2023年12月15日

成田空港温泉「空の湯」で飲み会 食事処・天の川

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前記事芝山鉄道で仲間3人と「空の湯」に行くのからの続きです。
日本一短い鉄道(普通鉄道における1事業者の保有総延長としては日本最短)の芝山鉄道の芝山千代田駅から一般道路を歩いてきて、「空の湯」および駐車場に入る専用道路の入口( )です。

Google地図の航空写真で芝山千代田駅から「空の湯」までの徒歩ルート()を紹介します。左の飛行機が写っていることが分かっていただけると思います。成田空港の飛行機の整備エリヤや貨物を扱うエリアです。
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 空の湯入口(上の写真の場所)
 空の湯(成田空港温泉 空の湯)
  芝山千代田駅~空の湯 徒歩約500m
  芝山鉄道線路 

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道を曲がろうとした時に「空の湯」の無料のシャトルバスが出てきました。成田空港第2ターミナルと第3ターミナルとの間でシャトルバスを走らせているそうです。無料シャトルバス時刻表を右に紹介しておきます。第2ターミナル発で5時15分~22時40分台に29往復ほど出ています。ただし第3ターミナル発は5時10分~8時40分の朝だけ7本になっています。画面をクリックすると文字が読める大きさに拡大します。
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道を進んで行くと成田空港温泉「空の湯」の建物が見えてきました。左寄りの大きな土色の建物です。入口は建物の右側にあるので、徒歩の場合は駐車場を突っ切る形で進むと最短になります。
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こちらが「空の湯」の建物です。
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入口に進んでいるところです。この時、12時40分でした。
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入口の看板です。扁額風でもあります。
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中に入って受付に行き利用のコースは温泉だけと告げると下足キーを登録してくれます。このゲートがお風呂エリアに入るお風呂ゲートです。下足キー(リストバンド)をゲートにタッチするとケートが開いて中に入れます。我々のコースは3時間以内です。
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ゲートを入ってから、入ってきた方向を撮った写真です。我々が飲み会をする予定の食事処天の川はゲートの外にあるので、3時間たっぷり温泉エリアを楽しむことが出来ます。ケートの正面が食事処天の川です。
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館内の案内の中でゲート内になるのが2階3階のすべての設備(温泉 脱衣所 ランドリー 岩盤浴 お休み処 エステ 貸切風呂 カプセルホテル)です。1階の設備(受付 食事処天の川 癒やし処 カラオケルーム 会議室)は全てゲートの外です。
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こちらが3階の温泉の入口です。 織姫(WOMEN) と書かれた赤いのれんのところが女性用です。男性用は青いのれんのところです。斜めからの写真なので文字は読めませんが 彦星(MEN) と書かれているのだと思います。
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成田空港温泉「空の湯」は1013mまで掘削した温泉だそうです。
クリックすると拡大クリックすると拡大その時に使った掘削ビットが上の写真の左端下に写っています。泉温は29.3℃なので法的にも温泉と表示することが出来ます。温泉法による温泉の定義では温度が25℃以上であれば温泉と言うことが出来ます。ただし、25℃以下でも規定された成分の1つでも設定された数値以上であれば温泉と言うことが出来ます。下記の数値は1kgあたりです。
は「空の湯」が成分で温泉も温泉条件を満たしているので、仮に泉源の温度が25℃未満でも温泉と表示できることになります。右の温泉分析書は空の湯の分析値で、画面をクリックするとオリジナルを表示します。温泉分析書による温泉の湧出量は266リットル/分なので29.3℃の水の比重で計算すると1時間当たり15.89トンの湧出量になります。
温泉定義成分 温泉条件 空の湯
溶存物質(ガス性のものを除く) 総量1,000mg以上 31160mg
遊離炭酸(CO2) 250mg以上 40.1mg
リチウムイオン(Li+) 1mg以上 0.6mg
ストロンチウムイオン(Sr2+) 10mg以上 11.7mg
バリウムイオン(Ba2+) 5mg以上 9.1mg
フェロ又はフェリイオン(Fe2+,Fe3+) 10mg以上 3.0mg
第一マンガンイオン(Mn2+) 10mg以上 0.2mg
水素イオン(H+) 1mg以上
臭素イオン(Br-) 5mg以上 123.5mg
沃素イオン(I-) 1mg以上 83.3mg
フッ素イオン(F-) 2mg以上 0.2mg
ヒ酸水素イオン(HAsO42-) 1.3mg以上
メタ亜ひ酸(HAsO2) 1mg以上
総硫黄(S) 1mg以上
メタホウ酸(HBO2) 5mg以上
メタけい酸(H2SiO3) 50mg以上
重炭酸ソーダ(NaHCO3) 340mg以上
ラドン(Rn) 20×10-10Ci以上
ラジウム塩(Raとして) 1億分の1mg以上 未計測
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こちらが脱衣場ロッカーエリアです。幸いにも誰もいなかったので写真を撮らせていただきました。浴場には沢山の人がいたので、残念ながら湯舟を撮ることは出来ないのでカメラはロッカーに入れました。
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ここから下の温泉の4枚の写真はホームページなどのネットから転用させていただきました。
こちらが室内の温泉です。高濃度炭酸泉などがあります。
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こちらは露天風呂風呂です。奥と手前に分かれていて奥の方が「源泉加温かけ流し温泉」で、手前側の温泉は奥からの、かけ流しと循環が混合した温泉ですが、我々が入った時は人が少ないためか、循環湯の温泉は止まっていたので、全体が「源泉加温かけ流し」状態でした。
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空の湯の露天風呂の売りは「かけ流し」と「飛行機の離着陸が見れる景色の中での入浴」だと感じました。
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「かけ流し湯」の表示板です。
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こちらが源泉の成分そのものの「かけ流し湯」と名がつけられた源泉加温かけ流し温泉です。
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温泉から上がって2階エリア下りてきました。
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風呂上りはアイスや冷たいドリンクが欲しくなりますが、我々は飲み会のビールが待っているので我慢いたしました・
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クリックすると拡大2階のエリアには岩盤浴もありました。我々は温泉だけの、お急ぎ入浴コース(ゲート通過より3時間以内)なので岩盤浴には入れません。
岩盤浴コースの場合は右の写真のような半纏(はんてん)のような服をを貸してくれるので一目でわかります。→料金表
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カプセルホテルの入口です。成田空港の利用者が使うのだと思います。宿泊しながら温泉に入ったりサウナや岩盤浴が出来るわけです。
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リラックスする空間もありました。
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泊まるほどではない人のための、休憩スペースです。薪ストーブコーナーと呼ばれています。成田空港からシャトルバスで10分ほどなので、空港の利用者が便利なのではないかと感じました。
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漫画本も沢山置かれていました。温泉と言えば漫画本なのでしょうか?
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飲み会予定場所の食事処天の川はお風呂エリアの外なのでゲートを出ました。
ただし、この写真は温泉に入る前に撮った写真です。
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こちらが食事処天の川です。こちらも温泉に入る前の写真です。
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さっそく大ジョッキを頼みました。飲み始めたのが13時40分ごろでした。
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先ずは刺身を頼みました。「漁師のいいとこ盛り3種」と名前が付いていました。
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こちらは大ぶりタコの唐揚げです。
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揚げ物をもう一つ、ガーリックシュリンプです。
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さらにフライドポテトも頼みました。
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最初に頼んだ4品が出てきたところで記念写真を撮ってもらいました。前記事でA氏とB氏と呼んだのでここでも使わさせていただきます。右がA氏で左がB氏で真ん中が私です。
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つまみ4品の写真も撮りました。
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最初の4品はこちらのメニューの揚げ物(FRIED)から3品を選びました。
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刺身はこちらの鮮魚(FISH)から1品選びました。
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最初の記念写真が逆光ぎみだったので窓側からの写真も撮ってもらいました。当然ながら左がA氏で右がB氏で真ん中が私です。
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私は大ジョッキを追加しました。
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次のつまみに頼んだのがこちらです。11月6日からの新メニューの豚モツと大地根菜にこんぶ醤油とニンニクを効かせた黒アヒージョを頼みました。千葉県で採れる新鮮な食材に、隠し味として千葉県名産の「醤油」を使用しているそうです。特に成田空港の近隣市町村(成田市、芝山町、多古町、冨里市、横芝光市)の食材にこだわっていると書かれていました。
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アヒージョの部分を紹介します。オリーブオイルとニンニクで食材を煮込んだ料理で、アヒージョはスペイン南部の伝統的な料理タパスのひとつだそうです。スペイン流に言えば豚モツと根菜アヒージョと言うことになるようです。
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食べるときはパンに乗せて食べました。
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1人席も人気でした。この写真の範囲に我々がいる間に2組(1人と2人)が座られました。
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さらにビールと「目玉おやじの鉄板つくね」を頼みました。鉄板に乗っていて熱々でした。
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玉子の黄身を乗せていただきました。
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ラーメンも美味しそうでした。そのほか食事のメニーとしては、丼ぶり、カレー類、蕎麦やうどん類、パスタ類、など充実していました。「空の湯」には宿泊施設があるので当然かもしれません。
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成田空港温泉「空の湯」に到着したのは12時40分でしたが、芝山千代田駅から乗ったのは16時発の電車でした。温泉が約1時間で飲み会が約2時間だったことになります。
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下側の臙脂色マーク( )が今回の空の湯の中にある食事処天の川です。上側の臙脂色マーク( )は同じ仲間3人で行ったDining Port 御料鶴です。以前の記事「ちょっと話題の Dining Port 御料鶴 でランチしてきました。」で紹介しました。
posted by SORI at 22:28| Comment(30) | 千葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月11日

芝山鉄道で仲間3人と「空の湯」に行く

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大以前の記事「ちょっと話題の Dining Port 御料鶴 でランチしてきました。」で紹介した仲間3人での次の飲み会は成田空港近くにある温泉「成田空港温泉 空の湯」の中にある食事処・天の川で行いました。右の写真は前回のDining Port 御料鶴で撮った3人での記念写真です。真中が私で左がA氏で左がB氏です。
レストランがある空の湯は芝山鉄道線の芝山千代田駅にあります。芝山鉄道は東成田駅(京成電鉄)から芝山千代田駅までの1区間だけの鉄道会社です。1区間だけの鉄道会社ではありますが、線路と駅と車両(リース)など鉄道施設一式を保有し旅客運輸する鉄道会社において芝山鉄道は「日本一短い鉄道」です。ただし比較対象にケーブルカー(鋼索鉄道)などは含んでいません。

クリックすると拡大一番遠く東京寄りから来るA氏とは京成佐倉駅で待ち合わせるので、先ずは快速電車に乗って京成佐倉駅に向かいました。写真は臼井駅を出発して最初の踏切の写真です。この踏切は今年の2月に掲載した「臼井城 千葉県佐倉市」で紹介しました。右の写真がその時に踏切から撮った臼井駅です。
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臼井駅は京成佐倉駅の1つ手前の駅ですが、距離の長い区間でいろんな景色に出会えます。こちらの白い円筒形の物は北海道で同じようなものを見たことがあるので、おそらく牧草を家畜のために冬に備えて丸めたものと思われます。
名前はロールベールラップサイロと呼ぶそうです。昔はサイロを使ったサイレージ化(乳酸発酵を主とする嫌気的発酵)がクリックすると拡大行われてきましたが、ラップの複層構造やギ酸添加などの工夫を行ってサイレージ化を達成できるようになったようです。右の写真は北海道の高橋牧場に行った時に撮ったラップを巻く前の干し草ロールと長男家族です。
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クリックすると拡大こちらが佐倉市の風物で有名なオランダ風車です。
この風車があるのは佐倉ふるさと広場で、4月にはチューリップフェスタ、7月にはひまわりフェスタクリックすると拡大8月には花火大会、10月にはコスモスフェスタが行われます。自転車でよく行くところでもあります。
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こちらがA氏との待ち合わせの京成佐倉駅です。こちらが私が乗ってきた京成佐倉駅に着いた快速成田空港行です。ここで待ち合わせの京成成田行きの快速特急に追い抜かれます。
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待ち合わせと言っても私が乗ってきた快速成田空港行からA氏が乗ってくる快速特急京成成田行の1号車に乗り換えるだけです。写真が京成成田行き快速特急です。乗るとすぐに出会えました。快速特急は佐倉駅から京成成田駅までノンストップです。B氏との待ち合わせは京成成田駅です。
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クリックすると拡大京成成田駅に着きました。我々が乗ってきた電車は折り返して上野行になり、それが出発すると電光掲示板のように4両の芝山千代田行が入ってきます。
京成成田駅と言えば成田山新勝寺があることで有名な駅です。右は初めて和服で成田山新勝寺に初詣に来た時の写真です。
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こちらが芝山鉄道の芝山千代田行の電車です。3人全員が集まりました。話に夢中で車両の先頭の写真を撮り忘れてしまいました。
 京成成田→芝山千代田 時刻表 平日 土曜日 日祝日
 芝山千代田→京成成田 時刻表 平日 土曜日 日祝日
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撮り忘れたのは仕方がないので、現在使われている芝山鉄道3500形電車の写真をWikipediaから転用させていただきました。京成電鉄からのリース車両だそうです。形式は芝山鉄道3500形電車で、車体カラーは赤と緑の帯が特徴です。京成電鉄の車体カラーは赤と青の帯が特徴です。
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車内にあった路線図です。左上の部分の芝山千代田(SR01)~東成田(KS44)が芝山鉄道線です。東成田にKS44の駅番号が付けられていることから東成田は京成電鉄の駅であることが分かります。つまり芝山鉄道の駅は芝山千代田の1つだけと言うことが分かっていただけると思います。
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参考に京成電鉄を中心とした路線図を紹介します。右端に芝山鉄道線が書かれています。車内の路線図とは180度回転した配置です。
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京成成田駅を出発してすぐに右に大きくカーブします。車体がかなり傾いているのが判っていただけると思います。
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ここが成田空港駅行と芝山千代田行へ分かれるところです。不思議に思われるかもしれませんが、真っすぐに行く方がクリックすると拡大芝山千代田駅の線路で、左に急に曲がっている方が乗客の多い成田空港駅行の線路です。これは線路が作られた経緯と関係しているようです。それは用地買収が難航して最終的に工事を中断(右の写真)して断念することになった、東京と成田空港を結ぶ成田新幹線の計画でした。
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さらに分岐点まで来て撮った写真です。両方ともトンネルに入ります。トンネルは空港の地下を通ります。ここはまだ京成電鉄の東成田線ですが、地下にある東成田駅から先が芝山鉄道線になります。芝山鉄道線は芝山千代田駅付近を除き路線の大部分は成田国際空港の地下を走行します。
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京成本線と書かれているところが上の分岐点の写真の場所です。下記にあるように成田空港のために最初に出来た駅は東成田駅(京成電鉄)でした。ただし、東成田駅の右下の写真の場所からバスに乗り換えて空港に行ったのを覚えています。右下の写真はWikipediaから転用させていただきました。バスが空港の敷地内に入るところに検問所があり保安チェックをしていたことも覚えています。バス移動は1991年まで続いたことになります。東成田駅は開業~1991年03月19日前日までの名前は成田空港駅でした。クリックすると拡大
 成田国際空港  1978年05月20日開港
 東成田駅    1978年05月21日開業
 成田空港駅   1991年03月19日開業
 空港第2ビル駅 1992年12月03日開業 記事
 芝山千代田駅  2002年10月27日開業


空港の地下のトンネルから芝山鉄道線が出てくるところのストリートビュー(SV)です。


トンネルを抜けると空港でした。この辺りは貨物や整備エリアだと思われます。
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芝山千代田駅に近いところからの空港の景色です。
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芝山千代田駅に到着しました。この駅には来たのは初めてでした。それだけにここに来た値打ちがありました。
芝山鉄道の車体カラーの赤と緑の帯も確認できました。
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芝山千代田と書かれた駅名標の写真を撮りました。
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改札口に来て驚きました。SuicaやPASMO(パスモ)などのICカード乗車券をタッチする場所がないのです。東成田→芝山千代田までの200円を払って外に出ました。
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処理連絡票をもらったので私の場合は、来た時に入った京成の駅に戻った時に処理連絡票を渡して清算してもらいました。
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こちらが芝山千代田駅です。日本一短い鉄道とは思えない立派な駅でした。
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駅の出口から撮った周辺の風景です。REDWOODの倉庫(物流センター)らしき大きな建物があります。調べてみるとDistribution Center(DC)つまり在庫型物流センターでした。REDWOODは2016年にESRに社名変更したそうですですが、設備名は「REDWOOD 成田 DC」です。この辺り周辺にはいろんな会社の物流センターがあります。
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遠くから撮った芝山千代田駅です。将来的には芝山町中心部を経由して九十九里海岸方面への延伸も検討されていて、実現するまでの代替処置として芝山鉄道延伸連絡協議会(芝山町・山武市・横芝光町で構成)による空港シャトルバスが横芝屋形海岸まで運行されているそうです。
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クリックすると拡大成田空港周辺の航空写真で、芝山千代田駅と東成田駅と成田空港駅と空港第2ビル駅の位置関係を紹介します。鉄道や駅の出来た複雑な関係が伝わってきます。上で紹介したように開場した順は東成田駅(1978年)→成田空港駅(1991年)→空港第2ビル駅(1992年)→芝山千代田駅(2002年)です。
 芝山千代田駅 東成田駅
 成田空港駅  空港第2ビル駅
  京成電鉄
  芝山鉄道 


東葉高速鉄道との乗換駅の勝田台駅も入った縮尺の地図も紹介します。
 勝田台駅  京成佐倉駅
 京成成田駅


歩いて空の湯に向かっています。芝山千代田駅から「空の湯」の建物までの距離は約500mです。空の湯は深さ1013mまで掘削した温泉だそうです。
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空の湯の入口に来ました。次の記事で「空の湯」を紹介したいと思います。
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posted by SORI at 21:41| Comment(28) | 千葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年07月31日

風車とヒマワリ 佐倉ふるさと広場


2023年7月28日再掲載 タイトル:風車とヒマワリ 佐倉ふるさと広場
クリックすると拡大鶴見緑地の記事で右の'風車の丘'を紹介したのを機会に10年前の2013年7月24日に掲載した千葉県佐倉市のオランダ風車の記事を再紹介させていただきます。本風車はオランダの技術で作られた日本初の水くみ用風車で、風で動きます。風車はメカニズム部分をオランダで製造しオランダ人技師により建設されたそうです。風車の名前はリーフデ(De Liefde)です。慶長5年3月16日(1600年4月29日)に豊後国(大分県)の臼杵湾の黒島(or佐伯湾の大入島)に漂着し日蘭交流の幕開けとなったオランダ商船リーフデ号(De Liefde)にちなんで命名されたそうです。De Liefdeの意味は愛です。クリックすると拡大右の写真は10年前の2013年7月に掲載していた記事の写真です。写真をクリックすると、その記事を含めた2013年7月 の記事を表示します。
   2013年7月24日 記事掲載
   2023年7月28日 閲覧数:7,542 nice!:162 CMT:28 再掲載前
   2023年7月29日 閲覧数:7,773 nice!:199 CMT:48 09時50分
   2023年7月30日 閲覧数:7,963 nice!:219 CMT:56 05時53分
   2023年7月31日 閲覧数:8,072 nice!:230 CMT:60 04時50分
   SSブログ内の"佐倉ふるさと広場 & 風車 & ヒマワリ"の記事→ポチッ

2013年7月24日掲載 タイトル:風車とヒマワリ 佐倉ふるさと広場
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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千葉県の佐倉市にも約3万本のヒマワリを見ることが出来るところがあります。オランダ風車のある佐倉ふるさと広場です。このひまわり畑は「佐倉ふるさと広場・風車のひまわりガーデン」と呼ばれています。

佐倉ふるさと広場と言えば左側の写真の4月に行われるチューリップ祭り(チューリップフェスタ)が有名ですが、チューリップ祭りが終わった後にヒマワリが植えられて7月にヒマワリ(向日葵)が見ごろを迎えるのです。ヒマワリが終わって、秋には右の写真のコスモスの花を見ることが出来る場所なのです。
  チューリップフェスタ(4月)       コスモスフェスタ(10月)
クリックすると記事を表示クリックすると記事を表示

つまり4月と7月と10月に花を楽しむことが出来るのです。
    4月 チューリップ 50万本
    7月 ひまわり     3万本
  10月 コスモス   50万本
ヒマワリは見晴らしを考えて、鮮やかな色の少し背の低い種類が植えられているようでした。
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さすが、3万本、見事でした。
ヒマワリ畑と言えば、ウクライナで見たヒマワリ畑も見事でした。→ポチッ
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人間だけでなくミツバチも沢山訪れていました。
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ミツバチとヒマワリの花が写った写真を紹介いたします。3匹のミツバチが写っています。
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7月16日は見事に満開でした。2013年7月10日(水)~23日(火)がイベント期間で7月20日からは、お気に入りのひまわりを摘み取ることができるそうです。
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ひまわりの花は正面ばかりが注目されるようなので花の裏側の景色も紹介いたします。
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昨年(2012年)の「佐倉ふるさと広場・風車のひまわりガーデン」の動画がホームページに掲載されておりましたので紹介いたします。


上の動画は見れなくなったので別の動画を埋め込みました。(2023年7月28日)


佐倉ふるさと広場の場所を紹介します。風車は印旛沼の湖畔の空色マーク( )のところに建てられています。前々記事の「久々に鰻丼を食べに行きました」の鰻屋さん(川ばた園 )もこの画面の中にあります。京成臼井駅と京成佐倉駅の中間に位置し、佐倉市花火大会が行われる場所でもあります。近くにある臼井城は上杉謙信を撃退させたことで有名です。その時に上杉謙信が臼井城を攻めるために築いたのが一夜城です。


オランダの風車を忠実に再現していることが分っていただけるかもしれないので、Googleのストリートビュー(SV1 SV2 SV3 SV4 SV5)で佐倉ふるさと広場のオランダ風車を紹介します。風車の図や内部の写真は城下町佐倉を訪ねるHPから転用させていただきました。クリックすると拡大
クリックすると拡大①翼軸
②羽根
③軸受け
④上部風車歯車
クリックすると拡大⑤翼帆軸
⑥上部水平歯車
⑦ブレーキ
⑧風向回転輪
クリックすると拡大⑨ブレーキレバー
⑩テールビーム
⑪支柱
⑫風向調節ウィンチ
クリックすると拡大⑬主軸
⑭下部水平歯車
⑮水車用歯車
⑯水車


Googleマップによる上空からの3D画像です。マイナスのアイコン(-)を2回クリックすると周辺の雰囲気が判ると思います。



2013年7月24日追記 タイトル:翌日には刈り取り作業が始まりました。
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佐倉市のフラワーフェスタのイベントの一つとして佐倉ふるさと広場で行われていた「風車のひまわりガーデン」は2013年7月23日(火)で終了いたしました。おそらく翌日の7月24日には次のイベント「コスモス・フェスタ」のために刈り取られるのではないかと思い7月24日の朝に来てみました。予想通りヒマワリの刈り取りが始まっていました。時間は9時55分でした。

トラクターなどを使って一気に刈り取るのかと思っていましたが、4人の方で1本1本抜かれていました。全部で3万本あるので大変な作業です。一人当たり7500本です。
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写真のような機械もありましたが、見ている間では使うところはお目にかかれませんでした。
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花はかなり成熟していました。最初に掲載した写真を撮ったのは7月16日なので、花の見ごろは終了日(今年は23日)から一週間前までと考えた方がよさそうです。来年の参考としてください。


黒い種もしっかりと出来ていました。丁寧に一本一本抜いていたのは、おそらく種を取るためだと思います。ヒマワリは見せるだけが目的ではなくてヒマワリ油の原料となる種を取るのも目的の一つだと思いました。
posted by SORI at 05:18| Comment(66) | TrackBack(1) | 千葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年02月21日

本佐倉城のマスコットキャラクター「勝っタネ!くん」

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。


2023年2月21日再掲載 タイトル:本佐倉城のマジを再掲載
クリックすると拡大先日、臼井城の記事を掲載した機会に本佐倉城の記事をブラシュアップして再掲載いたしました。大きな城でありながらあまり知られていない城です。
右の図は臼井城の配置図です。臼井城も本佐倉城も佐倉城より前からあった城です。

2015年11月29日掲載
タイトル:本佐倉城のマスコットキャラクター「勝っタネ!くん」
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クリックすると拡大2015年11月24日に、地元産の新ソバが11月下旬から食べれる蕎麦屋「みなもと」で新蕎麦をいただきました。蕎麦屋の場所は千葉県印旛郡酒々井町尾上123-25で、その帰り道の近くに本佐倉城があります。そこで本佐倉城に行ってみることにいたしました。千葉県には沢山の城跡が残されていますが、佐倉周辺の城跡の中で大きなものが次の3つです。その中の本佐倉城は上の図のように規模が大きいにも関わらず、一般には知られていないようなので、今回、紹介したいと思い記事にいたしました。本佐倉城に来て写真を撮ったのは下記の3度目です。家内と来たのは今回が初めてでした。家内も、これだけの規模で国の史跡にも関わらず、あまり知られていないのはもったいないとの感想でした。
クリックすると記事を表示クリックすると記事を表示 2013年11月06日 14時ごろ EOS 5D
 2015年09月28日 09時ごろ EOS 5D
 2015年11月24日 13時ごろ G7X

3つの城の場所と年代を紹介いたします。ちなみに江戸時代は1603年~1868年で、戦国時代は1467年~1590年です。つまり本佐倉城は戦国時代の城なのです。しいて言えば、臼井城は鎌倉時代、佐倉城は江戸時代の城なのです。戦国時代(1493~1590年)は、日本の総人口が800~1200万人の世界でした。着色文字をクリックすると過去に掲載した記事を表示します。
 臼井城  1114年ごろ~1604年 490年間 平安時代~安土桃山時代 
 本佐倉城 1479年ごろ~1615年 136年間 戦国時代~安土桃山時代 
 佐倉城  1544年ごろ~1873年 329年間 戦国時代~江戸時代
 下高野館 先崎城  井野城  小竹城  中世(臼井城の傘下)
 蕎麦屋「地蕎麦 みなもと」+ そば畑(約8000㎡)
 酒々井プレミアムアウトレット


印旛沼の水田干拓前の地図に3つ城をプロットしました。昔は本佐倉城の脇に印旛沼があったことがわかります。本佐倉城と臼井城は印旛沼に突き出した半島状の地形に造られました。
   臼井城    佐倉城    本佐倉城


本佐倉城には10台程度の駐車場が用意されていていますが、周辺の道は細く道が判りにくいので、下記の住所をナビに入力することをお勧めします。駐車場の近くまで行けると思います。
徒歩で行く場合は最寄駅の京成本線の大佐倉駅が便利です。大佐倉駅から本佐倉城の入口まで約1㎞です。主格があった城山までは約1.3㎞です。地図をクリックすると広範囲を表示します。
 住所 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉823
   徒歩 大佐倉駅から本佐倉城
   車  京成佐倉駅から本佐倉城
クリックすると拡大

地形がわかりやすい図に名称を追加させてもらいました。
  城名   本佐倉城 もとさくらじょう
  別名   将門山城 根古谷城
  城郭構造 連郭式平山城
  天守   なし
クリックすると拡大  築城主  千葉介 輔胤 ( 千葉 輔胤 )
  築城年  文明年間
  主改修者 千葉氏
  主な城主 千葉氏、小笠原吉次、土井利勝
  廃城年  1615年(元和元年)
  遺構   堀、土塁
  文化財  国の史跡


現在の周辺は水田や畑で囲まれていますが、城があったころは沼および湿地帯で囲まれており堅牢な要塞であったことがうかがえます。この図は右下の方向が北になります。
城域は内郭と外郭に分かれており、内郭は南方に谷が刻まれた半島状の丘陵上に占地し、往時は三方を沼および湿地帯で囲まれた要害でした。一方の外郭は内郭から繋がる丘陵上を自然地形と空堀で分断した広大な地積を持ち、千葉氏の勢力が伸張したのち、家臣団の屋敷地として整備されたと考えられています。現在でも城の土塁や空堀などの遺構が、ほぼ完全な姿で残っており、1998年9月11日に「本佐倉城跡」として国の史跡に指定されました。


城はⅠ郭からⅦ郭で構成されています。Ⅳ郭以外は名前で呼ばれていますが、Ⅳ郭は城ノ内ではなくⅣ郭と呼ばれることが多いようです。内郭であるⅠ郭~Ⅶ郭の外側にも荒山、向根古谷、佐倉根小屋などの3つの外郭群が存在していました。Ⅰ郭の城山以外の郭の性格は確認調査による成果からの推測のため、調査が進むにしたがって性格が変わってくることもありうるそうです。
クリックすると拡大  Ⅰ郭 城山 
  Ⅱ郭 奥ノ山
  Ⅲ郭 倉跡
  Ⅳ郭 城ノ内
  Ⅴ郭 東山馬場
  Ⅵ郭 東光寺ビョウ
  Ⅶ郭 セッテイ山
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本佐倉城の航空写真です。水田部分が昔は印旛沼および湿地帯でした。上の地図と比較するとそれぞれの郭の現在の状況が分かってもらえると思います。


本佐倉城の北側の入口である東山虎口あたりを遠くから撮った写真です。本佐倉城(もとさくらじょう)は、千葉県印旛郡酒々井町本佐倉と佐倉市大佐倉にまたがる将門山に築かれた千葉氏後期の本拠地となった城です。文明年間(1469年-1486年)の築城と考えられており、国の史跡に指定されています。城があったころは写真を撮っている位置は印旛沼の上でした。虎口(こぐち)とは中世以降の城郭における出入口のことで、守るために狭い通路になっています。
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上と同じ写真で東山虎口あたりを拡大いたしました。本佐倉城の文字が読み取れると思います。
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クリックすると拡大城のビューポイントからの景色です。東山虎口の近くです。目の前を京成本線が走っています。城があったころには水田部分が一面、印旛沼だったことを想像願います。天気が良ければ右の写真のように筑波山を見ることが出来ます。
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東山虎口に近づきました。右下の方に説明が立てられています。
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東山虎口の説明です。東山虎口にはに二重に門が建てられて敵の侵入を守っていました。
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東山虎口に向かって登っていきます。
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説明の通り道が曲がりくねっていました。蛇行した狭い通路と二つの門と内枡形の長方形の空間によって非常に厳重守られていたことが伝わってきました。
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登り詰めると城内の雰囲気になっていました。城の雰囲気を感じてもらうためか、Ⅳ郭と呼ばれているあたりに木製の盾が並べられていました。左側には東山馬場が広がっています。
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この上がⅣ郭部分です。Ⅳ郭は城ノ内と呼ばれることもあり、段々状に家臣団屋敷などがある兵站地であったのではないかと思われています。
この写真をGoogle地図に登録してみました。→ポチッ
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城の内側から東山虎口を見た景色です。右の高くなっている部分が東山と呼ばれているところです。ここにも説明が立てられていました。
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こちらの説明板には、東山虎口の門と、東光寺ビョウと、南奥虎口の説明がが書かれていました。
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Ⅳ郭から東山馬場方向を見た景色です。
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こちらが東山馬場です。名前の通り馬場考えられています。建物跡は見つかっていないそうです。
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東山馬場からさらに下りていくと車で来るルートに出ます。その入口から見た本佐倉城です。
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その入口には国史跡「本佐倉城跡」の石碑が立っていました。


石碑は2002年(平成14年)に建てられたものでした。


東山馬場から登っていく方向の写真です。
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こちらがⅣ郭虎口です。この奥に昔は門がありました。道には堀底道と名前が付けられていました。
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Ⅳ郭虎口の説明板です。
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堀底道を登っていき左に曲がると大堀切があります。ここで城山に向かうために左に曲がりました。
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左がⅠ郭である城山で右がⅡ郭である奥ノ山です。城山と奥ノ山は木橋がかけられていたと推測されています。
ここお登って向側に下りていくと分かれ道になっていて、それぞれ城山への道と奥ノ山への道になっています。
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大堀切の説明板には大堀切を登りきったところに木戸があったことが書かれています。
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ここが分かれ道です。右に行くと奥ノ山で、左に行くと城山です。ここも厳重な守りであったことが想像できました。
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左に曲がると城山への道が続いていました。右側は空堀です。ここは城山虎口です。
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城山への道を登の切ったところらも門があったことが書かれていました。
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このあたりに城山の門があったわけです。
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城山門跡の説明板です。2006年の発掘調査で門跡が見つかったそうです。門をくぐると主殿がありました。
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ここが城山です。右側から登ってきました。
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城山には沢山の建物があったことが発掘でわかりました。
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初めて本佐倉城に来た家内は興味深く見て回っていました。
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発掘により城山(Ⅰ郭)で、下記の遺構が見つかりました。
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 遠侍 10.1m x 5.7m
 会所 11.2m x 13.5m
 園池 11m x 8m
 築山 8m x 5m
 建物4棟(台所・倉庫・便所など)
 櫓2棟(平櫓・井楼櫓)
 門2棟
 塀(門連結・土塁上)
 通路
 木橋(城山と奥ノ山を連結)
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城山にあった主殿(上)と会所(下)に類似した建物の写真です。
主殿の写真は青森県の根城で復元されたものです。会所の写真は岐阜県の江馬氏館の復元された会所です。このような建物が城山郭に建てられていた想像するだけでロマンを感じます。
500年前の城は城砦としての性格が強く、外から城内の地形が知られないように低い建物で構成されていたと想像されます。当然ですが、主殿の位置を特定されるような天守閣は設けなかったと感じました。



城山から分かれ道まで下りてきて、今度は奥ノ山の方に向かいました。
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こちらがⅡ郭の奥ノ山です。
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妙見郭とも呼ばれることがあるように発掘で15mx15mの基壇が見つかっており妙見宮の跡と考えられています。
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奥ノ山はかなり広いスペースでした。奥ノ山には本佐倉城(根古谷城)に関する,ステンレスの説明版が設置されたてました。本佐倉城は文明年間に千葉氏21代当主の千葉輔胤により築城されて、1590年(天正18年)に姻戚関係にあった小田原の北条氏と共に滅亡するまで、戦国大名千葉氏宗家の本拠地として9代続きました。その後は徳川氏に接収されて軍事上の必要から佐倉藩の藩庁が置かれました。1615年(元和元年)に藩庁の佐倉城への移転と一国一城制により廃城となりました。本佐倉の城下町は酒々井宿に移設されて成田街道の宿場町になったと考えられています。本佐倉城の前の千葉氏の居城は現在の千葉市の中心にあった亥鼻城(千葉城 1126年築城)でした。千葉輔胤が古河公方足利成氏と結んで下総国を平定したことから1455年に亥鼻城から佐倉に本拠地を移し、その後に本佐倉城を築城したようです。史実から少なくとも1479年には完全には完成していなかったようです。
クリックすると拡大本佐倉城で一番驚いたのは1615年に廃城になり、400年間という長い年月があったにも関わらず、ほとんどの広い土地が畑などにされることもなく昔のままに遺構(空堀、土塁)が残されていたことです。これは周辺の印旛沼や湿地帯が江戸時代から始まった干拓事業により右の写真のような広くて便利な水田や畑が身近なところに、あったことが影響している気がします。
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本佐倉城の城主は妙見宮で元服しており、千葉氏の守護神とされていたと説明されていました。
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Ⅲ郭となる倉跡です。確認調査によって掘立柱建物が広範囲に分布していること分かったことから
その名の通り倉庫群が存在したと考えられています。炭化した米も沢山見つかりました。供膳具や調理具や貯蔵具なども沢山見つかったことから、倉庫だけでなく人の生活するための空間も存在したと考えられています。
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倉跡の上にはⅦ郭のセッテイ山がありました。セッテイ山へ登っていく道です。
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こちらの竹林には節と節の間に緑と薄い黄色の縞模様が表れる金明竹が沢山あることでも有名であることが散策マップに書かれていました。上のセッテイ山へ登っていく道の写真にも金明竹が写っています。金明竹は真竹の突然変異だそうです。


セッテイ山は、その名から接侍郭、あるいは場所的なイメージから人質郭と考えられています。人質郭と考えられているのは主殿から遠く離れており厳重な虎口の形態や大規模な空堀や郭の形状などからです。確認調査において、建物跡の存在がが分かっており、供膳具や調理具や貯蔵具なども沢山見つかっています。また他の郭ではあまり見られない墓石、茶壺、火箸なども見つかっているそうです。本佐倉城で倉跡だけは畑として利用されていました。
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倉跡とセッテイ山の間には高さ10mの空堀があります。堀底道はⅥ郭の東光寺ビョウにつながっています。
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倉跡と奥ノ山の間から南に下りていく細い道です。
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下りて行ったところに妙見神社(妙見社)がありました。
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社には妙見神社と書かれていました。


Ⅵ郭の東光寺ビョウです。本佐倉城で最も広い郭でしたが、その性格に関してはまだ不明だそうです。2つの物見台に守られた空間です。
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南奥虎口は東光寺ビョウから城に登っていく玄関口です。発掘調査によって木戸跡や柵列跡や通路跡が見つかっています。現在は見通しが良い場所ですが、当時は木戸や柵などで虎口内部は見えない状態でした。本城には東山虎口、Ⅳ郭虎口、城山虎口、南奥虎口などの虎口がありました。
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南奥虎口にも詳しい説明板が設置されていました。
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東山虎口の東側が名前の通り東山で険しい自然の尾根がつづいていました。
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東山虎口の西側の土手には諏訪神社(諏訪社)がありました。Ⅳ郭と倉跡の間から行くことが出来ます。
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諏訪神社の社です。
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諏訪神社と書かれていました。


諏訪神社の社の中です。小さな社が祭られていました。
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諏訪神社の周りには小さな社や安産祈願の石像が祭られていました。
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ここは立派な史跡にも関わらず訪問者が少ない場所ではありますが、3回来て初めて多人数で来ている人を見かけました。車数台で来られていました。
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本佐倉城内に沢山の説明板が建てられていましたが、そこには甲冑姿のキャラクターが描かれていました。本佐倉城のマスコットキャラクター「勝っタネ!くん」です。「勝っタネ!くん」は、本佐倉城跡の第3代城主である千葉勝胤(ちば かつたね) をモデルとして作られそうです。
千葉勝胤は1514年に編さんされた連歌集「雲玉和歌集」の中で、「武に優れ、大和歌にも通じ、地に幸草の種をまいた。」 とうたわれた文武に優れたお殿様でした。その幸草のと千葉氏の継名のの字をかけて誕生したのが、文武両道と勝利の神様「勝っタネ!くん」だそうです。体は 幸草の種で作られていて、 手足は、台地にしっかりと根を張る根っこでできています。
 身長155cm、体重130kg、胴回り300cm
 1471年11月16日(文明3年10月5日)生まれの544歳
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クリックすると拡大今回のキャラクターのモデルとなった千葉勝胤は、室町幕府の下総権守で、本佐倉城の城主としては三代目ですが、千葉氏の当主としては二十三代目になります。
 城主     【 当主 】
 初代 千葉輔胤【二十一代】
 二代 千葉孝胤【二十二代】
 三代 千葉勝胤【二十三代】
 四代 千葉昌胤【二十四代】
 五代 千葉利胤【二十五代】
 六代 千葉親胤【二十六代】
 七代 千葉胤富【二十七代】
 八代 千葉良胤【二十八代】
 九代 千葉邦胤【二十九代】

クリヤーな「勝っタネ!くん」を紹介したくて酒々井町のホームページから画像を転用させていただきました。
画像をクリックするとオリジナルを表示します。
クリックするとオリジナルを表示

クリックすると拡大最近、家内が佐倉城のイメージキャラクターである右の写真の「カムロちゃん」のぬいぐるみ(700円)を買ったので、「勝っタネ!くん」のぬいぐるみもほしくなりました。以前に酒々井のアウトレットで「勝っタネ!くん」と思われる着ぐるみを見かけた気がしたので、本佐倉城を見た後に、酒々井のプレミアムアウトレットに行き、以前に見かけたフ-ドコ-ト(Food Court)の中にある酒々井コミュニケーションセンターに行ってみました。やはり記憶は正しく、着ぐるみが来たことがあったとのことでした。でも、残念ながら、ぬいぐるみは作っていないとのことでしたが、写真のしおりを無料でいただきました。
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クリックすると拡大家に帰って「勝っタネ!くん」の着ぐるみの写真を探してみました。見つけたので紹介します。写真を撮ったのは2014年7月6日に家内と娘と姪っ子たちとアウトレットに行った時でした。残念ながら今は、着ぐるみがアウトレットに来ることは無いそうです。また、再開してほしいものです。
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クリックすると拡大酒々井町には2つのマスコットキャラクターがあります。右がもう一つのマスコットキャラクターである井戸っこ(しすいちゃん)です。町名の由来となった「酒の井伝説」の井戸の妖精です。特技は井戸座りで、見てのとおりのポッチャリ体系で運動は苦手だそうです。でも、徳利の魔法の水(お酒)を飲みすぎると、たまにダンスを踊っちゃうそうです。
posted by SORI at 06:00| Comment(68) | TrackBack(1) | 千葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年02月17日

臼井城 千葉県佐倉市

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大宿内砦の記事で、宿内砦と臼井城の見学会に参加させていただいたことを紹介させていただいて、その記事では京成臼井駅を出発して宿内砦を見学して、長源寺までを紹介させていただ来ました。本記事では長源寺を出発して臼井城を見て、京成臼井駅近くの御伊勢公園で解散するまでを紹介したいと思います。右の臼井城の概念図はネットから転用させていただきました。
上の写真は臼井城のⅡ郭(二の丸)です。右下の図でⅡ郭と書かれているところです。クリックすると拡大臼井城は12世紀(1101年~1200年)中頃に築城されたと伝えられている城で、江戸時代より前に存在した当時としては巨大なお城でした。住宅地や畑に囲まれていながら、廃城となって419年経った現在もⅡ郭(二の丸)跡とⅠ郭(本丸)跡は当時の地形のままに残されている貴重なお城です。Ⅱ郭(二の丸)は広角で撮っても入りきらない大きさです。Ⅱ郭(二の丸)の西にあった大きなⅢ郭(三の丸)はさらに広大でしたが、今は畑や住宅地になっています。右の臼井城の当時の配置図はネット(佐倉市教育委員会)から転用させていただきました。

右上の臼井城の配置図をクリックすると拡大いたしますが、クリックが面倒な方のためにⅡ郭(二の丸)とⅠ郭(本丸)の部分を拡大いたします。
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堀 斜面 土塁 曲輪 埋められた堀 消滅した土塁

下の臼井城復元図に臼井城の位置を赤色文字とで示し、臼井城を守る宿内砦、洲崎砦、仲台砦、田久里砦、稲荷台砦の5つの砦の位置を赤色の矩形で砦の名前を囲っています。上の当時の配置図の範囲を緑色ライン()と橙色ライン()で囲みました。
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クリックすると拡大臼井の町を歩いていても、家が沢山建っているために臼井城の場所が判らないので、Wikipedia臼井城遠景と名前の付いた写真から本丸(Ⅰ郭)あたりを切り取った写真です。写真のすぐ右側が印旛沼で景気の良い場所であることが判っていただけると思います。撮られたのは宿内砦の台地にある稲荷神社の北西側の崖上から撮られたものと思われます。
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黄色の枠の部分が切り取った上の写真です。この臼井台地(丘)全体が臼井城だったそうです。そして印旛沼に注ぐ手繰川・鹿島川に挟まれています。Wikipediaによると、臼井城の歴史で最初に出てくるのは、永久2年(1114年)に、平・常兼の子の常康が臼井に居館を築き臼井六郎を称したと伝えられることだそうですが、その居館がこの臼井城であったかどうかは定かではないそうです。もし臼井六郎(平・常康)が丘の上に居館を作りたいと思ったのであれば、景色のよい印旛沼に近い丘の上の場所に建てたと考えるのも不思議ではないと思います。
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それでは宿内砦の記事の最後の長源寺( )を出発するところから順に紹介していきたいと思います。空色ライン(━━)が長源寺( )から臼井城( )を見学して京成臼井駅近くの公園(御伊勢公園)まで歩いたルートです。見学会の前半の京成臼井駅から宿内砦を見学して長源寺まで歩いた橙色ライン(━━)と合わせると約4km+αになります。+αはルート外を写真を撮るために歩き回った分です。右下の図はネットから転用させていただいた立体的なイメージ図です。
  臼井城
 宿内砦、洲崎砦、仲台砦、田久里砦、稲荷台砦
クリックすると拡大 道誉上人の墓塔
 長源寺
 太田図書の墓
 雷電夫人の甘酒茶屋跡
 稲荷神社
  臼井駅(集合)→宿内砦→道誉上人の墓塔→長源寺
  長源寺→太田図書の墓→臼井城→稲荷神社→御伊勢公園(解散)


長源寺から進んでいく方を撮った写真です。この場所には明治6年1月16日に臼井小学校が置かれて、明治17年8月25日には臼井村役場が置かれたそうです。
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中宿交差点に出ました。臼井城下は城下町として栄えましたが、廃城になった後も宿場町として栄えたそうです。特に成田山詣でブームになってからは反映したそうです。宿場町としての名も地名として残っているようです。江戸方から片町・上宿・中宿・下宿・新町と続いたそうです。中宿あたりが宿場町の中心だったようです。
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中宿交差点には道路元標が置かれていました。文字がほとんど消えている古びた説明板の右側の小さな石柱が臼井町の道路元標です。
道路元標は元々は向かって7m右側に接地されていましたが、道路の新設工事のために、今の場所に移されたそうです。道路元標の説明板の左側の大きな石柱には「明治天皇臼井行在所 史跡名勝天然紀念物保存法史跡トシテ 昭和十二年十二月文部大臣指定」と書かれていました。
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臼井寺に向かって細い道を歩いていると常勝寺がありました。常勝寺の門の前を左に折れてしばらく行くと上り坂になりました。
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臼井城への上り坂です。今までにも臼井城に行こうとしたことがありましたが、なかなかこの道が見つかりませんでした。案内の方がおられると迷うことなく行くことが出来ました。城に石垣が使われていない時代は空堀や土塁が主な防御ですが城への道が簡単に見つからないのも、防御の一つなのかもしれません。
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臼井城の入口の前を通って先ずは太田道灌の弟の太田図書(太田資忠)の墓に行きました。太田図書はこの場所で討死したそうです。
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こちらが皆さんが集まる前に撮った太田図書(太田資忠/太田図書助)の墓です。
クリックすると拡大太田図書は文明11年(1479年)7月15日に臼井城攻めから一旦兵を退こうとした時に虚を衝かれて、激しい戦闘となり討ち死にしたけれども結果的に臼井城は陥落したそうです。落城したけれども臼井氏も臼井城も存続しつづけたようです。主導権はいろいろとかわったようです。
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興味のある方のために説明板を掲載させていただきました。
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階段を上って撮った写真です。
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太田図書の墓を見た後、臼井城のⅡ郭入口に戻りました。クリックすると拡大入口に立てられている臼井城の説明板です。クリックすると文字が読める大きさに拡大しますが、左下側のスペース描かれている地図は薄くなっていて確認は難しいと思います。同じ場所に臼井八景の第六景の城嶺夕照(じょうれいせきしょう)の説明板がありました。右の写真が城嶺夕照の説明板ですが、以前に自転車で見に来た時に撮ったものです。
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臼井城の説明板に描かれている地図をネットから転用させていただきました。本丸、二の丸、三の丸、城内、御屋敷の文字が確認できます。現在地と書かれているところに説明板が立っていました。二の丸(Ⅱ郭)と三の丸(Ⅲ郭)の間は今でも非常に深い空堀になっています。
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こちらがⅡ郭(二の丸)への入口です。臼井城の歴史を記載いたします。1114年(永久2年)に平常兼の子の常康が臼井に居館を築き臼井六郎(臼井常康)を称したと伝えられることから下記の沿革の12世紀中頃のところを1114年(永久2年)と表現されている場合もあります。ただし1500年より前は資料が少ないため、その時の居館がこの臼井城であったかどうかは定かではないそうです。
 12世紀中頃    臼井常康が築いたと伝わるが定かではない
 14世紀中頃    本格的城郭として整備される
 1479年(文明11年)太田道灌の率いる上杉方に攻められ篭城(7ケ月)の後落城
 1557年(弘治03年)臼井久胤の後見として原胤貞が入り原氏の支配下となる
          1551年(天文19年12月 旧暦)とする説もある
 1561年(永禄09年)上杉謙信に呼応した里見側の正木信茂に攻められ落城
 1564年(永禄07年)原胤貞が臼井城を奪還
 1566年(永禄09年)臼井城の戦いで上杉・里見勢に攻められるが、これを退ける
 1574年(天正02年)生実城が里見氏の手に落ち臼井城は原氏の本拠となる
 1590年(天正18年)小田原征伐により原氏が滅び臼井城は豊臣側に接収された
 1604年(慶長09年)酒井家次の高崎移封に伴い臼井城は廃城となった
 1610年(慶長15年)佐倉城が完成するに至って臼井城の役目を終えた
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こちらが冒頭の写真に使ったⅡ郭(二の丸)です。佐倉周辺には大きな城が3つありました。我々が城をイメージしている高い建物の天守閣があったのは佐倉城だけで、戦うための城である臼井城や本佐倉城には天守閣のような建物はなかったようです。平和な江戸時代(1603年~1868年)に城として機能したのは臼井城が1年で本佐倉城が12年でした。約1500年より以前に関しては正確には分かっていないので一つの説です。
 臼井城  1114年ごろ~1604年 490年間 平安時代~安土桃山時代+江戸1年 
 本佐倉城 1479年ごろ~1615年 136年間 戦国時代~安土桃山時代+江戸12年 
 佐倉城  1544年ごろ~1873年 329年間 戦国時代~江戸時代
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Ⅲ郭とⅡ郭の間の空堀は非常に深くなっていました。これが守りの要と思えるほどの深さでした。
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Ⅱ郭には空堀沿いにⅠ郭に向かう道が整備されていました。
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こちらはⅡ郭とⅠ郭の間の空堀です。
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空堀などの説明を受けているところです。
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その空堀を背にⅡ郭側で記念写真を見学会の講師の郷土史家の蕨由美(わらび ゆみ)さんに撮っていただきました。
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ここはⅡ郭とⅠ郭をつなぐ土橋です。
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土橋を渡ってⅠ郭(本丸)に上ったところの景色です。Ⅰ郭は概ね3つの広場に分かれています。写真に写っている右側の広い広場と、正面の道を進んだところにある広場と、写真の側に広がっている広場です。
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これが右側の広場です。
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まっすぐ道を進んできた広場です。印旛沼がきれいに見える場所で、昔もⅠ郭(本丸)の中でも特別の場所だったのだと想像されます。真ん中の石は昔からあったものと推察されています。
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奥に進むと印旛沼が見えてきました。
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今も昔も最も景色がいいと思われる特別の場所からの印旛沼の景色です。
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皆さん景色を堪能されていました。そして写真で見ても分かってもらえるように外側は急な崖になっていて、この場所を外から攻めるのは難しい場所でもあるのです。
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Ⅰ郭の印旛沼川の北斜面は急な崖になっているので限られた場所からしか攻めてこれない地形になっているようです。
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きれいな景色以外に、特別な場所と思われる理由がこちらの昔から置かれていたと思われる石です。さらに石の奥に飛び石が並んでいます。ここに人の生活があったのだと、実感させてくれる素敵な石たちでもあります。
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別の角度からみた石です。ここが庭になっていたのではないかと思われる場所なのです。もし事実ならば印旛沼が背景になった素敵な庭だったとことになります。今となっては想像するだけです。
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印旛沼を大きく撮りました。
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クリックすると拡大赤松宗旦原著の利根川図誌に書かれている臼井城のⅠ郭(本丸)を中心とした図を紹介します。下の図をクリックすると右の図のように広範囲を拡大して表示します。上杉謙信が築いた一夜城の場所も出てきます。長源寺は台地の上に書かれているのでその場所が宿内砦と思われます。
この図は今回の見学会および2022年11月23日に八千代栗谷遺跡研究会主催で行われた中世城郭遺構についての学習会のための資料に入っていました。
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上の地図のオリジナルには宿内砦のⅠ郭に長源寺あることが書かれた地図です。クリックすると確認できますがクリックが面倒な方のために宿内砦の部分を切り取って掲載いたしました。この中には後で紹介する稲荷神社や廃寺となった光明寺が書かれているので覚えておいてください。浄行寺も今はありませんが浄行寺跡として記録されていて雷電夫婦と娘の墓があります。
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こちらが臼井城本丸(Ⅰ郭)から見た宿内砦の台地(丘)です。単独の城と言えるほどの大きさであることがわかっていただけると思います。クリックすると拡大写真の右端の丘の麓に長源寺が写っています。右の写真は長源寺のところを切り取ったものですが、画面が暗いので露出調整をしています。長源寺は元々は1570年(元亀元年)に宿内砦の主郭に創建された寺ですが1772年(安永元年)に火災で全てを焼失したために宿内砦の麓に再建されました。
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下の写真の台地の左側が宿内砦で、右側が稲荷台砦です。
クリックすると拡大上の写真は宿内砦の部分を拡大して撮ったものだったのです。ただし、上の写真とは写している位置が違うので、少し角度が違います。したがって下からの木の枝のために長源寺を確認するのは難しいです。下の写真から上の写真と東遠部分が同じ範囲になるように切り取ったものです。
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さらに左方向にある台地です。写真の中央あたりに光勝寺があります。
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さらに左方向つまり東方向の景色です。写真の左端に印旛沼が写っています。印旛沼の畔には佐倉ふるさと広場があり、そこのシンボルであるオランダ風車リーフデがあります。オランダ人技師により建設された日本初の水くみタイプ風車で、日本唯一の風車守の仕事振りや内部を見ることが出来ます。写真を拡大すると、辛うじてさの風車を確認することが出来ます。ただし、遠くであるために小さくさらに沢山の送電線の鉄塔が沢山立っているところなのでなかなか見つからないと思います。
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Ⅰ郭内で位置をかえて貴重な説明を聞いているところです。
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展望場所から撮ったⅠ郭の南側の広場です。写真の中央の奥がⅡ郭からの入口です。そのⅠ郭の入口からの写真で右側に見えていた広場になります。
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Ⅰ郭の最も南側の展望場所で見学会の講師であり案内人の郷土史家・蕨由美(わらび ゆみ)さんから説明を受けているところです。
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登ってきた道を下りて帰路につきました。この後は通り道にある相撲取りの雷電ゆかりの場所を2ケ所を見ました。雷電爲右エ門(らいでん ためえもん)は現役生活21年の中で、江戸本場所在籍36場所(大関在位27場所)で、驚くことに通算黒星が10個、勝率96.2%の大相撲史上未曾有の最強力士とされています。21年間に10回の黒星ですから2年間に負けは1回だけの計算になります。
雷電に黒星をつけた力士を紹介しておきます。本場所以外の上覧相撲で1敗(陣幕嶋之助 1791年)があります。クリックすると拡大
 梶ヶ濱力右エ門 1791年 政3年 4月場所5日目
 市野上浅右エ門 1793年 寛政5年 3月場所8日目
 市野上浅右エ門 1797年 寛政9年 3月場所7日目
 鯱和三郎    1800年 寛政12年10月場所初日
 柏戸宗五郎   1804年 文化元年10月場所5日目
 春日山鹿右衛門 1805年 文化2年10月場所6日目
 音羽山峰右エ門 1806年 文化3年 2月場所4日目
 鏡岩濱之助   1808年 文化5年10月場所4日目
 立神盤右エ門  1809年 文化6年10月場所3日目
 江戸ヶ崎源弥  1810年 文化7年10月場所5日目
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最初の雷電ゆかりの場所が雷電が嫁に迎えた八重さんが看板娘をしていた甘酒茶屋の跡です。大きな説明板が取り付けられていました。甘酒茶屋の屋号は「天狗さま」でした。今は武藤自動車整備工場になっています。ここが江戸時代に繫栄していた臼井宿であったことがうかがえる場所でもあります。結婚した1792年(寛政4年)は名古屋、大坂、京都と連続興行を行うなど忙しい年でしたが臼井宿の甘酒茶屋の娘・はん(後の八重)と結婚して江戸の麹町十丁目の長屋に新居を構えたそうです。
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興味がある方のために説明板を掲載しました。雷電が関脇時代に甘酒茶屋に立ち寄り、甘酒茶屋(天狗茶屋)の娘で看板娘のおはんを見染て妻に迎えたそうです。おはんは結婚して八重に名前を変えたそうです。雷電は晩年を妻・八重の郷里である臼井宿で過ごしたそうです。そのことから八重の菩提寺だった浄行寺跡の杉山家墓地には雷電自身と妻子の名を刻んだ墓があります。雷電は各所に墓がありますが、娘がともに供養されているのはここだけだそうです。
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見えている坂を上って宿内砦のあった丘を越えて京成臼井駅の方に向かいました。
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クリックすると拡大クリックすると拡大上の写真の坂の途中に急な石段の稲荷神社がありました。ここの石段は寛政年間に雷電が寄進したものでした。長い年月の間に摩耗したりしたために石段は改修されましたが。雷電が寄進した貴重な石段は神社正面の敷石として保存されています。右の石柱に書かれているように、ここは雷電公園でもあります。左の石柱には稲荷神社と書かれています。
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さっそく石段を登ってみることにしました。
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稲荷神社の鳥居です。まっすぐに敷かれている敷石が雷電が寄進した石段です。
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雷電の敷石の先に3つの祠がありました。
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雷電の元石段の敷石のアップの写真です。しっかりとした立派な石段だったことが想像されます。
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3つの祠のは左から三峯・古峯神社、 稲荷神社、子安神社です。
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祠の位置から鳥居方向を撮りました。
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3つの祠以外に石の祠と2つの石碑もありました。石の祠は天神様です。
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こちらが石碑です。右の石碑には3つの祠の名前(三峯・古峯 稲荷 子安神社 神社)が枯れています。左下に「奉献社殿 臼井駅南土地区画整備組合 昭和五十八年十月吉日」と書かれていることから、後世に3つの祠のことを伝える石碑なのだと思われます。
左の石碑には「三峯神社 古峯神社 参拝記念」と書かれていることから本家の埼玉県の三峯神社と栃木県の古峯神社に参拝した人たちの記念碑ではないかと感じました。よく行われていた出羽三山詣のようなものなのかもしれません。
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1つの祠の中を格子の間から撮りました。赤ちゃんを抱いた子安菩薩像像のようでした。子
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大きなケヤキの保存樹が生えていました。1974年時点の推定樹齢は300年なので雷電(1767年生~1825年没)が生まれた時にはすでに樹齢約100年だったことなります。臼井宿の甘酒茶屋の「天狗さま」の看板娘と結婚した1792年(寛政4年)には樹齢は118年前後だったことになります。
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解散場所の公園をめざして歩き始めました。クリックすると拡大
保存樹としての説明を紹介します。
 区分    樹林
 名称    臼井稲荷境内木
 代表樹種  ケヤキ・スダシイ
 所在地   臼井126
 樹齢    推定300年(選定時)
 伝来等   神社創立以来境内木として、管理保存されているという。
 管理責任者 氏子総代
       佐倉市選定第38号 昭和48年3月1日(1974年)
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住宅地の中ですがいろんな石碑がありました。
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クリックすると拡大クリックすると拡大このような石像も住宅地の道端にありました。右の説明碑によれば、この菩薩坐像(寛文5年/1655年 左)と如来立像(寛文12年/1672年 右)は、廃寺となった近くの光明寺にあったものだそうです。光明寺は上の方の地図で紹介したように稲荷神社の北西にありました。2002年(平成14年)に整備されたようです。切り取った地図には、逆さまに光明寺と書かれていて、斜めに稲荷社と書かれています。
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京成電鉄本線まで出てきました。この踏切は臼井駅の東側にあり鉄道ファンにとって人気の場所だそうです。SV
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踏切のストリートビュー(SV)を紹介します。踏切の道路以外は立入禁止です。ほほえましい光景の親子は電車を見るために待っている感じです。


踏切から臼井駅側を撮りました。
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臼井駅と反対側も撮りました。臼井駅で折り返すための線路があるのが人気になっている一つの理由のようです。
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御伊勢公園のこの場所で解散となりました。今回の見学会は郷土史家の蕨由美(わらび ゆみ)さんの案内で行われました。参加者は「八千代栗谷遺跡研究会」や「佐倉道を歩く会」の方々でした。参加者は私を含めて22名だったそうです。
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千葉県佐倉周辺の大きな城の位置を紹介します。戦国時代は1467年~1590年で、安土桃山時代は1573年~1603年で、江戸時代は1603年~1868年です。約1500年より以前に関しては正確には分かっていないので一つの説です。戦国時代(1493~1590年)の日本の総人口が800~1200万人の世界でした。着色文字をクリックすると過去に掲載した記事を表示します。
臼井城  1114年ごろ~1604年 490年間 平安時代~安土桃山時代+江戸1年 
本佐倉城 1479年ごろ~1615年 136年間 戦国時代~安土桃山時代+江戸12年 
佐倉城  1544年ごろ~1873年 329年間 戦国時代~江戸時代
下高野館 先崎城  井野城  小竹城  中世(臼井城の傘下)


印旛沼の水田干拓(100年前)の地図に3つ城をプロットしました。上の地図と比べてもらったら判るように、今の本佐倉城は印旛沼から4.5kmも離れた内陸にありますが昔は城の脇に印旛沼があったことがわかります。本地図は小さいのでわかりませんが干拓前の臼井城は印旛沼に近かったようです。臼井城と本佐倉城は印旛沼に突き出した半島状の地形に造られ印旛沼との間は笠神埜原(かさがみやわら)と呼ばれる低湿地であったようです。このことからも臼井城と本佐倉城は防御に強い城だったようです。
   臼井城    佐倉城    本佐倉城
ラベル:
posted by SORI at 15:45| Comment(34) | 千葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月27日

福寿しのコース料理

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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2023年1月22日に、ゴルフ仲間であり仕事仲間が7人集まって久しぶりに食事会をしました。私以外の人は1月4日に新年会をしたそうですが、正月は私は関西の実家に行っていたので参加できませんでした。福ずしは別のゴルフ仲間とコルフの後の反省会でよく利用させていただいたいましたが、新型コロナのために福寿しの利用も2020年2月22日が最後でした。その時の記事はこちらです。→ポチッ
今まではお店に着いてから適当に料理や寿司を注文していましたが、今回は初めてコース料理を予約したので紹介したいと思います。料理の内容は次の通りです。記念写真の右手前の赤色セーターが私です。新型コロナ渦前であればこのスペーで7人でしたが、スペースをとる為に2つのスペーが用意されていました。記念写真は一つのスペースに集まって撮っていただきました。
 2023年1月22日 昔からの仲間との会食 ← 今回の記事
クリックすると拡大 2020年2月22日 ゴルフの反省会
 2019年8月23日 ゴルフの反省会
 2018年8月17日 ゴルフの反省会
 2017年9月02日 ゴルフの反省会
 2017年1月17日 ゴルフの反省会 
 2014年4月23日 ゴルフの反省会 
 2012年7月08日 家族での夕食
 2012年6月17日 家族での夕食

こちらが本日の前菜です。ちなみにこの日(1月22日)は私の誕生日でした。ただし、この日の飲み会とは無関係です。コース料理の内容は次の通りです。右の写真でもスペースのゆったり感が分かっていただけると思います。
クリックすると拡大 本日の前菜
 本日のお刺身
 本日の焼き物
 本日の揚げ物
 本日の煮物
 本日の茶碗蒸し
 本日の握り5貫
 デザート
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さっそくビールで乾杯です。私は最後までビールでしたが、日本酒と焼酎を飲む使途が多かったです。
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こちらが、本日のお刺身です。流石お寿司屋さんのネタなので新鮮で美味しかったです。前の料理を食べ終わると順番に出てきました。
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次が、本日の焼物と本日の揚げ物です。
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本日の焼物と本日の揚げ物を食べ終わると本日の煮物としてカレーの煮付けが出てきました。長く外で食べていなかったので、美味しい煮付けを食べたのは久しぶりでした。
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そして本日の茶碗蒸しが出てきました。
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話しが盛り上がってきたので、本日の握り5貫の写真を撮り忘れてしまいました。気がついた時は4貫を食べてしまっていて1貫になっていました。
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此れでは雰囲気が分からないので、5貫ではありませんが、昔に福寿しに行った時のお寿司の写真を掲載します。
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お味噌汁もついていました。
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デザーとはこちらの饅頭でした。
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お寿司の写真を撮り忘れたコース料理の写真のために、お寿司屋さんであることを忘れてしまいそうなので、今まで福寿しで食べたお寿司を過去記事の中から紹介します。つまり2012年6月17日~2020年2月22日に食べた福寿しのお寿司です。まとめてみると写真は39枚になりました。39枚の写真を見ると、今までに沢山食べたことが実感できました。クリックすると拡大写真を表示するように設定いたしましたので、興味のあるものはクリックしてみてください。数合わせのため1枚だけブレてしまった写真も入れてみました。
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そして人気のカウンターの写真です。カウンター席が空いてることは少ないのですが、1度だけ食べたことがあります。その時はお客さんが沢山おられるのでカメラを向けられなかったので食べログの写真を使わさせていただきました。


クリックすると拡大福寿しを出た後は3人だけですが、郵便局を挟んで隣にあった高倉町珈琲に入りました。ここでも話が盛り上がりました。
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3人共にブレンドコーヒーを頼みました。2杯目からは半額の260円なので私は2杯目も頼みました。
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こちらはサービスクッキー(0円)です。
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1人では食べ切れないほどの大きなケーキがメニューにあったので、試しに頼んでみました。大きな取り皿2枚も出てきました。
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3等分していただきました。 高倉町珈琲SV
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福寿しと高倉町珈琲の場所を地図で紹介します。地図内の右上の2つの臙脂色のマーク( )が福寿しと高倉町珈琲です。クリックすると拡大福寿しの住所なども紹介します。以前は15時~17時はお休みでしたが、下記のように変わっていました。新型コロナでゆったりの席の配置にしたので変更したのかもしれません。右の写真は高倉町珈琲<のレシートです。クリックすると拡大します。
 名前 福寿し
 住所 千葉県佐倉市井野1532 福寿しSV  
 電話 043-308-9577
 営業 11:30~23:00
 定休 年中無休
 最寄 京成 勝田台駅 徒歩10分 東葉高速 東葉勝田台駅 徒歩9分
ラベル:寿し 寿司
posted by SORI at 18:49| Comment(38) | 千葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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