  以上
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錦川水神社から見た白山比咩神社の桜門です。
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白山比咩神社の社殿の門の桜門(D)です。これより内側が社殿です。
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桜門を拡大いたしました。
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門には見事な龍の彫り物がありました。


門から見た拝殿(E)です。
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左の石柱は瑞拱紅雲日月光と書かれていて右の石柱には祥開黄道乾坤潤と書かれています。
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石柱の注連縄をくぐって撮った拝殿です。祭神に関してはサイトによって祭神1と祭神2の記載がありました。大己貴神および大己貴命は、有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)のことです。古事記に記される因幡の白兎の神話に大国主命が登場するのは有名な話です。
 名称  白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ) 
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 祭神1 白山比咩 (しらやまひめのかみ) 
     大己貴  (おおなむちのかみ
 祭神2 菊理媛  (きくりひめのみこと
     小白山比咩(こしらやまひめにみこと
     大己貴  (おおむなちのみこと)大国主
 SV  https://goo.gl/maps/9vedyiS8mVP2EXoG8
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拡大した拝殿の写真を掲載しました。拝殿の後ろには本殿があります。クリックすると拡大こちらの写真をクリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
右は青木哥彦が描いた白山比咩神です。神社の名前になっている祭神である白山比咩神は菊理媛神と同一神とされていて、古事記には記載されていませんが日本書紀の一書(第十)に一度のみ出てくる神(命)です。記載の原文を枠内に記載します。白山比咩神(菊理媛神)のことはほとんどわかっていませんが、伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされているそうです。
及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。
時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。
是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。
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拝殿の前には立派な青銅製の灯篭がありました。こちらの写真もクリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
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斜め方向から撮った拝殿です。
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参拝のしかたの説明板がありました。神拝詞(となえことば)が書かれているのは珍しいので写真に撮りました。
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拝殿の後ろには本殿(I)があります。左の建物が拝殿と社務所です。
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本殿には近づけないので写真を拡大いたしました。
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拝殿の横には湧き水が流れ出るところがありました。
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湧き水はこちの溝を流れて最終的には錦川に流れていくのだと思います。さすが境内に錦川水神社があるだけのことはあります。
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こちらは白山比咩神社の拝殿の横にあった御霊神社です。こちらの建物は御霊神社の拝殿(F)で後ろに本殿がありました。御霊神社には鎌倉権五郎命を祀っているそうです。
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こちらが御霊神社の本殿(G)です。由来は調べ切れていませんが、立派な本殿を持つ神社でした。
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謎の建物の前に対の四角い石灯篭が置かれていました。
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こちらが謎の建物(H)です。倉庫のようにも感じる建物がネットで見てもわかりませんでした。
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以前の記事で紹介したように1884年(明治17年)に建立された吉香神社の社殿(本殿、拝殿、神門など)は白山比咩神社内に吉川興経を祀る治功大明神として1728年(享保18年)に造営されたものを1884年(明治17年)に移築に近い形で建立されたそうです。つまり1728年~1884年にはこちらの社殿は白山比咩神社の境内にあったことになります。
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古地図(作製年不明)の中に白山社と書かれているのが、白山比咩神社です。クリックすると拡大この時は吉香神社の文字はなく御城跡と書かれていることから白山比咩神社は吉香神社より前からあったことが判ります。白山社の文字の左側に治功社の文字が読み取れます。吉香神社は明治5年に吉川家の氏神社3社(治功社、高秀社、鎮昭社)を統合した神社だそうです。今は治功社の鳥居が建っていたあたりに柏原美術館(2020年10月1日に岩国美術館から改称)が建っています。ネットで調べてみると明治4年の廃藩置県の後、吉川経健は東京移住を命ぜられたときに治功社と高秀社と鎮昭社は廃社となる筈ででしたが岩国城下の旧士民が吉川家に請うて、高秀社と鎮昭社の二社を治功社に併合して、明治6年に吉香神社と号したそうです。さらに明治18年4月(1885年)に白山神社境内から治功社(吉香神社)が居館跡(御城跡)に移転したことが判りました。岩国藩藩主の吉川家は藤原氏南家の支流で駿河国入江庄に住んで入江氏を称した維清3代の孫、入江景義の嫡男経義が寿永・文治の頃(1183~86)入江庄吉川(静岡県清水市)に居館を構え、吉川と称したのが始まりだそうです。
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白山比咩神社を広い範囲の地図で紹介したいと思います。赤色マーク( )は私が3歳から10歳(少学4年)まで住んでいた場所(井口)です。通っていた幼稚園は聖モニカ幼稚園で、小学校は広島市立井口小学校でした。今は大きな小学校のようですが私が通っていた頃は1学年が1クラスでした。私のクラスは34人だったので全校生徒数は約200人の規模でした。0歳~2歳までは兵庫県に住んでいました。10歳~36歳までは主に兵庫県に住んでいて、その後は千葉県に住んでいます。
ラベル:錦帯橋 神社 岩国
posted by SORI at 07:33| Comment(24) | 山口県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年11月06日

シロヘビ館 白へびの赤ちゃん「ラブちゃん」

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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以前に錦帯橋に来た時に、シロヘビ館を新しく(リニューアル)するために、仮設のシロヘビ観覧所がソフトクリーム店の前に作られていたので、子供の時以来初めてシロヘビを見たことを報告させていただいたことがあります。その仮設シロヘビ観覧所でシロヘビを2015年12月26日に見て以来、リニューアルされたシロヘビ館を訪れたいと思っていました。5年半以上経ちましたが、やっと今回2021年9月18日に実現させることが出来ました。上の写真は2020年10月31日に生まれたばかりの白ヘビの赤ちゃんです。手のひらに乗っているので大きさが判ってもらえると思います。この写真が載ったパネルが掲載されていたので、そのパネルを撮った写真から切り取りました。これが白ヘビなのかと思われる方がおられると思いますが、生まれたばかりの赤ちゃんは皮膚が薄く毛細血管が透けることからオレンジ色の模様が浮き上がって見えるそうです。クリックすると拡大成長して大きくなると模様がなくなり、右の写真のように白色かクリーム色になります。名前はラブちゃんです。頭の額にハートマークがあったことから命名されたそうです。あとでラブちゃんの今の姿を紹介したいと思います。頭の模様はいろんな形が現れるそうですがハート型は珍しいそうです。

シロヘビ館を最初に入った部屋の展示物です。江戸時代の白へびと人々の関りを表したものです。岩国ではネズミなどを捕ってくれる白へびを大切にしていたのです。
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展示されていた古地図に米蔵の場所が書かれていたことから上の写真は、その米蔵を再現したものなのかもしれません。
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入口て写真のタッチペンが渡されました。このタッチペンで展示物の操作を行うことが出来るのです。主に子供たちが興味深くタッチペンで操作していました。指でも操作できるのですが、新型コロナ対策として消毒したタッチペンを渡しているのだと感じました。


展示物の一部を紹介します。細長いものは脱皮したヘビの皮です。
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こちらがガラス張りのシロヘビの展示室です。多くのシロヘビは岩の下にいるのですが表に出てきていたのは1匹でした。左端に見える円筒状のケースには冒頭で紹介したシロヘビの赤ちゃんのラブちゃんが入っています。ただし、生まれて11ケ月経つのでオレンジ色の模様はありませんでしたが、体は小さな赤ちゃんヘビでした。
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上のシロヘビも岩の下に入っていきました。爬虫類の4目の中でヘビが属する有鱗目は7160以上の種がいる最大のグループで、その中のヘビ亜目(ヘビ)は3000以上の種がいます。右の写真が旭山動物園のアオダイショウです。岩国のシロヘビ(白蛇)はアオダイショウが白化したヘビです。クリックすると拡大
 カメ目       Testudines   約500種
 ムカシトカゲ目   Sphenodontia  2種のみ
 ワニ目       Crocodilia    23種
 有鱗目       Squamata   
  トカゲ亜目    Sauria     4000種以上
  ヘビ亜目(ヘビ) Serpentes   3000種以上
  ミミズトカゲ亜目 Amphisbaenia 約160種
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岩の下に沢山のシロヘビがいました。
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こちらがラブちゃんが入ったケースです。真ん中に大きな拡大鏡になっていますが、ラブちゃんは地面にいました。
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こちらが現在のラブちゃんです。オレンジ色の縞模様は少なくなっていました。ハートマークまでは確認できませんでした。ネットで確認した結果、2021年3月3日の時点ではハートマークが確認できました。
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ハートマークの赤ちゃんシロヘビのラブちゃんの説明を紹介します。枠内が転記した内容です。
ラブちゃん 恋愛の神様の使い!?

シロヘビの赤ちゃんにロマンチックなハートマークを発見!!

このようにハートに見えるものは、飼育員でもめったに見ることが出来ません。拝めば、ラブ運上昇かも!!
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シロヘビの赤ちゃんは皮膚が薄いのでオレンジ色の模様であることの説明が書かれていました。
生まれた時はオレンジ色

赤ちゃんは皮膚が薄く毛細血管が透けるため、オレンジ色に見えます。特に頭部にはいろんな形の模様を見ることができます。

しかし、成長すると模様は次第に消えていきます。大人になる頃には、体の色は白色またはクリーム色になります。
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シロヘビ館の外観を撮り忘れていたのでストリートビューを掲載させていただきました。


航空写真で見たシロヘビ館です。右斜め下方向が前記事で紹介した鵜飼育施設(吉香 鵜の里)です。


錦帯橋のシロヘビ館を紹介した30秒の動画がネットにあったので掲載させていただきました。サイトの名前はやまぐち映像図鑑です。


以前に掲載したシロヘビの記事「岩国のシロヘビ 天然記念物」を紹介します。続きを読む
posted by SORI at 09:27| Comment(44) | 山口県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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