2013年12月06日

ちょっとした4つの配慮


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ここは高野山の遍照光院の前のメイン道路ですが景観を大切にする配慮がいくつかありました。気が付かれましたか。クリックすると拡大するので、探してみてください。
道路のカーブ部分にはガードレールが設置されていますが、一つ目がそのカードレールが木で作られていることです。鉄の部分を両側から木で挟んで丸くしています。支柱も白ではなく茶色が使われているのも二つ目の配慮だと思います。

冒頭の写真の中に道路標識がありました。ただし裏側だったので気が付かれない方もおられたかもしれませんが、実は道路標識の上に屋根が取り付けられているのです。標識自体は色を変えられないので少しでも景観に近づけているのだと思います。その屋根が三つ目の配慮で四つ目の配慮は道路標識の支柱にも茶色が使われていることでした。


お寺の写真を撮っても白いガードレールより格段に雰囲気がいいですね。せっかくなので写真のお寺である遍照光院を紹介いたします。高野山真言宗の総本山は金剛峰寺ですが、高野山には総本山の金剛峰寺を除いて117のお寺があります。その中に別格本山が27寺があります。その別格本山の一つが遍照光院なのです。遍照光院(へんじょうこういん)は、天長9年(西暦832年)11月に弘法大師によって創建され、白河上皇が高野山参りの度に御在所とされた由緒のある寺院です。


門からの内部の景色です。本堂には重要文化財快慶作の阿弥陀像外、寺宝は国宝、重文など多く狩野藤原採林の襖絵など手近に見ることが出来るそうです。高野山のお寺のほとんどは宿坊になっており、こちらでも個室(35室)大広間(2室)中広間(1室)があり、最大で個人は150名、団体で200名が泊まれるそうです。

別格本山の27寺を紹介いたします。
宝亀院、桜池院、天徳院、正智院、宝城院、西禅院、明王院、龍光院、親王院、

総持院、西室院、南院、金剛三昧院、龍泉院、光台院、福智院、本覚院、

本王院、普門院、一乗院、普賢院、西門院、大円院、持明院、多聞院、三宝院、

遍照光院、清浄心院、円通律寺
posted by SORI at 11:20| Comment(34) | TrackBack(3) | 高野山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月05日

本屋さん


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高野山の町の中を歩いていると本屋さんがありました。写真のように沢山の本の名前が書かれていました。置いている本の名前だと思いますが高野山らしい雰囲気だったので紹介いたします。
書かれているいる名前をネットで検索しますと、やはり本の名前として出てきました。写真はクリックすると大きく表示するので題名が読見やすいと思います。
建物も、すでに紹介した虎屋薬局(築123年)に負けないくらいの雰囲気でした。

Google地図とストリートビュー(S.V.)で本屋さんを探してみました。お店の名前は「佛教美術研究所」でストリートビューの画像を掲載いたしました。写真をクリックするとオリジナルを表示します。
 店名 佛教美術研究所
 S.V. http://goo.gl/maps/fzHqd
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地図も紹介いたしす。土井商店と(株)前板工務店の間の佛教美術研究所です。

より大きな地図で 佛教美術建機有所 を表示
ラベル:本屋 高野山 同僚
posted by SORI at 11:20| Comment(26) | TrackBack(1) | 高野山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

虎屋薬局

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クリックすると拡大高野山に行ったときのことを、先日からいくつか掲載させていただいています。高野山の奥の院参道お寺はどれもすばらしい建物ばかりでしたが、趣のある商店も沢山あったので、いくつか写真を撮りました。特にこちらの虎屋薬局さんは特別のような気がしました。こちらの写真はクリックすると拡大するので是非ともクリックしてみてください。

別の角度からの写真も紹介します。こちらもクリックすると拡大します。
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写真を撮っているときは気がつきませんでしたが、ガラス窓越しに大きな虎の置物がありました。お店の名前が虎屋だから「まねきねこ」ではなく「まねきとら」と、したのでしょうか。確認してみたいですね。
木製看板の「とらや藥局」も趣があります。その看板の横になにやら説明文があることも、後から写真を見て気がつきました。
調べてみるとナショナル ジオグラフィック(NATIONAL GEOGRAPHIC)の英語版の明治44年(1911年)11月号に虎屋さんの店の写真が掲載されていることが書かれているとのことでした。


クリックすると拡大冒頭の写真あるいは2枚目の写真をクリックしても、わかるのですが、庇(ひさし)の上に趣のある灯篭があったので、拡大して掲載してみました。
灯篭の正面に「とらや」、左右に「くすり」と書かれています。
掲載するにあたり、虎屋薬局さんを調べてみると高野山の商店で最も古い建物で、明治23年(1890年)に建築されたものでした。今から123年前に建てられたものでした。
見た瞬間の印象は確かでした。
写真をクリックすると2倍に拡大した写真を表示します。
posted by SORI at 05:18| Comment(46) | TrackBack(4) | 高野山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

奥の院

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大高野山に来て最初に訪れたのが奥の院です。奥の院とその参道は高野山の雰囲気が凝縮された世界に感じます。上の写真が高野山の奥の院です。残念ながらこれより奥は、左の看板に書かれているように写真撮影が禁止されているため全景は紹介できません。奥の院は高野山の信仰の中心であり、弘法大師が御入定されている聖地です。高野山で建物の撮影が禁止されているのは珍しいです。それだけ神聖な場所なのでしょう。

上の写真もクリックすると拡大するのですが、クリックが面倒な方のために奥の院の建物部分を拡大してみました。クリックするとさらに拡大します。この建物の奥に弘法大師の霊廟があります。
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高野山で一番大好きな場所が一の橋から奥の院への参道(緑色ライン)です。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓所や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年を超える杉木立の中に立ち並んでいます。それらの中には武田信玄、上杉謙信、織田信長など有名な武将たちの墓所が沢山あり、それらの風景には圧倒されます。この参道は是非とも歩いて欲しいです。バスで来た場合は、奥の院前まで行かずに手前の一の橋口のバス停で降りることを推奨いたします。正式な参拝も一の橋から歩くのが本来の姿です。

奥の院側から参道を見た景色です。我々は12時に一の橋の近くのお寺に精進料理を予約してあり、時間がなかったので、先に奥の院に行き、奥の院側から一の橋に歩きました。
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御廊橋のあたりの景色です。
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樹齢千年を超える杉の古木には圧倒されました。400年~500年前の戦国の武将の墓所・墓石を見るとロマンを感じてしまいます。
後で紹介いたしますが、武田信玄(1521年~1573年)や伊達政宗(1567年~1636年)など有名な武将の墓所を見ると、なぜか感激してしまいました。
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こちらが島津家久(初代薩摩藩主)と島津光久(二代薩摩藩主)の墓所です。伊達政宗の墓所も石の鳥居と大きな同じタイプの墓石でした。
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こちらは庄内藩主の墓所です。


石田光成の墓所も見つけました。文化的に重要なものばかりで見ごたえがありました。


こちらも見事な墓です。安芸藩(広島)の浅野家(藩主)の墓所です。江戸時代の藩主あるいはその家の墓所は立派なものが多かったです。
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こちらも墓の構えからして名のある家の墓所だと思います。やはり藩主の家だと思われます。調べた結果、徳川家康の次男である結城秀康の石廟で重要文化財に指定されていました。福井藩の藩祖、つまり第1代藩主でした。
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クリックすると拡大是非とも見たかったのが武田信玄の墓所です。敷地は広かったけれど墓石は他の墓石に比べて小さかったのが印象的でした。右の白黒の写真は、私が小さいころの1962年頃(1961~1963年)に祖母・祖父に連れられてきたときの写真です。
2つの墓石の左の大きい方が武田信玄(第19代当主 1573年没)で、右の小さい方が信玄の子である武田勝頼(第20代当主 1582年没)の五輪塔です。
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武将ばかりではありませんでした。歌舞伎役者の市川団十郎のお墓もありました。これはどうやら初代の市川團十郎(1660年~1704年3月24日)の墓のようです。これ以外にも沢山の有名な墓所を見ることが出来ました。


こちらが有名な「汗かき地蔵」と「姿見の井戸」です。お堂の中に汗かき地蔵尊が安置されています。汗かき地蔵尊の謂れは、いつも人々が犯した罪の苦しみを、人々て代わって受けておられるので、その苦しみのため汗を流しておられるのだそうです。黒っぽい石に彫られた地蔵尊は、実際にツユが吹いて、汗が流れているように見えるときがあるそうです。
そして、お堂の右の奥の方に「姿見の井戸」があります。クリックして拡大すると文字が読み取れると思います。この小さな井戸「姿見の井戸」は空海が高野山に登ったときに掘られた井戸だといわれています。伝説では、この井戸の水は、どんな眼病にも霊験あらたかだそうですが、のぞき込んで自分の顔が映らないと3年以内に死んでしまうのだそうです。「中の橋」の近くに、この「汗かき地蔵尊」と「姿見の井戸」があります。
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posted by SORI at 04:55| Comment(30) | TrackBack(5) | 高野山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

高野山の入口 女人堂

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クリックすると高野山内の地図を表示すでに紹介した箕面紅葉を見に行った前日(11月30日)は高野山に行ってきました。ケーブルカーで高野山駅に着きいてバスに乗ると最初のバス停が女人堂でした。高野山では沢山歩きました。最初に紹介するのが女人堂です。
昔、高野山は女人禁制の山で七つの登り口があり、高野七口(こうやななくち)と呼ばれていたそうです。そのために各登り口に女性のための参籠所が設けられ、女人堂と呼ばれていたそうです。この建物は現存する唯一の女人堂だそうです。

高野山の入口であることから立派な石碑が道路の両側に建てられていました。右には高野山と書かれ左には真言宗の総本山である金剛峰寺の文字が書かれていました。石碑の裏には昭和二十九年八月吉祥日と書かれていました。と言うことは今から56年前に建てられた石碑ということになります。
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女人禁制は141年前の明治5年(1872年)に解かれるまで千年余りの間、つづいたそうです。解放後は高野山参拝の休憩所的存在となりました。
実は女人堂は高野山の中の最後の参拝場所でした。ケーブルカーの駅からバスに乗ってここでは降りずに奥の院のまで行って、高野山の沢山のお寺を歩いて回って、ここまできました。ここからはバスに乗ってケーブルカー駅まで帰りました。
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posted by SORI at 04:30| Comment(16) | TrackBack(2) | 高野山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月07日

高野山のケーブルカー

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。


大坂のホテルから日帰りで高野山に行ったときのことです。上の写真はケーブルカーの下の駅「極楽橋」に停車中のケーブルカーです。
通称は高野山ケーブルと呼ばれていますが正式名は南海電気鉄道鋼索線あるいは略して南海鋼索線(なんかい・こうさくせん)です。今から81年前の1930年6月29日 高野山電気鉄道により開業しました。長い歴史の中で車両は1953年6月23日と1964年12月17日に取り替えられました。今の車両(コ11・21形)は3代目というわけです。つまり今の車両は47年間使われてきたことになります。2代目(コ1形)は当時としては採用例の少ないアルミ合金製だったそうです。

今回は高野山に登るケーブルカーだけでなく南海電鉄も紹介いたします。
高野山ケーブルカーは大坂の難波から南海電鉄の高野線とつながった路線なのです。つながったと言うよりは一部と言った方が正解です。


きっぷも一枚で高野山まで行けます。上のきっぷがJRとの乗り換え駅である新今宮から高野山までのきっぷで、下が高野山から終点の難波までのきっぷです。


高野線の電車からの景色です。大坂からの列車で山間に入ったあたりです。


もうすぐ極楽橋です。このあたりは単線なので駅で列車同士がすれ違うために待つことがあります。この電車も結構な傾斜で登っていきます。


極楽橋に着きました。ここでケーブルカーに乗り換えます。右の電車に乗ってきました。駅の標高は538mです。ホームは櫛形3面4線です。以前は当駅でケーブルカーに乗らないで乗降する利用客は2004年は1日あたり101人と稀でしたが、高野山町石道が紀伊山地の霊場と参詣道として世界遺産に登録されたのちは、散策コースとして下車する客も増えています。


クリックするとネットの記事を表示下の写真は、もしかしてと思い、駅到着寸前に電車の中から撮った橋です。調べてみると、これが駅名の由来になった極楽橋でした。この橋は不動坂という高野山への参道に通じています。現在の橋は1954年に架け替えられたものだそうです。右の写真はネットから拝借した明治時代の写真です。江戸・明治時代は不動橋と呼ばれていました。
明治・大正・昭和の極楽橋の写真をネットで見つけました。→ポチッ
クリックするとネットの写真を表示

ケーブルカーと列車は連絡されておりすぐにケーブルカーに乗ります。高野線の列車の極楽橋駅発着時刻に合わせて運行されているため運転間隔は不均等だが、おおむね10 - 40分毎に運行されています。ただしお年寄りでも大丈夫なように乗り換え時間は考えてあるので乗り過ごす心配は要りません。
さらに積み残しが発生した場合には当該便の7分後に臨時便が運転するそうです。その場合反対方向の便は実質回送便ということもあります。


ケーブルカーの先頭から前を撮った景色です。
 路線距離 :800m
 高低差  :330m
 最大傾斜 :56.82%(水平100mに対して高低差56.82m 29.6度)
 方式    :単線2両交走式
 軌間    :1067mm
 駅数    :2駅(起終点駅含む)
 所要時間 :5分


ケーブルカーは線路が真直ぐに近いところが多いけれども、高野山は山が入組んでいるためか大きなカーブがありました。


丁度真中で、上からのケーブルカーとすれ違います。


これが頂上の高野山駅です。ケーブルカーの車両の先頭には運転手さんが乗っています。2006年7月1日からは全線でPiTaPaとICOCAが使用できるようになりました。ケーブルカーでICカード乗車券が使えるのは、日本全国でここだけだそうです。


高野山駅の駅舎は1928年完成の木造2階建です。ケーブルカーの開業が1930年6月29日なので開業当初の建物ということになります。洋風建築を基調とする外観で、高野山の玄関駅らしい寺院風の宝形造の屋根を持っています。1階がコンコース、2階が待合室です。待合室には展望室があり、また高野線の歴代車両の写真などが飾られています。この駅舎は2005年に南海電気鉄道鋼索線高野山駅駅舎として国の登録有形文化財に登録されたそうです。一日の乗降人数は平均で1,982人だそうです。
ここから南海りんかんバスに乗り換えて高野山の町に向かいます。
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高野山でユネスコの世界遺産に登録された場所は大門、伽藍、金剛峯寺、徳川家霊台、金剛三昧院の各境内地、そして、奥之院全体と自然景観や森林までを含めて登録の対象です。
掲載させてもらった高野山の記事を紹介します。
タイトルをクリックすると記事を表示します。
  高野山と言えば精進料理 ←ぜひ体験を!
  高野山のメインストリート
  高野山の商店
  高野山真言宗・総本山  ←金剛峯寺
  お寺散策
  ちょっとした配慮
  枯山水
  南峰堂本舗
  高野まき
  大門
  本屋さん
  虎屋薬局
  総本山と大本山
  奥の院 ←お薦め場所
  高野山の入口 女人堂

ここからはケーブルカーの下りを紹介します。
高野山駅から見たケーブルカーです。これから乗るところです。


下りるときも先頭に乗りました。高野山駅を出るとすぐに急カーブが待っています。


15時37分と言えどもケーブルカーのあたりは暗くなりかけていることから写真に撮ると近い景色は流れてしまいます。


真中あたりで昇って来る車両とすれ違うところです。こちらの景色はクリックすると拡大します。
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すれ違いを過ぎたあたりの景色です。


もうすぐ極楽橋駅です。


極楽橋駅からは有料特急「こうや」に乗りました。朝、大坂から高野山に行く時はは特急料金の要らない普通の特急でした。
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座席も特急らしいです。


休みの日の大阪梅田からの往復の例を掲載います。
行きは1時間54分で帰りは1時間48分です。意外と所要時間は短いです。


難波からのルートを表示します。

posted by SORI at 11:17| Comment(20) | TrackBack(1) | 高野山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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