2021年02月17日

関西はキンメダイ(金目鯛)も新鮮でした。

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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実家の宝塚に着いた2021年2月7日の夕食を買うために実家の近くのスーパーに行くと、新しそうなキンメダイ(金目鯛)が売られていたので迷わず買いました。この日は金目鯛の刺身にすることにいたしました。キンメダイ(金目鯛)は世界各地の深海に生息しているキンメダイ目キンメダイ科 キンメダイ属の深海魚です。色が赤いことからタイ(鯛)の名が名前に入っているようですが、スズキ目タイ科マダイ属のマダイ(真鯛)とは、かなり離れた種です。金目鯛はいろんなサイズが売られていますが、ある研究によれば1歳魚で17.7cm、2歳魚で23.4cm、3歳魚で28.3cm、5歳魚で35.8cm、10歳魚で46.5cm、15歳魚で51.1cmだそうです。金目鯛の寿命は15~20年程度だそうです。生息場所は未成魚が水深100~250メートルで、成魚になるとともに300~800メートルの深部へ移動するそうです。だだし夜間は150~300メートル付近まで浮上するとのことです。
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  門 脊索動物門   Chordata
 亜門 脊椎動物亜門  Vertebrata
  綱 条鰭綱     Actinopterygii
 上目 棘鰭上目    Acanthopterygii
  目 キンメダイ目  Beryciformes
 亜目 キンメダイ亜目 Berycoidei
  科 キンメダイ科  Berycidae
  属 キンメダイ属  Beryx
  種 キンメダイ   Beryx splendens
 英名 Splendid alfonsino

お皿にそのまま盛り付けました。3種相掛カレーなどで紹介した砥部焼のお皿です。目の色もきれいだし、刺身もプリプリ感が伝わってきました。私の住んでいる近くではとても手に入らないような新鮮な金目鯛のように感じました。
試しにキンメダイで検索してみると今までにキンメダイを食べた記事は4度掲載していました。着色文字をクリックするとその記事を表示します。→我家での食事 九十九里の旅館 三宮の人気魚料理店 大手町でイタリアン
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刺身のプリプリ感を感じてもらいたくて刺身の部分を拡大いたしました。もちろん我が家の近くのスーパーにも金目鯛の刺身が゛並ぶことがありますが、プリプリ感がある刺身に出会うことはまずないまで、迷わず買ってみたわけです。ただし食べるまでは判りません。
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刺身以外に長茄子の焼き茄子も用意いたしました。長い長茄子だったので、そのまま乗せられる皿が無かったことから半分に切りました。以前に紹介したように熱々のまま乗せています。
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冷やっこも用意いたしました。醤油の色が赤いと思いませんか?
キッコーマンの特選醤油です。昔から実家ではキッコーマンの醤油を使っていたので赤色の醤油が美味しく感じられてしまいます。
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さっそく刺身を食べてみるとキンメダイとは思えない硬さがありプリプリの刺身でした。味も鯛とは違う甘さのある身で、関東だと料亭でしかお目にかかれないような味とプリプリ感のある食感でした。
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金目鯛らしい薄皮のついた刺身の写真も紹介します。
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この時は冷蔵庫に正月のために買った日本酒が入っていることに気が付かなかったので、ビールにいたしました。
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頭も目もきれいでしたので拡大いたしました。この時、母が「頭は焼かないの ?」と言われて、は!と気が付いて食事をしながら、コンロのグリルで焼き始めました。-ほんとうはキンメダイは煮付が美味しいのですが、手軽に出来るので焼くことにしたわけです。
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焼きあがったキンメダイの頭です。カマの部分は母に渡して、頭は私が食べました。塩もかけないでそのまま焼きました。
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焼いた身も美味しかったです。
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こちらは目の周りのゼリー状のものです。目の周りのゼリー状の身は美味しいと聞いていましたが、何となく食べる気にはなりませんでしたが、見ていて新鮮そうに感じられたので少し味見をした見たところ、薄っすらと塩味があり美味しかったので、結局、すべて食べてしまいました。初めて目の周りのゼリー状の部分を食べました。
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価格は1580円でした。値段の相場の知見はありませんが、この鮮度で、この美味しさならば安いのではないかと思いました。新鮮で美味しい刺身が食べれただけでなく新鮮な甲焼きも食べれてキンメダイを買ったのは大正解でした。高知県産のキンメダイでした。関西は新鮮な魚が多いので、離れた場所からでも少しでも新鮮な状態で口に入るように流通に気を使っているのだと思います。このスーパーは年末にトラフグを買うお店でもあります。右の小さな写真は以前の記事で紹介した同じお店で買った大きな活き車海老の写真です。
クリックすると拡大 店名 KOHYO(コーヨー/光洋) 逆瀬川店
 住所 兵庫県宝塚市逆瀬川1-2-1 アピア1 B1F
 電話 0797-71-5400
 営業 9:00~21:00
 定休 無休
 創業 1973年01月(資本金250万円) 現在42店舗(大阪 兵庫 京都 奈良)
 沿革 2000年11月逆瀬川店開店 2007年12月14日イオン傘下
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2020年2月7日から関西に来ていて、ネット環境の関係で皆様のところには訪問できていないことお詫びいたします。2月14日に帰宅する予定です。家に帰るとやりたいことが溜まっているので2月17日以降に皆様のところに本格的に訪問したいと思っております。
今回のキンメダイが分類されているキンメダイ属にはキンメダイと.ナンヨウキンメとフウセンキンメの3種があります。切り身として販売される場合はナンヨウキンメやフウセンキンメをキンメダイとして流通することもあることから、区別するために本キンメと表示される場合があるそうです。もちろん今回のキンメダイは本キンメだと思います。写真で見る限り細身で大きいのがキンメダイです。
 名 前  学 名 成魚体長  漢 字
キンメダイ   Beryx splendens 50cm越え 金目鯛
ナンヨウキンメ Beryx decadactylus 40cm前後 南洋金目
フウセンキンメ Beryx mollis 30cm前後 風船金目
 キンメダイ(本キンメ)    ナンヨウキンメ      フウセンキンメ
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ラベル:刺身 夕食
posted by SORI at 09:27| Comment(50) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月12日

第80回ハイク打ち上げ飲み会 三田の酒場 わっしょい

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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第80回ハイクでの丹波篠山の町の下の篠山城とデカンショ館と武家屋敷と歴史美術館の4ケ所を見学をした後は、もう一つの楽しみが打ち上げ飲み会です。前記事で記載の通り10名のメンバーの内5名は宝塚方面からJRで帰るのですが、5名は三田駅で神戸電鉄に乗り換えて神戸方面に帰るので、時間的な効率を考えるならばJR篠山口駅の周辺で飲み会をするのが1番でしたが、どこも16時台は開店していなかったので三田駅で飲み会を行うために、篠山口16時08分発の大阪行き丹波快速に乗りました。上の写真は篠山口駅のホームから撮った回送電車です。左側の方向が三田や宝塚や大阪方向です。
クリックすると拡大 すでに紹介した第80回ハイクの記事
  篠山城
  丹波篠山デカンショ館
  安間家(武家屋敷)
  一休庵(昼食/手打蕎麦)
  歴史美術館
     着色文字をクリックすると記事を表示 

篠山口から三田に着くまではこの写真のような風景が続きました。
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三田駅の3番線に16時37分に着きました。3番線ホームから上がって改札前で撮りました。進学塾の看板が目を引きました。私が小学校4年の時に広島市立井口小学校から転校してきた神戸市立本山第一小学校でもクラスから1名あるいはそれ以下程度しか入れなかったのが灘中でした。その難関度は変わっていないようでした。クリックすると拡大大きな町でも17時前から開いている居酒屋は少ないので、自分たちの足で探すのは諦めて、迷わず、三田駅の右の小さな写真の観光案内所(三田市総合案内所)に入って聞くと、すぐにこの時間に開店しているお店の名前と場所の答えが返ってきました。さすが案内所でした。
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それも駅から1~2分の距離のお店でした。驚いたことに14時から営業しているお店でした。案内所ですぐに答えが聞けたのは、14時から営業していることが有名だったのかもしれません。営業時間および定休日は新型コロナ感染拡大以前の情報です。左側の地図の一休庵が昼食を食べたお蕎麦屋さんです。
 名前 三田の酒場 わっしょい
 住所 兵庫県三田市駅前町8-37
 電話 079-562-3939
 営業 14:00~翌02:00 ただし日曜日は14:00~24:00
 定休 なし
 最寄 JR三田駅 徒歩2分 神戸電鉄三田駅 徒歩1分


すぐにビールを頼んで乾杯でした。
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こちらのお店では延長可能な飲み放題システムがありました。60分飲み放題が988円で、30分延長するごとに290円です。ただし生ビールは単独で頼んでも290円と安いので、1時間に1人平均4杯(1160円)以上、2時間で6杯(1740円)以上飲むグループに飲み放題がお勧めです。参考に14時から飲んだ時の飲み放題料金を計算してみました。隣で飲んでおられたグループは盛り上がりの雰囲気から5~6時間のように感じました。我々のグループはお酒が飲めない人が3人おられる上に沢山飲む人は限られているので飲み放題にはしませんでした。
 1時間 14時~15時   988円   1.5時間 14時~15時半 1278円  
 2時間 14時~16時 1568円   2.5時間 14時~16時半 1858円
 3時間 14時~17時 2148円   3.5時間 14時~17時半 2438円
 4時間 14時~18時 2728円   4.5時間 14時~18時半 3018円 
 5時間 14時~19時 3308円   5.5時間 14時~19時半 3598円 
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いろいろお得なセットが用意されていました。この「ちょい呑みセット」を頼みました。生ビールが290円なので料理が210円(=500円-290円)ということになります。お酒が飲めない人の生ビールは飲む人がいただきました。この会では、お酒を飲まない人の会費は少なく設定しているので遠慮なしに沢山飲めるのです。実は2枚上の生ビールの写真はこのセットの生ビールです。
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こちらのお店の売りは安いことのようです。つまみも278円の皿が沢山ありました。驚いたことに机はビールのケースを使ったものでした。
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椅子も清酒ケースを利用して作ったものでした。机も椅子もオーダーなので意外と費用は掛かっているかもしれませんが、雰囲気を出すためにビールケースや清酒ケースを使っているのかもしれません。
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最初に出てきた料理は「ちょい呑みセット」の中の「牛どて盛」でした。
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七味ではなく八味でした。ハバネロ入りと書かれていました。
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次に出てきたのは一番人気の秘伝の自家製若鶏のから揚げでした。
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ネギがたっぷり乗った鶏の唐揚げも頼みました。
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鯵の刺身も頼みました。
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打ち上げ飲み会でいつも頼んでいるだし巻き玉子も頼みました。
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この段階でのテーブル雰囲気を紹介します。お店の人に撮ってもらった右下の記念写真から切り取りました。すでにビールが空の人もいます。私は一番奥の壁際にいます。新型コロナの感染拡大のために、この2020年2月15日の飲み会のクリックすると拡大7日後の7日後の2月22日の別の飲み会を最後に、現在まで飲み会が行われていないのです。つまり最後から2番目の貴重な飲み会なのです。次の飲み会はワクチンが開発されて、世の中が落ち着いてからになるのかもしれません。
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オニオンスライスがたっぷりと入ったサラダも出てきました。
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こちらのお店は焼き物が豊富で焼鳥にも力が入っているように感じました。おまかせ5本盛りです。
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お店の中に昔の三田まつりと思われる写真が飾られていました。右下の小さな写真のカーニバル風の神戸まつりの影響を受けているように感じます。クレックすると拡大小さな写真をクリックすると私が掲載した昔の神戸まつりの記事を表示するので14枚の写真と比べてみてください。下の写真もクリックすると拡大いたします。写真の中にマカラズヤや岡本荒物店の文字が見受けられます。第1回の三田まつりは1978年に開催され、神戸まつりは1971年に開催されたそうです。ただし神戸まつりの前身となるイベントは1933年からあったそうです。
クリックすると拡大マカラズヤを調べてみると、且つて神戸の三宮センター街にあったお店であることから、もしかしたら神戸まつり又は前身の神戸カーニバルか、みなと祭りの写真かもしれません。マカラズヤの近くにはミッチャン(舶来雑貨店)やフナキヤ(シャツ)やフタバ(家具屋・雑貨屋・インテリア)などのお店があったそうです。ちなみにマカラズヤの語源は料金は値札から一切まかりません(安くしません)にあるそうです。
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サッカーJ1のヴィッセル神戸の大崎選手と小川選手のサインの色紙も飾られていたので写真を撮らせていただきました。25番がDF大﨑玲央選手で13番がFW小川慶治朗選手の色紙です。色紙には「わっしょいさんへ」と書かれていたので、ここに飲みにこられた時にサインをされたのだと思います。
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茄子の料理も頼みました。
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おにぎりを頼んだ方がおられました。ただしまだ締めではありません。やっぱり日本人はおにぎりです。
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288円のフライドポテトも頼みました。
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この「わっしょい焼きそば」がいろんな席で注文されていたので、最後ですが頼んでしまいました。今までに参加したハイクの打ち上げ飲み会の場所を紹介します。飲み会の2次会までしたのは私が初めて参加した第72回ハイクだけでした。着色文字をクリックすると記事を表示します。
 第72回 2019年04月20日 箕谷:いけや食堂 三宮:海鮮居酒屋・海流(2次会)
 第76回 2019年10月19日 十三:漁師めし
 第77回 2019年11月16日 十三:磯丸水産
 第80回 2020年02月15日 三田:わっしょい
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飲み会が終わったのは、18時25分と早いように感じますが、それでも16時台から飲み始めたので十分に楽しむことが出来ました。
クリックすると拡大右の小さな写真はお店から出てきたところです。この時は新型コロナの感染が拡大して飲み会が出なくなってしまうとは思ってもいませんでした。上でも書いているように7日後の2月22日(土)にゴルフ帰りの人から誘いがあって我家の近くのお店で参加した飲み会が現時点においては最後の飲み会になりました。つまり6ケ月も飲み会のない生活が続いていることになります。
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三田駅から神戸の新開地駅まで行くルートは基本的に次の3つがあります。時間によってルート表示が2つになったり3つになったり4つになったりします。
5名が①のルートで神戸まで行き、他の人は②のルートで宝塚まで行き、そこから、それぞれのルートで家に帰りました。私は宝塚で阪急に乗り換えて2駅目の逆瀬川で下りて実家に帰りました。
 ① 三田→(神戸電鉄)→新開地
 ② 三田→(JR)→宝塚→(阪急)→新開地
 ③ 三田→(JR)→尼崎→(JR)→三ノ宮→(神戸高速鉄道)→新開地
posted by SORI at 05:11| Comment(26) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月08日

丹波篠山歴史美術館 第80回ハイク

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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第80回ハイクでの3つ目の訪問場所の武家屋敷・安間家を見た後、昼食をとって、お土産屋さんを廻って4つ目ので最後に向かったのが丹波篠山歴史博物館(丹波篠山市立歴史博物館)でした。上の写真は館内に展示されていた源氏物語絵巻の須磨・明石です。江戸時代に描かれた源氏物語の中でも、須磨・明石の絵巻は全国的に残っていない貴重なものだそうです。
クリックすると拡大 すでに紹介した第80回ハイクの記事
  篠山城
  丹波篠山デカンショ館
  安間家(武家屋敷)
  一休庵
着色文字をクリックすると記事を表示 

航空写真です。昼食をとったお蕎麦屋の一休庵を出た後、黒豆大福を買った大福堂に寄った後、丹波篠山歴史美術館に向かいました。本記事では丹波篠山歴史美術館( )を紹介したいと思いますが、大福堂( )を出発するところから記載いたします。橙色(━━)のラインは今回の第80回ハイキング(2020年2月15日)での散策したルートです。クリックすると拡大
クリックすると拡大  丹波栗菓匠大福堂
  丹波篠山歴史博物館 SV
  春日神社バス停
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こちらが本記事の出発点である大福堂です。前記事で紹介した通り、ここで私の次の人で売れ切れた黒豆大福を買いました。
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右の小さな写真が大福堂から歴史美術館に向かって歩いている写真です。下の写真は歴史博物館の入口の門です。大福堂からこの門の写真を撮ったところまでの距離は98mでした。驚いたことに丹波篠山の歴史博物館は木造建物でした。それもかなり古くて歴史のありそうな建物でした。
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こちらが門を正面から撮った写真です。藩庁時代の門だそうです。門の右の柱にかけられている大きな表札には丹波篠山市立歴史美術館です。
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門をくぐると大きな木造の建物がありました。これが歴史美術館の本館の建物のようでした。美術館本館の建物は日本最古の木造裁判所「篠山地方裁判所」を使用されていたのです。篠山裁判所は篠山藩庁の建物を使用して明治3年(1870年)に発足しました。明治23年(1890年)に民・刑事の一審のみを 取り扱う地方裁判所になり、翌年の明治24年(1891年)に完成したのが、今回の歴史美術館の建物だったのです。裁判所としては1981年6月まで使用されていました。この建物を使って歴史美術館が開館したのは1982年4月でした。開館に当たっては建築物を解体せずに、そのままの状態で移動する曳家工法(ひきやこうほう)で建物の向きを90度回転させ従来の姿を残し、美術館にふさわしい内部を改装したそうです。
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門から建物入口までの間に石柱がたてられていました。石柱には「丹波篠山五十三次 篠山歴史美術館」と書かれていました。丹波篠山五十三次とは篠山町制100周年と篠山築城380年記念事業として社寺仏閣・歴史的遺産など95ヵ所を選定し、さらに53ヵ所を絞り込んで丹波篠山五十三次としたそうです。2つの事業は平成元年(1989年)から2ヵ年だそうです。平成元年頃はだったので多紀郡篠山町篠山歴史美術館と呼ばれていたのだと思います。篠山藩時代は多紀郡篠山(城下町)には篠山東新町、篠山西新町、篠山南新町、篠山北新町、篠山乾新町、篠山山内町、篠山河原町、篠山小川町、篠山立町、篠山呉服町、篠山二階町、篠山魚屋町、篠山西町が存在したそうです。歴史美術館があるのは現在の住所である丹波篠山市呉服町から、その時代の篠山呉服町と思われます。1889年の篠山町の発足は多紀郡篠山の上記の13町と黒岡村の飛地で構成されていたそうです。本歴史美術館は篠山町立歴史美術館(1982年)→篠山市立歴史美術館(1999年)→丹波篠山市立歴史美術館(2019年)と正式名は変わりました。
 篠山藩時代     丹波国多紀郡篠山(篠山藩の城下町)
 1870年(明治03年)      篠山裁判所発足(藩庁建物内)
 1971年07月14日  廃藩置県により篠山藩は篠山県となる
 1971年11月02日  篠山県は豊岡県に編入
 1876年08月22日  兵庫県多紀郡篠山 兵庫県の管轄となる
 1889年01月08日  兵庫県多紀郡篠山町発足 町村制の施行
 1891年(明治24年)      本建物が地方裁判所として完成
 1981年(昭和56年)      本建物での裁判所の90年の幕を閉じる
 1982年(昭和57年)      本建物が篠山町立歴史美術館として開館
 1999年04月01日  篠山市の発足 篠山町・今田町・丹南町・西紀町が合併
 2019年05月01日  篠山市→丹波篠山市へ改名
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建物から車寄せの屋根が飛び出しているところが歴史美術館の入口です。
 明治(1868年~1912年) 1891年 地方裁判所として建物完成 
 大正(1912年~1926年)
 昭和(1926年~1989年) 1982年 篠山町立歴史美術館として開館
 平成(1989年~2019年) 1999年 篠山市立歴史美術館となる
 令和(2019年~     ) 2019年 丹波篠山市立歴史美術館となる
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昔の裁判所前での記念写真を紹介します。この写真は建物の中の法廷の部屋に飾られていました。昭和10年代の写真だそうです。
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車寄せ部分の屋根の天井も趣きがありました。
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階段で高くなっていているところにつけられた入口は建物の大きさに比べて意外と小さかったです。これが明治24年の裁判所の入口だったのです。当時、どんな思いでこの入口をくぐったのだろうかと思ってしまいました。
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入口の上には篠山歴史美術館と現代とは反対の右から書かれた扁額が入口の上にありました。未確認ですが古さから見て開館当初の1982年に掛けられたように感じます。
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明治24年時の篠山裁判所の平面図です。左下の法廷と書かれている部屋は当時のままに保存されていて公開されています。他の部屋の間取りは当時のままでねそこに美術品なのが展示されていました。玄関を入って右に行き、左廻りに見学しました。法廷は写真撮影は許可されていますが、残念ながら法廷以外の場所では写真撮影は禁止されていました。
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美術品などの写真撮影は禁止されていたので、先ずは129年前の1891年当時の法廷を紹介したいと思います。右端が裁判官席で椅子が沢山並べられた左端が傍聴人席です。裁判官席の前の机が書記管席で、奥が検察管席で手前が弁護人席です。証人台でしようか、真ん中の半円上の立ち席が印象的でした。
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こちらが傍聴人心得です。
 傍聴人は法廷において次の事項を守らなければならない
 一、静粛を旨としけん騒にわたる行為をしないこと。
 一、不体裁な行状をしないこと。
 一、みだりに自席を離れないこと。
 一、裁判長の命じること及び裁判長の命を受けた裁判所職員の
   指示することに従うこと。               以上
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傍聴人席側の右端から撮った写真です。古い裁判所を見たのは2度目だと思います。初めて見たのはハワイのアリイオラニ・ハレ(Aliʻiōlani Hale)で、こちらは今も現役で使われていました。
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こちらが弁護人の席です。弁護人になったつもりで法廷内を見てください。対じする形で正面に検察管席があります。
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こちらが検察管席です。
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傍聴席です。
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こちらが書記官席です。
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法廷の最後の写真として裁判官側から撮った写真を紹介します。
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法廷室以外での写真は禁止されているため丹波篠山市立歴史美術館ブログや新聞社が公開している写真を転用させていただいて歴史美術館の雰囲気を紹介します。屏風や貴重な資料や巻物が展示されていました。この部屋と同じように別の部屋も展示室になっていました。別の部屋にあった長い巻物は特に興味深かったです。嬉しいことに展示物の説明をしていただきました。
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興味深い屏風も展示されていました。上の写真の正面に飾られている屏風がこちらです。歴史美術館の展示品は、篠山城主であった青山家の家蔵品を中心に城下町篠山に伝わる武具、漆芸、絵画、蒔絵のなどの美術品や、篠山藩の御用窯として開窯した王地山焼の名品の数々のほか、古代の埋蔵文化財が展示されています。
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掛け軸も沢山展示されていました。10秒ごとに画面が切り替わります。
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春日神社の祭礼で使われる懸装品なども掲載されていました。本しを中心に祭に関する貴重な資料を展示しております。本写真が掲載されていた丹波篠山市立歴史美術館ブログの記事のページはこちらです。→ポチッ
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いただいた資料の展示品の写真も紹介します。
屏風絵はどれも圧巻でした。こちらは東海道・中山道・甲州街道屏風です。江戸時代の主要な三街道の屏風で江戸から山科までの各地の名所・旧跡などが描かれていて当時の様子がわかります。ここでは全体の一部のみ掲載しています。
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こちらは源氏物語絵巻の須磨・明石です。篠山藩第12代藩主青山忠裕が、源氏物語中最も名文であるとされている須磨・明石の巻を後世に残すために、お抱えの狩野派絵師・栄保典繁(えいほ みちしげ)らに描かせた絵巻です。江戸時代に描かれた源氏物語の中でも、須磨・明石の絵巻は全国でも残存しておらず、人物や風景が細密に描かれた逸品(いっぴん)だそうです。須磨巻が三巻と明石巻が三巻の 計六巻が所蔵されているそうです。
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左は二十八間筋兜(にじゅうはちけんすじかぶと)で右は篠山藩主青山家の祖の忠勝所用の黒紅糸威大袖具足(くろべにいとおどしおおそでぐそく)です。


藩鎌で焼かれた王地山焼も展示されていました。王地山焼は江戸末期の文政年間に始まった篠山藩のお庭焼で、京焼の奥田潁川に師事した金古堂亀祐が指導に当たり、柳亀堂亀七などが活躍したそうです。1871年の廃藩とともに、わずか50年で廃窯となった吉ような焼きものです。
左は鶴形蓋物で右は燈籠です。灯籠は市指定文化財です。


左は金梨地葵唐草紋蒔絵御衛府太刀(きんなしじあおいからくさもんまきえごえふたち)で、右は七鈴鏡(しちけいきょう)です。七鈴鏡は市内の宝地山古墳群の2号墳から出土したもので、直径16.9cmで、縁に7個の鈴が付いていることから七鈴鏡と呼ばれているそうです。全国的に数例しか知られておらず兵庫県指定文化財になっています。
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クリックすると拡大いただいた丹波篠山歴史美術館の資料を紹介します。右の小さな画面は文化財の写真が載った裏面です。クリックすると両方共に特別に大きく拡大するように設定いたしました。
 名前 丹波篠山市立歴史博物館
 住所 兵庫県丹波篠山市呉服町53
 電話 079-552-0601
 時間 9:00~17:00
 休館 月曜日 年末年始 新型コロナによる臨時休館あり
 備考 無料ガイドあり 新型コロナにより20名の入館制限中
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見終わった後に案内いただいた歴史美術館の方に記念写真を沢山撮っていただきました。その中の一枚を紹介します。
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丹波篠山歴史博物館の見学が終わったのが15時28分でした。すぐに最寄のバス停・春日神社に向かいました。
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バス停の前に春日神社がありました。見学しようという話は出ませんでした。すでに、第80回ハイクの打ち上げ飲み会に気持ちが切り替わったからです。
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バスは1時間に2本しかないのですがタイミングよく15時35分のバスに乗れました。乗り遅れていたら16時5分まで待たなければなりませんでした。
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JR篠山口駅に向かっていくところです。
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篠山口駅に着いて打ち上げ飲み会が出来るところを探しましたが、残念ながら16時に開いているお店はなく、どこも開店は17時でした。
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とりあえず三田駅に行くことにしました。10名のメンバーの内5名は宝塚方面からJRで帰るのですが、5名は三田駅で神戸電鉄に乗り換えて神戸方面に帰るので、三田駅で飲み会を行うのが都合がよかったのです。篠山口16時08分発の大阪行き丹波快速に乗り三田駅に16時37分に着きました。問題は16時台に開いているお店があるかどうかでした。
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posted by SORI at 04:10| Comment(30) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月23日

丹波篠山の御徒士町と武家屋敷 第80回ハイク

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大少し前の記事で紹介したデカンショ館の次は右の共通券の左上の武家屋敷(安間家住宅)を見に行きました。安間家住宅は下の航空写真で分るように篠山城の西側に南北に走る紫色ライン(━━)の御徒士町(おかちまち)通りにあります。江戸時代の篠山城の周囲には沢山の武家屋敷がありましたが、明治の廃藩置県によって、江戸詰めの家臣の多くは丹波篠山から引き払いましたが、安間家があった御徒士町の武士のほとんどは丹波篠山に留まったそうです。その後も御徒士町の人達は屋敷の手入れを怠らなかったことから、当時「御徒士町」と呼ばれた今の「御徒士町通り」には武家屋敷の面影を残す建物だ沢山残っています。

航空写真です。青紫マークのデカンショ館から紫色マークの安間家までを順番に紹介したいと思います。安間家の敷地の部分を赤枠で囲んでいます。御徒士町の武家屋敷の敷地の間口は平均で8間であったそうです。1間は6尺なので8間は14.545mになります。Google地図で安間家の間口を計ってみると21mなので平均より少し広い間口であったようです。1間が6尺と定義されたのは明治24年(1891年)で、織田信長の時代は6尺5寸で、豊臣秀吉の太閤検地で6尺3寸となり、江戸時代は6尺1分でした。橙色(━━)のラインは今回の第80回ハイキング(2020年2月15日)での散策したルートです。


クリックすると拡大天保8年(1837年)に描かれ丹州篠山城郭之絵図から上の航空写真の部分を切り取りました。この絵図は明治2年に写された丹州篠山城郭之絵図です。紫色ライン(━━)が武家屋敷が並んでいる御徒士町通りです。赤枠の部分が安間家(あんまけ)の敷地です。クリックすると絵図全体を表示します。拡大すると安間の文字が読み取れます。クリックすると拡大安間の下に名前と思われる5文字が書かれていますが、そこまでは読み取れませんでした。拡大した全体図を見ると篠山城は沢山の武家屋敷で囲まれていたことも判ります。絵図を見ているとタイムスリップして、この時代を見てみたいと思ってしまいます。
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デカンショ館があった青山歴史村から武家屋敷の安間家住宅までを順番に紹介していきたいと思います。この写真は青山歴史村の入口となっている長屋門です。この長屋門は篠山藩藩士であった澤井家の門でした。
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青山歴史村から武家屋敷の方向である西方向に向かうと左側に篠山城の堀が見えます。石垣の上には大書院が見えます。ようこくんさんが篠山城の桜の記事を掲載されていました。篠山城に桜開花基準木があったのです。→ポチッ
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クリックすると拡大篠山城を撮った写真の中から桜開花基準木の表示板が写った写真を探して表示板の部分を拡大しました。写真をクリックすると周囲が写った写真を表示します。右の写真が下の写真を切り取ったオリジナルの写真です。
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篠山城の大書院の辺りを拡大いたしました。新型コロナの感染も小規模であった2月15日だったので観光バスも沢山駐車していました。
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案内標識が建てられていました。標識が建てられていたのは右下の絵図の橙色の丸印()のところです。篠山城跡や大手門跡方向から武家屋敷群や安間家資料館方向に歩きました。クリックすると拡大
上で紹介の丹州篠山城郭之絵図を見ると、武家屋敷長屋門と書かれている方向は現在の住所で西新町で、当時は郡代などの高五十石~高百五十石の武士が住んでいた西堀端で、その西堀端の通りの入口に左番小屋があり御徒士町の通りの入口には右番小屋(左番小屋とも読める)がありました。ちなみに大手馬出しの前あたりは大目付などの高百七十石~高二百石の武士が住んでいました。
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上で紹介した右番小屋(または左番小屋)があった場所に、御徒士町武家屋敷群(Okachimachi Samurai Residences)の大きな看板が建てられていました。ここから左に方向の道が御徒士町通りで、道の両側に武家屋敷や武家屋敷であった面影が残った今でも使われている住宅が沢山並んでいます。御徒士町通りは重要伝統的建造物群保存地区となっているようです。
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上の写真の看板の所を所を左に曲がって見える御徒士町通りの景観です。ここから武家屋敷の安間家住宅に到着するまでの間は御徒士町武家屋敷群を紹介したいと思います。
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萱葺の建物がいくつか見えます。江戸時代はこの道の両側は全て武家屋敷でした。その子孫の方々の住んでおられるのだと思います。
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古さが伝わってくる建物が並んでいました。
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御徒士町武家屋敷に関する説明板が立てられていました。慶長14年(1609年)に篠山城が徳川家康によって築かれて、その翌年から10年ほどかけて城下町の整備が行われたそうです。ちなみに江戸時代は417年前の1603年から1868年でした。武士と町人の住む場所は区分されて、城を取り囲むように武家町が配置されたそうです。武家町でも武士の身分によって住む場所が決められていたそうです。御徒士町は、戦時は徒歩で戦う徒士(かち)という身分の武士(下級武士)が住んだ武家町だあったそうです。平時は役人として藩に仕えたとのことです。2004年に御徒士町を含む篠山城下町の一部が国の重要伝統建造物郡保存地区に選定されて街並みの保存が行われているそうです。下級武士の徒士(かち)の人が住む町だから御徒士町(おかちまち)と名付けられたのでしょうか。下級武士と言えども屋敷を見る限り、庶民とは別格であったと思われます。馬上の資格がある武士が士官に相当し、徒士は下士官に相当します。徒士は士分に含まれ、士分格を持たない足軽とは峻別されていたそうです。徒士は藩や地域によっては小組(越後長岡藩)や歩行(飫肥藩)や御徒(柳河藩、江戸)とも呼ばれていて東京の御徒町(おかちまち)の地名の由来になっているそうです。調べ切れていませんが江戸(東京)以外の地方の城下町では御徒士町(おかちまち)が多く使われているように感じます。
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武家屋敷として残っている鈴木家の門です。
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上の写真の右上に写っている茅葺の屋根をです。
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天保元年(1830年)に大火があり御徒士町の大部分の武家屋敷も焼失したと伝えられています。復興に際して屋敷は道路より6尺後退させ、火徐地をつくって火災に備えたと言われています。今でも道路と土塀の間に犬走し(いぬばしり)の空き地があるのは、その時の火徐地に由来するそうです。犬走りは、垣と溝の間や土手の斜面に設けられた細長い通路や平地部分で、犬が通れるくらいの幅しかない道という意味合いから呼ばれるようになったようです。
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古い建物も活用して今も使っている家もありました。手前が昔のままの屋敷で奥が新しい住居だと思いますが、昔の雰囲気を壊さないような配慮がうかがえるすばらしい住居です。
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立派な塀の屋敷も沢山ありました。
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武家屋敷が続いていました。
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門の前の説明板には「西07雄山家住宅主屋保存修理工事」と書かれています。
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ここに篠山城を中心とした城下町の地図がありました。ここから安間家の武家屋敷まで徒歩で2分と書かれていました。
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三社之宮跡の石碑が建てられた空間がありました。
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進んでいく方向の御徒士町通りの景色です。
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昔からの建物と住居ですが、武家屋敷通りの雰囲気を壊さない努力が伝わってきます。
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安間家武家屋敷(Anma-Family Samurai House)に到着到着しました。武家屋敷の建物は資料館(Samurai House Anma Historical Museum)にもなっています。ここからは武家屋敷の安間家住宅を紹介したいと思います。
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入口の門を正面から撮った写真です。
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敷地の内側から門を撮りました。井戸も印象的でした。
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屋敷の全景です。武家屋敷として多くみられる曲屋形式(L字型配置)の建物です。下級武士(徒士)の一家が住む標準的な武家屋敷です。
安間家の禄高は天保8年(1837年)時点で「高十ニ石三人扶持(ふち)」であったそうです。「高十ニ石三人扶持」が、どの程度の収入かは分かりませんが、あるネットでの記載では「三十石二人扶持」の年収が14両に相当すると書かれていたことから「高十ニ石三人扶持」の価値が想像されます。
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建物の間取り図を紹介します。上方向が北で書かれています。母屋は正面を東に向け、間口6間半(約13m)、奥行7間半( 約15m)あり、部屋割りは正面に向かって左に玄関、右奥に庭園に面した8畳の座敷を配置し、玄関奥には台所、座敷の奥には仏間、居間が続いています。建設当初の姿を今によく残していることから1994年に町指定文化財(:現市指定文化財)となり、半年かけて全面改修して公開したそうです。
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航空写真でも建物の形を紹介します。
安間家武家屋敷をGoogle地図でも紹介します。→GoogleのSV 拡大航空写真
現在の住所:兵庫県丹波篠山市西新町95


玄関から靴を脱いで「次の間」に上がって台所方向を撮った写真です。
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萱葺屋根の裏側です。
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「次の間」の隣りの「座敷」です。広さは8畳です。床の間には甲冑が飾られていました。
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訪れたのが2月15日だったためか雛人形が飾られていました。
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弓や槍や長刀も座敷に飾られていました。
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仏間で奥の部屋が居間です。
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仏間には漆器などが展示されていました。資料館になっているのです。
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仏間から見た庭の景色です。
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庭から見た縁側です。左側が仏間で奥に座敷があり、右側が台所です。
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天保8年(1837年)に描かれ丹州篠山城郭之絵図が飾られていました。もっと鮮明な写真を撮るチャンスでしたがその時は気が付きませんでした。鮮明な写真であれば安間家の所に書かれている文字も正確に分かったと思います。
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それでも何とか読みたくて90度回転して鮮明化を行ってみました。名前は「安間熊五郎重明」のように読み取れます。その横の文字は「???石三人扶持」と読み取れます。ネット内の説明資料には「高十ニ石三人扶持」と書かれているので「???」は「高十ニ」になるはずですが、文字の感じでは「高」ではなく「米」のように感じます。右隣の家には「米八石三人扶持」と書かれていることから「米?二石三人扶持」のように読み取れます。参考ですがクリックすると堀沿いの家も含めて表示しますが、その中では、郡代には「高百五十石」、表御用人には「高七十石三人扶持」、教導方の小林三郎次宋福には「十人扶持」の表現が使われています。教導方の小林家の場所には今でも古い茅葺の建物が建っています。→GoogleのSV 航空写真
禄高の「高」と「米」の違いは分かりませんが十二石相当の現金と三人扶持の玄米が支給されていたと読み取れます。一人扶持は1日にあたり玄米5合なので三人扶持は年間で一石七斗七升×3倍となります。安間家は禄高は十二石ですが、御徒士町の武家屋敷の禄高は絵図を見る限りでは四石~八石がほとんどなので、この辺りの下級武士の中では裕福だったのかもしれません。
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貴重な資料も展示されていました。上が鍵槍皆伝目録(かぎやり・かいでんもくろく)で、下が槍術皆伝目録(そうじゅつ・かいでんもくろく)です。
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こちらは松に折鶴亀甲蒔絵の四段重箱です。
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台所と書かれた部屋台所の間()には戸棚がありました。
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戸棚を拡大いたしました。
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別の角度から見た台所の間です。障子の向こう側が土間になっていて、竈(かまど)が見えます。
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こちらが土間で竈(かまど)などがあることから炊事場になっていたようです。
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こちらが竈(かまど)です。
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土間の所にはお土産用の丹波焼が並べられていました。比較的新しいものだと思いましたが、写真を見て売られていたお土産であることに気が付きました。じっくり見ればよかったと後悔しています。興味がある方は写真をクリックしてみてください。特別に大きく拡大いたします。
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右端の出入口が土間から庭に出る場所です。そこから庭に出てみました。石燈籠が置かれているところが水琴窟と呼ばれる仕掛けがあるところです。
建物自体は天保元年(1830年)の大火の後に建てられたそうなので、その前の建物は残念ながら大火によって焼失したと想像されます。
 1603年 江戸幕府の誕生
 1609年 篠山城の築城(徳川家康が大阪城の包囲網として築城)
 1610年 城下町の整備 ~1620年ごろまで
 1614年 大阪冬の陣
 1615年 大阪夏の陣
 1830年 篠山城下町で大火
      大火の後に安間家の現在の建物が建てられた
 1837年 丹州篠山城郭之絵図が描かれる(安間熊五郎重明 米十ニ石三人扶持)
 1868年 王政復古 江戸幕府終了
 1995年 安間家建物の全面的な改修(1994年10月~1995年3月)
 1995年 安間家建物が篠山市指定文化財に指定される(1995年5月20日)
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丹波・水琴窟と書かれています。水琴窟(すいきんくつ)は江戸時代に考案されたと言われている日本独特の庭園の仕掛けです。手水鉢の近くの地中に空洞を作り、そこにしたたり落ちる水の音色を楽しむものです。
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水琴窟の音を竹筒で聞いているところです。金属音がしました。
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ここの水琴窟の音を聞いていただきたくてネット内の動画を掲載いたしました。プレーボタン( )をクリックすると水琴窟の音が出る部分から開始するように設定いたしました。動画が終わると頭から表示し停止ボタンをクリックするまでは繰り返し永遠に表示し続けます。


武家屋敷を背景に10名全員で記念写真を撮りました。一番左が私です。
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庭には瓦葺の土蔵があり展示室になっていました。この土蔵も昔からのものだそうです。
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土蔵の中の展示室に飾ってあった丹波焼の大壺です。
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入口でもらった武家屋敷の説明書を掲載いたします。クリックすると面積で16倍に拡大いたします。クリックすると拡大
私の住んでいる千葉県佐倉市にも右の写真の武家屋敷があります。その中で建物の内部が公開されている武家屋敷が3つあるので見学したことがあります。その時の記事も書きました。右の写真をクリックするとその時の記事を表示いたします。
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裏側には沢山の説明が書かれていました。こちらもクリックすると面積で16倍に拡大するので、興味のある方はクリックしてみてください。
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posted by SORI at 10:17| Comment(28) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月09日

丹波篠山デカンショ館 第80回ハイク

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大入社時の神戸事業所の仲間との第80回ハイキングでは最初に篠山城を訪れました。その後は右の写真の共通券の残りの3ケ所を見ることにして、篠山城の次に向かったのは青山歴史村の中にある丹波篠山デカンショ館でした。篠山城の記事の中で紹介した二階町バス停から篠山城に向かう途中のお堀の傍に建っていたクリックすると拡大篠山藩地方役所門をくぐってデカンショ館に向かいました。篠山藩地方役所門は明治初期に置かれた篠山藩庁舎の遺構で、篠山城大手門から真っ直ぐ北に進んで篠山郵便局の手前にありましたが、丹波篠山デカンショ館周辺の整備を機会に現在の場所に移設したそうです。役所門が建っていた元の場所には右の写真の「伊能忠敬笹山計測の道」の碑が建てられていました。碑には篠山ではなく笹山の文字が使われています。

ネットで調べていると郵便局横の場所も元々の場所ではなく、下記写真のように昭和57~58年頃に南側(城方向)から解体せずにコロ引きで郵便局横の場所に移動している動画が掲載されていました。移動元の位置は判りませんが篠山藩庁舎の通用門であったとのことなので詳しく調べることが出来れは分かるのだと思います。5枚の写真を6秒ごとに表示していますが、4枚の写真には郵便局が写っているのが分かっていただけると思います。2枚は移動中の写真で1枚は郵便局の近くに設置され塀も新しく作られた写真で、1枚は門が撤去された後の写真で、1枚は現在の場所でのお披露目式の写真です。5枚の写真の内、2枚は動画から、1枚はGoogle地図のストリートビューから、2枚はネットから転用させていただきました。Google地図のストリートビューには上で紹介の「伊能忠敬笹山計測の道」の碑が写っています。
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篠山藩庁舎の場所を調べてみると、明治2年(1869年)には版籍奉還が行われ、 当時の藩主であった青山忠敏が改めて篠山藩知事に任命されて、明治3(1870年)に篠山藩庁舎は篠山城を出て大手馬出しの東に設けられたと丹波篠山市の資料の「2.2 社会環境 1)行政区の成り立ち」の部分に書かれていました。さらに別の資料には大手馬出しの東の地方役所を増改築し篠山藩庁舎が置かれ、その後、篠山県庁、豊岡県支庁、篠山区裁判所として明治 24 年まで使用したと詳しくかかれていました。現在の場所は昔は大手馬出の中に当たるので、もっと東にあったことが想像されます。現在の丹波篠山市役所の位置に篠山藩庁舎があったとの資料もあります。なお、本地図から判断して、今回の記事のデカンショ館は大手馬出し(北馬出し)の西端あたりに作られたことになります。下記の絵図は天保8年(1837年)に描かれ明治2年に写された丹州篠山城郭之絵図でクリックすると拡大図を表示します。丹州は丹波国の別称です。
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クリックすると拡大篠山藩地方役所門は切妻、本瓦葺、三間一戸、4本の親柱に2本の控え柱がある趣のある門でした。
本来は青山歴史村も見ることができるはずでしたが地方役所門に貼られている説明板(右に拡大)にあるように青山歴史村は改修工事のために、見ることは出来ないのでデカンショ館のみの見学となりました。青山歴史村の資料の一部はデカンショ館に移して展示されていると書かれています。
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青枠で囲ったところが青山歴史村です。紫色の枠の所がデカンショ館です。本来は青山歴史村の長屋門から入り、青山歴史村側からデカンショ館に入るのですが、我々は駐車場から直接にデカンショ館に入りました。橙色(━━)のラインは今回の第80回ハイキングでの散策したルートです。


デカンショ館でもらった青山歴史村の資料に掲載されていた配置図です。この配置図を見ていると青山歴史村が見れなかったのが残念に思えてきました。
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こちらが駐車場側のデカンショ館の入口です。
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デカンショ館の説明資料です。3画面を8秒間隔で切り替えています。内容を読みたい方は画面をクリックすると1枚の大きな画面を表示するので読めると思います。
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こちらがシアター室です。
デカンショ節と言えば「デカンショデカンショで♪ 半年暮らす♪ あとの半年寝て暮らす♪」を思い出される方もおられると思います。全国的によく知られたフレーズですが、放映されているビデオによってデカンショ節が丹波篠山と大きな関りがあったことを知ることになりました。デカンショ館に入ると最初にシアター室でビデオを見ることをお薦めします。そうすることで展示されている資料を興味深く見ることができると思います。内容はデカンショ節の発祥と変遷です。
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バーチャルデカンショ踊りブースです。ここではAR(拡張現実)を活用してデカンショ踊りが再現されています。
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このコーナーには昔の写真やポスターが展示されていました。
デカンショ節は学生歌として広く歌われていることから、いろんな歌詞が創作されています。その中で最もポピュラーな歌詞を紹介します。
 デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ

  あとの半年寝て暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

 丹波篠山山家の猿が アヨイヨイ

  花のお江戸で芝居する ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

 酒は飲め飲め茶釜でわかせ アヨイヨイ

  お神酒あがらぬ神はなし ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

 灘のお酒はどなたが造る アヨイヨイ

  おらが自慢の丹波杜氏 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

 雪がちらちら丹波の宿に アヨイヨイ

  猪がとびこむ牡丹鍋 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

 丹波篠山鳳鳴の塾で アヨイヨイ

  文武きたえし美少年 ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ
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展示されていた昔の写真の写真を紹介します。
デカンショ節が全国に普及したの明治時代です。そのきっかけになったのが東京一高(現在の東京大学と千葉大学)の学生たちでした。明治になり廃藩置県により篠山藩も廃藩となりましたが、旧篠山藩青山家の奨励によって、郷土の秀才を年々東京に遊学され、多くの秀才を養成したことは有名な話ですが、遊学生たちは夏になると房州八幡の浜(現在の館山市)を銷夏地としてやってきていたそうです。明治31年(1898年)の夏にその江戸屋の2階で青山忠允他篠山町出身の若者達が蛮声を張り上げて郷土の盆踊りの唄を歌っているのを、ちょうど階下に居合わせた東京一高の水泳部員たちがこれを聞いて、気に入り篠山出身の若者たちに付添っていた亘理章三郎(後の東京高等師範学校の教授)らから唄の指導をうけ意気投合、そして彼らは東京に帰ってからも自由奔放に唄い多くの学生や若者の共鳴を受けて愛唱されるようになり、デカンショ節が全国に広まったと言われているそうです。そんなことからデカンショ節は学生歌として全国にひろまったようです。
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昔のデカンショ祭りの写真も展示されていました。デカンショの語源は諸説ありますが、篠山町七十五年史(1955年)では「デカルト・カント・ショーペンハーウェル」説を採用しているのに対して、篠山町百年史(1980年)では「はやし言葉にすぎず、特別の意味を持たない」と断言しているそうですが、みつ節の中に「デコンショ デコンショで半年暮らす あとの半年泣いて暮らす」のフレーズもあることから「出稼ぎしよう」も有力な語源だそうです。
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デカンショ祭りにはクイーン神戸も参加されていました。デカンショ節は明治大正時代に全国的に学生歌として広まりましたが、元は江戸時代から歌われていた篠山地域の盆踊りの民謡「みつ節」でした。
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デカンショ節の元となった三つ節(みつ節)の動画を紹介します。
前半は音声が無いのでプレーボタン( )をクリックすると音声が出る部分から開始するように設定いたしました。ただし動画が終わると頭から表示し停止ボタンをクリックするまでは繰り返し永遠に表示し続けます。
1979年に丹波篠山市後川新田原で撮影された「みつ節」の歌や踊りの映像で、唄っているのは小島健次郎さんです。


昔の写真をもう一枚紹介いたします。
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デカンショ祭の動画も紹介します。掲載しているのは2018年の第66回デカンショ祭です。毎年8月15日と16日の2日間行われていますが、第67回は台風10号の被害で8月16日の1日間だけの開催となったそうです。2020年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で第68回の開催は厳しいのかもしれません。第58回から67回の映像を紹介します。→第67回 第66回 第65回 第64回 第63回 第62回 第61回 第60回 第59回 第58回


丹波篠山の郷土品も置かれていました。
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外に出て次の武家屋敷方向に歩いていると、2017年4月25日にお披露目となったデカンショ節の踊り子人形がありました。白い繊維強化プラスチック製で、高さは165cmだそうです。青山歴史村の入口辺りです。
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見事な長屋門がありました。
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その長屋門が青山歴史村の入口でしたが、すでに紹介の通り整備中のために中に入ることは出来ませんでした。
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せっかくなので頂いた青山歴史村の説明資料を掲載します。クリックすると読める大きさに拡大いたします。
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こちらが説明し利用の裏側です。
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JR篠山口駅とデカンショ館や篠山城との位置関係が判る地図を掲載いたします。篠山口駅から二階町バス停までの距離は約5.9kmです。
オリジナル地図はこちらです。→Google地図
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posted by SORI at 18:47| Comment(20) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月26日

丹波の篠山城 第80回ハイク

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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今回は、私にとっては4回目の参加となる第80回ハイクの記事を掲載させていただきます。今回は兵庫県の丹波篠山の散策ですが、その中のメインイベントは篠山城の訪問です。上の写真は篠山城の石垣です。本記事では、その篠山城を紹介させいてただ来ます。80回続いている本ハイキングは私が入社して配属になった神戸事業所の方が数年前に初められました。私は第72回に初めて参加させていただきました。メンバーは関西に住んでおられる入社当時の人たちで懐かしい人たちなのです。私のみ関東在住なので関西に行ったときに参加させていただいています。
先頭の☆マークが参加あるいは参加予定のハイクと飲み会です。※印の第81回と第82回ハイクは新型コロナウイルスの感染拡大のために中止との連絡が入りました。次は安心して集まってハイキングをして飲み会も出来るようになってからになるそうです。このハイキングに参加するきっかけは2018年12月26日の忘年会への参加でした。
☆    2018年12月26日(水) 忘年会 権太
 第70回 2019年01月19日(土) 兵庫七福神巡りハイク
 第71回 2019年03月16日(土) 金比羅宮参拝と讃岐うどんを賞味するハイク
☆第72回 2019年04月20日(土) 神戸市北区の重要文化財巡りハイク
 第73回 2019年05月18日(土) 奈良斑鳩の里での散策ハイク
 第74回 2019年06月15日(土) 神戸にある世界の宗教寺院巡りハイク
☆    2019年07月16日(火) 夏の親睦会 燦(SUN)
 第75回 2019年09月20日(土) 神戸鶉野飛行場跡各種設備など散策ハイク
☆第76回 2019年10月19日(土) 京都洛西の竹林と古墳巡りハイク
☆第77回 2019年11月16日(土) 太陽の塔の内部見学(予約)と周辺散策ハイク
☆    2019年12月25日(水) 忘年会 権太
 第78回 2020年01月16日(木) 神戸井植記念館と周辺散策ハイク
 第79回 2020年01月30日(木) 京都迎賓館と周辺散策ハイク
☆第80回 2020年02月15日(土) 丹波篠山ハイク
※第81回 2020年03月21日(土) 青春18きっぷによる敦賀市内散策
※第82回 2020年04月16日(木) 明智光秀の居城・福知山城を巡るハイク
 第82回 2022年06月21日(火) 神戸市立森林植物園のアジサイ鑑賞、散策
☆:参加  ※:新型コロナにより中止

クリックすると拡大集合はJR福知山線の篠山口駅に10時のため実家の最寄駅の阪急・逆瀬川駅で8時48分発の電車に乗るために8時半ごろに実家を出発いたしました。写真は逆瀬川駅の名前の元となった逆瀬川(武庫川の支流)です。右側の川沿いの道を登っていくと六甲山に行けます。見えている山が六甲山のの東の端になる東六甲エリアです。高校時代から関東に転勤になるまではよく歩いたところです。自転車でもよく六甲山を登りました。今は判りませんが、そのころは競輪選手がトレーニングのために自転車で登る道でもありました。川の左側の建物のために見えませんが建物の向こうに甲山があります。川の右端まで戻ると甲山が見れます。次は甲山も入れた写真を撮りたいと思います。
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上で川の端まで戻って写真を撮ると書きましたが、川の端では甲山は見えなかったので道路の端まで戻って撮ってみました。この位置だと甲山を撮ることが出来ました。六甲山の裾野も写っています。
六甲山は「ろっこうさん」と読みますが、甲山は「こうさん」「かぶとさん」ではなく「かぶとやま」と読みます。六甲山(ろっこうさん)は百万年前以後の六甲変動と呼ばれる地殻変動によって隆起し約1億年前に地下深くで生まれた花崗岩が露出した山ですが、甲山(かぶとやま)は1200万年前に噴火して出来た山で、岩質は輝石安山岩で出来ています。六甲山の名前の由来は諸説ありますが、最も夢が込められた説は、神功皇后が朝鮮遠征から帰還する途上に反乱者に襲われ、反乱者六人を捕らえ、その六人の首と兜を埋めたのことから六甲山の名前がついたというものですが、、六甲の字が使われ始めたのが江戸時代の元禄の頃なので信憑性はないようです。甲山の名前も諸説ありますが、確信が持てるまでは至っていないようでが、「かぶと」と読むことから形に由来しているように感じます。
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こちらが逆瀬川駅です。8時48分発の電車に乗る予定でしたが余裕で8時42ふんの電車に乗れました。
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こちらがJR宝塚駅です。
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そして、こちらがJR宝塚駅の改札口です。お袋と年4回行く山口県への墓参りの時に必ず使っている駅です。ここから新大阪駅まで乗り換えなしで行けるので利用させていただいているのです。その時に乗り換え時のお袋の車椅子の貸し出しをお願いしていて親切な対応に感謝している駅でもあるのです。
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8時50分発の新三田行の普通電車がありましたが、残念ながら新三田は篠山口よりは手前の駅なので、予定通り9時2分発の篠山口行きの快速電車を待つことにいたしました。
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改札からホームに降りると8時50分発の新三田行の普通電車がすぐに入ってきました。
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日本海側にある城崎温泉に行く特急こうのとり75号の写真もとることが出来ました。
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私が載った9時2分発の篠山口行きの快速電車です。この写真を撮るために先頭斜視量に乗りました。今回のハイキングの参加者は10名で全員がこの電車に乗っていたことは篠山口のホームに降りて初めて知りました。ただし宝塚駅から乗ったのは私を含めて6名で他の4名は神戸電鉄で新三田まで来て乗り換えたそうです。宝塚から乗った6名の方の中の1名の方とは電車に乗ってすぐに気が付いたので話しながら電車の旅を楽しむことが出来ました。
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道場駅の近くの景色です。電車に沿って流れているのが武庫川で、正面から流れてくるのが有馬の方から流れてくる支流だと思います。合流部分に岩があり小さな滝になっている景観でした。
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篠山口駅に着きました。ホームの階段の近くで全員が待っておられました。
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篠山口駅の改札口から外に出ました。
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篠山口駅は町から離れているので、このバスで町の中心地に近い二階町まで移動しました。すぐに出発したので駅の周辺の写真は撮れませんでした。
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そこでバスの車内から撮ったJR篠山口駅の写真を紹介します。写真の中の右側のバス乗場からバスに乗りました。
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こちらがバスの車内です。
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JR篠山口駅から篠山城の近くの二階町バス停までのバスルート(━━)です。ただしGoogleで自動で表示されたルートなので実際のバスルートとは多少は違うかもしれません。オリジナルはこちらです。→Google地図
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篠山の町に入ると昔の雰囲気のある街並みがあちらこちらにありました。
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二階町に着きました。
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二階町では我々だけでなく沢山の人が下車されました。


バス停の前で町の中をどのように廻るかを決めて出発しました。とりあえずは篠山城に行くことにいたしました。
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途中に大正ロマン館があったので中に入りました。昔、篠山町役場だったそうです。
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大正ロマン館の中には趣のあるカフェもありました。
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こちらが土産物売り場エリアです。私は黒豆パンをお土産に買いました。
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こちらがお土産で買った黒豆パンです。
大きな丹波篠山の黒豆が入ったパンでした。
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やはり大正ロマン館は篠山町役場でした。説明を読むと大正11年11月に新築上棟式を行い大正12年4月から篠山町役場として使われてきたそうです。役場として引退したのは平成4年3月なので約70年間町役場として活躍した建物でした。大正ロマン館として第2の活躍が始まったのは平成5年6月3日だそうです。この後、すぐに篠山城に向かいました。
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大正ロマン館館を出て城に行く途中に趣のある建物群と門がありました。クリックすると拡大建物群は青山歴史村で新しい建物のようでしたが、門は地方役所門で古いもののようでした。右の写真は大正ロマン館を出たところでした。このころも新型コロナウイルスの感染者が出ていましたが、まだ少なかったけれどもハイキングに参加した人の多くはマスクをしていました。
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地方役所門の場所から振り返ると篠山城の台形状石垣と堀が広がっていました。1609年(慶長14年)に城が築城されていましたが明治維新で廃城令により大書院以外は取り壊されたそうです。その大書院も1944年1月6日の夜にに火災により焼失したそうです。その大書院は地元の方々の長年の思いにより2000年3月に復元されたそうです。台形状の石垣の上の三角形の屋根が復元された大書院です。
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上の写真は本地図の北堀と書かれた位置の左側(西側)の道の辺りから撮りました。二階町バス停や大正ロマン館は、そこから北方向(上方向)に行ったところにあります。正方形の城を外堀の北堀、西堀、南堀、東堀が囲む平山城でした。
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上の地図に書かれていたa、b、c、dの部分の説明資料の中の写真を紹介します。b以外のa、c、dに関しては私が撮った写真も下の方で掲載しています。
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航空写真を紹介します。航空写真内の+のアイコンを1回クリックすると上の図と同程度の縮尺になります。橙色(━━)のラインは今回の第80回ハイキングでの散策したルートです。


こちらが北堀です。かなりの幅の広さです。これからも防御に徹した城であったことがうかがえます。
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北堀を渡って三の丸から撮った篠山城の中枢部の写真です。クリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
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石碑の前で記念写真を撮りました。左側の道を進むと城の中枢部であった天守台、本丸、二の丸、大書院に行けます。篠山城は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康がクリックすると拡大豊臣氏の大阪城の包囲と豊臣家ゆかりの西日本の諸大名を抑える拠点とするために篠山盆地に築いた城です。築城工事は西日本の15カ国20諸侯の大名に夫役を命じて普請方式で行われ、僅か1年足らずの1609年(慶長14年)に完成したことは有名な話です。
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この道を上がっていきました。この道は北廊下門跡でもあります。両側に高い石垣がある部分に表門(大手門)がありました。大きな門であったことが石垣の高さから想像できます。ようこくんさんが篠山城の桜の記事を掲載されていました。篠山城に桜開花基準木があったのです。この写真を拡大して見ると右側の桜の木が桜開花基準木であることが分かりました。
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クリックして探すのが面倒な方のために桜開花基準木の部分を切り取りました。写真をクリックすると広い範囲を表示ので位置が分かると思います。
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北廊下門の両側は堀(内堀)になっていました。こちらが東側の内堀です。
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そしてこちらが北廊下門の西側の内堀です。
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表門跡を通過したあたりです。
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表門を右に曲がったところに中之門がありました。枡形と呼ばれる構造で侵入した敵軍の動きを妨げるための広場です。
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この辺りに中之門があったようです。見事な石組みです。角の部分の出角の部分は「算木積み(さんぎづみ)」の工法が使われていて、その他の部分は自然石をあまり加工しないで積む「野面積み(のづらづみ)」です。石積みは滋賀・近江の穴太衆(あのうしゅう)によって行われたそうです。
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石垣に使われている石にはマークが入れられたものがありました。何のためのマークかは中で放映されている映像を見てもらえれば判ると思います。
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マークを拡大いたしました。いろんな場所で見ることが出来ます。
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門が取り付けられている場所に鉄門がありました。表門(大手門)からこ鉄門の部分が最終的な防御線だったようです。
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ここに鉄門がありました。
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鉄門跡を抜けると大書院が見えてきました。
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クリックすると拡大北廊下門から鉄門までの防御の構造説明図があったので紹介します。この説明図は右に小さく表示している二の丸御殿整備図の一部を切り取ったものです。整備図から石垣に使われている石は黒系花崗岩と白系花崗岩と錆系花崗岩であることが判りました。画面をクリックすると二の丸御殿整備図全体を表示します。
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正面に見えているのが大書院の入口です。先ずは大書院の内部を見学してから城をみることにいたしました。
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大書院だけのチケット400円ですが、街の中にある武家屋敷(200円)と青山歴史村(デカンショ館 300円)と歴史美術館(400円)をセットにした共通券にすると600円で見れることから共通チケットを購入いたしました。単独で入ると合計で1300円になるので共通券を買うことをお薦めします。
クリックすると拡大それぞれの場所に行くとコーナー部の三角形が切り取られます。右上のコーナーが大書院なので写真を撮る間もなくその場で切り取られしまいました。
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チケットを買った時にいただいた4つの歴史館の資料を掲載いたします。クリックすると面積で16倍に拡大するようにいたしました。これならば内容を読むことが出来ると思います。
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こちらが資料の裏側です。
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大書院の中では先ずは展示室を見ました。篠山城の歴史が判ります。
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藩主の正室が嫁入り道具として持参した「古今集かるた」も展示されていました。
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天保10年3月5日(1839年)に12代将軍・徳川家慶が13代藩主・青山忠長に与えた知行宛行朱印状です。
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明治初期の大書院です。一部だと思われますが、まだ銃口のある城壁が石垣の上に残っているが判ります。
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シアター室で13分の映像による説明が行われていました。
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大書院の内部を見学させていただきました。入口近くの部屋です。
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大書院で最も広い虎之間です。広さは36畳です。もうすぐ雛祭りの時期だったので雛人形も飾られていました。上の写真も虎之間です。
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雛人形を紹介します。正面からの写真です。
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斜めからの写真です。建物内の写真はOKですが、文化財保護の観点からフラッュは禁止されていました。
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髪形が面白いので拡大いたしました。
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襖(ふすま)の前に柵が置かれて「入室はご遠慮ください。」と書かれた闇リ之間(くらがりのま)がありました。残念ながら襖が開いていなかったので部屋を見ることは出来ませんでしたが、大書院の建物の中心にある18畳半の部屋です。襖が閉まって照明が無ければ、昼間でも名前の通り真っ暗の部屋なのだと思います。今回、唯一見ることが出来なかった部屋です。
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回廊沿いの隣りの部屋(手鞠之間)には鎧(甲冑)も沢山展示されていました。
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大書院の中央には9つの畳の部屋があり、周囲に回廊のように板床の広縁がありました。内部の保護のためか板戸(雨戸)は少し隙間を開けて締められていました。チケット売り場でいただいた資料には9つの部屋のうち8つの部屋に名前が書かれていました。
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板戸の隙間から撮った北方向の外の景色です。山の景色は昔と同じと思うと感慨深いものがありました。
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クリックすると拡大その広縁(回廊)も見事でした。回廊の先の左側に車寄せがあると思われます。右の小さな写真がチケット売り場でいただいた説明書に載っていた車寄せです。車寄せを外から撮れる場所には行けなかったので説明書の写真を使わさせていただきました。
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大書院の模型が置かれていました。前に置かれているのはオリジナルの鬼瓦だと思います。模型で入口のようになっているところが、上で説明した車寄せです。現在は展示館の方(模型の右側)から出入いたします。
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鬼瓦の一つを拡大いたしました。
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別の角度から見た大書院の模型です。模型が置かれていたのは源氏之間です。
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金屏風が置かれている部屋もありました。名前は草花小禽図屏風(そうかしょうきんびょうぶ)です。篠山藩主青山家に伝えられていた屏風で、江戸時代後期に狩野養川によって描かれたものだそうです。
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金屏風が置かれている部屋の前の広縁は、文化財の保護のためか暗くなっていました。実は上の写真はかなり暗くて絵が見えにくかったのですが、パソコン(PC)で露出調整をして絵が見えるようにいたしました。部屋の名前は葡萄之間(21畳)でその前に車寄せがあります。つまり写真の左端の柵が写っているところが来るの寄せです。写真撮影は許されていますが、フラッシュを使っての撮影は文化財保護のために禁止するとの表示もありました。
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由緒ある篠山城の梵鐘も展示されていました。この梵鐘は4代藩主・松平安信が1672年(寛文12年)に二世安楽を願って作り、篠山城内の道場にかけていたそうです。その後、京都の新熊野権現社や蓮花寺に移されていましたが、310年ぶりの1983年に篠山に戻ってきたそうです。
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大書院で最も格式の高い上段之間です。部屋には付書院、大床、天袋、違棚、帳台構を備えた正規の書院造りの見事な部屋でした。右端の絵が連なった部分が帳台構です。
本写真も絵が見えるようにPCで露出調整させていただきました。こちらは隣の部屋(次之間)の前の広縁(回廊)から撮りました。写真の右下のコーナー部分の1段低くなっているエリアが次之間です。
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こちらの部屋の絵も見事だったのでPCで露出調整いたしました。上段之間の隣の次之間です。上段之間と次之間の間には襖(ふすま)はなく一つの部屋のようになっていますが上段之間が一段高くなっています。この写真は上段之間側の広縁から上段之間越しに撮った写真なので左下コーナー部分に少しだけ上段之間の畳が写っています。
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抹茶や和菓子が楽しめるエリアもありました。このエリアの前の部屋は孔雀之間で、この部屋にも甲冑が展示されていました。
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こちらが孔雀之間の甲冑です。最初に紹介して甲冑が置かれていた部屋は別の部屋です。全員ではありませんが記念写真も撮りました。
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珍しく小さな部屋があったので写真を撮っておきました。写真を撮った順番などから上段之間の帳台構の裏側(上段之間と孔雀之間の間)にある9つ目の部屋と思われます。この部屋にも入ることが出来ません。後でわかったことですが、この部屋には帳台之間という名前が付いていました。
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大書院の平面図を紹介します。上段之間と次之間の位置関係が判っていただけると思います。すでに紹介した大書院で最も広い虎之間や、金屏風が置かれていた葡萄之間や、甲冑が置かれていた手鞠之間と孔雀之間や、大書院の模型が展示されていた源氏之間の位置も判ると思います。クリックすると拡大唯一、写真が撮れなかったのが闇リ之間ですが、虎之間にあった闇リ之間の入口の右の写真の襖(ふすま)は撮りました。
 入れる部屋  孔雀之間 虎之間 手鞠之間 
 入れない部屋 上段之間 次之間 葡萄之間 源氏之間 闇リ之間 帳台之間
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上の平面図の中の1~6の部分の写真が説明書に乗っていました。その6枚を紹介したいと思います。1と6以外は掲載した私の写真の中に写っています。探せば見つかると思います。
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広縁を一周してしてきて雛人形の置かれている部屋に戻りました。我々が来たときは人が少なかったけれども沢山の人が見学に来られていました。きっとNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の影響が篠山城にも影響しているのだと感じました。もちろん明智光秀の時代には篠山城は作られていませんが明智光秀の居城の福知山城が近いのです。
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大書院の内部を見た後は外から大書院を見たり本丸や二の丸エリアを見学いたしました。写真は西南西方向から見た大書院です、
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クリックすると拡大こちらは南南西方向から見た大書院です。大書院の前の大きな広場は二の丸御殿があった場所です。地面には、そこに何があったのかが右の写真の白いタイルで表示されていました。大書院の左の建物は資料館です。
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防御に徹した城と言うことで、沢山の井戸が掘られたことも有名です。その中のいくつかが今も残されていました。
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井戸の上には転落防止用の細かい目の鉄格子が取り付けられていますが、その間から中を撮りました。目では全く判りませんでしたが、PCで露出調整してある程度は見えるようにいたしました。
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二の丸の最も南から撮った大書院です。
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その場所に門がありました。名前は埋門と呼ばれていて非常時には埋めて遮断することになっていたもんだそうです。後で知りましたが近くの石垣には普請総奉行の池田輝政の刻印が残っているそうです。門を出てすぐ右(西側)の石垣にあるそうです。
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ダメ元で、撮った写真の中から探してみると、刻印が写った写真がありました。これが普請総奉行の池田輝政の刻印です。もらった説明書に乗っていた写真と見比べてみた結果、正真正銘の池田輝政の刻印でした。
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反対側(東側)の石垣も紹介します。こちらには刻印らしいものはありませんでした。
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門の外側から内側を撮りました。足場がないので、この写真を撮った位置よりも遠くからは写真は撮れませんでした。石段の上に見えている屋根は大書院の先端です。
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次に行ったのは本丸のあったエリアです。本丸エリアには神社が建てられていました。
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大書院の説明板が建てられていました。クリックすると説明が読める大きさに拡大いたします。
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大書院の間取りが書かれていたので掲載いたします。上で紹介した間取り図とは南北が反対です。こちらの間取り図は下方向が北になります。この図でわかったのが大書院の中の部屋を紹介した時に名前が無い小さな部屋を紹介しましたが、帳台之間(帳台の間)という名前が付いていることが判りました。つまり名前の付いている部屋が8つではなく次の9つだったのです。
 入れる部屋  孔雀之間 虎之間 手鞠之間 
 入れない部屋 上段之間 次之間 葡萄之間 源氏之間 闇リ之間 帳台之間 
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青山忠誠公追墓碑がありました。篠山藩第5代藩主青山忠良の十男で、明治時代の華族(子爵)だそうです。陸軍軍人で数少ない華族出身の将校の1人だそうです。
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神社を別の角度からも撮りました。
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天守台です。建っていた建物が見てみたいです。
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これが天守台の上です。景色が見事でした。
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本丸エリアの井戸も保存されていました。
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明治維新で廃城令により大書院以外は取り壊され、現在は外堀と内堀のの間に篠山小学校が建てられています。この小学校で勉強したことは一生の思い出となることでしよう。
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本丸エリアから二の丸エリアに戻って大書院の写真を撮りました。地面に白いものが見えると思いますが、上で紹介した二の丸御殿の中の設備の位置が書かれているのです。
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二の丸御殿の設備の場所を示す白いタイルです。ここに側用人詰め所があったことを示しています。
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二の丸御所の配置図です。立派な建物だったと想像できます。黒色の四角が設備の場所を示した白いタイルの位置だと思います。
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Googleの航空写真を拡大すると南北が反対ですが二の丸御殿の輪郭と白いタイルが確認できます。画面左端の中央に二の丸御殿整備図と記載した赤色長方形が上の説明図か書かれていた表示版です。表示版にGoogle地図の航空写真とQRコードを張り付けてGoogle地図で確認できることを追記すれば興味を持ち、その場でスマホを操作して確認する人も出るように感じます。


別の角度から見た大書院です。上の2枚上の二の丸御殿の配置図で説明するならば左下角方向から撮った写真です。Google地図であれは右上方向から見た構図になります。
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最後に大書院の前で記念写真を撮りました。右端が私です。
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入口でいただいた大書院の資料も掲載したいと思います。こちらのクリックすると面積で16倍に拡大いたします。
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こちらが裏側です。
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この後石垣で囲まれた坂道を下りて次の目的地の青山歴史村(デカンショ館)を目指しました。その後に武家屋敷に行き、昼食(そば処 一休庵)のあとに歴史美術館に行き、最後にお土産を買うために丹波栗菓匠大福堂に行きました。
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丹波篠山の場所を紹介します。電車マークは篠山口駅で、篠山口駅から二階町バス停までの距離は約5.9kmです。緑色マークの場所が丹波篠山で、そこに篠山城があります。青色マークが福知山城で、大阪城の場所にも黄色マークを付けました。最後の武将名は築城主です。
 篠山城  1609年築城 徳川家康
 大坂城  1583年築城 豊臣秀吉
 福知山城 1579年築城 明智光秀


追伸
2020年3月19日から関西に来ています。関東に帰るのは3月27日にその間はネット環境の関係から皆様のところに訪問できないことをお許しください。
posted by SORI at 07:20| Comment(20) | 兵庫県 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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