2015年05月11日

巨大な民家 「王家大院」

写真の上のカーソルがの場合は写真をクリックすると拡大します。
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以前に山西商人の大豪邸として喬家大院(日本語:喬氏邸宅)を紹介しました。その喬家大院をネットで調べているときに、さらに大きな大院があることを知りました。それを見て、是非、行ってみたいと思っていましたが意外と早くその王家大院(日本語:王氏邸宅)に来る機会を得ました。実際に見て驚きの一言でした。 喬家大院とは桁違いといえるくらいの規模でした。上の写真が入口の門です。これが個人の家とは!

門の一番上に掲げられた扁額には「輝映綿翠」と書かれていました。こちらの意味を調べてみましたが判りません。
クリックすると拡大門の入口のすぐ上に書かれているのは、下の写真の「寅賔」の二文字です。この「寅賔」は「客人を迎える。」という意味と、東側に向いた門であることから、「日の出を迎える。」という意味に解釈されています。クリックすると拡大した門を表示します。住所は「山西省霊石県静升鎮」です。クリックすると判りますが門の左側には「山西霊石王家大院」と書かれていました。
記録によると、先祖にあたる王実という若者が、元の皇慶年間(1312~1314年)に溝営村から静昇に移って定住し、農業を営みながら、副業として豆腐売りしていたそうです。その子孫が農業から商業へ、商人から役人へと出世していったそうです。地位、名誉、財産を手にした王家の人々は、大掛かりな工事に取り掛かり、「華夏第一宅(中国一の屋敷)」と呼ばれる王家大院を築いたそうです。中国の人は屋敷にこだわるのです。
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入口の門をくぐったところです。門の途中まで登って撮りました。門からは少し登っていきます。ここでは、まだ全貌は判りませんが全体に斜面に建てられています。
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見取り図があったので撮りました。大きく2つに分かれています。2つの敷地は橋で結ばれています。敷地全体は25万㎡で部屋の数は1118もあるそうです。ほんとに大豪邸です。右端が冒頭の写真の入口の門です。
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王家大院の航空写真です。上の見取り図と比べて見てください。クリックするとGoogle航空写真を表示します。
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南側の城壁から正面を撮りました。あまりの広さに全体を撮ることが出来ませんが雰囲気は判ってもらえると思います。是非、写真はクリックしてみてください。
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こちらは正面より右側を撮ったものです。
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家は高い城壁で囲まれています。大富豪とは言え、一商人(個人)でこれだけの城壁を作るとは驚きでした。
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上の見取り図でわかるように敷地は2つに別れています。その2つの敷地を結んでいる橋です。


中庭を中心に四方向に家を建てる四合院方式の建物の組み合わせで出来ています。
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一つ一つの四合院は豪華に装飾されています。
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なん本も道が通っています。その一つです。


城壁に囲まれていることが判ります。屋根が芸術的です。
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屋根もいくつか紹介します。是非写真をクリックしてみてください。
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こちらの屋根の景色もすばらしいです。
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門の正面にはこのような建造物がありました。


通路の正面には必ずこのような彫り物がありました。
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ここが団体人たちが記念撮影をする場所です。
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これは井戸です。


部屋の中も紹介します。立派です。


窓の装飾もよく見ると鮮やかな色彩であることが判ります。


王家大院の場所を紹介します。が王家大院です。ここは麺で有名な太原から平遥古城よりさらに遠くて南西130kmにあります。地名は山西省霊石県静升鎮です。あの「町全体が結婚式会場」と「洞穴の住宅」があった場所です。 このあたりで有名な平遥古城まで来るのであれば喬家大院ではなく、この王家大院まで足を延ばすことをお薦めします。太原の中心から晋祠(15km)→喬家大院(50km)→平遥古城(80km)→王家大院(130km)の順番にほぼ同じ方向に離れて行くのが不思議です。
  太原市内→記事1 記事2 記事3 記事4 記事5
  晋祠  →記事1
  喬家大院→記事1 記事2 記事3
  平遥古城→記事1 記事2 記事3 記事4 記事5
  王家大院→記事1 記事2 記事3


昔、TBSの番組「世界ふしぎ発見!」で王家大院が紹介されたことがありました。その時の「世界ふしぎ発見!」での紹介内容です。
中国中で活躍した山西商人の中でも、一番の大商人・王一族のお屋敷が王家大院で、公開されている部分だけでも3万平方メートルの広さ!高台から見ると、映画の撮影も出来そうな広さでした。もちろんセットではなく全て本物だから装飾なども素晴らしいんです。決してゴテゴテしたものではなく、芸術的な価値を感じさせるものでした。ふとしたところに、凝った竜が彫られていたりするんです。だからとても趣があるし、しっとりとした雰囲気。お屋敷内を歩いていると、素敵だな~と思わせるものがたくさんありました。また王家大院は50年程かけて徐々につくられているので、ひとつの外壁に囲まれたところと、また別の外壁に囲まれたところでは少し雰囲気が変わって、「ああ、時代が違うんだな」と感じる面白さも。ただ…、桁外れに広いので、私一人で移動しようとすると大変!思った場所と全く違うところに出ては「あ、ここか…」ってことに(笑)。

でも実際、住んだら一体どうなるのか想像もつきませんね(笑)。お屋敷とはいえ日本では考えられない広さだし、まさに中国ならではというスケールでした。

TBS「世界ふしぎ発見!」 2007年6月30日


追伸 王家大院の写真を追加しました。
すでに巨大な民家「王家大院」を紹介いたしましたが、広い敷地内で沢山の写真を撮らせていただきました。前回、紹介しきれなかったところを、小さな写真45枚で紹介いたします。拡大希望の番号をコメントしていただければ、クリックすると拡大するように設定いたします。
現時点でクリックすると拡大する写真 1-A 1-B 5-B 11-A 13-C 15-A

先ずは芸術的な屋根たちです。すべての建物が違う形に出来ており屋根の形も違いました。王さんの財力に感服いたしました。
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路地の風景も魅力的です。こちらも似ているようで同じ風景はありませんでした。その路地の風景を、いくつか紹介いたします。
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家を囲む城壁です。巨大な城壁の上の景色を中心に撮りました。
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四合院の建物の中庭などを紹介いたします。いろんな風情に出会えました。
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家の中や周りの雰囲気も紹介いたします。中の調度品もすばらしいものがありました。
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王家の人たちが使っていた生活の道具です。これらも先進的な高級なものだったのでしょうね。
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ラベル:山西省 王家大院
posted by SORI at 23:25| Comment(44) | TrackBack(2) | 山西省 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月09日

樹齢3000年の老柏 晋祠

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山西省の晋祠(Jinci Temple)という場所です。日本人には、ほとんど知られていないと思いましたがネットで見ると結構出てきたのに驚きでした。そして実際に行ってみると歴史のある立派な場所でした。
晋祠の創建ははっきりしていないそうですが、起源をたどれば紀元前(BC)11世紀からの歴史があるようです。本格的には北魏の時代に周の成王の弟周叔慮を祭る祠を建てたのがこれだけの施設になった始まりだそうです。したがって創建は北宋天聖年間(1023年~1032年)とするのが妥当なようです。その始まりが上の聖母殿のあたりの建物のようです。聖母殿の横の倒れかけた木は樹齢3000年と言われている老栢だそうです。つまり、この老栢は紀元前(BC)11世紀ごろからの晋祠(しんし)の歴史を見て来たことになります。ここには千年を超える老木が20本残っているそうです。

このあたりは雨が少ないので、ここでもレンガの建物がほとんどですが聖母殿は木が使われていました。柱には竜の彫り物がつけられていました。
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こちらが聖母像です。両脇の女性の像は色彩が鮮やかに残っておりパンフレットにも使われていました。
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クリックすると拡大聖母殿の前は人が多かったです。下の石橋「魚沼飛梁」も聖母殿と同様に北宋の遺構です。右の写真の献殿は金代の建築です。それ以外は明・清代および、それ以降の建物だそうです。聖母殿、魚沼飛梁、献殿が晋祠三大国宝建築です。残念ながら献殿の写真は撮ってなかったので右上の献殿の写真はネットから転用させてもらいました。
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聖母殿の裏の高いところに建てられている三台閣です。このあたりはもっとも古い歴史のある部分という印象を受けました。配置的にも聖母殿と三台閣は大事な場所に建てられている気がします。
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三台閣にも上がりましたので、三台閣の景観を紹介します。
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レンガで作られた三台閣のアーチも見事でした。
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上から見ると屋根がきれいでした。日本の寺院とは雰囲気が違います。
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ここの全貌が判りにくいと思いますのでパンフレットの地図を見てください。博物館と書かれていますが中国の博物館と日本の博物館と意味合いが違うようです。日本のように文化財を集めた場所ではなく、文化財の場所を有料にした場所も博物館と呼ぶようです。したがって日本の金閣寺なども中国流に言えば金閣寺博物館になります。
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こちらの場所の航空写真(衛星写真)も紹介しておきます。

広大な敷地の中には沢山のお寺がありました。古い樹齢の木が多く植わっており長い歴史の中で建てられたようです。
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樹齢1000年を超える木の一つです。この木は約1400年前の隋の時代に植えられたそうです。和名はエンジュです。このあたりは大きな古い木が沢山あるので時代的には古建物だと思います。
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塔もありました。
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趣のある建物です。今回はガイドさんを頼まなかったので建物の目的はわかりません。


このような建物が沢山ありました。
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敷地内には、いろんな寺院がありました。クリックすると左右対称を実感できると思います。晋祠の雰囲気を例えるのは難しいのですが、テーマパークに、お寺のパビリオンが沢山あるような感じでした。昔の人は驚いたと思います。
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中国の人が中心の観光客の団体が沢山来られていました。


撮影も行なわれていました。このあたりはあまり知られていないけれど「平遥古城」や「喬家大院」など名勝が沢山ある所でした。


航空写真で晋祠の場所を紹介します。
山西省の省都である太原市内中心部から車で24km(30分)の距離です。
  太原市内     晋祠
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ラベル:山西省 晋祠 太原
posted by SORI at 15:37| Comment(26) | TrackBack(3) | 山西省 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月07日

町全体が結婚式会場

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クリックすると新郎新婦の名前を読み取ることが出来ます。
山西省の省都・太原から130km離れた洞穴の住宅のあった町「山西省霊石県静升鎮」で結婚式がありました。ここは王家大院の町でもあり洞穴の住宅の町でもあります。町のあちらこちらの通りには写真のような風船アーチが沢山ありました。

町全体でお祝いしているようで風船アーチには新婚快乐(新婚快楽)の文字や新郎新婦の名前を読み取ることが出来ます。張さんと孫さんおめでとうございます。それぞれのアーチに送った人と思われる名前も書かれていたので、風船アーチは日本流に言えば花束のようなものかもしれません。結婚式会場からは結構離れた場所でした。
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別の通りにも同じように風船アーチが建てられていました。周りの景色や風船アーチの配置の違いから冒頭の風船アーチとは違うことが判ってもらえると思います。
これらのアーチが設置されているのは、それぞれの結婚する人の家の近くかも知れません。
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爆竹も何度も鳴らされていました。すごい爆竹でした。
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結婚式会場と思われるレストランにも風船アーチが飾られていました。レストランの前には赤い布で飾った車が沢山止まっていました。


この町(村)の出来事でした。王家大院から撮りました。
posted by SORI at 21:06| Comment(16) | TrackBack(1) | 山西省 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

パイナップルの季節です。

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中国の世界遺産の一つ平遥古城の入口です。季節感覚はよく判りませんが、4月はパイナップルの美味しい季節なのです。いろんなところで売っていました。
posted by SORI at 08:35| Comment(8) | TrackBack(0) | 山西省 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月06日

喬家大院でランチ

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世界遺産の平遥古城を見た後に行った山西商人の豪邸である喬家大院をすでに紹介いたしましたが、そこで昼食(ランチ)の時間となりました。ガイドさんに案内された喬家大院で一番人気のレストランです。
山西省名物の21種類の料理がセットになって1テーブルが日本円で約2640円相当でした。料理は10名で食べても十分な量があるのです。我々はガイドさんも入れて8名でしたが、10名で食べれば一人当たり264円となります。16種類の料理が並んだところで写真を撮りました。

そのメニューです。16種類(8椀+8碟)の料理以外にご飯類や麺類が5種類付いています。碟は日本語では小皿のことです。ただし実際の皿は、決して小皿ではありませんでした。喬氏特色菜と書かれています。喬氏のスペシャル料理という意味です。


御飯代わりにソバガキのような食べ物が出てきました。珍しい食べ物でした。麺の一種だと思います。山西省はすでに紹介したように、麺のルーツのような場所で、いろんな麺がある場所でした。
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変わった形ですが、こちらも麺料理です。
トマト味なのでパスタと思えばいいかもしれません。
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ガイドさんです。なぜ3人?
実は右側の人が平遥古城を案内してくれたガイドさんです。このガイドさんの説明が良かったので、交渉して喬家大院にも一緒に来てもらうことにしました。平遥古城から喬家大院までの道案内も頼みました。その時に、この若い2名の勉強中のガイトさんも一緒に行かせてほしいと頼まれたのです。もちろん2名のガイド料金はなしです。丁度車の席が3人分ほど空いていました。
一緒に食事もしてビールも飲みました。年齢は20才と21才と25才なのでアルコールは大丈夫でした。おかげで、ビールも沢山飲んで、楽しく食事をいたしました。


平遥古城から喬家大院は37kmです。車で45分くらいで行けます。ガイドさんたちは、平遥古城までバスかタクシーで帰ったのだと思います。別れた後、我々は太原のホテルに向かいました。
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posted by SORI at 02:57| Comment(12) | TrackBack(0) | 山西省 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月05日

平遥古城 192年前の中庭がいくつもある銀行

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この写真は中国の昔の銀行の中庭です。この銀行のある世界遺産の平遥古城は紀元前(2700年前)からの古い歴史があります。周宣王の時代(紀元前827~782年)に記録が出てくるそうです。この時代にすでに商売で使うお金を為替手形で取引していたそうです。
  名前 日昇昌票號(日昇昌票号)
  区分 錢莊(銭荘 / 銀行)
  住所 中国 山西省晋中市平遥县西大街38号
  電話 0354-568-3621

上の写真の中の銀行全体の見取り図を拡大しました。沢山の部屋があることが判ると思います。南北65メートル、東西20メートルの大きさだそうです。四合院方式の組み合わせた平屋の広い敷地でした。上の写真は入口から入った最初の中庭です。かなりの部屋があり従業員も多かったと聞きました。基本的には民家の構造の組み合わせで作られた建物群で、昔の建物の勉強になります。
銀行は元々とアヘンで儲けたお金ではじめたそうです。


この銀行は城壁で囲まれた町の平遥古城の中心近くにあります。今の城壁のある景観だけでも700年の歴史があるそうです。その長い歴史の中に金融全盛時代がありました。巨大城壁に守られた平遥古城は明代末期から清代にかけて中国最大の金融の中心地だったそうです。
その中でも最も有名なのが日昇昌で、清の道光3年(1823年 今から192年前)に平遥西大街に開業したそうです。冒頭の写真は、その有名な日昇昌です。先ずガイドさんが案内してくれるのは、その昔の銀行です。
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銀行「日昇昌」の前の西大通り(西大街)のです。日昇昌記の文字が下がったところが銀行の入口です。この写真は是非をクリックしてみてください。銀行の前の建物はホテルのようです。電柱が無いのにも驚かされました。
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昔の銀行の窓口です。この写真の赤い服の女性がガイドさんです。25才だそうです。こちらの人は若くてもしっかりしていて、いつも関心させられます。  
ガイドさんには朝食に汁ビーフンの美味しいお店を紹介してもらったりと大変お世話になりました。大変良かったので、次の離れた(車で1時間 35kmくらいの)場所のガイドおよび道案内もお願いしてしまいました。その追加料金は40元(600円)でした。我々の車に乗って行くのでガイドさんだけは終わった後にバスで平遥古城に帰る必要がありますが、そのパス代も込みです。


冒頭の写真とは別の中庭です。19世紀後半に中国最大の銀行となりました。
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建物は頑丈そうです。さすが銀行


当時の社長の車だそうです。



ここから下で別の銀行を紹介いたします。一院と二院の間の門です。錢莊(票號)が銀行を表しているようです。
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これが、これから紹介する銀行(票号/銭荘)の見取り図です。
院と書いているところは中庭なっていて、その廻り四方に建物があるのです。この方式を四合院と言うそうです。


この写真は上の見取り図の二院と書いているところです。


こちらは二院を奥側から撮った写真です。
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二院の奥にある三院です。
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龍の鎧を身に着けている武将らしき人が祀られていました。
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四院に逸静神怡と書かれた建物がありました。この屋根の下に、地下の中庭(五院)があり、その両側に金庫がありました。地下には七院にある細い階段から入ります。


六院には武器が展示されていました。金庫をまもる兵士がいたのではないかと思います。右の写真が金庫がある地下に行く七院の階段です。
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金庫室がある地下の五院です。ここに2つの金庫室がありました。
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こちらが地下金庫です。場所は四院と七院の間の地下にありました。見取り図では五院と描かれているところで、金庫室は2つありました。金庫室の中には馬蹄銀と呼ばれた銀の秤量貨幣が沢山保管されていました。でもこれはレプリカですね。たぶん


もう一つの地下金庫です。クリックすると拡大するので金庫の説明が読めると思います。
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この地下にはお坊さんが居られます。金庫室とお坊さんの関係はよくわかりませんでしたが、その部屋に入れてもらってお話を聞きました。このあたりは水が少ないそうで飢饉のときに私財を沢山寄付して街を救ったことを引用した話でした。


クリックすると拡大平遥古城( )の場所を地形図で紹介いたします。右の地図の赤い部分が山西省です。
  太原市内 山西省・省都 346万人 6956km²
  平遥古城 世界遺産(1997年登録)
   徒歩ルート 89km 17時間53分
posted by SORI at 06:41| Comment(14) | TrackBack(0) | 山西省 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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