2022年06月25日

男明神と女明神


2022年6月24日再掲載 タイトル:西宮球場が写った写真の撮影場所
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上の写真の撮影場所が判ったので、写真などを追加して再掲載いたしました。
クリックすると拡大父は写真を撮っているために写っていませんが、家族4人で阪急・西宮北口駅から西宮球場の横を通って右の写真の武庫川の河原を目指いしてるところの写真でした。服装や持ち物が2枚の写真は同じです。この時、私は1歳でした。ちなみに私は9ケ月で歩いたそうです。写真の左上の小さな写真は撮影場所を書き込んだ昔の航空写真です。クリックすると特別に大きく拡大いたします。


2012年11月17日掲載 タイトル:男明神と女明神

学生時代の白川郷の写真を紹介したのを機会に、もっと昔の写真を紹介いたします。幼稚園(3歳)から小学校4年生(10歳)まで広島市の井口という場所に住んでいました。その時の住所は広島市井口町で今の住所は広島市西区井口です。私が住む以前の地名は佐伯郡井口村でした。1956年11月1日に広島市に編入されて広島市井口町となったそうです。「井口」は戦国時代以来の古い地名で、当時は広島湾に突き出す半島であった鈴ヶ峰が「猪の口」の形に似ていたことに由来するという説と、隣接する古江の入り口すなわち「江の口」が転じたという説があるそうです。

防波堤が先端まで写っている写真を、実家のアルバムで見つけたので追加させてもらいました。私の生まれたころの写真や祖母と祖父の写真も見つけたので、後ろの方に追加させてもらいました。
その井口では昔は海岸に面しており、私が住んでいた家も海に面していました。上の写真も下の写真は住んでいた家の庭から撮った景色で真中の島のように見えるのが小己斐明神(こごいみょうじん)で別名で男明神(島)または小己斐島です。私が引越して来た時にはありませんでしたが、昔は女明神(島)という小山もあり夫婦島として有名だったそうです。


今は、この海は埋め立てられて海岸線は遙かかなたですが、赤い線(━━)が私が住んでいたころの海岸線です。通っていた広島市立井口小学校と聖モニカ幼稚園などの近所の場所も記載いたしました。
私の住んでいたころには男明神の横は漁港でした。上の写真でも小舟が沢山停泊しているのがわかってもらえると思います。
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Google地図に直接マークを入れました。赤色マークが住んでいた家があった場所で、緑色マークが男明神や女明神や庭の小山のあった場所です。赤色ライン(━━)が昔の海岸線で青色ライン(━━)が防波堤のあった場所です。マークやラインをクリックすると説明文が表示されます。

左が男明神で右が庭の中にあった小山の写真です。庭と言っても国道と庭との間にありました。この山の上に登ったり、くりぬいて作られた防空壕に入ったりして遊んだ記憶があります。右の写真の小山は無くなって今は手打うどん店の敷地になっています。お店の名前は純手打うどん香房・広島本店です。


女明神の明確な写真がなかったのでネットで探して拝借して掲載いたしました。この写真の角度はよくわからないのですが、2つの明神の接近ぐあいから見て、庭にあった小山は女明神ではないかもしれません。さらに調べると女明神は1933年に姿を消したそうなので庭にあった小山は女明神ではないことがはっきりしました。


もう一枚、1924年の写真を拝借いて紹介いたします。右が男明神で真中が女明神です。左の線路の向こうに小山が見えます。その中の一番手前が庭の中にあった小山だと思われます。それ以外の小山は我々が引越してくる前には削られてなくなったようです。上の写真は東から撮られたもので、この写真は西の方角から撮られたものようです。それにしてもずいぶんと海岸に近いところを線路が走っていたものです。私が住んでいた頃は線路と海岸の間に国道2号線がありました。


さらに古い一枚をお借りいたしました。明治初期のころの写真だそうです。
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こちらの写真も家の庭から撮った男明神です。近所の子供たちが、このコンクリートの壁の上から海に飛び込んでいました。実は冒頭の写真を見てもらうとわかるようにこの壁から海までは高いだけでなく距離もありました。霞んでいますが男明神の向こう側に宮島が写っています。


幼稚園の遠足で宮島に行った時の写真です。黄色い丸印()が私です。クリックすると拡大いたします。
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コンクリートの壁がどのくらいの高さであったか知ってもらうために、この写真をを掲載いたしました。コンクリートの壁の下には人が通れる段がありました。この上から海に飛び込むのは勇気が必要だったと思います。この右の壁の上に我々の住んでいる家が建っていました。
この段の部分ではよく親父が夜釣りをしていました。チヌ(黒だい)が目的で潮が引いた時に餌のゴカイを一緒に採りました。アサリもよく採れたので、お袋とはアサリ採りでした。そんな思い出の場所でした。
我々(姉と私)のバックに男明神が写っているのがわかってもらえると思います。男明神と一緒に撮った我々にとっては、たった一枚の貴重な写真でもあります。

瀬戸内海の島々もきれいに見えました。家に来た近所の同級生の写真ですが、庭から海の方を撮った写真はこの一枚だけだったので使わさせてもらいました。当時、親しかった2人の同級生の1人です。右の方の綺麗な稜線の山は安芸小富士です。同級生が座っているコンクリートの下が私と姉が写っている上の写真です。


同級生には申し訳ないけれども海の景色だけに加工してみました。目の前の海は埋め立てられたので、今はこの場所から海を見ることはできません。埋立地の先端まで行けば見ることが出来ることをGoogleマップのストリートビューで確認いたしました。直線距離で、この場所から安芸小富士までは7.61kmで、埋立地の先端までは1.28kmです。
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こちらが住んでいたです。幼稚園から小学校4年までの短い7.2年間でしたが海の近くの生活を体験できました。クリックすると拡大この後、神戸市東灘区の岡本に引越しました。小学校は神戸市立本山第一小学校です。突然に生徒数が6倍の学校に変わるなど田舎から突然に都会に出てきて戸惑うことが多かったです。電車が空中を走る(高架)は絵本の中の世界だけのだったが現実になったのが印象的でした。現在は、この場所にマンション「ヴェルディ井口明神公園」が建っています。現在の住所は広島市西区井口明神2丁目です。


このころから写真を撮っていたようです。買ってもらった子供用のカメラです。家の感じがわかりやすいと思うので紹介いたしました。庭の東方向の写真です。右側に海があります。


庭の東の端で撮った写真です。右下は私です。
後の3人は父が勤めていた銀行(現在:みずほ銀行 前身:日本最古の銀行(1873年創設) )の同僚の子供たちでよく遊んでもらいました。
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クリックすると拡大庭は結構、広かったです。庭の西方向に撮った写真です。左側に海があり、左側に上で紹介した庭の中の岩山があります。その岩山が右の写真で男明神くらいの大きさがありました。そのことからも庭の広さが分かっていただけると思います。海に沿った長い庭だったので父は実際に玉を打つゴルフの練習をしていました。


聖モニカ幼稚園で山口県の錦帯橋に遠足に行ったときの記念写真です。
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聖モニカ幼稚園での学芸会の風景です。真中が私ですがなぜか男の子は私一人です。


下の写真が小学校の入学式の記念写真です。黄色い丸の部分が私です。この写真に写っている大人が、小学校の先生全員です。一学年一クラスだったのです。右の写真は入学式の日に家の門の前で撮った記念写真です。
数少ない家が写った写真ですが家の塀は板塀でした。小学校ま低学年の記憶は断片的なものになってしまっていますが写真を見ると小学校の頃のことを思い出します。4年生の夏に広島市井口町の井口小学校から神戸市東灘区岡本の本山第一小学校に転校したわけですが、担任の先生から職員室に呼ばれて、野口英雄の伝記と牧野新日本植物図鑑の2冊の本をクリックすると拡大餞別にいただいたことが、今でも鮮明に記憶に残っています。下の写真の右端に座っている若い先生が担任の先生でした。右の小さな写真は全体の写真から、その先生のアップに移動して最後は私の写真になります。写真をクリックすると大きな全体写真を表示します。


懐かしく思い最近、引越ししてから初めて井口に行きました。そのときに小学校にも寄りました。写真の大きな桜の木が上の写真の花が咲いている桜の木だと思います。長い間に大きくなったようです。新しいシーソーも昔のシーソーと同じ場所か近い場所にありました。クリックすると拡大します。3D航空写真


昔の校舎が写った写真を紹介します。私が2年の時の運動会の写真です。私が真中です。両端の二人が学年のライバル同士です。お互いを意識しているのが分かってもらえると思います。その右端の人が私の友達で、いろんな場面で守ってくれたことを覚えています。今は、この校庭には校舎が建っています。
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右の写真の広島の担任の先生に頂いた携帯版の牧野新日本植物図鑑がクリックすると拡大ボロボロになったので買い替えたのが下の写真のフル版の牧野新日本植物図鑑です。こちらもボロボロになりました。右の写真は入学式の写真ですが、1学年1クラスだったので、4年生まで同じ先生が担任でした。私が引越してからクラス増え始めて1学年10クラスを越えるほどになったそうです。
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男明神の昔の写真と最近訪問した時の写真を比べてみます。松の形は変わってしまったようです。


現在の男明神の大きな写真も掲載いたします。


男明神の裏側からの写真です。昔は海でしたが男明神の周りは池として残されていました。白い建物のあたりが私が住んでいた家が建っていたあたりです。鳥居は昔もありました。


こちらが昔の鳥居です。どうやら朱色ではなく白木のようです。クリックすると拡大右の写真が私と姉の記念写真です。下の写真の野球帽の男の子は私の同級生で、数枚上の運動会の写真の右端の人です。
平安時代の終わりごろ、平清盛が厳島神社や鳥居を新築した際に鈴ケ峰から木を切り出して、井口で製材し、刻印をうち、いかだに組んで厳島に向けて送り出した由緒あるところで「刻印の明神」と名付けて祀ったそうです。18世紀末、新開地造成の時、己斐・旭山神社の分身がその守護神としてここに合わせまつられ、小己斐明神と呼ばれるようになったそうです。子授けの神としても敬われ、子乞(ご)い明神ともいわれてきたそうです。この写真は私が4年生なので神戸に引越しが決まったので小己斐明神(男明神)で記念撮影をしたのだと思います。写真をクリックすると拡大します。


海が近かったので海水浴にもよく行きました。


ちょっとした悪ガキでもありました。裏山の鈴ケ峰のハイキングは近所の人たちとよく行きました。後ろの真ん中は姉で両サイドが近所のお友達です。


ブログのアイコンに使っている写真はこの頃の写真です。
写真のピントが姉の方に合っていることから、おそらく写真を撮る瞬間に私が前に乗り出したのだと思います。これも今となってはいい思い出になります。撮ってくれた親父に感謝です。


私が1歳のときの写真です。私は9ケ月で歩いたそうです。私は2歳の時に兵庫県西宮市夙川から広島市平野町に引越してきたので、クリックすると拡大こちらは夙川に住んでいたころの写真だと思います。左の建物は野球場だと思いますが場所は思い出されませんが1歳から2歳までは兵庫県西宮市夙川に住んでいたのでネットで画像を探した結果、2004年に取り壊された阪急西宮球場の可能性が高いです。実家に帰った時にでも確認してみます。阪急西宮球場は阪神甲子園球場に対抗して1937年に完成した大きな球場で完成当時で57000人収容の日本屈指の球場だったとそうです。もし阪急西宮球場だとしたら昔の貴重な写真になるかもしれません。そして右手に見える山は六甲山ということになります。このころは舗装されていない地道(土の道)でした。
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昔の航空写真に上の写真を撮影した場所を、正確ではありませんが黄色の丸印で示します。写真はヒョーゴアーカイブスから転用させていただきました。西宮球場の跡地はショッピングセンター(阪急西宮ガーデンズ)となっています。


こちらは武庫川の河原です。服装や持ち物のカバンが西宮球場近くを歩いている写真と同じなので、西宮球場近くを歩いている写真は武庫川の河原に行くために歩いていたのだと思います。この時は夙川に住んでいたので阪急電車に乗って西宮北口駅まで来て武庫川の河原までは歩いたのだと思います。


武庫川の河原で遊んでする写真を、もう一枚紹介します。西宮球場近くを歩いている写真で、かぶっている帽子と同じだと分かってもらえると思います。


現在の航空写真に上の写真の撮影場所に をプロットしました。阪急の西宮北口駅の東700mの辺りです。この場所で東から西方向に撮ったと思われます。


お揃いの服です。これは手作りかな。上の写真よりも少し大きくなりましたが年齢からみて、これも夙川時代だと思います。この後に広島の平野町に引越したのでした。洋服は黄緑に近い緑色と茶色が混ざった模様だったようです。


クリックすると拡大こちらは会社のクラブハウス(宝塚)で撮った家族の記念写真です。1月生まれなので私は6~7ケ月目ぐらいだと思います。これ以降の写真も今回追加したものです。建築家の村野藤吾の設計の東京銀行宝塚クラブハウスだと思います。建物の写真は村野藤吾作品集第1巻(1928-1963)に掲載されているようなので、いつか確認したいと思っています。1980年に建てられた宝塚市庁舎も村野藤吾の作品です。
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赤色マーク( )がクラブハウスが建っていたと思われる場所で、黄色で着色した部分はグラウンドやテニスコートなどの施設だと思われます。紫色マーク( )は阪急宝塚駅です。
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上のGoogleマップに位置を書き込む根拠にしたのが1961年5月13日に撮影されたこちらの国土地理院の航空写真です。
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1985年の航空写真でもこの場所を見つけました。この航空写真はWikipediaに掲載されていました。
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東京銀行宝塚クラブハウスが建っていた場所を探している中で同じ場所で撮った写真を2枚見つけたので紹介します。クラブハウスは写っていませんが服装や周囲の松林の雰囲気から同じ時に撮られた写真だと分かりました。2021年7月25日早朝から実家の宝塚に行くので、滞在中にこの場所に行ってみたいと思っています。
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もう1枚が父がクラブハウスの横のテニスコートで撮った写真です。
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こちらは東京銀行が三菱銀行と合併(1996年4月1日)した2年前の1994年の航空写真です。東京銀行の敷地はまだ住宅地になっておらずグラウンドやテニスコートはあります。ただしクラブハウスと思われる建物は1961年5月13日の航空写真と形や大きさが違うことから1961年から1994年までの間に建替えられた可能性があります。
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こちらが山口県熊毛群周防久保にあった父方の祖母と祖父の家です。子供のころはよく行いった思い出の家です。写っているのは祖父です。


こちらが祖父と祖母です。今は亡くなっていませんが私の大切な写真なので掲載させてもらいました。


こちらが母方の祖母と祖父です。右端が祖母で左の2人が母の妹でその右側が祖父です。それ以外は私と姉と母と父です。母の兄弟にはここに写っている以外に弟が2人います。この写真は山口県岩国市にある母方の実家の家です。今は母の弟である長男(私の叔父さん)が住んでいます。


生れてから今までに住んだ場所をプロットいたしました。住んだ順番は兵庫県(2)→広島県(2)→兵庫県(3)→大阪府(1)→兵庫県(1)→千葉県(2)でした。
 兵庫県 6ケ所
 広島県 2ケ所
 大阪府 1ケ所
 千葉県 2ケ所
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2022年05月12日

ちょっと危険かな 立山黒部アルペンルート

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2022年5月8日再掲載
タイトル:富山のチューリップフェアの番組を見て「雪の回廊」を再掲載
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2022年5月7日にNHKBSプレミアムの番組で「咲いた!300万本 富山チューリップ中継」が放送されていました。上の写真は、チューリップの球根出荷量日本一の富山県にある砺波チューリップ公園のチューリップの花の回廊です。ちなみに私が見た2022年5月7日の放送は2022年4月30日(初回放送日)の再放送でした。番組には山瀬まみさん(タレントなど),鈴木福さん(俳優)、石井智也さん(NHK),川崎景介さん(花文化研究者)、佐伯幹夫さん(チューリップ四季彩館)、三上亜紀代さん(チューリップ四季彩館)、舟木真理さん(NHK)、埜村丈雄さん(球根農家)などの方々が出演されていました。

このチューリップの花の回廊は、立山黒部アルペンルートの「雪の大谷」をイメージして20品目5万本のチューリップを使って作られたものだそうです。チューリップの壁の高さは4mで、名称は「花の大谷」だそうです。クリックすると拡大「雪の大谷」が話題になったので過去に「雪の大谷」の写真を掲載したことを思い出して、本記事を再掲載させていただくことにいたしました。その過去記事の写真の一つが右の写真です。このころの私は、番組で説明している人と同年代になるのだと思います。室堂平の雪の大谷の写真は富山県観光公式サイト「とやま観光ナビ}から転用させていただきました。
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現在の「花の大谷」はカラフルな色のチューリップで作られていますが、4月29日までは白い花のチューリップが使われていたそうです。4月29日の夜に4時間かけて、すべてカラフルな色のチューリップに変えたそうです。まさに雪の回廊/雪の大谷をイメージした白いチューリップの回廊/大谷だと思います。富山は日本のチューリップの発祥の地的な存在であることや戦時中にチューリップを守ったことなどを番組で知りました。
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砺波チューリップ公園の航空写真を掲載します。航空写真の中のマイナス(―)のアイコンを数回クリックすると砺波チューリップ公園(Tonami Tulip Park)の位置が判ると思い済ます。

2011年2月11日~2022年5月08日 アクセス数4,407 nice:249 コメント:60


2011年2月11日掲載
タイトル:ちょっと危険かな 立山黒部アルペンルート

注意:危険なので絶対に真似をしないでください!!!
今年も立山黒部アルペンルートが開通したとのことなので古い記事を再掲載いたします。上の写真は除雪された立山黒部アルペンルートのすぐ脇です。
ものすごい雪です。一面銀世界ですが春なので日差しが強くてサングラスは必須ですね。 会社に入社したころの昔の写真です。
クリックすると拡大高さ20m以上の雪の回廊 バスに乗れば下からの写真は撮れますが上からの写真はめずらしいかも!
右の現代の航空写真は雪の回廊を紹介するためにネットから転用させてもらいました。

バスの走っている記念写真も撮れました。このように雪の回廊(雪の大谷)を走るバスと一緒に上から撮るのは、今は出来ないかもしれません。 雪の壁の高さが実感できる一枚です。


クリックすると拡大上の道路脇の雪の壁の上に立つ写真を撮るためには歩いて登る必要があります。 こんなスタイルで登ってきました。下の写真の後ろの点々は人です。 下の写真や右の写真はクリックすると拡大いたします。 


春の雷鳥の姿です。この時期の雷鳥には、まだ冬毛が残っていました。なぜか雷鳥がいる辺りは雪が解けていました。下の写真の火山地帯と関係あるのかな?


高い針葉樹が埋まるほどの雪です。その木の天辺を触っているところです。

 
回りは雪だらけなのでスキーも楽しみました。ただしリフトやゴンドラはないので歩いて登ります。
初めて雪の上にテントを張って、キャンプしました。
この2枚の左と下の写真のバックにそのキャンプ場(小さな点々)が写っています。雪の上に寝たのはこの時が一生の中で唯一の経験となりました。
 クリックすると拡大 クリックすると拡大
クリックすると拡大写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

ここは火山地帯でもあるのです。⇒

ここまでの写真は春の景色ですが夏には車で行きました。

その夏の写真も紹介いたします。


上の写真と同じ構図のGoogleのストリートビュー(SV)です。上の写真より拡大された状態なのでマイナスのアイコンを1回クリックすると上の写真の範囲が入った広範囲の構図を表示します。(2022年5月10日追加)


3枚の写真を合成してパノラマ写真を作ってみました。上の写真は一番右側です。クリックすると拡大しますがつなぎ目が判ってしまいます。
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カメラ位置と撮影範囲は少し違うようですが、上のパノラマ写真に近いGoogleのストリートビュー(SV)も表示させました。(2022年5月10日追加)


雪渓が解けて池が出来ていました。こちらの写真もクリックすると拡大します。こちらもSVで確認できました。
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このころには雷鳥も身近に見ることが出来ました。昔は結構自由に好きな場所にいけました。こちらが夏の雌の姿です。
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こちらは夏の雄の姿です。
posted by SORI at 20:30| Comment(92) | TrackBack(2) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月21日

学生時代のサイクリング部の合宿 4回生の信州合宿

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前々記事の木曽馬の馬搬(ばはん)で紹介の通り2020年2月8日に学生時代のサイクリング部の現役とOB・OGとの交流会に行ってきました。上の連続写真が交流会の様子です。私が説明している写真が2枚入っています。紫系のセーターを着ています。今年はサイクリング部創設60年目の節目の記念と言うことで参加者もいつになく集まりました。OB・OGが23名で現役が23名でした。今回の交流会や親睦会の写真は顔が判らないように顔が小さくなるサイズにさせていただいていますが、当時のサイクリングの写真は、かなり昔なので、ぼかし無しでも皆さんにOKしてもらえる前提で掲載しております。懇親会の進行の予定と実際を紹介いたします。現役の方は予定通りでしたが、OB・OGのスピーチが長くなるのはそれぞれの人が沢山の思い出があるからなのだと思います。とは言え記念写真の時点での遅れは28分で済みました。私のパワーポイント(PP)は20分くらいで説明するように依頼されていた結果です。PPの画面枚数は88枚でした。
 予定  実際  内容
 12:30 12:30 開会、現役紹介
 13:00 13:00 昼食歓談
 14:00 14:00 現役より活動報告(夏合宿、年間報告)
 14:20 14:25 OB・OGよりスピーチ
     16:40 SORIのPPによる報告開始
     17:05 SORIのPP終了(目標20分→実際25分)
 16:30 17:05 質疑応答
 16:45 17:13 記念写真、閉会
     17:18 交流会終了、解散

私は下の表のように2011年から参加させていただいております。海外出張と重なった2012年以外は全て参加させていただきました。そして、2014年からは当時のサイクリング部を紹介するためにパワーポイントで紹介し始めました。今回の空流会では表の中の印の1回生の夏合宿と4回生の夏合宿を紹介しました。ブログで掲載させていただいたのは次の4回で、今回が5回目となります。着色文字をクリックすると記事を表示します。
 2011年 先輩から受け継いだ伝統の味 ぜんざい
 2016年 サイクリング部のOB会に行きました。
 2017年 サイクリング部の現役と卒業生の交流会に行ってきました。
 2018年 2018年もサイクリング部の現役との交流会に参加しました。
 2020年 学生時代のサイクリング部の合宿 4回生の信州合宿
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本記事では4回生の夏合宿を紹介したいと思います。合宿は下記のように3~4つが計画されてその中から自分が行きたい合宿を選ぶのです。この時は北海道と東北と信州でしたが、私は信州合宿を選んだのです。合宿が3つの場合は1つの合宿は平均で10人程度になります。自由に選ぶので偏る場合があるのですが、計画者のコンペという感じでもあるためにそれぞれが趣向を凝らした内容になるわけです。赤い文字が私が4年間で参加した合宿です。
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参加した7つの合宿のルートです。赤色線が合宿で、青色線が合宿に参加するために1人で走ったルートです。最近の人は自走と呼んでいました。
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それでは4回生の時の合宿のルートを紹介します。赤色が合宿で青色が自走です。直接Google地図で見る場合→ポチッ
宝塚(家)→敦賀→糸魚川→白馬→長野→志賀高原→渋峠→新鹿沢→車坂峠(浅間山)→地蔵峠→青木峠→松本→乗鞍岳山頂→白樺峠→野麦峠→高山→岐阜→宝塚
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合宿出発地点の糸魚川駅です。列車で来る人と、自走して来る人の集合場所でもあります。合宿参加者11名全員で記念写真を撮りました。4回生が青いユニホームで、1~3回生が黄色のユニホームです。本来4回生は3年で引退するのですが、我々の世代は4回生も合宿に参加したのです。ちなみに3回生は青色と黄色の2種類のユニホームを持っているので、後の写真では青色のユニホームを着た3回生も出てきます。
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白馬の辺りのドライブインの前です。全員が写っています。お店の方も写真に入っています。
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長野の善光寺の前でも撮りました。
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志賀高原に入ってきました。Googleのストリートビューで確認すると右の丸池の看板は今でも残っていました。この写真では青色のユニホームを着た3回生が写っています。
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我々の時代はフィルムであることから撮影枚数が限られていて、スナップ的な写真はほとんど残っていません。特に食事風景は皆無なので非常に貴重な写真です。
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自転車で越える峠で標高が2000m以上は少ないため渋峠は貴重です。道も良くて気楽に走ることが出来ます。
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スナップ写真と同じく景色もほとんど撮りませんでした。非常に貴重な1枚でもあります。2007年からは日本で噴火警戒レベルが設定されて湯釜も状況により1~3が設定されていることから写真の近づいて見ることは出来ません。Googleのストリートビューで紹介しているように遠くから見ることになります。この時は写真に写っているだけで約80人が火口湖の淵に下りています。
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浅間連峰にも行きました。車坂峠(1968m)と地蔵峠(1733m)です。
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こちらが地蔵峠の写真です。セルフタイマーを使って全員での記念写真です。
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合宿の中で最も気に入っている写真です。奈川渡ダムの少し手前の急こう配をきれいに並んで走っています。この先にある鈴蘭小屋まで並んで走ります。その鈴蘭小屋に重たい荷物を預けて乗鞍岳の約2800mのところにある山小屋まで行き、翌朝に乗鞍岳の山頂の剣ケ峰を目指すのです。
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翌朝の食事前の標高2800mからの景色でした。合宿中に撮った2枚の景色の写真の中の1枚です。もう1枚がすでに紹介した、志賀高原の湯釜の写真でした。この写真は食事の前に近くの小山に登って撮ったのだと思います。
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さっそく全員で乗鞍岳の最高峰3026mを目指して登り始めました。先ずは早く着いた5人で記念写真を撮りました。
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全員が山頂に着いたところで記念の写真を撮りました。11人全員が写った乗鞍岳山頂の写真は記念になりました。
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私が乗鞍岳山頂から下っている写真ですが、この道を登ってきたのです。下に泊まった山小屋が見えます。
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当時は舗装道路と未舗装の道がありました。過酷な未舗装のエコーラインを登りも下り走りました。単なる未舗装では大きな石でデコボコの道なのです。
あまりにも衝撃が大きいことから1年生のE氏の自転車のフレームが真っ二つに折れてしまいました。卒業後3年8ケ月後に偶然にも、スキーに行く途中の乗換駅で、乗鞍岳の下りで自転車のフレームが折れたE氏に出会いました。お互いにスキーが目的でした。
 ・乗鞍スカイライン 舗装道路
 ・エコーライン   未舗装道路 + 大きな石でデコボコ
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上の場所をGoogleストリートビューで探してみました。現在は見ての通りきれいな舗装道路です。ただし現在は環境のために一般車両は乗り入れ禁止です。上の写真もこの写真もハイマツが生えていることが判ってもらえると思います。
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もう少し下がった場所で記念写真を撮りました。この場所はハイマツは生えていないので標高は上の写真より低いことが判ります。
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乗鞍岳の次のビックイベントは野麦峠でした。
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当時はスマホがないので5万分の1の地形図が走るルートを探すツールでした。野麦峠や乗鞍岳の位置関係や高さのイメージが判ると思います。
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この合宿のおかげで信州で越えた峠の数が増えました。
右の写真が懇親会です。交換会は学校の中で行われることからアルコールは禁止なので終わるといつもOBだけで懇親会を行っていましたが、今年は初めて現役の方が3名も参加していただき24名(OB・OG:21名)の参加者となりました。
こちらの右の写真が懇親会の二次会です。二次会(交流会から数えると三次会)は遅い時間なので、いつも数人でしたが、今回は15人も参加されました。さすがサイクリング部が出来て60年目だけのことはあります。懇親会(交流会から数えると二次会)のOB・OGの出席者は21名だったので、比率71.4%(=15÷21)と比率的にも多かったです。
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上の地図はGoogleマップのハードコピーですが、直接に自転車で通った峠を表示させていただきます。越えた峠で標高1000m以上の例を記載します。麦草峠(2185) 渋峠(2172) 徳本峠(2135) 車坂峠(1968) 金精峠(1843) 武石峠(1830) 安房峠(1812) 沼山峠(1784) 武石峠(1780) 三平峠(1762) 地蔵峠(1733) 平湯峠(1684) 野麦峠(1672) 馬越峠(1650) 白樺峠(1640) 和田峠(1531) 権兵衛峠(1522) 長峰峠(1503) 柳沢峠(1472) 信州峠(1464 右下の写真) 大門峠(1442) 十石峠(1356) 姥神峠(1280) 杖突峠(1267) 内山峠(1170) 駒止峠(1135) 白布峠(1094) 松本峠(1087)  塩ノ沢峠(1061) 塩尻峠(1055)クリックすると拡大 冠峠(1050) 傘松峠(1020)  小鳥峠(1002)
来年の交流会では3回生の春合宿(信州)を紹介したいと思っています。その3回生の春合宿(信州)では上のリストの赤色文字の6つ峠に和美峠(987)を加えた7つの峠を通りました。


越えた峠をプロットして上のGoogle地図の中の四国の部分にプロットした緑色ラインは3回生の夏に初めて四国を自転車で走った時のルートです。他の地域は峠のプロットで、その地域を走ったことが分かるのですが、この四国のルートは海岸沿いなので名のある峠がないことから、峠をプロットできないことから四国は走っていないように感じられるので、この時のルートをプロットしたわけです。下記はマジックペンで走ったルートを書き込んだ大きな日本地図です。学生時代に四国を走ったのは、これ1回でしたが、北海道以外の本州と九州と四国を走ったことになります。
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こちらの青色ラインが、その時に走ったルートです。赤色ラインが乘ったフェリーの航路です。我々の時代は3回生の夏休みの間に企業研修が行われていて、その企業研修に自転車で行ったのです。帰りは同じルートで帰る方法もありましたが、それまでに四国を1度も自転車で走っていなかったことから四国を走って帰るルートを選択いたしました。元々は夏の東北合宿が終わった後は解散した青森駅から兵庫県の宝塚まで、自転車で帰ってくる予定でした。学生時代は3回ほど1日に350km走りましたが、無理なく毎日連続で走れる距離は1日に280kmでした。
青森から宝塚までは約1000kmなので4日間(280kmx4=1120km)で帰れるのですが、残念ながら企業研修が迫っていたので走って帰る時間が無くて夜行列車で帰りました。もし青森から宝塚まで走って帰っていれば、それまでに走ったルートが全てつながっていました。それが出来なかった代りに初めての四国を走ることが出来たのです。


クリックすると拡大企業研修は因島にあるアイメックス(当時:日立造船→分社独立)で、縁があることに私が神戸にある会社に入社して20年以上経ってから私が設計するプロジェクトの中の機器の製造を数えきれないほど発注いたしました。右の写真は社員食堂の食券です。
企業研修の懐かしく思い出されたので、その時の写真をスライドショーにしてみました。最初が泊めていただいた民宿の家族の方と研修生3人の記念写真で、クリックすると拡大次の2枚は研修を受けたいろんな学校の人達との記念写真で、その次の3枚は因島の白滝山五百羅漢で、最後の写真は因島の隣りの生口島にある陽明門そっくりの孝養門です。相当に昔なので、ぼかし無しでもOKしてもらえる前提で掲載させていただいています。造船会社だったので右上の写真の船にも乗せていただきました。
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新居浜の近くの東伊予道路の通行券が残っていました。押されている印から8月31日に通ったことが分かります。2006年3月31日に無料になったので、今は有料道路ではありません。今は愛媛県道13号壬生川新居浜野田線の一部です。
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高松から神戸へのフェリーのチケットが残っていました。チケットには船内直取券と書かれていました。乗った日付は9月1日で船はクリックすると拡大加藤汽船のこんぴらであることが分かりました。東伊予道路を8月31日に通過して9月1日に船に乗ったので、少なくとも四国で1泊したことになります。どこかに寄り道をしたのかもしれませんが、昔のことなので寄り道をしたかどうかは覚えていないのです。料金は1170円でした。調べてみると、こんぴら丸には初代と2代があります。高松⇔神戸で当時就航していたのは阪神高松ジャンボフェリーで、加藤汽船のりつりんこんぴらと関西汽船の六甲丸生駒丸の4隻が共同運行していました。
・こんぴら りつりん
  1969年竣工 1978年改造
  2834総トン、全長83.5m、幅25.0m、型深8.0m 旅客定員859名
  出力2500馬力x4基、航海速力19.0ノット
  車両積載数:トラック(8t換算)19台
  船型:双胴型
  日本鋼管建造
     1ノットは1.852km/hです。つまり19ノットは35.188km/hになります。

     参考ですが、戦艦大和の最大速力は27.46ノット(50.86km/h)でした。

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高松城の写真が残っていたので、高松市内は廻ったようです。
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ラベル:サイクリング
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2020年02月05日

木曽馬の馬搬

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学生時代のサイクリング部の現役との交流会が2020年2月8日があることから、我々が現役の頃のサイクリングを紹介するために右下のようなパワーポイント(PP)を作成しています。参考の右下のPPは2018年の時のものです。昔の写真を懐かしく思いながら編集しているのですが、その中で今となっては貴重な写真があったので紹介します。その1枚が上の写真です。木曽馬が木材を運んでいる馬搬(ばはん)の写真です。この写真は会社に入社した年の11月17日に撮った写真ですが、会社が終わった金曜日に大阪駅から夜行で木曽福島駅まで行き旧飛騨街道を走っている時に撮ったものです。
馬搬は林業の発達とともに昔から行われていましたが、林業の機械化により衰退していまいました。私が見た時代もすでに機械化が進んでいてほとんどの場所では馬搬は過去のもので、当時でも珍しく初めて見て感激したのを思い出しました。木曽地方には馬搬が残っていたのです。現在では馬搬振興会などで技術を伝えているのが現状のようです。

上の木曽馬の写真を撮った場所をGoogle地図のストリートビューで探してみました。黒川の支流の西洞川に沿った旧飛騨海道を走っている時に見つけました。黒川は木曽川の支流です。したがって西洞川も木曽川の支流になります。ここに馬搬の道があって奥から馬が歩いてきたのです。
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馬搬(ばはん)を横から撮った写真です。実は道を走っている時に最初にこの光景に出会ったので、道を戻って馬が道路に出てくると思われるところで待ち受けていて、上の写真を撮ったのです。
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最初の写真の時と同様にGoogle地図のストリートビューで探してみました。道の石垣が当時の雰囲気を残しています。2020年2月時点のこの辺りのストリートビューの写真は2014年7月に撮影されたものでクリックすると拡大す。
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もう一枚、趣のある場所があったので紹介します。
上の木曽馬を見た場所から1.8km進んだところです。残念ながらこの写真には私ではありません。写っている彼は同期として神戸事業所の同じ課に配属になり私の影響で自転車を買い、一緒に何度か走りました。東京に組織ごと転勤になった時も一緒で今で親しくしており、同じゴルフ倶楽部の会員で年に何度もゴルフをします。写っている本人も、この写真は気に入っていて部屋に飾ってあるそうです。
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上の写真の建物が現在はどうなったのかが気になったので、Google地図のストリートビューで探してみました。1軒は現在も使われているようでした。航空写真ストリートビューを交互に表示しています。この写真も含めてストリートビューの写真をクリックするとオリジナルを表示するようにしています。
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木曽福島駅から久々野駅(くぐの駅)までのルートを紹介します。木曽馬も含めて全ての景色が偶然出会ったものでした。右下の細長い写真は現在の久々野駅と駅前の道路から見た久々野駅周辺の景観です。
 徒歩ルート図 → 全ルート 地蔵峠(頂上) 長峰峠(頂上)
クリックすると拡大  木曽福島駅
  木曽馬の馬搬の写真撮影場所
  古い建物の写真撮影の場所
  朝日ダム
  久々野駅

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左が木曽福島駅で右が久々野駅の手回り品切符です。
       木曽福島駅          手回り品切符(久々野駅)
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こちらが当日の木曽のサイクリングに関する画面です。2018年までのPP画面は横縦比は4:3でしたが2019年からは16:9にいたしました。
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今までの私の出席状況です。2011年から海外に行っていた2012年を除いて全て出席しています。縮小しているので分かりにくいと思いますが、クリックするとオリジナルサイズ(1920 X 1080)を表示します。
2014年からパワーポイント(PP)での説明を始めました。
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他の写真も紹介します。黒のダウンと赤のウインドブレーカーと雨具を状況に応じて使い分けています。途中の滝の名前は今となっては判りませんが有名な滝だと思います。
クリックすると拡大その途中の滝は岐阜県高山市高根町中之宿にある右の写真の青氷の滝かもしれません。 右は転用させていただいた夏と冬の写真を交互に表示させています。下の写真はクリックすると拡大いたします。着色文字のSVをクリックするとその場所の現在のストリートビューを表示します。
     木曽福島駅 SV           地蔵峠 SV
クリックすると拡大クリックすると拡大
       途中の滝             長峰峠 SV
クリックすると拡大クリックすると拡大

白樺の林も雨で白が目立っていました。開田高原も近くにありました。ハイキングコースとして地蔵峠コース(約9.5km)と折橋峠コース(約8.8km)が紹介されていました。
        白樺 SV          開田高原の看板 SV
クリックすると拡大クリックすると拡大

途中で野麦峠を越える野麦街道と合流いたしました。現在は飛騨ぶり街道(越中東街道)と呼ばれています。そのあたりから雨の中のサイクリングとなりました。朝日ダムに着くころには雨が止んだようです。後半の高根第一ダム(高根乗鞍湖)→高根第二ダム(湖の名称未定)→朝日ダム(朝日貯水池)→秋神ダム(秋神貯水池)・久々野ダム(久々野貯水池)あたりは新しい道が通っていることから昔に通った道はストリートビューでは出ないところが沢山あります。
クリックすると拡大クリックすると拡大
      朝日貯水湖 類似の橋        朝日ダム SV
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posted by SORI at 14:22| Comment(26) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月10日

昔の六甲全山縦走大会

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

前記事でのハイキングの参加者は入社した当時の神戸の仲間でした。その打ち上げの飲み会の中で昔の六甲全山縦走大会に参加したことが話題になったので、私の入社当時の古いことですが本記事で紹介したいと思います。
その時代は「市民」の文字が入って六甲全山縦走市民大会と呼ばれていました。この大会は「六甲全山縦走市民の会」が主催しており、現在、その事務局は神戸市役所の市民参画推進局文化交流課の中にあります。1975年11月23日(祝日)に第1回が行われて、2018年11月11日(日曜)と11月23日(祝日)に第44回の六甲全山縦走大会の全縦(56km)が行われました。11月23日(祝日)には新神戸駅ゴールの半縦(23.6km)も同時に行われました。2018年が第44回なので阪神・淡路大震災(1995年1月17日)に襲われた1995年も含めて第1回から毎年必ず1回行われたことになります。1月17日から10ケ月があったことで実行を決断出来たのだと思います。2018年の正式名称は「2018 KOBE 六甲縦走全山縦走大会」です。ただし「2018 KOBE 六甲縦走全山縦走大会(第44回)」という表現も使われていました。
私の時の参加人数や完走者数は今となっては判らないので、2018年の人数を紹介します。参加は申込定員制(1800人/日)で、実際の参加者は11月11日が1592人で、11月23日が1514人の合計3106人でした。驚いたことに全縦走の最高齢完走者は男性86歳で女性73歳でした。
下記表のように2018年の完走率は84%ですが、第1回~第44回の累計参加者の完走率も84%(=131,758名÷157,093名)です。
参加者(人) 完走者(人) 完走率
男性 女性 合計 男性 女性 合計 男性 女性 合計
全縦 2493 613 3106 2135 476 2611 86% 78% 84%
半縦 243 153 396 226 141 367 93% 92% 93%
上で紹介した神戸市(六甲全山縦走市民の会)主催の六甲全山縦走大会以外に兵庫県勤労者山岳連盟(兵庫労山)が主催する六甲全山縦走大会もあります。こちらは人数的には神戸市の40%程度ですが、全縦コースと西コース(半縦)と東コース(半縦)があり、2年がかりですが2回参加することで全山縦走を完成させられる特徴があるようです。さらに神戸市より歴史が古く、1966年に第1回が行われ2019年3月10日(第2日曜)に第53回が行われました。1月に地震があって3月なのでさすがに1995年は中止になったようです。
それでは私が参加した昔の六甲全山縦走市民大会の説明に戻ります。
コースは上の地図で示している通り神戸市垂水区の塩屋から宝塚市の宝塚駅(阪急)までの公称56kmでした。早朝に出発するために会社の塩屋の独身寮の人の部屋に泊めてもらい、集合場所の山陽電鉄の塩屋駅に行くと右の参加証(記録兼チェックカード)を受け取って出発いたしました。すでに5分間の間に沢山の人が出発していていました。泊めてもらった部屋の住人も、この六甲全山縦走市民大会に参加いたしました。チェックポイントを紹介します。
到着 出発 チェックポイント
5:05 塩屋
6:45 6:45 萩の寺
高取山頂
菊水山頂
鍋蓋山頂
9:05 9:05 再度山大竜寺
10:00 10:00 摩耶山頂
11:10 11:30 記念碑台
12:05 12:05 最高峰一軒茶屋
12:30 13:00 東六甲縦走路分岐点
大平山
14:15 宝塚駅
現在の出発地 須磨浦公園
萩の寺、再度山大竜寺、記念碑台、東六甲縦走路分岐点、宝塚駅には係員の方がおられて到着すると右および下のように印を押してもらえました。の間に塩尾寺(えんぺいじ)があります。

塩屋を5時05分に出発して宝塚駅に14時15分に到着したので、56kmを9時間10分で歩いたことになります。ただし、年々競争がエスカレートして6時間で走る人が出てきたことから、本来の楽しく歩く趣旨からかけ離れてマラソン大会のように競争の場になることを防ぐために係員のいるチェックポイントでは、その時間より早く出ることが出来ない出発時間が設定されていました。例えば東六甲縦走路分岐点では、どんなに早く到着しても13時までは待ってから出発するのです。私の場合は記念碑台で20分、東六甲縦走路分岐点で30分ほど足止めされたことから実質は8時間20分でした。
ちなみに六甲全山縦走の現在の出発地点は須磨浦公園です。
ネットで調べてみると、右の2018年の記録兼チェックカードでは須磨浦公園(スタート 5:00~7:00)→クリックすると拡大妙法寺小学校→菊水山(8:30~12:20)→鍋蓋山頂東→再度山大竜寺→摩耶山上掬星台(12:00~15:50)→六甲山記念碑台→一軒茶屋(13:50~18:20)→大平山→宝塚(ゴール 16:30~22:00)になっていました。赤色文字のところでは係員の方が印を押してくれます。時間は印を押してもらえる時間です。
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記念碑台から宝塚駅までは競争しないように、4人くらいのトップグループで一緒に歩きました。そのトップグループで同時にゴールいたしました。ゴールした人がある程度集まると記念写真を撮ってもらいました。この写真は9番目の人がゴールした時に撮った記念写真です。クリックすると判ると思いますが、目の辺りだけ「ぼかし」を入れております。左から2番目の赤いウインドブレーカーを着ているのが私です。六甲山縦走路は大半が細い道で行列して歩いていることから出発して5時間くらいは追い抜きは難しい状態が多かったです。それでも記念碑台までは渋滞していないところでは走っていました。最初に出発して渋滞が無ければ実質7時間は切れた感じではありました。会社の同じ年齢の人達も沢山参加されましたが、夕方から夜に宝塚に着いたと言っていたので12時間~16時間だったようです。写真は後で家に送ってもらいました。
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認定証もいただきました。この六甲全山縦走は「全山」というところに大きな意味があるのです。六甲山最高峰931mをはじめ沢山の高い山を登っては降りることを繰り返すことから、諸説ありますが登りの詳細累計標高は3659.3mにもなるようです。連続の登りではないので3660mの標高の山に登る場合とは比較できませんが、距離があるのも厳しい条件になると思います。特に高取山、菊水山、鍋蓋山は登っては下り、登っては下り、登っては下りはかなりのものでした。このころの体力ならば、渋滞が無ければ登りも下りも全て走れたと思います。もちろん、今は無理です。


参考に15時間30分で歩かれた方の例を掲載させていただきます。現在の大会では走るのは禁止されています。


最初に紹介した写真も含めて5枚も撮っていただきました。最初の頃で人が少なかったので沢山撮ってもらえたのだと思います。昔の写真である上に拡大はしないように設定しているので「ぼかし」は行っていません。宝塚駅構内で、認定書と記念品をもらっうために並んでいるところです。私は参加証に印を押してもらっているところです。


クリックすると拡大こちらの写真は記念品を受け取っているところです。印が押された参加証と認定書はを左手に持っています。記念品は盾(たて)だったと思います。探しましたが見つからないのでとりあえず、ネットから転用させていただいた写真を右に紹介します。見つかれば写真を差し替えるつもりです。


駅前で記念写真を撮りました。後ろの券売機のところに「阪急電車 きっぷ うりば」と書かれています。この写真で阪急の宝塚駅であることが分かりました。左端の「おつかれさま 六甲全山縦走市民大会 完走おめでとうございます」の立て看板が光っていました。ほとんどの人が歩きますが「完走」にも「縦走」にも「走」の文字が使われます。確かに「完歩」や「縦歩」では、分かりにくいし、ぴんとこないです。


武庫川に架かっている歩道橋の上での記念写真です。この歩道橋は今はありませんが、クリックすると拡大当時は六甲山から下りてきて、この歩道橋を向こう側から手前側に渡って宝塚駅に到着しました。今は、この場所には車が通れる宝来橋があります。後ろの建物に水明館の文字が読み取れます。今は水明館はありませんがGoogle地図で水明館跡の文字を見つけることが出来ます。


クリックすると拡大最初に紹介した記念写真です。右側が武庫川の下流方向です。建設用のクレーンがあるところが宝塚歌劇の建物の場所です。右の小さな写真が建設中の宝塚歌劇の建物をオリジナルの写真から切り取って露出調整したものです。


クリックすると拡大類似した角度の現在のストリートビューです。プラス(+)のアイコンを2回クリックして右側を真中に持ってくると拡大された宝塚歌劇の建物を確認することが出来ると思います。
右の写真はその部分を切り取ったものです。


従来は六甲全山縦走の累計標高は2800mと記載しているサイトが多かったです。約3000mと書かれているサイトもありました。GPS と地理院地図の高度データにより詳細に計算したのが下記のサイトで累積上昇高度(累計標高)は3659.3mで累積下降高度は-3627.6でした。下記は出発地点を須磨浦公園(現在の出発地点)としていますが、標高に関しては塩屋(当時の出発地点)も同程度です。ただし須磨浦公園は塩屋よりかなり東なので須磨浦公園出発の方が距離は短くなると思われます。代表的な標高も紹介します。結婚してすぐに買った家からは横尾山と高取山が見えました。右の上の写真は横尾山山頂に登った時に撮った高取山です。高足山の左奥に菊水山が写っています。この写真を見てもらうとアップダウンが激しいことを想像していただけると思います。その下の写真は縦走以前に撮った最高峰の石碑が、この時代は六甲山最高峰には米軍施設があり立ち入り禁止のために、その横に建てられた石碑です。この石碑の位置は最高峰より若干低いけれどもここの横を通りました。その最高峰の写真をクリックすると3枚組を表示します。
標高を参考にさせてもらった資料→ポチッ
クリックすると拡大 須磨浦公園   12.6m
 旗振山    252.6m
 鉄拐山    234m
 栂尾山    274m
 横尾山    312.1m
 東山     253m
 高取山    237.8m
 菊水山    458.3m 
クリックすると拡大 鍋蓋山    486.1m
 再度山    470m
 摩耶山    690.1m
 摩耶別山   715m
 六甲最高峰  931.25m
 水無山    804m
 大平山    682m
 譲葉山    514m
 岩倉山    488.4m
 宝塚駅     44.3m 3659.3-3627.6= 31.7 =44.3-12.6
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上でも小さな写真で紹介した横尾山山頂から撮った高尾山の写真です。その写真の右側には神戸の市街地が広がっていたのです。高尾山の左奥には菊水山がうっすらと写っています。これを歩いて行くわけなので登ったり下りたりすることが実感していただけると思います。結婚してから東京に転勤になるまで横尾と呼ばれる場所に住んでいたのです。ただし六甲全山縦走をした時は結婚すること自体考えてもいなかったので、クリックすると拡大この場所(横尾)に住むことになるとは想像だにしていませんでした。横尾山は近かったので頻繁にワラビを採りに登りました。ワラビは茹でてマヨネーズかワサビ醤油でいただきました。子供が生まれてからも六甲山系のいろんな山に、右のようなスタイルでよく登りました。須磨浦公園( スタート )と書かれているところが、私が歩いた時は塩屋( スタート )でした。この時に住んでいたのは宝塚駅( ゴール )近くの実家の家でした。
3つ目の画面の横尾山から黄色線方向(神戸港方向)を撮ったのが上の写真です。
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参考に横尾山山頂から神戸市営地下鉄西神・山手線の妙法寺駅方向を撮った写真を紹介します。市民大会で縦走路を歩いている時は、この景色を見る余裕はなかったと思います。六甲全山縦走したのは独身時代ですが、この写真は結婚後に撮った写真です。この写真はクリックすると特別に3倍(面積で9倍)に拡大するように設定いたしました。
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妙法寺駅前の医療センターやショッピングセンターは建設中でした。今となっては珍しい写真だと思うので横尾山から200mmの望遠レンズ撮った写真も掲載いたします。こちらの写真はクリックすると特別に4倍(面積で16倍)に拡大するように設定いたしました。
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クリックすると拡大すでに上で報告の通り今の出発地は須磨浦公園駅です。私が歩いた時代の塩屋駅から旗振山までのルートと比較してみました。塩屋駅周辺は住宅が密集していることから変更したのだと思います。右の写真はWikipediaに掲載されている現在の山陽電鉄の塩屋駅です。変更になったのは私が歩いた次の年からでした。航空写真表示→ポチッ


東山から高取山へのルートも昔と今では違うようです。昔は萩の寺を通るルートですが、今は妙法小学校近くを通るオレンジ色のルートに変わっています。チェックポイントの萩の寺()も妙法寺小学校()に変更になりました。
スタート地点から旗振山までと、東山から高取山まで以外のルートは基本的に昔も今も同じです。


六甲全山縦走のコースの山の部分に深緑色のマークをプロットいたしました。マークの数は25個になりました。プロットしてみることで、沢山の山を登り下りしたことを実感いたしました。25個の内訳は16個が上で紹介の名前が分かっている山で、9個が等高線から山と判断していますが、名前が分からない山 1 ~ 山 9です。画面内のは私が歩いた時の市民大会の参加証のチェックポイントです。本画像は10枚のGoogle地図のハードコピーを3秒間隔で表示させています。クリックするとGoogle地図で表示します。
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小学校4年から六甲山の麓に住んでいてハイキングには頻繁に行っていたのですが、山道を走る体力が付いたきっかけは高校の生物部に入ったことだったと感じています。六甲山にある横池(雌池)に毎月1~4回ほど阪急岡本駅から横池まで走って登っていました。池のプランクトンの数と水質(溶存酸素、PH)の変化を調べていたのです。プランクトンの数は学校に持ち帰って顕微鏡で数を調べるのです。おかげで足が鍛えられました。横池は雄池と雌池がありましたが、プランクトンの調査は雌池で行っていました。高校2年の時にサイクリング用の本格的な自転車を買ってもらいよく六甲山に登ったことも足が鍛えられる要因になりました。数値は標高です。
 A 岡本駅
 B 鷺宮八幡宮
 C 保久良神社 185m (保久良山 189m)
 D 金鳥山   346m
 E 横池(雄池)  432m
(F 横池(雌池)       )
 G ロックガーデン(風吹岩 447m)
 H 通っていた高校


横池の珪藻の写真を紹介します。最後の写真は生物部の活動風景です。
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高校2年から自転車に乗っていたこともあり高校卒業後、大学ではサイクリング部に入りました。4年間で6万kmを走りました。下記は2018年のOB会で現役に対して我々時代のサイクリング部紹介するために作ったパワーポインのスライドです。画面は1秒間隔で変わるようにしています。3秒間隔で見たい方はこちらです。→ポチッ


自転車で越えた峠をプロットしました。越えた峠の中で名前が判っている155をプロってしています。標高1000m以上の峠の名前です。
麦草峠(2185) 渋峠(2172) 徳本峠(2135) 車坂峠(1968) 金精峠(1843) 武石峠(1830) 安房峠(1812) 沼山峠(1784) 武石峠(1780) 三平峠(1762) 地蔵峠(1733) 平湯峠(1684) 野麦峠(1672) 馬越峠(1650) 白樺峠(1640) 和田峠(1531) 権兵衛峠(1522) 長峰峠(1503) 柳沢峠(1472) 信州峠(1464) 大門峠(1442) 十石峠(1356) 姥神峠(1280) 杖突峠(1267) 内山峠(1170) 駒止峠(1135) 白布峠(1094) 松本峠(1087)  塩ノ沢峠(1061) 塩尻峠(1055) 冠峠(1050) 傘松峠(1020)  小鳥峠(1002)


上段の2枚は高校2年から8年間使った自転車で左右は同じ自転車です。塗装が剥げてきたので、4年目に紺色から黄色に振り替えました。学生時代のサンクリング部では、この自転車を使いました。
下段の2枚の左が会社に入社して2年目に買った自転車で、右側が一番新しく買った自電車です。
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posted by SORI at 19:54| Comment(16) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月23日

OB会の三次会も恒例となりました。今回は㋵鳥良商店

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事で紹介したOB会の二次会に参加した14名の内、6名が三次会に行きました。一年ぶりとなると一次会+二次会だけでは話が尽きなかったようです。
三次会は今まで探すのに苦労した経験から、迷わず一昨年(2016年)の三次会で入った鳥良商店に直行いたしました。季節がら店員さんが鬼の面をかぶって対応してくれました。 2016年の三次会の記事→ポチッ

さっそくビールを頼みました。もちろんすぐに乾杯です。左側の一番奥に座っているのが私です。参加6名の内訳は次の通りでクリックすると拡大す。
 私と同期        2名 4回生(4年) 
 我々が4年の時に1年  2名 1回生(1年)
 我々が卒業した年に入学 2名 0回生(高校3年)


乾杯が終わったところで記念写真を撮ってもらいました。その記念写真からテーブルの部分をトリミング(切り取り)いたしました。乾杯は、2人が生ビール(499円)で、2人が焼酎お湯割り(499~599円)で、1人がハイボール(438円)で、1人がキリン零ICHI(399円)でした。お通しはモズクでした。
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お通しのモズクを拡大いたしました。学生時代のサイクリング部の2018年の交流会とOB会の関連記事は次の通りです。着色文字や写真をクリックするとその記事を表示しまクリックすると記事を表示す。
 2月03日 現役との交流会(一次会) 写真→→→
クリックすると記事を表示 2月03日 二次会
 2月03日 三次会(本記事)
 3月31日 東京OB会 写真
 3月31日 東京OB会二次会
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お店の看板メニューとも言える鶏くわ焼(790円)を先ずは頼みました。炎の中で焼くので煙で真っ黒です。自慢の一品と書かれていました。おそらくですが、お店を訪問した人のほとんどが注文するのだと思いました。
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その自慢の一品を拡大いたしました。鶏くわ焼の「くわ」が気になって調べてみると畑を耕す鍬のことで、昔に鍬(くわ)の上で焼いていたことに由来するそうです。一般的な調理方法としては下味をつけた鶏に小麦粉をまぶしてから焼くのが特徴だそうです。
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ネットのぐるなびページから鶏くわ焼を焼いているところの写真を転用させていただきました。昔は名前の由来の鍬で焼いて、現代ではフライパンで焼くのが一般的のようですが、こちらのお店では金網で焼いていました。確かに煤で黒くなるわけです。煤だらけのくわ焼きがお店の特徴です。さらに、いろんな部位を焼いているのもこちらのお店の特徴だそうです。
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手羽先唐揚げ(480円)です。甘口、中辛、大辛があります。
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二次会で十分に食べてきたので軽めのお新香盛り合わせ(390円)も頼みました。
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三次会に残った6人中4人は一緒に走ったメンバーでした。
その4人が写った写真を紹介します。クリックすると4倍に拡大します。面積では16倍に拡大します。写真の上の人数は写っている三次会のメンバーの人数です。最初の写真以外は私が写っています。いずれも私が4回生の時の写真です。水越峠は大阪と奈良の県境にあり、金峯山寺蔵王堂(きんぷせんじ・ざおうどう)は奈良県吉野山にあります。善光寺はもちろん長野県で、白谷トンネルは和歌山県にあります。
    水越峠 3名           金峯山寺蔵王堂 3名

    善光寺 2名           白谷トンネル 2名


〆には親子丼(590円)を頼みました。
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さらに油そば(688円)も頼みました。これ以外に締めとして、とりそば(680円)と、しらす炒飯(688円)と、チキンライス(688円)がありました。
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親子丼も油そばもみんなで取り分けていただきました。ここでも話が弾んで兵庫県宝塚(逆瀬川)の実家に着いたのは午前になったいました。
撮った写真の時間を調べてみると21時30分から飲み始めて解散したのが23時25分でした。約2時間の三次会でした。ネットで調べてみると、阪急・逆瀬川駅に帰るための地下鉄・なんば駅の最終電車は23時42分だったので、タクシーを使わないで帰れるぎりぎり(限り限り)だったことが分かりました。
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地図の中央の臙脂色マーク( )が今回のお店です。この店は以前に紹介したことがあります。難波駅(なんば駅)の近くです。24時間営業なので帰りのタクシーを気にしないで朝まで飲み続けることが出来るお店ですが、我々のメンバーは終電に間に合うように帰りました。
地図上の右側のマーク( )はニューミュンヘン南大使館で、2015年2月7日の二次会(25名)と2017年2月4日の三次会(9名)で利用したお店です。
右の画面は今回の私の交流会用のパワーポイントのスライドです。画面上でクリックすると一時停止します。
 店名  鳥良商店
 住所 大阪市中央区難波3-2-15
 電話 06-6631-6303
 種類 主に鶏料理 Menu
 営業 24時間
 定休 無し
posted by SORI at 21:58| Comment(20) | 思いで | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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