2015年01月05日

御影のケーキ屋さん

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昨年の2014年12月27日は実家の宝塚からお袋と日帰りで山口県に墓参りに行きました。いつも新岩国駅とお墓の往復に車を出してくれているのが岩国に住んでいる叔父さんです。その叔父さんへのお土産の一つに関西の焼き菓子を持って行きます。前回の時はすでに紹介の通り、芦屋の人気店の焼き菓子にしました。今回は夙川の焼き菓子にするつもりで、念のために12月26日にお店が開いていることをネットで確認すると12月23日(火曜日)の代休で休みだったのです。前回の芦屋のお店も、別の夙川のお店もすべて12月26日は代休でお休みでした。そこで阪急西宮ガーデンズにある阪急百貨店に行ってみました。そこには沢山の焼き菓子店がありました。その中で気になったのが御影の焼き菓子店「高杉」でした。そこの焼き菓子をお土産として買いましたが、自分たち用にケーキも買いました。そのケーキが上の写真です。

こちらが、私が食べたイチゴのショートケーキです。ホームページを見た印象では御影高杉の看板ショートケーキのようで、ボリューム感のある美味しいケーキでした。
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こちらが息子が食べたバナナとイチジクのケーキです。
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こちらがお袋が食べたモンブランです。写真を撮る前に食べ始めてしまったので、飾りの栗などは無くなっいました。
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こちらは、自分たち用に買った焼き菓子です。お土産の味見を兼ねて買いました。
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こちらの焼き菓子はガトーマロン(Gâteau marron)で栗が使われていました。
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焼き菓子の中に栗が丸々使われていました。
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自宅用に買ってきたクッキーです。ピスタチオナッツクッキーです。
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今回のお店のあった阪急西宮ガーデンズは西宮球場の跡地に2008年11月26日にオープンしたショッピングセンターです。現在は広いショッピングセンターが沢山ありますが、オープン時は国内3番目の広さだったそうです。
敷地面積は71,000m²で、延床面積は247,000m² だそうです。核テナントである阪急百貨店(西宮阪急)の面積は25,000m²あります。その他にTOHOシネマズやイズミヤがあります。屋上庭園のスカイガーデンは9,000m²の広さがあり、六甲山系に自生する樹木や桜、果樹などが植えられて、オルゴールの音色に合わせて踊る噴水も設置されているそうです。ケーキ屋さんを紹介します。がお店の場所です。
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 住所 西宮市高松町14-1
 最寄 阪急西宮北口駅より徒歩3分
 電話 0798-62-1381
 営業 10:00~20:00
 定休 不定休 西宮阪急と同じ
 本店 神戸市東灘区御影2丁目4番10-101号
 URL http://www.mikage-takasugi.com/
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偶然ですが私が生まれて12ケ月目前後のときの写真に西宮球場が写っていました。私は10ケ月ほどで歩いたとのことでした。その時は阪急夙川駅の近くに住んでいて、2歳の時に広島市に引越しました。写真の左の建物が阪急西宮球場で、右手に見える山は六甲山です。
阪急西宮球場は2004年に取り壊されましたが、阪神甲子園球場に対抗して、今から78年前の1937年5月1日に完成した大きな球場で、57000人収容の球場は当時としては日本屈指の大きさだったそうです。
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2014年11月06日

本場・明石で玉子焼を食べました。

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先日、十年以上も食べていなかった明石焼きを東京で食べたことを紹介したばかりでしたが、本場の明石で、その明石焼きを食べる機会がありました。上の写真がその明石焼きです。朱塗りの板は手前が低くて奥が高くなっていました。
食べやすく配置されるのが本場の明石焼きでした。

メニューの最初のページに、ど~んと載っていました。中に使われている蛸は地元の明石タコが使われて10個で400円は安いです。お店の中で食べさせていただきましたが、持ち帰りに何人も買いに来られていました。


焼くところを撮らせていただきました。普通のたこ焼きは金属の千枚通しのようなキリを使いますが。こちらでは2本の竹ベラを使っていました。やわらかいので竹ベラ(あるいは菜箸)なのだと思います。
たこ焼きが鉄板を使うのに対して明石焼は銅版を使うのも特徴の一つです。
銅板の上に朱塗りの板をかぶせて銅板ごと、ひっくり返して板の上に明石焼きをきれいに並べるのです。銅板の淵の部分が高くなっているのがミソです。この高くなった淵のおかげで板を上にかぶせてひっくり返せるわけです。柔らかな玉子焼(明石焼)を作る工夫が集約された道具なのだと思いました。
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玉子焼を拡大してみました。ふわふわ感が伝わるでしょうか。写真をクリックするとさらに拡大するので、ふわふわ感と美味しさが伝えられるかもしれません。
明石の玉子焼は見た目はたこ焼きに似ており柔らかく直径5cm程度の球形が自重で押し潰れたような形をしています。江戸時代の終わり頃から食べられていて、たこ焼きの元になった食べ物といわれているます。
玉子焼は、約160年の歴史を持つと言われていますが、現在の玉子焼を商売としてはじめたのは、95年前の大正八年(1919年)から玉子焼の屋台を引いていた、現在の樽屋町にお住まいだった向井清太郎さんと言われています。向井さんの玉子焼は評判となり、口コミで広がり人気があったそうです。そして大阪にもその評判が伝わり大阪から業者が見学に来る程、有名になったそうです。
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材料に鶏卵を使う点、生地が非常にやわらかい点、小麦粉以外に沈粉と呼ばれる小麦でんぷんの粉を使う点、焼き板が熱伝導が良い銅製である点、明石焼きを裏返すのに銅製の焼き板を傷つけないよう、金属製の道具を用いず菜箸を使う点、具が基本的にタコのみである点などが、いわゆる大阪のたこ焼きとは異なります。
小さなまな板状の木製の皿に盛り付けられ、添えて出される出汁に浸けて食べます。この出汁に浸して食べるスタイルこそが、玉子焼きの最大の特色です。出汁も美味しく飲めました。
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地元といえども明石蛸は値段が高いですから「明石だこ」が使われているのはうれしいです。明石蛸の美味しさの秘密は、先ずは美味しい餌が豊富なことだそうです。明石海峡には海老や蟹(特に大好物のフタホシイシガニ)が繁殖して、それを食べています。次の理由が海流です。明石海峡の早い潮流の中、蛸を大好物と狙う敵に身を隠しながら、すばしっこく暮らさなければならないことが筋肉質な体を作り出し、かみ締めるほどに味の出る、超一流の明石蛸の味の秘密だそうです。
明石では玉子焼とよばれています。明石以外では明石焼とよばれます。明石市のなかでも特に明石駅の南側の魚市場・魚の棚あたりにある店舗が有名で、明石を目指す観光客の目的の一つにもなっています。「明石焼」のみの表記の店舗(玉子焼の表記がない店舗)には老舗は少なく、むしろ観光客向けの店舗だそうです。
私の入ったお店は明石駅の近くではなく西明石駅前にあるお店「玉子焼ピコ」です。こちらでは玉子焼と明石焼の両方が使われていました。
写真の中で気になるものが右の「揚げピコ」です。3個が130円で6個が250円と書かれています。これはどうやら明石焼を油で揚げたもののようです。ワンコインセットが500円と書かれていますが明石焼+生ビールが500円なのです。つまり生ビールが100円で飲めるサービスです。ここは、明石駅の近くのように観光客の多いところではないので、味のよくわかった地元の人がお客さんのため、味は本物だと思います。
お店の中では明石焼以外に、いろんな酒の肴がありました。明石は魚が美味しいところなので刺身も新鮮なのが食べれそうでした。隣のテーブルでは玉子焼や酒の肴に焼酎のお湯割で盛り上がっていました。
  店名 玉子焼ピコ
  住所 兵庫県明石市西明石南町1丁目4−13
  電話 078-922-8590
  最寄 JR西明石駅
  SV  http://goo.gl/maps/b6Utj


作り方をネットで調べてみました。ただし本レシピは専門店のレシピではないので参考としてください。
 材料(4人分)
  ・明石ダコ 適量
  ・卵     3個 
  ・だし汁   2カップ 前日から昆布を浸けておいた水に塩やカツオで味付
  ・小麦粉  60g
  ・じん粉   60g
  ・つけ汁  適量   だし汁にカツオ・薄口醤油を加えて煮立てる
 手順
  1.タコを塩でもんでぬめりを取り、水でよく洗う。
  2.タコをたっぷりのお湯でゆで、1センチ角程度に切る。
  3.小麦粉とじん粉をふるいにかけ、だし汁で溶く。
  4.さらに卵を溶き、加える。
  5.熱した鉄板に仕込んだ4.を注ぎ、そこへタコを1個ずつ入れる。
  6.形を丸く整えながら、丁寧にひっくり返し、ふっくらと焼き上げる。
  7.お好みでつけ汁に三つ葉を加え、お熱いうちに召し上がれ。
   ※つけ汁は熱くても冷たくても、どちらでもお好みに合わせて。
下記の地図の臙脂色マーク( )が、お店「ピコ」の場所です。明石市には沢山の明石焼のお店があります。観光協会に登録されているお店だけで34軒もありました。神戸市須磨区に住んでいる頃(29歳~37歳)によく行ったのは明石の魚棚にある「明石焼 よし川」というお店です。今はTVや雑誌でとりあげられている有名店になりました。

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posted by SORI at 07:11| Comment(48) | TrackBack(1) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月04日

芦屋のケーキ屋さん ポッシュ・ドゥ・レーヴ

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クリックすると拡大お彼岸の墓参に山口県の叔父さんのところにお土産に右の焼き菓子を持って行きました。小さい方の箱が人気No1の和三盆リングサブレ8個セット1380円です。大きい方がサブレ、ブリアン、パウンド、マドレーが入ったセット3430円です。本来は実際に食べてから美味しいことを確認してから持って行くべきでしたが、そのステップを怠っていました。お袋が年四回ほど墓参りに行くので次も買う機会があるので事後ではありますが、味見だけはしておきたかったのです。今回、宝塚の実家に行く機会があったので、味の確認のために焼き菓子を買いに行きました。上の写真がジャパンケーキショー連合会会長賞を受賞した、人気NO.1の和三盆リングサブレです。三盆糖リングサブレは四国和三盆糖が使用されているそうです。ホームページの説明通り、 和三盆の上質な甘さと、ナッツのザクッとした食感がとてもよかったです。手作りの為、サイズには差が出るようです。和三盆リングサブレ(160円)は皆が食べれるように8個買いました。

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和三盆リングサブレ以外で買った焼き菓子はショコラヌガティーヌ(160円)、本和香くるみサブレ(160円)、ノワゼット(160円)、塩バニラサブレ(160円)、抹茶フリアン(190円)、ガトーピスタチオ(200円)、バニラフリアン(200円)、メープルフリアン(190円)、ピスタチオサブレ(150円)、抹茶ゴマブレ(160円)、ピニョンショコラ(160円)、ゴマサブレ(130円)の12種類でした。この美味しさなら、次の時にお土産に持って行って大丈夫であることを確認いたしました。
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こちらは抹茶フリアンです。宇治の最高級抹茶を使用したフリアンだそうです。フィナンシエと作り方は同じですが、フィナンシエ は金塊という意味で、こちらの店ではオーバル型という型で焼成している為に 「フリアン」という呼び方をしているそうです。
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こちらはピスタチオサブレです。ネットで調べてみるとイタリアシシリー産ピスタチオの香りが活きているサブレでした。右端に少し見えているのはピニョンショコラです。こちらは高級な松の実を使用し、フランスヴァローナ社の カカオ分の強めのショコラを贅沢に使用したビターな大人のショコラサブレだそうです。
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お店を紹介いたします。
 店名 Poche du Rêve ポッシュ・ドゥ・レーヴ芦屋
 住所 兵庫県芦屋市公光町9番7号モントルービル
 電話 0797-32-0302
 営業 10:30~19:00 水曜日のみ9:30~17:00
 定休 火曜日
 創業 2009年1月10日
 店長 伊藤 福子 オーナーパティシエ
 HP  https://www.poche-du-reve.com/
 最寄 阪神電車 芦屋駅 北口から75m
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今回もケーキを買いました。味見のための焼き菓子を買いに行ったと冒頭で説明をいたしましたが、千里の親しい知り合いの家にお土産のケーキを買うのも目的の一つだったのです。自分も食べると言う前提で4つ買いました。知り合いの家に着いてさっそく頂きました。次のルートで行きました。
逆瀬川→芦屋川(阪急)-[徒歩992m]→Poche du Rêve-[徒歩75m]→芦屋(阪神)→梅田→千里中央
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今回のケーキを紹介します。こちらはタルトアプリコット(430円)です。
アプリコットのタルトで、アプリコットの酸味と、生地に使っている、チーズとアーモンドのクリームとの相性が良いケーキでした。オープン以来唯一店頭に並び続けている商品でもあるそうです。
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こちらはフロマージ(460円)です。
ベイクドフロマージュに相性の良いベリーフルーツのコンフィチュールを流し込み、フロマージュブランのムースと合わせたそうです。
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こちらはロトンヌ(480円)です。現在、ホームページでの説明がないのですが、食べた中で一番評判がよかったです。
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こちらが、栗のショートケーキ(460円)です。こちも、ホームページに掲載が無いので説明できないのですが、季節を感じさせてくれる美味しい一品でした。
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ケーキには、やっぱり紅茶ですね。私は栗のショートケーキをいただきました。
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紅茶もいいものを出してもらいました。
MARIAGE FRERES(マリアージュ フレール)です。


紅茶もアップいたしました。お店に訪問したのは次の2回でした。
  1回目 2014年09年21日 → ポチッ
  2回目 2014年10月12日 ← 今回
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阪神電車・芦屋駅のホームから見た芦屋川です。六甲山から海側に流れてくる川は砂礫の堆積により河床(川底)が周辺の平面地よりも高く なった天井川という形式の川が多いのですが、芦屋川も天井川という形式の川です。写真ではわかりにくいのですが、川の両岸も広い範囲で周辺の平面地よりも高くなっています。
阪神電車や阪急電鉄はその川の上を高い高架で走っていますが、JR東海道線は川の下を走っています。→芦屋川 住吉川
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JR東海道線が芦屋川の下をくぐっているところです。くぐらすために川底が下流側よりかなり高くなっていることが判ると思います。
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posted by SORI at 13:26| Comment(27) | TrackBack(1) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月28日

兵庫陶芸美術館 立杭焼の里

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すでに紹介した焼き物の里である兵庫県篠山市今田町の立杭地区と川を挟んだ山の裾野に陶芸美術館があります。室町時代から大正時代に兵庫県内で作られた焼き物の美術館で正式名は兵庫陶芸美術館です。本記事ではその兵庫陶芸美術館を紹介いたします。JR相野駅を9時35分発(始発)に乗ったバスはこの兵庫陶芸美術館行きで、ここに着きました。
兵庫陶芸美術館が建てられた立杭の焼き物は平安時代からの歴史があり、丹波立杭焼、あるいは丹波焼、あるいは立杭焼ともいわれて、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前と共に六古窯の一つに数えられています。山のふもとの斜面に建つ白い建物が兵庫陶芸美術館です。

こちらはすでに紹介した記事「丹波立杭焼の里」の中で掲載した兵庫陶芸美術館の写真です。川の名前は四斗谷川(しとだにがわ)で、陶芸の里らしく壺が飾られた橋の名前は「ほとけ橋」です。
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登り坂の入口に作られた兵庫陶芸美術館の看板です。
英語の名称はThe Museum of Ceramie Art, Hyogoです。


看板を過ぎで坂を登っていくと陶芸美術館が見えてきます。


エレベーターで上がった後、この渡廊下で美術館に向かいます。


ガラス張りの渡廊下からは立杭の集落が見えました。私が乗ってきたバスも右端に少し写っています。


正面が美術館の入口です。ここには9時50分に着きました。Openの10時まで周りを散策させてもらいました。小さな陶器のランタンが沢山並べられていました。日が暮れるときれいな景色が見れるのだと思います。
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美術館の入口から上の写真を撮った場所の方向の写真です。沢山の石が景色を作っていました。
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石だと思ったのは陶器でした。
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割れ目を作っていないと陶器とはわからない色合いと地肌でした。これらは杉浦康益さんの一つの作品で作品名は「丹波逍遥・語り合う沈黙2005」です。
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クリックすると拡大こちらが入館券です。この時の観覧料は本来は600円でしたがJAFの会員カードを持っていたことから団体と同じ500円になりました。
名前 兵庫陶芸美術館

    The Museum of Ceramie Art, Hyogo

住所 兵庫県篠山市今田町上立杭4

電話 079-597-3961

営業 11月~3月 10:00~18:00

    4月~10月 10:00~19:00

    特別イベント 10:00~21:00

休館 月曜日 12月31日~1月1日

料金 展覧会ごとに異なるそうです。

    ネットで割引券入手可

HP  http://www.mcart.jp/ 

開館 2005年10月1日

所蔵 1700点

     この時に展示されていたのは152点でした。

構成 展示室5室(1階:2室、2階に2室、地下:1室)

展示 丹波焼(丹波) 出石焼(豊岡) 八鹿焼(養父) 三田焼(三田) 王地山焼(篠山)

    東山焼(姫路) 珉平焼(淡路) 赤穂焼(赤穂) 明石焼(明石) 舞子焼(神戸)

    明浦山焼(明石) 鷺脚焼(姫路) 盈進舎(出石) 永世舎(姫路) 淡陶舎など
  

美術館では新収蔵品展「美の再発見 兵庫のやきもの」が行われていました。会期は2013年12月7日~2014年2月16日でした。
美術館内は写真撮影禁止なので、展示室の雰囲気を感じてもらうためにネットから下記の写真を転用させていただきました。展示は部屋ごとに4章に分かれて132点が展示されていました。
 2F 第1章 丹波                   1 ~ 42 室町前期~江戸後期
 2F 第2章 出石と八鹿              43 ~ 65 江戸~明治~大正
 B1 第3章 三田・王地山そして東山・赤穂  66 ~ 94 江戸~明治~大正
 1F 第4章 明石・珉平そして清風与平     95 ~132 江戸~明治~大正



これらの写真はパンフレットとHPから転用させていただいた陶器7点です。
 左側の写真が室町時代後期の丹波焼の壺です。
 右側の写真が江戸時代後期の三田焼の青磁牡丹文角皿です。


 左側の写真が明治時代の出石焼の白磁梅樹文龍耳花瓶です。
 中央の写真が江戸時代後期の王地山焼の赤絵金彩唐人物図花瓶です。
 右がの写真が江戸時代後期の東山焼の染付騎馬人物鹿図耳付花瓶です。


 左側の写真が江戸時代後期の明石焼の色絵亀甲文手桶形水指です。
 右側の写真が明治~大正時代の淡陶社の色絵花鳥図鉢です。


同じ館内の1F(一階)で、田島悦子展も行なわれていました。ガラスと黄色の陶器を組み合わせた作品でした。14点が展示されていました。こちらは2013年9月21日~2014年2月19日までの開催でした。併設して江戸時代前期の丹波焼の壺も6点展示されていました。作品は「灰釉山椒壺」が3点、「灰釉六角朝倉山椒壺」が1点、「灰釉六角面取山椒壺」が2点でした。


陶芸美術館に隣接して「立杭陶の郷」があり、こちらには沢山の観光バスが停まっていました。この中には立杭の窯元が54軒集まった窯元横丁があり、じっくりと見て作品を買うことが出来ます。ただし私は知らなかったのでこちらには来ませんでした。
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こちらがホームページから転用させていただいた窯元横丁の写真です。
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今回は知らないでいかなかったのですが、紹介する値打ちがありそうなのでホームページから転用させてもらった窯元横丁の地図を掲載します。この地図からも雰囲気が判ってもらえると思います。私が今回買った吟兵ヱ窯や以前に壺を買った丹京窯もあります。前記事で紹介した窯元は、すべてそろっています。
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赤色マークが陶芸美術館で、黄色のマークが窯元横丁などがある「立杭陶の郷」です。左側の緑色マーク(窯元案内板)や空色マーク(登り窯)がある集落が、沢山の窯元がある立杭地区です。窯元を訪ね歩くのも懐かしくて楽しかったです。

より大きな地図で 立杭集落 を表示
ace:
posted by SORI at 18:17| Comment(28) | TrackBack(0) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月26日

丹波立杭焼の里

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2014年2月5日~9日まで関西に行って宝塚の実家に泊まっていました。2月7日に時間があったので関東に引っ越してからご無沙汰になっていた丹波立杭焼の里である兵庫県篠山市今田町の立杭地区に行ってきました。
丹波立杭焼(たんばたちくいやき)は丹波焼あるいは立杭焼ともいわれています。起源は平安時代にまで遡るといわれ、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前と共に六古窯の一つに数えられて主に生活雑器を焼いてきました。江戸時代後期には篠山藩の保護育成などもあり、直作、一房、花遊、一此、市作など世に名を轟かせる陶芸家を輩出したそうです。窖窯時代には小野原焼と呼ばれていたが、登り窯時代になって、現在の呼び名である丹波焼あるいは立杭焼と呼ばれるようになったそうです。
丹波立杭焼の特徴は、登り窯により最高温度約1300度で50〜70時間も焼かれるため器の上に降りかかった松の薪の灰が、釉薬と化合して窯変、「灰被り」と呼ばれる独特な模様と色が現出し、また炎の当たり方によって一品ずつ異なった表情を生み出すことだそうです。

JR福知山線の宝塚駅を9時6分発の篠山口行きの快速に乗って相野まで行きそこからバスかタクシーで行くつもりでした。バスの時刻は判らないので、とりあえず立杭に10時くらいに着く電車を選びました。


相野駅が見えてきました。
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相野駅のホームです。


相野駅には9時30分に着き、出発寸前のバスに飛び乗りました。戻ってきたときに確認するとバスは9時35分発でした。ゆっくりとトイレに行ってからバス停に行ったのでギリギリだったわけです。


すぐにバスに乗れたので頻繁にバスがあるのかと思いましたが、下の時刻表を見てもらえればわかるようら一日に6本しか走っていないバスに偶然に乗れたのでした。それも始発でした。なんという偶然なのでしょう。平日が6本で土曜、日曜、祝日が8本なので、電車で行かれる方のために時刻表を掲載いたしました。帰りも気をつけないといけないことが判ってもらえると思います。降りる時に親切な運転手さんに帰る時のバス停留所が時間帯によって違うことを教えてもらいました。この時刻表をクリックすると下立杭の時刻表を表示します。
クリックすると下立杭の時刻表を表示

なんとバスは相野駅から終点の陶芸美術館まで私一人でした。


バスはこの坂を登って見えている県陶芸美術館に到着いたしました。県陶芸美術館で兵庫県のいろんな時代の陶器を見た後に立杭の集落の方に向かいました。


立杭の集落に向かう途中で見える陶芸美術館の景観です。川の名前は四斗谷川(しとだにがわ)で、陶芸の里らしい橋の名前は「ほとけ橋」です。
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立杭の周辺の景色を紹介します。北の方向を撮った写真です。正面に見える山は白髪岳(721.8m)だと思います。丹波富士とも言われています。
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こちらは立杭の集落です。左の方が下立杭で右の方が上立杭です。現在、今田町上立杭、下立杭、釜屋地区に約60軒の丹波立杭焼の窯元があるそうです。
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集落の中に入りました。ほそい路地が趣がありました。その路地に「窯元路地歩き」の看板が立てられるだけのことがありました。その路地にはそれぞれ「アベマキ坂」「こやすさん坂」「窯の壷坂」「なかみち通り」「やきもの通り」などの名前が付けられていました。
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この路地を登ったところにも窯元がありました。
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路地を歩いていると小さな社(やしろ)もありました。真っ赤な鳥居には稲荷大明神と書かれていました。


それぞれの窯元も趣があります。こちらは俊彦窯(としひこがま)です。清水俊彦(S20)さんと清水剛(S50)が作られているそうです。
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こちらの窯元は丹波・山キ窯・喜仁です。
こちらの「山キ」は文字ではなく「山キ」=なのです。つまり「丹波窯」です。こちらは大上喜仁さん(S31)がやられています。
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こちらも大きな窯元でした。こちらは茶陶丸カ窯です。
こちらの「丸カ」も文字ではなく「丸カ」=なのです。つまり「茶陶窯」です。こちらは市野年彦さん(S31)がやられています。
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こちら窯元は丹窓窯です。写真の中の右端に登り窯が写っています。
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遠くから撮った写真に、その登り窯が写っていました。
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これが登り窯です。
全国的に中世には轆轤(ろくろ)を用いない紐作りという手法で形を整え、窖窯と呼ばれる独特の窯で釉薬を用いず、焼き締めて作られていたそうです。江戸時代に入ると登り窯が用いられるようになり、ここ立杭では今でも沢山の登り窯が残っているようです。
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反対側から見た登り窯です。
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クリックすると拡大立杭の登り窯の特徴は先端の「蜂の巣」と呼ばれる煙出しの部分です。この煙出しの部分は「くど先」「火さき」とも呼ばれています。右の「蜂の巣」から炎が噴き出している写真はネットから転用させていただきました。最近は煙突が付けらりることが多くなったことから、「蜂の巣」から炎が噴き出す美しい光景は少なくなったそうです。
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登り窯は山麓の傾斜地に「そだて石」とよぶ石を並べて基礎とし、割り竹を縄で編んだものを支えとして、両側から「まくら」を半円形に積み上げられるそうです。このまくらは、山土を型に入れてこしらえた立方体の日干し煉瓦(れんが)で、現在では鉄板を支えとして積まれることが多いようです。このとき出入り口や燃料の投入口も設けられ、最後に「ごぢん」とよぶ窯内部の床を厚く塗り固めて完成します。この図はネットから借用させていただきました。
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こちらが窯詰の出入口です。中の煉瓦の表面から高温で焼かれることが判ってもらえると思います。
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ここには複数の登り窯がありました。煉瓦の煙突が建てられた登り窯です。これらは上立杭にあった登り窯です。
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下立杭の方に下りていく途中に大きな木の下にクリックすると拡大社が立てられているところがありました。この木はアベマキで、「上立杭の大アベマキ」として平成元年12月12日に郷土記念物に指定されました。木の姿が扇を開いたように見えるので「おうぎの木」あるいは「おみの木」とよばれ、地域の神木として崇められています。アベマキとしては、兵庫県位置の巨木です。ここから右に行く道が「アベマキ坂」と名付けられています。鳥居には「正一位稲荷大明神」と書かれていました。
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「おみの木」の脇を上がっていく道です。この奥にも窯元がいくつかありました。
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こちらの道にも沢山の窯元がありました。
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立杭の集落のメインストリートです。
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窯元マップがあったので写真を撮りました。クリックすると拡大します。左方向が北方向になります。この看板に書かれている窯元を紹介いたします。
樫山窯 大雅窯 英一窯 省三窯 末晴窯 陶幸窯 山五陶勝窯 大熊窯 丹水窯 (かねと)窯 茶陶窯 丹波窯 製陶所 源右衛門窯 義治窯 窯 丹波窯 窯元やまの 丹窓窯 雅峰窯 珀耀窯 俊彦窯 こおほ窯 陶芳窯 義年窯 丹京窯 丹泉窯 新右エ門窯 信行窯 炎丹久窯 豪人窯 稲右衛門窯 昇陽窯 伝市窯 陶山窯 丹山窯 丹満窯 悟窯 忠作窯 吟兵ヱ窯 松本製陶所 直作窯 圭泉窯 丹誠窯 丹久窯 林造窯 鎮台窯 寿庵 壺市
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緑色マークが窯元マップが立てられていたところです。空色マークが登り窯で、すでに紹介したのが、北側(上側)の登り窯です。赤色マークが陶芸美術館で、黄色のマークが54軒の窯元の作品が広いスペースに窯元ごとに並べて売られている「立杭陶の郷」です。

より大きな地図で 立杭集落 を表示
上の地図の南側(下側)の登り窯です。沢山の登り窯があることが判ってもらえると思います。


こちらの登り窯は兵庫県の指定文化財です。この窯は現在も共同で使用されています。長さは47mで9袋を持っているそうです。記録によると今から119年前の明治28年(1895年)の構築で、立杭に置いては現存の登り窯のなかで最も古いそうです。
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上の写真と反対側から撮ったものです。
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上の方向からの写真も紹介します。
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宝塚の実家に住んでいたころに同じ登り窯を撮った写真が残っていました。
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クリックすると拡大クリックすると拡大入社してすぐのころは車で気楽に行けたので何度も社内の友達同士や、家族で行きました。右の写真はお袋と姪っ子(私の姉の長女)です。
近世における丹波焼は、慶長16年(1611)ごろ、朝鮮式半地上の登り窯が導入されて穴窯時代から登り窯時代になったといわれています。その頃は釜屋の山麓に登り窯が築かれていたので「釜屋時代」「山麓時代」ともよばれていたそうです。人が住む下立杭や上立杭に登り窯が作られたのは宝暦2年(1752)で、里に登り窯が作られたことから「里窯時代」とよばれたそうです。
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昔の写真で煙出しの「蜂の巣」の写真がありました。蜂の巣から吹き出される真っ赤な炎は美しいと思います。
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横には別の登り窯もありました。
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横には丹京窯という窯元がありました。
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実は、昔、こちらの丹京窯で大きな壺を買いました。その壺は今も実家にあります。今は息子さん(清水昌義さん)が窯元をやられているそうです。つまり先代(清水丹京さん)の作くられた壺になります。今度、実家に帰った時に写真を撮って紹介いたします。
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追伸
こちらが、昔に買った清水丹京さんの壺です。
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拡大してみました。クリックすると拡大

添えられていた説明書きです。
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久しぶりに立杭に来たのでお土産を買おうとしましたが閉っているお店も多かったです。寒い時期の平日のため、立杭の集落では、ほとんど人は見かけませんでしたが10月の第3土曜、日曜日には「陶器まつり」が開催され、普段は人通りもまばらな窯元の立ち並ぶ小路まで多くの人々が繰り出し終日賑わうそうです。年間で十万人が訪れるそうです。お土産に買ったのがこちらの吟兵ヱ窯です。


店内を撮らせていただきました。今の窯元の名前は吟兵ヱ保宏(大西保宏)です。私が関西に住んでいたころの窯元のお孫さんだそうです。時間がたったことを感じました。吟兵ヱ窯を紹介します。
  窯元 吟兵ヱ窯(ぎんべいがま)
  陶工 吟兵ヱ保宏(大西保宏) 先代は大西寿
  住所 兵庫県篠山市今田町下立杭187-1
  電話 079-597-2065
  詳細 http://www.tanbayaki.com/kamamoto_shosai/59.htm
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壁際に並べられているのが薪で焼かれた陶器です。手前の方にガス窯および電気窯で焼かれたものが並べられていました。せっかく立杭に来たので薪で焼かれたごはん茶碗を買いました。薪を燃料とした場合は登り窯と穴窯の両方があるようです。
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これが購入した、ご飯茶碗です。
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お土産も買ったので帰ることにいたしました。立杭公会堂前が12時30分のバスで、乗ったのは一停先の下立杭だったので12時32分でした。このバスを逃すと15時25分までバスがありませんでした。心配していましたが時間通りに相野駅行きのバスが来ました。


次の電車は13時3分でした。


相野駅の写真を紹介します。
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この電車で宝塚まで帰りました。
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翌日は学生時代のサイクリング部のOB交流会に出た後、2月9日は雪のためにべた遅れの飛行機に乗って家に帰りました。
さっそく立杭焼きの茶碗で、ご飯を頂きました。趣のある茶碗で食べるご飯は美味しかったです。
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これらが我が家のごはん茶碗です。
クリックすると拡大クリックすると拡大右の3枚の写真は1998年に買った2っの笠間焼と1999年ごろに買った益子焼の茶碗ですが、最近、割ってしまいました。ちょっと残念ですが、使うことを前提に買っているので仕方クリックすると拡大がないことなのです。
下の写真の上段の左が砥部焼で、真中が割った茶碗と一緒に買った笠間焼です。上段の右の茶碗と下段の右の茶碗が益子焼です。下段の左が今回買った立杭焼の茶碗です。大事に使わさせていただきます。
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立杭の場所を紹介いたします。兵庫県篠山市今田町上立杭および兵庫県篠山市今田町下立杭が立杭集落です。赤色ラインが相野駅~立杭のバス路線で、緑色ラインが宝塚~相野のJR福知山線です。

より大きな地図で 立杭集落 を表示
ラベル:茶碗 陶器 砥部焼
posted by SORI at 11:24| Comment(24) | TrackBack(1) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月03日

天空の白鷺 姫路城

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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2013年9月13日に兵庫県姫路市にある世界遺産の姫路城に行ってきました。
クリックすると拡大ただし、今は上の写真のような天守閣を見ることが出来ません。
2009年から45年ぶりの改修工事に入って天守閣が右の写真のように改修工事用の仮設建物(素屋根)で、すっぽりと覆われてしまったからです。
上の写真は2007年5月11日に撮ったものです。2006年からは姫路城には3回来ており今回が4回目でした。それ以前は中学校時代に、さかのぼります。私の人生では5回目になります。
全国で、1940年時点において江戸時代の天守閣は20ほど存在していましたが、その後の焼失などで現在の現存天守は12天守です。それにしても姫路城の国宝8棟・重要文化財74棟は群を抜いています。
 現存12天守
   天守建造 城名          文化財
   1601年 姫路城  国宝8棟 重要文化財74棟 特別史跡 世界遺産
   1606年 彦根城  国宝2棟  重要文化財 5棟 特別史跡 
   1615年 松本城  国宝5棟          史跡
   1601年 犬山城  国宝1棟
   1852年 松山城       重要文化財21棟 史跡
   1747年 高知城       重要文化財15棟 史跡
   1810年 弘前城       重要文化財 9棟
   1681年 備中松山城     重要文化財 3棟 史跡
   1660年 丸亀城       重要文化財 3棟 史跡
   1607年 松江城       重要文化財 1棟 史跡
   1666年 宇和島城      重要文化財 1棟 史跡
    不明  丸岡城       重要文化財 1棟
 焼失 8天守(1940年以降)
   戦争 : 水戸城 大垣城 名古屋城 和歌山城 岡山城 福山城 広島城
        広島城は原爆により、他は空襲により、すべて1945年に焼失
   失火 : 松前城(1949年)

太平洋戦争で日本中の多くの天守閣が失われましたが、姫路城も紙一重で焼失を免れた幸運の城でもありました。特に大天守に直撃した焼夷弾が不発だったことは奇跡に近い幸運だったのかもしれません。枠内にWikipediaの内容を転記しました。枠内の写真は天守閣を隠すため擬装網がかけられた姫路城です。
太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていてかつ軍需産業の拠点でもあった姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととした。

クリックすると拡大しかし、1945年(昭和20年)7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされた。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったことなどにより、城郭建築の焼失は免れた。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという。この空襲の罹災者を西の丸に避難・収容した。擬装網は終戦後に撤去された。

かつて、姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったと言われていたこともあるが、獨協大学の四宮満の研究によって否定されている。城内にも実際に着弾したものの、運良く破壊を免れただけのことであり、事前に爆撃対象から外されていたわけではなかったと考えられる。

当時のB-29の機長だったアーサー・トームズは戦後50年に来日し姫路を訪れた際に「私は城があることすら知らなかった。上官から城について何の指示もなかった。レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と語っており、実際の空爆時刻が夜間だったこともあって上空からは姫路城とは視認されず、レーダーには外堀の水が映ったことから姫路城一帯を沼地だと思い、沼地を攻撃しても意味がないと判断したため爆撃しなかったと回顧している。

今回、姫路城に見学に来た目的は素屋根(仮設建物)の最上階から同じ高さで天守閣の最上階の屋根を見ることでした。
その仮設建物の素屋根は2014年1月中旬から解体に入ることから、仮設建物(素屋根)内部から天守閣を見ることが出来るのは2014年1月15日で終わってしまうため、最後のチャンスと思い、兵庫県宝塚の実家に帰省していた機会に見に行きました。逆瀬川駅から阪急電車に乗り三ノ宮でJRの新快速に乗り換えて姫路を目指しました。
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姫路駅から正面に姫路城を見ることが出来ます。やはり天守閣はすっぽりと素屋根に覆われていました。
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姫路駅と姫路城の中間地点から見た景色です。素屋根には姫路城の実物大の絵が描かれていました。
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町の中にも昔の城壁跡が残されていました。現在の姫路城の敷地は結構広いのですが、昔はそれの数倍の広さがあったのでした。こちらが大通りから東側です。
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こちらが大通りの西側の城壁跡です。


この石碑に特別史跡・姫路城跡と書かれています。石碑の左面に1956年11月26年に特別史跡に指定されたことが書かれていました。


姫路城前まで来ました。
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桜門橋を渡ると姫路城の敷地に入ります。
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桜門橋前の堀です。敷地はこの水堀で囲まれていました。
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大手門です。江戸時代には桜門と桐二門と桐一門の3つの門で構成されており、石垣を組み合わせた二重枡形虎口となっていて、通り抜けるには180度の方向転換を強いられる構造になっていました。しかし、城としての役目を終えた後、それらは取り壊され、桜門の前の橋も無くなり濠は埋められました。今ある大手門は桐ニ門があった場所に1938年に再建され物です。現在の大手門を桜門と呼ぶこともあるようです。
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大手門脇の石垣の上からの桜門橋の方向の景色です。
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反対方向から見た桜門橋です。
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城の城壁から見た水堀です。
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横から見た大手門です。
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大手門をくぐると三の丸広場が広がります。目の前に天守閣を覆う素屋根が大きく見えてきました。右側に伸びる工事用の鉄骨橋が印象的でした。
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Google航空写真で姫路城を紹介します。2013年9月30日時点では天守閣を覆う素屋根が航空写真に入っています。

ここで仮設建物(素屋根)に覆われる以前の天守閣の写真を紹介します。
2006年と2007年に突然に3回も行く機会を得ました。中学校の遠足以来でした。4月の桜の季節と5月の新緑の季節と12月のクリスマスイブの日です。この写真は冒頭の写真ですが5月の新緑の季節の遠くから見た姫路城です。
姫路城 は内曲輪(うちくるわ)以内の面積は230,000m2で外曲輪(そとくるわ)以内の面積は2,330,000m2です。内曲輪の面積だけで甲子園球場のグラウンド(14,700m2)の約15.9倍になるそうです。
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上の写真はクリックすると拡大しますがクリックするのが面倒な方のために拡大写真を掲載します。クリックするとさらに拡大します。
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こちらは4月の満開の桜の季節に行った時の写真です。これはラッキーでした。
姫路城はその400年の歴史の中で、戦にまみえることなく、近代の戦災に遭うこともなかった、たぐいまれな城です。その結果天守や櫓、門などの保存状態が非常によいうえ、ほかに類例のない遺構も多く、極めて貴重な文化遺産となっているそうです。
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横(西方向)からの天守閣の姿です。細っそりしています。
天守閣の高さは姫山(標高45.6m)+石垣が14.85m+建物が31.5mで合計海抜92mになります。
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横(東方向)からの天守閣の姿です。こちら方向は、一般的には、あまり人が来ない場所なので珍しい景観かもしれません。でも、こちら側からの景観も高さがあり、すばらしいです。
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姫路城の天守台は大天守閣と3つ小天守で構成されており、その華麗な姿が特徴です。
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お城の地図を見ると迷路のようになっていることがよく判ります。天守閣が見えてもなかなかたどり着かないことは実際に歩いてみるとわかります。ここから下の写真は要塞の要の門を中心に写真を掲載いたします。


正面は壮大な姿です。木造建築では美しさも兼ね備えた日本建築最大級のものと言えると思います。
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こちらが大天守閣を覆う素屋根の図です。上の写真の右側(東側)から見た図面になっています。見学スペースが最上階の8階と7階と1階に設けられておりエレベーターで上がることが出来ます。緑の部分が見学者が入れるエリアです。天守閣自体は木造の昔のままで急な階段で足の不自由な方や車椅子の方は登ることは出来ませんが、この素屋根がある時期だけは同じ高さに登ることが出来るのです。車椅子で入りたい方は、特別なルートがあると思うので問い合わせをしてみてください。
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素屋根「天空の白鷺」に入館するには事前予約の方法と当日に入る方法があります。私は予約のことは知らなかったので当日で入りました。両方ともに料金は同じたと思います。平日では特に予約の必要はないと思います。当日の場合は先ず姫路城の入口で400円を支払、素屋根建物(天空の白鷺)の入口で自動販売機で200円を支払います。予約の人は一括で600円を支払うのだと思います。
  大人 400円(姫路城)+200円(天空の白鷺)
  小人 200円(姫路城)+100円(天空の白鷺)


工事予定表です。一番下の欄に「素屋根内見学可 (H26 1/15まで)」と書かれている通り2014年1月15日で見学終了となります。クリックすると拡大するので見やすくなると思います。2011年3月26日(開館)から2014年1月15日(閉館)までの天空の白鷺(素屋根)への入場者数は次の通りでした。
     2011年3月26日~2011年3月31日   12,057人
     2011年4月01日~2012年3月31日  549,732人
     2012年4月01日~2013年3月31日  622,286人
     2013年4月01日~2014年1月15日  659,331人
                         合 計 1,843,406人
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入場口を過ぎると「葵の門」が目に飛び込んできます。
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こちらは「葵の門」の前から天守閣を見た景色です。
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「菱の門」は美しい大きな門でした。この門をくぐるとすぐに右手に天守が見えます。攻め込んできた敵はすぐに天守に向かって突き進もうとしますが、道は三国濠とよばれる水だまりで狭められ、攻め込んできた兵は流れを悪くさせられます。さらにその奥にある「るの門」は「菱の門」からは見えない角度の石垣に作られた小さな門で、一度に多数の人が通ることが出来ず、束ねられた敵兵を待ちかまえて撃ち取りやすくするという巧妙な戦術がそこには隠されているそうです。この写真は2007年に撮ったものです。


正面から見た「葵の門」です。
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まっすぐに天守閣を目指しました。途中にお菊の井戸がありました。
お菊という女性の亡霊が「いちま~い、にま~い」と皿を数える、1741年に大坂豊竹座で初演された浄瑠璃の怪談話『播州皿屋敷』に登場する「お菊井戸」で、姫路城の沢山の伝説の中の一つです。
詳しくは説明文が建てられているので読んでみてください。
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現在は車椅子の方の仮設のスロープが設けられていました。車椅子の方1名と付き添いの方2名がスロープを登られているところです。
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スロープは素屋根「天空の白鷺」までつづきます。まさに今が車椅子の方が姫路城に行けるチャンスなのです。
 ホームページの車椅子利用→ポチッ


工事用の搬入鉄骨の下をくぐります。


素屋根「天空の白鷺」の入口に入場券の自動販売機があり200円の入館券を買いました。


入口を入った一階のホールです。フラッシュなしの写真撮影はOKでした。工事の方に配慮して「フラッシュ撮影」「動画撮影」「描写行為」は禁止されています。あとタバコは禁煙でペットの入館と飲食も禁止されています。
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エレベーターで最上階まで登れます。


この写真のようにエレベーターからは修復中の1階から8階まで連続で天守閣を見ることが出来るのです。


エレベーターの中から1階から8階までの8枚の景色を下から順番に紹介いたします。最上階に着いたとたんに上からの光で明るくなります。





最上階は大きな部屋になっていました。置かれているのは予備あるいは取り外された昭和のシャチホコです。このシャチホコの裏が内部を見る大きな窓になっています。おそらく反射を防ぐために見る位置を暗くする配慮だと思います。
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大きな窓から修復中の天守閣を見ることが出来ました。
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姫路城の修復の様子をビデオで見ることも出来ました。
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この景色を見たかったのです。姫路城の天守閣の屋根を水平目線で見ることが出来ることが出来るのは修復中の今だけなのです。
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大天守閣をすっぽりと覆う素屋根の大きさに圧倒されました。
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次の改修工事はいつになる判りませんが、今回は徹底した改修であり、簡単には出来ない工事であることから現在生きている人にとって、2013年が見ることのできる最後のチャンスなのかもしれません。
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避雷工事が徹底されていることが判りました。
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瓦の端には紋が掘られており2種類が交互に配置されていました。
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これが平成の鯱瓦(しゃちがわら / しゃしほこがわら)です。すでに天守閣の上に乗っていました。クリックすると鯱瓦の避雷設備も徹底していることが判ってもらえると思います。
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クリックすると拡大こちらが江戸時代からの四代のシヤシホコです。今回(平成)の鯱瓦は昭和のものとそっくりです。昭和の鯱瓦はの高さは6尺1寸5分(約186cm)で総重量は約278kgです。おそらく今回(平成)の鯱瓦も近いと思います。鯱(しゃち)とは、姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物です。それを模して屋根に使われる装飾・役瓦のことで、一字で鯱(しゃちほこ)あるいは鯱鉾とも書かれます。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では魚虎(しゃちほこ)と表記されているそうです。
右の看板は最上階に飾ってあった昭和の鯱瓦の横にあったものです。写真は4枚共にクリックすると拡大します。
    江戸時代                     明治時代
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    昭和時代                     平成時代
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最上階の景色です。これだけ広けた景色も今だけのものです。
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最上階(8階)から7階に降りる階段です。車椅子の方はエレベーターが利用できます。


こちらが7階から見た天守閣です。
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上の方を見た写真です。大きな一枚のガラスになっており全体を撮ることは出来ませんでした。
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ガラスに照明の光が反射しないように斜めに撮っています。
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7階からの景色です。ガラス窓も広いことからすばらしい景色でした。これは西方向です。
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こちらは北東方向の景色です。お城が広がっていました。
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こちらは南方向の景色です。正面が姫路駅です。
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7階の部屋です。こちらが7階の西方向です。広さが実感してもらえると思います。


こちらが7階の東方向です。エレベーターの降り口が奥にあります。


江戸時代の姫路城の図面です。左側は最近発見された1682年~1704年の間の詳細な図面です。現在と同じ範囲の図面です。右は城全体の図面で姫路城が現在の市街地まで広がった広大な城であったことが示されています。いずれの図面も北を上方向に回転させて掲載しているので展示(東が上 と 西が上)とは方向が違っています。
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7階からエレベーターで1階に降りてきました。石垣を見ることが出来ます。これは素屋根がなくなっても見ることが出来る場所です。ガラス越しに見れるのも今だけです。


1階の展示室です。


ここが天守閣に上がる入口でした。今は上がることが出来ません。
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今は入ることは出来ませんが天守閣の内部を2007年に撮った写真で紹介します。
姫路城のすごいところは昔のままの木で出来ているところです。日本でも鉄筋コンクリートのお城が多い中でこれだけの大きさの木造建築はすばらしいです。


天守閣の中です。中は結構広いことが判りました。


天守閣の一番上には神社が祭られていました。刑部神社と呼ばれています。


大天守閣は今は見ることは出来ませんが、大天守閣の西側には3つの小天守を見ることが出来ます。
その中で一番大きいのが乾小天守で天守台の西北隅(乾の方角)に位置して、外観3層・内部は地下1階・地上4階の造りになっています。
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見上げると小天守と言えども大きいことが判ります。
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防御のための工夫がされていました。
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ここから天守閣以外を紹介いたします。
姫路城は華麗な姿である一方で、堅固な要塞としても必見の価値があります。要塞としての機能性は、縄張(設計、構成、仕組み)のよしあしで決まります。姫路城の縄張は、抵抗(防御)線が3重の螺旋形になった複雑巧妙なもの。これは江戸城と姫路城にしか類例のない形式です。この門は「水三門」で天守閣の北西側の門です。
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2007年に撮った「水三門」の写真も紹介します。西小天守の下に位置する小さな門です。この先、天守閣への順路には水四門、水五門、水六門と続きます。


「水三門」から順番に紹介します。「水三門」の外側に位置するのが「水二門」で、これは「水二門」です。沢山の通路と門が入れ組んで迷路のようになっているため城内の地図がないと攻め込んでも迷ったと思います。
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反対側から見た「水二門」です。
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水二門の外側にあるのが水一門です。これが水一門の内側です。
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左側の門が「水一門」の外側です。いろんな方向に通路や門がありました。土色の壁は油壁です。山土に豆砂利を加え、もち米のとぎ汁とかお粥などで練り合わせた土を仮枠の中で叩き締めて築いたもので秀吉築城の名残の壁と言われています。油壁の右側を降りたところが「ほの門」です。
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「ほの門」を降りる前に「口ノ渡櫓」と呼ばれる場所があり、その建物の中には井戸などがありました。
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油壁の右側を降りたところの「ほの門」です。


外側から見た「ほの門」です。天守閣のすぐ近くなのに、この奥に沢山の門があり入り組んだ構造になっていることが判ってもらえると思います。
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「ほの門」の外側にあるのが「にの門」です。門には見えませんが、こちらが「にの門」です。
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建物の下が天上の低いトンネル状の通路になっているのです。建物の中でトンネルはでL字に曲がっているのです。


門の扉があります。狭い通路になって攻めるのを難しくしています。


その狭い通路です。
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狭い通路側から見た「にの門」です。「にの門」の外側にある「はの門」をくぐり、さらにまっすぐ天守の方へ延びる坂を上ると、今度は急に180度反対の方向へと進まされ、天守から徐々に遠ざかることになります。そして迷路のような道の先にある「にの門」は薄暗い空間で、敵兵が入ってくると二階から槍や鉄砲で攻撃される仕組みになっているそうです。


「にの門」の外側にあるのが「はの門」です。これが「はの門」です。
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奥に見えるのは「はの門」です。「はの門」へは天守にまっすぐ延びるような坂を上っていきます。この坂を上りそのまま駆け上がろうとする敵兵を、進入させにくくするために、「はの門」をくぐってすぐ前にある石段はわざと角をとり足を滑らせやすくしているそうです。
右に見える鉄砲狭間、矢狭間の数は、記録では3,125か所といわれています。現在残っているのは内曲輪のものだけですが、その数は997だそうです。
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2007年に撮った、ほぼ同じ場所からの写真です。やはり細い通路で敵を防ぐ構造だったのと思われます。「はの門」の門の外側にあるのが「ろの門」でその外側にあるのが「いの門」でその外側が「葵の門です。つまり今回、降りてきたルートを攻める場合は桜門→桐二門→桐一門→葵の門→いの門→ろの門→はの門→にの門→ほの門→水一門→水二門→水二門→水三門→水四門→水五門→水六門と通っていくことになります。


「葵の門」からは別のルートでも天守閣につながっています。別の門も紹介します。三層の門なので「ぬの門」だと思います。この門は重厚な鉄板がで作られ、門の上に二階建ての櫓がある姫路城内で唯一の三層の門です。この門は、上山里と呼ばれる広場へ続く門で、チの櫓、リの一渡櫓、リの二渡櫓などと繋がり一連の建物になっています。


これは「への門」だとおもわれます。東小天守の下に位置する小さな門です。姫路城の門を分類すると次のようになります。
 棟門(むねもん)   ちの門、、水一門、水ニ門
 櫓門(やぐらもん)  菱の門、はの門、と一門、ぬの門 (ぬの門は二重櫓)
 埋門(うずめもん)  ほの門、水三門、水四門
 穴門(あなもん)   るの門
 高麗門(こうらいもん)いの門、ろの門、への門、とニ門、と四門、りの門 
(への門は潜戸付、他5門は脇門付)


白い土塀に囲まれたところが徳川家康の孫娘である千姫が住んでいた西の丸です。天守閣の内部には入れませんが、実は姫路城で屋内が見学できる場所があります。
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それは西の丸の周囲の回廊です。「ワの櫓」から入り。ワの櫓→渡櫓→ヲの櫓→ルの櫓→西の丸長局(百閒廊下)→ヌの櫓→化粧櫓と見ることが出来ます。
くりっくすると拡大姫路城と言えば千姫(1597-1666)です。千姫が住んだのが西の丸です。西の丸の中央に建っていた住居部分は残っていませんが、化粧櫓や長局(百間廊下)、土塀等13棟の重要文化財が現存しており、そのあたりも散策の場としていたのではないでしょうか。
千姫といえば、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の長女です。千姫は7歳で豊臣秀頼に嫁ぎました。しかし、徳川方と豊臣方は激しく対立しました。その結果、秀頼は大坂夏の陣で自害し、千姫は夫に死別するという運命をたどったのです。そのあと千姫は、姫路城主の本多忠政の長男である本多忠刻に嫁ぐことになります。その際、将軍家から10万石の化粧料をもらったそうです。
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西の丸の南側の回廊も修復工事中でした。
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城壁も美しいです。コーナーにあるのは「ワの櫓」です。
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修復工事前の2007年の西の丸の城壁の写真も紹介します。コーナーにあるのが「ワの櫓」です。


渡櫓のあたりからの内側の景色です。長い回廊が続いているのが判ります。
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この渡櫓の廊下からは城の内側と外側を見ることが出来ました。


こちらの廊下は内側には部屋が並んでいました。左側の部屋は、ここでは大きな部屋の方でした。


沢山の侍女たちが暮らした長局で、百間廊下の呼び名がついているだけのことはありました。


回廊の内側には、このような部屋が無数にありました。このような部屋に侍女たちが暮らしていたのだと思います。


一番端の化粧櫓には大きな部屋がありました。
化粧櫓とは現代風に言えば美容院なのでしょうか?
上で紹介した沢山の部屋には侍女たちが住んでいたと思われるので美容院のような場所が必要だったのかもしれません。これは勝手な想像です。
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百人一首を楽しんでいる姿も再現されていました。ここは「化粧櫓」の中です。徳川家康の孫の千姫が本多忠刻に嫁ぎ、姫路城にやってきたとき、当時幕府の方針で城の改築は禁止されていましたが、将軍の孫娘とあって特例として千姫の化粧櫓が建てられたそうです。
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2007年の時は貝あわせを楽しんでいる姿が再現されていました。この時は「化粧櫓」の中には入れませんでしたが、今は入ることが出来ます。赤い着物姿の女性は千姫をモデルにしているようです。
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「化粧櫓」の中からの景色です。昔も、このような景色が見えていたのだと思うとロマンを感じます。
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千姫が遊んだ羽子板も展示されていました。


クリックすると拡大右の写真の「ぬの門」を登ったところにある「リの一渡櫓」では改修に伴い姫路城の瓦などの展示も行われていました。上で紹介した江戸と明治と昭和の3つの鯱瓦も、こちらの「リの一渡櫓」で展示されていました。
「リの一渡櫓」は「お菊井戸」の近くでもあります。


ここは「リの一渡櫓」の展示室の内部です。葵の御紋の瓦です。


これは昔の道具です。


皆さん熱心に見られていました。


沢山の甲冑類の展示もありました。天守閣内に展示されていたものも入っていると思います。
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全体のイメージを感じていただくためにWikimediaから拝借した明治初期の姫路城の鳥瞰図を紹介いたします。日本の天守閣は下記のように分類されています。現存天守と復元天守以外は数が多く調べ切れていない可能性があるため天守数に関しては参考程度とお考えください。すばらしいことに、名古屋城は木造復元天守にするためにSRC造の天守の解体工事が始まりました。木造復元天守の完成は2022年12月だそうです。
 現存天守  12天守 姫路城 彦根城 松本城 犬山城 松山城 など 
 木造復元天守 5天守 白河小峰城 掛川城 白石城 大洲城 新発田城
 外観復元天守 9天守 名古屋城 大垣城 広島城 和歌山城 岡山城 など  
 復興天守  14天守 大阪城 岐阜城 岸和田城 小倉城 岩国城 など
 模擬天守  51天守 洲本城 郡上八幡城 富山城 大多喜城 今治城 など
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天守閣のある城は上で紹介しましたが、それ以外に日本には沢山の城があります。下記リストはWikimediaで調べた日本の城です。これで全てではありません。小さな城はさらに沢山あると思います。着色された文字は今までに、その城に関連した内容の記事を書いた城です。着色文字をクリックすると記事を表示します。

北海道
松前城 五稜郭 四稜郭 志苔館 弁天台場 シベチャリチャシアイヌ民族の古城 モシリヤチャシアイヌ民族の古城 根室半島チャシ跡群アイヌ民族の古城

青森県
蠣崎城 田名部城 奥瀬館 七戸城(柏葉城) 野辺地城(金鶏城) 横浜館 櫛引城 新井田城 根城 八戸城 相内館 上名久井城 剣吉城 平良ヶ崎城 三戸城(留ヶ崎城・糠部城) 田子館 聖寿寺館(本三戸城) 浅水城 中市館 法師岡館 伝法寺館 沢田館 蓬田城 高畑城 油川城 尻八館 高田城 浅瀬石城(汗石城) 横内城 黒石城 田舎館城 大光寺城 浪岡城 藤崎城 福島城 唐川城 青柳館 石川城(大仏ヶ鼻城) 弘前城 小栗山館 堀越城 和徳城 大浦城(八幡城・賀田城) 種里城 元城(深浦館)

岩手県 
軽米城 小軽米城 種市城 野田城 久慈城 石峠館 千徳城 田鎖城 払川館 大槌城 鱒沢館 鍋倉城(遠野城) 火渡館 横田城 金田一城(四戸城) 九戸城 姉帯城 一戸城 浄法寺城 一方井城 葛巻城 雫石城(滴石城) 平館城 盛岡城(不来方城) 志波城(斯波城) 厨川柵(古代城柵) 乙部館 郡山城(高水寺城、志和館(城)) 徳丹城(古代城柵) 長岡城 樋爪館 見前館(見舞館) 大迫城 寺林城 新堀城 岩崎城 江釣子城 鹿島館(鬼柳城) 黒沢尻柵(古代城柵) 二子城 十二丁目城 花巻城(鳥谷ヶ崎城) 十八ヶ城(本館 (陸奥国)) 世田米城 片寄城 鳥海柵 嫗戸柵 岩谷堂城 人首城 胆沢城 水沢城 岩谷堂城 金ヶ崎城 衣川館 上口内城 前沢城 薄衣城 豊田館 一関城 白鳥舘 平泉館 接待館 伽羅御所

宮城県
仙台城(青葉城) 白石城(益岡城) 岩出山城(岩手沢城) 若林城 船岡城 松森城 涌谷城 笹森城 松山城(千石城) 川崎城 不動堂城(鶴頭城) 吉岡城 丸森城(丸山城) 鶴楯城(下草城) 中新田城 東光寺城 利府城 岩切城 角田城 多賀城 寺池城(登米要害) 金山城 北目城 根添城(根添館) 高清水城 佐沼城 岩沼城(鵜ヶ崎城) 平沢城 小堤城 亘理城 坂元城(蓑首城) 宮沢城 今泉城 名生城 大窪城 古川城

秋田県
久保田城 秋田城(古代城柵) 払田柵(古代城柵) 大館城 岩崎城 角館城 本堂城 本荘城 亀田城 横手城(韮城) 金沢柵 大鳥井山遺跡 吉田城 稲庭城 十狐城 湊城 紫島城 檜山城 脇本城 毛馬内城 花輪城

山形県
山形城(霞城) 朝日山城 左沢城 大山城 亀ヶ崎城(東禅寺城) 城輪柵(城輪柵跡) 寒河江城 小国城 鮭延城 清水城 白鳥城 新庄城(沼田城、鵜沼城) 高畑城 楯岡城 舘山城 鶴ヶ岡城(大宝寺城) 上山城(月岡城) 天童城(舞鶴城) 中山城 成生城 成沢城(鳴沢城) 長谷堂城 畑谷城 東根城 真木山城 松山城(松嶺城) 丸岡城 溝延城 谷地城 山野辺城 米沢城 出羽柵

福島県
若松城(鶴ヶ城) 白河小峰城 神指城 磐城平城(龍ヶ城) 小高城 谷地小屋城(蓑首城、新地要害) 駒ヶ嶺城 中村城(馬陵城) 高倉城 大館城(飯野平城) 長沼城 三春城(舞鶴城) 須賀川城 棚倉城 福島城 宇津峯城 猪苗代城 桧原城 八丁目城 石母田城 新宮城 二本松城(霞ヶ城) 鎌田城 水久保城 三芦城 小浜城 小手森城 桑折西山城 梁川城 大森城 大鳥城 霊山城 懸田城 陣ヶ峯城 北田城 鴫山城(南山城) 久川城 搦目城(白川城) 守山城 中丸城 柏木城 宮森城

茨城県
水戸城 伊佐城 牛久城 太田城 小田城 笠間城 久下田城 栗橋城 古河公方館(鴻巣御所) 古河城 頃藤城 多気城 土浦城 豊田城 助川海防城 逆井城 馬坂城 高井城 下館城 上条城 木原城 月居城 東林寺城 野口城 真壁城 松岡城 結城城 依上城 今泉城 守谷城 馴馬城 龍ケ崎城

栃木県
宇都宮城 飛山城 多気山城 真岡城 岡本城 西明寺城 茂木城 籠谷城 八木岡城 生田目城 中村城 古山城 勝山城 鹿沼城 壬生城 小山城 鷲城 中久喜城 羽生田城 唐沢山城 佐野城 足利城 足利氏館 皆川城 川崎城 矢板城 玉生城 松ヶ嶺城 山田城 伊佐野城 喜連川城 烏山城(臥牛城) 大田原城 黒羽城 千本城 福原城 成田城 山根城

群馬県
高崎城 館林城(尾曳城) 岩櫃城 大胡城 小泉城 白井城 膳城 反町館 高津戸城 倉賀野城 根小屋城 国峰城 新田金山城 名胡桃城 沼田城 柄杓山城(桐生城) 平井城 前橋城(厩橋城) 松井田城 箕輪城 安中城 中野城 山名城

埼玉県
川越城 青鳥城 岩槻城 小倉城 柏原城 河越館 雉岡城 児玉城 菖蒲城 杉山城 高見城 天神山城 難波田城(南畑城) 花園城 本庄城 松山陣屋 毛呂城(山根城) 蕨城 深谷城 鉢形城 吾那蜆城(大築城) 大堀山城 忍城 騎西城(根古屋城) 北秋津城 寿能城 菅谷館(城) 高坂館 滝の城 仲山城 根古屋城(龍谷城) 花崎城 羽生城 松山城 源範頼館 石戸城 山口城(児泉城)

千葉県
館山城 山下城 高月城 三原城 金山城 岡本城
勝浦城 金山城 山田城 鶴ヶ城 大多喜城 根古屋城 佐貫城 造海城(百首城) 百首城(造海城) 飯野陣屋 大戸城 久留里城 千本城 真里谷城 久保田城 大網城 小西城 坂田城 田中城 古城 高田城 宮崎城 山中城 坂田城 津辺城 富田城 成東城 松尾城 森城 今泉城 千田城 根古屋城 丸山城 榎本城 高山城 一宮城 小林城 本納城 牛久城 高田城 根古屋城 引田城 村上城 佐倉城 本佐倉城 大椎城 小弓城 亥鼻城 土気城 馬加城 生実城 高品城 大草城 御茶屋御殿 金堀城 中野城 中山城 鷺沼城 実籾城 米本城 臼井城 小林城 飯野城 高岡城 長沼城 鷺山城 中野城 大崎城 大戸城 山崎城 白井城 長岡城 山崎城 牛尾城 今泉城 和田城 内山城 長岡城 横須賀城 吉田城 高根城 金杉城 米ケ崎城 夏見城 大野城 国府台城 国分城 深井城 関宿城 増尾城 松戸城 栗ケ沢城 根木内城 小金城 佐津間城 小竹城 井野城 下高野館 先崎城

東京都
江戸城(皇居) 赤塚城 奥沢城 小田野城 葛西城 片倉城 勝沼城 辛垣城 品川台場 渋谷城(金王丸城) 志村城(板橋城、篠田城) 八王子城 石神井城 浄福寺城 深大寺城 世田谷城 高月城 滝山城 戸倉城 練馬城 初沢城 平塚城 小野路城 成瀬城

神奈川県
小田原城 足柄城 進士ヶ城 鷹之巣城 岡崎城 住吉城 玉縄城 浦賀城 三崎城 津久井城 石垣山城 石垣山一夜城) 大庭城 河村城 衣笠城 深見城 淵野辺城 荻野山中陣屋
小机城 笹下城 榎下城 茅ヶ崎城 大塚・歳勝土遺跡 枡形城 小沢城

新潟県
春日山城 北条城 高田城 長岡城 勝山城(落水城) 渟足柵 沼垂城 磐舟柵 村上城(本庄城・舞鶴城) 鳥坂城 栖吉城 栃尾城(舞鶴城) 蔵王堂城 新潟城 木場城 蒲原津城 上杉館 根知城 猿毛城 下田城 畑野城(熊谷城) 上条城 新発田城 村松城 三条城 津川城(麒麟山城) 赤谷城 五十公野城 河原田城(獅子ヶ城) 箕冠城 本与板城 与板城(直江城、直江山城) 与板城(与板陣屋) 赤田城 新津城 田中城 鮫ヶ尾城 坂戸城 平林城 福島城 雁金城 安田城 (越後国刈羽郡) 安田城 (越後国蒲原郡) 天神山城 長峰城
羽茂城

富山県
富山城 阿尾城 安楽寺城 安田城 安養寺城 井口城 井波城 一乗寺城 猿倉城 鴨城 岩木城 願海寺城 宮崎城 弓庄城 魚津城 源氏ヶ峰城 古国府城 御峰城(土山御坊) 今石動城 今泉城 寺家新屋敷館 柴田屋館 守山城 宗守館 小出城 庄ノ城(壇城) 松倉城 上見城 城生城 高岡城 城端城 赤丸城 千代ヶ様城 浅井城 増山城 太田本郷城 大村城 大峪城 池田城 (越中国射水郡) 池田城 (越中国新川郡) 中村山城 長沢西城 長沢東城 天神山城 湯山城(森寺城) 道坪野城 日宮城(火宮城) 日方江城 白鳥城 飯久保城 富崎城 布市城 福光城 放生津城 名畑城 木舟城 野尻城 蓮沼城

石川県
金沢城(尾山御坊) 小松城 大聖寺城 松任城 鳥越城 二曲城 津幡城 高尾城 松根城 朝日山城 岩倉城 荒山城 日谷城 今江城 虚空蔵城 南郷城 檜谷城 柏野城 高松城 森城 多田城 舟岡城 竹橋城 朝日山城 堅田城 一瀬城 七尾城 小丸山城 末森城 穴水城 天堂城 崎山城 (能登国) 末吉城 松波城 正院川尻城 飯田城 甲山城 幾保比城 石動山城 棚木城 荒屋城 棚懸城 勝山城 荒山城 金丸城 柴峠砦 石動山城 三日城 新宮城 富来城 木尾嶽城

福井県
一乗谷城 福井城(北ノ庄城) 金ヶ崎城 敦賀城 丸岡城 杣山城 小丸城 大野城 勝山城 三国湊城
後瀬山城 小浜城 国吉城 高浜城 箱ヶ岳城

山梨県
躑躅ヶ崎館(武田氏館) 甲府城(舞鶴城・一条小山城・府中城) 新府城 白山城 能見城 勝沼氏館 谷村城(谷村館) 上野原城 岩殿山城 小山城 勝山城 (甲斐国都留郡) 勝山城 (甲斐国八代郡) 要害山城 積翠寺城) 若神子城 谷戸城 御坂城

長野県
松本城(深志城) 上田城 小諸城 林城 井川館(井川城) 桐原城 山家城 埴原城 村井城(小屋城) 平瀬城 小岩嶽城 青柳城 大峰城 麻績城 真田本城(松尾城) 塩田城 岡城 丸子城 長窪城 内山城 志賀城 海ノ口城 春日城 (信濃国伊那郡) 龍岡城 戸石城(砥石城) 尼巌城 井上城 葛山城 旭山城 横田城 横山城 栗田城 生仁城 霞城 室賀城(原畑城、笹洞城) 松代城(海津城) 高遠城 塩崎城 清滝城 髻山城 長沼城 吉窪城 葛尾城 屋代城 荒砥城 牧之島城 古山城 割ヶ嶽城 飯山城 高梨氏館 鴨ヶ嶽城 内池館(市河氏館) 上原城 桑原城(高戸屋城) 高島城 望月城 春日城 (信濃国佐久郡) 春山城 羽場城 福与城 箕輪城 飯田城 鈴岡城 松尾城 (信濃国伊那郡) 大島城 道本城 福島城(木曽福島城) 妻籠城 森城 矢筒城

岐阜県
岐阜城 (稲葉山城) 郡上八幡城 阿木城 伊木山城 一柳城(大洞城) 鵜沼城 猿啄城(猿ばみ城、勝山城) 下切館 加治田城 加納城 革手城 刈安城 関城 岩村城 顔戸城 久々城 久々利城 金山城 戸狩城 広恵寺城 高桑城 黒野城 今城 根本城 (美濃国) 妻木城 細野城 鷺山城 三井城 山口城 篠脇城 十七条城 小原城 小倉山城 小野城(迫間城) 小里城 松尾山城 大垣城 上茜部城 跡部城 川手城 川田城 曽根城 太平城 大桑城 大森城 竹ヶ鼻城 長山城 長森城(切通陣屋) 椎倉城 鶴ヶ城 東殿山城 藤橋城(杉原砦) 堂洞城 八神城 飯羽間城 苗木城 伏屋城 米田城 片山城 菩提山城 北方城 墨俣城 本郷城 本城山城 無動寺城 明知城(明智城) 明智城 (美濃国可児郡) 毛利山城 柳津城 揖斐城 和知城 鉈尾山城
帰雲城 向小島城 広瀬城 江間氏下館 高原諏訪城 高山城 桜洞城 山下城 小鷹利城 小島城 松倉城 神岡城 増島城 東町城 萩原諏訪城 萩町城 尾崎城 馬籠城 松倉城 田代城

静岡県
駿府城 江尻城 興国寺城 葛山城 深沢城 花沢城 大宮城(富士城) 久能城(久能山城) 興津城(横山城) 蒲原城 沼津城 三枚橋城 持船城 丸子城 田中城 長久保城
韮山城(龍城) 山中城 深根城 高谷城 鎌田城 下田城(鵜島城) 長浜城 熱海城 戸倉城
掛川城 浜松城 高天神城 二俣城 天方城 犬居城 高根城 (遠江国) 諏訪原城 井伊谷城 宇津山城 堀江城 久野城 馬伏塚城 横須賀城 横地城 小山城 相良城

愛知県
清洲城(清須城) 名古屋城 那古野城 勝幡城 古渡城 末森城 守山城 岩倉城 小牧山城 犬山城 黒田城 入尾城 岩崎城 鳴海城 沓掛城 上条城 小折城 大高城 緒川城 大草城(知多市) 大草城(小牧市) 大野城(常滑市) 大野城(現一宮市) 大野城(愛西市) 一宮城 小田井城 楽田城 下大留城 下奈良城 下之一色城 白山城 早尾東城 吉田城(柏井城) 西溝口城 光明寺城 今村城 (尾張国) 横山城 (尾張国) 大留城 苅安賀城 木ノ下城 高田城(河田城) 九之坪城 奥城 竜泉寺城
岡崎城 安祥城 刈谷城(亀城) 西尾城(西条城) 東条城 上ノ郷城 寺部城(寺部陣屋) 真弓山城(足助城) 山中城 牛久保城 二連木城 牧野城 吉田城(今橋城、豊橋城) 田原城 長篠城 野田城 田峰城 井田城 大給城 大津城 亀山城(作手城) 挙母城(七州城) 中島城 形原城 上条城 (三河国) 上菱野城 川口城 月ヶ谷城 五本松城 古宮城 深溝城

三重県
長島城 亀山城 上野城(伊勢上野城) 長野城(中根城) 桑名城 田丸城(玉丸城) 津城(安濃津城) 神戸城 松ヶ島城 松坂城 大河内城 霧山城 多芸城 五ヶ所城 白米城 高城 枳城 家城城 鳥羽城 波切城 上野城(伊賀上野城・白鳳城) 名張城 丸山城 (伊賀国) 福地氏城 千賀地氏城 赤木城 中村山城 (紀伊国) 鬼ヶ城 仲氏館 関山砦 山ノ神砦 三木城 (紀伊国) 長島城 (紀伊国)

滋賀県
彦根城 安土城 大津城 小谷城 坂本城 佐和山城 膳所城 長浜城 水口城(碧水城) 水口岡山城(水口古城) 横山城 望月城 鎌刃城 上平寺城 東野山城 山本山城 水茎岡山城 観音寺城 山崎山城 八幡山城 壺笠山城 宇佐山城 日野城 箕作城 清水山城 大溝城 三雲城 朽木谷城 荒神山城 河瀬城 肥田城 鯰江城 高宮城 寺村城 矢守城

京都府
二条城(二条御所) 勝竜寺城 聚楽城(聚楽第) 山科本願寺 伏見城(桃山城) 槇島城 嵐山城 鹿背山城 淀古城 淀城 船岡山城 山崎城 (山城国)(宝寺城、天王山城) 堂ノ庭城 将軍山城(瓜生山城、北白川城) 福知山城 亀山城(丹波国) 八木城 (丹波国) 神尾山城 園部城
建部山城 田辺城(舞鶴城) 宮津城 弓木城

大阪府
大坂城(錦城) 池田城 茨木城 三宅城 芥川山城 芥川城 高槻城 丸山城 (摂津国能勢郡) 野田城 福井城 (摂津国) 安威城 安威砦 榎並城 太田城 (摂津国) 江口城 堀城 柴島城 大塚城(茶臼山陣城) 大和田城 普門寺城 郡山城 (摂津国) 吹田城 原田城 地黄城(地黄陣屋) 石山本願寺 佐保来栖山砦 岸和田城 淡輪城 深井城 畠中城 雨山・土丸城 千石堀城 貝吹山城 積善寺城
若江城 高屋城 飯盛山城 交野城 枚方城 高安城 上赤坂城 下赤坂城 野田城 岡山城 田原城 野崎城 千早城 平石城

兵庫県
姫路城(白鷺城) 三木城(釜山城) 英賀城 明石城 置塩城 淡河城 加古川城 上月城 白旗城 御着城 龍野城 利神城 波賀城 枝吉城 赤穂城 神吉城 光明寺城 小谷城 (播磨国) 感状山城 大嶋城 丸山城 (播磨国) 山崎城 中道子山城 豊地城 善防山城 船上城 満久城 妙見山城
伊丹城(有岡城) 尼崎城 越水城 瓦林城 丸山城 (摂津国有馬郡) 富松城 滝山城 (摂津国) 花隈城 兵庫城 山下城 三田城(車瀬城) 茶臼山城 鷹尾城 上津城 新田城 松岡城 (摂津国) 下田中城 道場城 有子山城 出石城 竹田城 豊岡城 此隅山城 八木城 朝倉城 宵田城 宿南城 八上城 黒井城 篠山城 岩尾城 洲本城 養宜館

奈良県
高取城 多聞山城 柳生城 五条二見城 信貴山城 龍王山城 二上山城 (大和国) 山田城 (大和国) 上庄北城 郡山城 (大和国) 宇陀松山城 筒井城 小泉城 (大和国) 片岡城 辰市城 福住中定城 椿井城 十市城 宿院城 森屋城

鳥取県
鳥取城(久松城) 丸山城 (因幡国高草郡) 丸山城 (因幡国邑美郡) 岩崎城 雁金山城 桐山城 景石城 山崎城 市場城 私部城 鹿野城 蛇山城 若桜鬼ヶ城 新山城 大崎城 天神山城 道竹城 二上山城 布勢天神山城 防己尾城 妙見山城 鵯尾城 宇部山五本松城 雨滝七曲城 奥崎丸尾城 奥谷城 岡崎神社所在古城 河原高座城 梶原城 釜谷城 観音山城 亀後城 狗尸那城 栗谷城 午房山城 向山城 荒神山城 香音寺城 高平城 今衣山城 坂谷城 三津ヶ崎本陣山城 山王社裏山城 山根式田城 山本城 七曲城 秋里城 勝山城 小畑高尾城 小平田蔵谷城 松茸尾城 城山城 杉が尾城 生山城 青谷大平城 赤子田城 善田すけたい城 早牛城 早牛矢島城 大滝谷城 大平田城 猪子山城 鳥ヶ城 釣山城 唐櫃城 藤山城 徳吉城 鍋山城 南中尾城 楠根山根城城 楠城 婆ヶ城城 伏野城 法楽寺城 北村城 北尾山城 鳴滝不動山城 養郷小丸山城 淀山城 露谷城 河原城 米子城(久米城、湊山城) 羽衣石城 岩倉城 尾高城 江尾城 鏡山城 八橋城 堤城 法勝寺城 石井垣城 田内城 打吹城 船上山城 淀江城 小浪城 不動ガ嶽城 河口城 俣野の土居城 手間要害

島根県
月山富田城 松江城(千鳥城) 牛尾城(三笠山城) 布部城 熊野城 白鹿城 大西城(高麻城) 三沢城 三刀屋城 高瀬城 真木城(夕景城、馬木城) 神西城 赤穴城(瀬戸山城、衣掛城) 十神山城 鳶ヶ巣城 平田城(手崎城、薬師寺城) 満願寺城 佐世城(金剛山城) 玉造要害山城(湯ノ城) 檜ヶ山城 荒隈城 新山城 津和野城 七尾城(益田城) 浜田城 三隅城 周布城 本明城(音明城) 福光城 山吹城 温湯城 藤掛城 青杉城 鵜の丸城 三宅御土居

岡山県
岡山城(烏城) 乙子城 奈良部城 砥石城 三石城 富山城 茶臼山城 天神山城 亀山城(沼城) 金川城 虎倉城 飯盛山城 (備前国) 舟山城 明善寺城 中島城 保木城 常山城
矢筈城 大別当城 竹山城 三星城 美和山城 稲荷山城 津山城(鶴山城) 岩屋城 高田城 麓城 勝山城 神楽尾城 嵯峨山城 高野城 荒神山城 備中松山城(高梁城) 高松城 鬼ノ城 鬼身城 幸山城 猿掛城 鶴首城 成羽城(成羽陣屋) 笠岡城 楪城 下津井城 福山城 庭瀬城 撫川城 鴨山城 竜王山城 青佐山城 佐井田城 茨城

広島県
広島城(鯉城) 亀居城 吉川元春館 吉田郡山城 宮尾城 鏡山城 桂城 己斐城 五龍城 御薗宇城 高山城 佐東銀山城(銀山城) 桜尾城 三入高松城 小倉山城 新宮城 新高山城 仁保城 水晶城 曽場ヶ城 草津城 多治比猿掛城 鳥籠山城 槌山城 頭崎城 日野山城 白山城 八木城 米山城 木村城 矢野城(保木城) 福山城(葦陽城・久松城) 稲村山城 茨城 旗返山城 亀山城 九鬼城 五品嶽城 甲山城 桜山城 三原城(浮城) 蔀山城 常城 神辺城 相方城 南天山城 比叡尾山城 比熊山城 鷲尾山城 鞆城

山口県
山口城(山口藩庁) 大内氏館 高嶺城(鴻の峰城) 若山城 徳山城 鞍掛山城 蓮華山城 右田ヶ岳城 岩国城 須々万沼城 萩城(指月城) 勝山城(且山城) 霜降城 櫛崎城(串崎城) 青山城 長門城 矢田城 深川城 青景城 荒滝城 賀年城(賀年勝山城) 亀山城

徳島県
徳島城 一宮城 夷山城 撫養城 土佐泊城 立江城 牛岐城 川島城 上桜城 仁宇城 岩倉城 重清城 秋月城 日和佐城 海部城 勝瑞城 脇城 大西城 白地城 田尾城 西条城 木津城 板西城

香川県
高松城(玉藻城) 丸亀城(亀山城、蓬莱城) 天霧城(雨霧城) 引田城 勝賀城 本台山城 雨滝城 虎丸城 藤尾城 羽床城 笠島城 詫間城 星ヶ城 屋島城 十河城 香西城 昼寝城 作山城 前田城

愛媛県
伊予松山城 今治城 湯築城 高穴城 荏原城 甘崎城 霊仙山城 犬尾城 一之森城 萩森城 高峠城 象ヶ森城 米津城 仏殿城 甲之森城 黒瀬城 龍王城 恵良城 港山城 土居城 国分山城 告森城 吉岡山城 岡本城 金子山城 常磐城 宇和島城 大洲城 横山城 花見山城 縦淵城 忽那山城 能島城 来島城 石城 法華津本城 大森城 岡崎城 高尾城 世田山城 鹿嶋城 三滝城 松前城 河後森城 土山城 大浜城 鷺ノ森城 海辺城 畠山城 松葉城 曽根城

高知県
岡豊城 高知城 浦戸城 安芸城 本山城 朝倉城 吉良城 蓮池城 姫野々城 中村城 久礼城 崎浜城 宿毛城 柏井城 森城 大津城

福岡県
福岡城(舞鶴城) 小倉城 久留米城 名島城 岩屋城 水城 蒲池城 黒崎城 立花山城 蔦ヶ嶽城 香春岳城 岩石城 秋月城 益富城 古処山城 城井谷城 柳瀬城 稲光城 南原城 覗山城 宝山城 蓑島城 旭城 大宰府(大宰府政庁跡) 障子ヶ岳城 長岩城 大野城 柳川城(舞鶴城) 榎津城 酒見城 貫城 門司城 三角山城 寒竹城 山隈城 怡土城(高祖城) 長野城 (豊前国) 発心城 上伊良原城 山下城 大坂山城 小倉山城 繋城 舞岳城 岳山城 白山城 豊前松山城 花尾城 高野山城 八木山城 馬ヶ岳城 若松城

佐賀県
勢福寺城 佐賀城 姉川城 臥牛城 勝尾城 三瀬城 鬼ヶ城 千葉城 梶峰城 蓮池城 名護屋城 唐津城 岸岳城 獅子城 伊万里城 唐船城 佐嘉飯盛城 武雄城 蟻尾城 吉野ヶ里

長崎県
島原城 原城 桟原城 玖島城(大村城) 厳原城 金田城 鶴亀城 日野江城(日之江城) 大垣城 深江城 金山城 多比良城 神代城 鍋島陣屋 守山城 山田城 釜蓋城 里城 陣笠城 田平御館 河原城 小峰城 三城 深堀陣屋 平戸城 清水山城 金石城(厳原城・府中城) 三城城 勝本城 石田城 勘次ヶ城 高津城 風早城 樋詰城 生池城 船匿城 古舘 郡城 鶴翔城 覩城 鉢形城 亀尾城 魚見岳台場 福江城 富江陣屋 勘次ヶ城 出島(築島)

熊本県
熊本城(銀杏城) 宇土城 田中城 岩尾城 鞠智城 菊池城 鍋城 佐敷城 山鹿城 木山城 山田城 人吉城 八代城(古麓城) 八代城(麦島城) 八代城(松江城) 水俣城 本渡城 富岡城 竹迫城 南関城 御船城 堅志田城

大分県
岡城 中津城(扇城) 臼杵城(丹生島城) 大友館 上原館 杵築城 佐伯城 高崎山城 栂牟礼城 角牟礼城 玖珠城 府内城(大分城) 長岩城 永山城(丸山城) 日田城(大蔵城) 日出城(暘谷城) 日隈城 真玉城 光岡城 龍王城 高田城

宮崎県
飫肥城 延岡城 (縣城) 高鍋城 (舞鶴城) 松尾城 西階城 井上城 浦城城 綾城 高城(新納院) 高城(三俣院)(日和城) 高城(穆佐院)(穆佐城) 清武城 佐土原城 曽井城 天ヶ城 山田城 梶山城 勝岡城 樺山城 宮崎城 野尻城 紙屋城 戸崎城 飯野城(亀城) 加久藤城 小林城(三ツ山城) 三ツ山城(吉富城) 野首城 岩牟礼城(岩瀬城) 内木場城(木葉城) 須木城(鶴丸城) 高原城(松ヶ城) 都之城 都於郡城 安永城 野々美谷城 志和池城 櫛間城

鹿児島県
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posted by SORI at 02:39| Comment(34) | TrackBack(4) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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