2024年01月18日

青菅どんどれえの「竹立て」を見に行きました。

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2024年1月14日再掲載
タイトル:青菅どんどれえの「竹立て」を見に行きました。
今は関西に来ていますが、私が住んでいる場所の近くにどんど焼き(左義長)が行われるところがあります。場所は千葉県佐倉市青菅で、ここでは「どんどれえ」と呼ばれています。今日は2024年1月14日で、毎年「どんどれえ」が行われる日であることから、過去記事を再掲載したいと思います。
青菅どんどれえは旗本川口氏が知行した江戸時代初期の頃に始まったと伝えられているそうです。2007年6月29日に佐倉市無形民俗文化財に指定されています。
今回の記事以外に「どんどれえ」を書いた記事を紹介します。
着色したタイトルをクリックすると記事を表示します。
 2012年01月15日 雪の中のどんど焼きになりそうです。青菅どんどれえ
 2013年01月15日 大雪の中の「青菅のどんどれえ」 2013年
 2014年01月15日 1月14日は青菅のどんどれえ 2014年
 2015年01月15日 2015年 青菅のどんどれえ 初めて餅を焼きました。
 2016年01月11日 2016年の「青菅のどんどれえ」は1月14日18時点火
 2017年01月21日 2017年の青菅の「どんどれえ」 子供たちが沢山参加・・・
 2017年01月10日 本記事 掲載
 2024年01月14日 閲覧数 4,205 nice! 132 CMT 36 再掲載直前
 2024年01月15日 閲覧数 4,439 nice! 165 CMT 54
 2024年01月16日 閲覧数 4,495 nice! 170 CMT 54
 2024年01月17日 閲覧数 4,552 nice! 173 CMT 56
 2024年01月18日 閲覧数 4,583 nice! 174 CMT 56
 2024年01月19日 閲覧数 4,654 nice! 180 CMT 56
 2024年01月20日 閲覧数 4,702 nice! 183 CMT 60

2017年1月10日掲載 
タイトル:青菅どんどれえの「竹立て」を見に行きました。
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上の写真は2017年1月14日に行われる予定の「青菅どんどれえ」の以前に撮った写真です。これを立てる作業「竹立て」を2017年1月8日に見に行ったので報告させていただきます。その前に1月8日を特定するのに苦労がありました。
千葉県佐倉市青菅地区には江戸の初期から続く小正月の伝統行事があります。正月飾りを燃やす「どんど焼き」ですがここでは「青菅のどんどれえ」と呼ばれています。曜日に関係なく毎年1月14日18時から行われています。この「青菅のどんどれえ」は佐倉市の無形民俗文化財にも指定されています。この行事を知った2013年から3度見に行きましたが、その迫力に圧倒させられました。上の写真は2015年に「青菅どんどれえ」を見に行ったときに撮りました。今までに掲載した記事を紹介します。
 2013年1月14日 → ポチッ 大雪の中のどんどれえ    
 2014年1月14日 → ポチッ どんどれえの様子を詳しく紹介
 2015年1月14日 → ポチッ 初めて餅を焼きました。
 2016年1月14日 → ポチッ 見に行けませんでした。
この「どんどれえ」を作ることを「竹立て」と言われていますが、この「竹立て」を見たいと思い何度も行きましたがすべて空振りで全て完成した後でした。クリックすると拡大そこでネット内のブログ内の記述で最近の「竹立て」が行われた日を調べてみました。その日が下記です。着色文字をクリックすると竹立ての写真が掲載された記事を表示します。
 2009年 : 1月11日  2010年 : 1月10日
 2011年 : 1月09日  2012年 : 1月08日
 2013年 : 1月06日  2014年 : 1月05日
 2015年 : 1月11日  2016年 : 1月10日
 2017年 : 1月08日予想
確認できている範囲では竹立てはすべて日曜日に行われていることから、2017年の竹立ての日としては1月8日の可能性が高いと予想して、行ってみることにいたしました。竹立ては8時に初めて11時に終わるようです。
 2017年の青菅どんどれえ:1月14日18時点火

竹立てが2017年1月8日である100%の確信がなかったので、念のため前日の1月7日(土曜)の10時に見に行きました。竹立てが行われるとしたら午前中と思うので、この時間帯に行われていないとしたら、予想した2017年1月8日(日曜)には間違いないと感じました。
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これが「竹立て」を行う前の「どんどれえ塚」です。
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これが昨年の「どうしんぼく」です。どんどれえ塚には9本の竹が立てられますが、その中心に立てる御神木がドウシンボクです。
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2017年1月8日8時33分に着くとすでに「竹立て」が始まっていました。やはり上で記載している通り8時に集合して始まったようです。下の写真は開始してから30分後ということになります。
来年以降の「竹立て」の予想日を記載します。14日の前日(13日)・前々日(12日)が日曜日の場合は、その前の日曜日に「竹立て」が行われるようです。どんどれえの前日・前々日に「竹立て」を行わないのは天候を考えておられるのかもしれません。
 どんどれえ:1月14日18時点火 曜日は無関係
 竹立て  :1月05日~1月11日の日曜日8時開始
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想像していた以上に沢山の人が分担して作業をされていました。どんどれえ塚のすぐ横にクレーン付きトラックが止められていました。
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皆さん忙しそうに仕事をされていました。
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どんどれえは太い9本の孟宗竹を立てて作ります。すでに6本の太い竹が置かれており7本目が運び込まれたところでした。
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これがいろんな場面で活躍するクレーン付きトラックです。クレーンの先端には作業用ゴンドラが取り付けています。このゴンドラは3つの大切な役目がありました。塚の上に積み上げる雑木も置かれていました。トラックには設楽造園(株)の文字が読み取れます。設楽造園(株)さんは、地元となる青菅地区の造園会社で、この「竹立て」に協力されているようです。
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トラックはしっかりと固定されていました。このような種類の作業に手馴れていると感じました。
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トラックを反対側からも撮りました。
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すでに9本の竹の内、8本の竹が並ばれてました。
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別の角度から見た主役の竹です。
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9本目の竹が竹林の方角から運ばれてきました。
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竹の櫓に詰める雑木が運ばれてきました。
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次から次へと雑木を積んだ軽トラが来ました。
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この時点で遠くから見た景色です。
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竹の枝を切る作業です。竹の頂部の枝だけを残して切っています。
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立てる竹の長さをそろえています。
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一本だけ長いのは中心に立てる「どうしんぼく」です。
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こちらは櫓の中に仕込む爆竹です。
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爆竹は沢山作っていました。
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1本目の竹立てが始まりました。この1本目は沢山のし野心で紹介します。
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人間の力だけで立てていました。
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少し上がってきました。
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もう少しで立ちます。
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ほぼ真っすぐになってきました。
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これで1本目の竹が立ちました。これは一番北東側に竹で中心の「どうしんぼく」ではありません。
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地面を固めています。
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2本目の竹が、どんどれえ塚に運ばれてきました。
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2本目の竹立てが始まりました。
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今回も人力だけで建てることが出来そうです。
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2本目が立ちました。
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3本目が立ちました
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地固めです。黄緑色のタオルを頭に巻いている人が持っているのは複式シャベルです。竹を埋めるための深い竪穴を掘る強力な武器のようです。
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4本目を立て始めました。
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少し上がったところで失敗です。竹がしなるので、綱の引っ張る力が竹を立てる方向に働かないのです。
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竹の方向を変えて私の立っている方向から起こそうとしましたが再度失敗しました。理由は同じでした。
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そこでトラックのクレーンでサポートすることにしたようです。ゴンドラの人が竹の中央当たりを引き上げる作戦です。カメラの位置は変えました。
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この方法で4本目が立ち上がり始めました。
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4本目が立ちました。成功です。
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地固めしていますが、すでに5本目の竹が運ばれてきました。
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遠くから撮りました。これから立てる5本目の竹も写っています。
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5本目の竹を同じ方法で立て始めました。
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5本目が立ちました。
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5本目の地固めを行っていますが、次の6本目が中心の竹である「どうしんぼく」です。
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爆竹作りも進んでいました。
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6本目の「竹立て」が始まりました。6本目は9本の中心に立つ「どうしんぼく」と呼ばれる竹です。
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ロープを引っ張っている様子を拡大いたしました。
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徐々に立ち上がってきました。
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6本目であるドウシンボクが立ちました。
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さすが「どうしんぼく」です。入念に地固めが行われていました。
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この「どうしんぼく」の竹立ては動画を紹介します。左手で撮っている一眼レフのシャッター音が聞こえると思います。


後は3本の竹立てを残すのみです。ここで休憩が入りました。30人以上来られていた青菅の方たちには飲み物が配られていました。全部で34~35名が来られていましたが、写真やビデを撮っているのは青菅地区以外の人のようで私を含めて3名でした。
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爆竹もすべて完成したようでした。
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こちらの2014年に撮った動画を見ていただくと爆竹が破裂する音を聞いてもらえます。


竹の先端に縄を結んでいるところです。竹を起こすためにも使いますが、主目的は竹が強風で倒れないようにするための縄です。したがって先端近くに結ぶので、起こす時に苦労したり失敗していたのだと思います。
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休憩の後に7本目の「竹立て」が始まりました。7本目はアニメーションGIFで紹介します。三脚があればきれいなアニメーションになったと思いますが、左手のコンデジカメラで動画を撮りながら、右手での一眼カメラを手持ちで撮っているので、角度が変わってしまいました。
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7本目の竹が立ちました。
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引き続き8本目の竹を立て始めました。
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8本目が立ちました。あと1本です。
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9本目の竹を立てている途中です。
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最後の9本目の竹が立ちました。
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最後の9本目の竹立ての動画も紹介します。


9本の竹が立った根本です。つまり「どんどれえ塚」の頂部です。⑨の竹の地固めをしています。
竹を立てた順番を①→②→③→④→⑤→⑥→⑦→⑧→⑨で示しました。中心の⑥の竹がドウシンボク(中心に立つ御神木)です。
 東面:①②③  北面:①④⑦  西面:⑦⑧⑨  南面:③⑤⑨
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竹の配置を図にいたしました。気になっているのが「どうしんぼく」の漢字です。ネットで探していますが見つかりません。どなたかご存知の方がおられたら教えてほしいです。候補例としては胴芯木、同心木、道神木などです。


竹を埋める9つの深い竪穴を掘るのは昔は大変な作業だったと思います。子供たちが鑿(のみ)を使って掘っていた時代もあったそうです。今はトラックの荷台の奥に写ってい複式ショベルが使われているようです。スコップだと大きな穴になって竹の周囲が柔らかくなるので細くて深い穴い竪穴にする必要があるのだと思います。
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9本の竹を縄で結んで固めます。
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周囲8本の竹の内側に雑木や爆竹を詰めて櫓を作るので、8本の竹が外に広がらないように中心の竹から引張る形で固めるのです。これは雑木などを詰め込みながら上の層でも同じように固めていきます。この綱のおかげで、高い位置でも四角い櫓の形が維持できているのだと思います。そして中央の柱(ドウジンボク)があるからこそ、高い位置でも四角い櫓の形が維持できている合理的な構造であることが判りました。驚くべき先人の知恵を感じました。
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縄で9本の竹を縄で縛る動画も紹介します。中層や上層での縄縛りも入れております。5層の内、1層と2層と3層と4層を収録しています。


竹の柱の囲い(櫓)の中に雑木を入れ始めました。この竹囲いの中に雑木や破裂して大きな音を出す竹をの高く積み上げるのが青菅どんどれえ(どんど焼き)の最大の特徴です。
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雑木の束をどんどん運んできます。最初の内は地上作業で楽ですが、高くなってくると大変な重労働になってきます。これから順番に紹介していきたいと思います。
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雑木が積み上げられました。人が上に乗っと雑木を圧縮した状態です。
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ここで2層目の縄がけをします。先ほど紹介した通り周囲の8本の竹が広がらないための目的ですが、それ以外にもう一つ大切の役目があるように感じました。それは雑木や竹を積み上げる時に、その上に乗った人を支える役目です。これが無いと高くなった時に沈んでしまって安定しないなど危険もあると感じました。この縄縛りは頻繁に行われていました。
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このように人が乗っても安定しています。
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高くなるとクレーンのアームを利用して雑木を持ち上げます。
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ここで爆竹のための竹も持ち上げて入れ始めました。
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クレーンのアームの先端に滑車をつけて素早く雑木を持ち上げています。そのロープは知事要の人間が直接上げ下げしているのです。これも素早く出来る賢い方法です。
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3層目の縄がけです。9本の竹があるので大変な作業ですが、大切な作業でもあります。
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縄がけが終ると、すぐに雑木のつみ上げです。
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左の白い服の人が雑木や竹を持ち上げるロープを操作している人です。
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離れた場所からの作業風景も紹介します。
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青菅どんどれえのもう一つの特徴が、この太い生竹を櫓の中に仕込むことです。これが炎で熱せられて迫力のある音を出して破裂するのです。本物の爆竹です。この爆竹を仕込むまでを連続で紹介します。
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爆竹を持ち上げているところです。
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上の人が爆竹を取り込もうとしています。
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櫓内に入れて並べているところです。
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その上に雑木を重ねていきます。
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だんだんと高所作業になってきました。
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4層目の縄がけに入りました。
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さらに縄の上に乗って積み上げていきます。
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雑木を吊り上げているところの遠くからの写真です。
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5層目の縄がけのための縄を下から上に降り投げたところです。上の人が受け取ろうとしています。
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上の写真では縄を受け取るところが判りにくいので拡大いたしました。
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5層目の縄がけをしているところです。丁寧に時間をかけてサギ用をしていましたが縄が無くなったようで、追加の縄を要求していました。
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青い服の人が縄を投げようとしています。
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縄を投げました。縄を空中にあります。ことあと上の人は無事に縄を受け取りました。
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その縄で5層目の縄がけ作業を続けているところです。
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丁寧に作業していて5層目の縄がけ終わると、すべての作業が終了でした。冗談で「もっと高く積まないのか」と言われていましたがしゅうりようでした。写真は上の2名が降りるところです。ここでクレーンのゴンドラが役に立ちまます。
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一人目がゴンドラに乗ったところです。
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クレーンのアームを短くしながら徐々に降りてきます。
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一人が地上に降りました。
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もう一人もゴンドラに乗りました。
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その最後の一人も地上に降りました。これが作業終了の合図です。皆さんがあとかたずけを始めました。
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クレーン付きトラックに荷物を積んでいます。
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他の軽トラックも移動して帰る準備に入りました。
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こちらは青菅地区の人が歩いて帰っていくところです。
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アッという間に無人になりました。これが完成した青菅の「どんどれえ塚」です。
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遠くから見た「青菅どんどれえ」です。2017年1月14日18時に着火します。
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北方向から見た「青菅どんどれえ」です。
青菅の「どんどれえ」に関わる動画検索 → Yahoo Google
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竹立て作業は動画にも撮りました。短い時間で見れるように4場面を同時に見れるようにいたしました。4画面のプレーボタン( )をすべてクリックして見てください。動画の中のカシャ・カシャという音は右手に持っているカメラのシャッター音です。つまり左手で動画をとりながら右手で写真を撮りました。単独で個別に見たい場合は着色タイトルをクリック願います。
     竹立ての準備 3分32秒          竹立て 7分55秒
.

   小枝や竹の詰め込み作業 6分44秒      竹立て終了 1分52秒
.

上の4つの動画を1本にしました。ただし20分の動画になるので、4画面を同時に見ることをお勧めしたのです。
それでも連続で見たい場合はこちらのプレーボタン( )をクリック願います。


私も家に帰ることにいたしました。振り返って見た「どんどれえ塚」です。
この時11時20分でした。
佐倉市青菅は人口311人(2014年2月28日)の地区です。古い歴史のある村で、記録に残っている範囲において江戸期から明治22年までは青菅村でした。現在の地名である千葉県佐倉市青菅になったのは1954年です。
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青菅どんどれえ塚の位置をGoogle地図で紹介します。
 どんどれえ塚         住所:千葉県佐倉市青菅69-2
 ユーカリゴルフプラザ駐車場  住所:千葉県佐倉市先崎233
 ━━ ユーカリが丘線中学校駅からの徒歩ルート 1.4km
 ━━ ユーカリゴルフプラザからの徒歩ルート  740m


驚いたことに「竹立て」が終って完成した「どんどれえ」がGoogleの航空写真に写っていたので掲載します。中央が「どんどれえ」です。周囲に引張っているロープも写っている上に、北側にはどんどれえ」のシルエットの影がうっています。竹立てで完成して数日で燃えてしまうのにGoogle航空写真に写っているのはすごいことです。更新されると無くなってしまうのでハードコピーを掲載しました。オリジナルの航空写真 → ポチッ
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オリジナルのGoogle航空写真も掲載いたします。埋め込み用のGoogle航空写真は別の時期の写真の場合のため上の竹立てが行われたばかりの「どんどれえ」は写っていませんでした。航空写真上のアイコンプラスを1回クリックすると上の写真と同程度の縮尺になります。
青菅の範囲を示した地図 → ポチッ-1 ポチッ-2


竹立てが行われた2017年1月8日の8時~11時は、午後から雨になるほどの暗い曇りの中での撮影だったので快晴となった2017年1月11日に完成した「どんどれえ」を撮りに行きました。上で紹介した竹の配置図の④と⑥と⑤が重なって1本になる位置(南方向)から撮ったのが下記の写真です。背景の家の位置とGoogle地図を照合した結果、④→⑥→⑤は正確に南から北のラインに乗っていました。つまり正確に真南から撮った写真になります。そのことから正方形の「竹囲い櫓」は正確に東西南北に作られていたことが判りました。
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本来は正月飾りは1月14日に外すのですが、せっかくなので外してどんどれえに置かしてもらいました。正月飾り以外に藁のヘビの小辻と松の枝も置かしてもらいました。上の写真をクリックすると置いた場所が判ると思います。さらに私以外にも沢山の方が正月飾りなどを置いておられることも分かると思います。
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2017年1月14日の天気は1月11日の時点では曇時々晴の降水確率20%でしたが、1月13日予報ではいい天気になりそうです。



とりあえず2015年1月14日に撮った「どんどれえ」の動画を掲載いたします。2017年1月14日に動画が撮れたら差し替えたいと思います。


このような小正月に行われる火祭りの行事は左義長(さぎちょう)と言われていて佐倉市青菅では「どんどれえ」呼びますが一番多い呼び方は「どんど焼き」だと思いが下記のように沢山の呼び方があります。(Wikipediaから引用)
佐倉市青菅で「どんどれえ」と呼ばれている云われは、燃える中で竹が破裂する「どん」という音と「払い」が訛って「どんどれえ」と呼ばれるようになったそうです。
写真は2014年1月14日に撮った千葉県佐倉市青菅の「どんどれえ」です。
 どんど焼き    山梨県の一部地方、愛知県の一部地方、群馬県、
          愛媛県南予地方、全国的一般的な呼び方
 とんど焼き    近畿とその周辺、東京都
 とうどうさん   愛媛県東予地方
 とんど      奈良県、広島県、岡山県
 とんど正月    兵庫県播磨地方
 とんどさん    鳥取県
 どんどん焼き   山梨県の一部地方
 どんと
 どんと祭     宮城県およびその近辺
 どんどや     九州
 ほっけんぎょう  九州
 やははいろ    東北
 左義長      滋賀県近江八幡市、岐阜県海津市今尾、全国各地
 歳の神      福島県会津地方、新潟
 三九郎      長野県松本地方
 あわんとり    千葉県南部・茨城県南部
 さぎっちょ    富山県、石川県、福井県、岐阜県、高知県、福岡県
 しんめいさん   広島県東広島市安芸津町
 墨塗り      新潟県十日町市松之山町
 おんづろこんづろ 富山県黒部市宇奈月町下立
 かんがり     長野県南佐久郡川上村
 墨付けとんど   島根県松江市美保関町片江地区
 かあがり     長野県南佐久郡小海町、南佐久郡南相木村、北相木村
 かんじょ     新潟県村上市岩船
 さいと焼き    神奈川県横須賀市鴨居八幡
 五十猛のグロ   島根県大田市五十猛町大浦地区
 塞の神      富山県下新川郡入善町上野邑町地区
 さえのかみさん  神奈川県中郡大磯町
 どんどれえ    千葉県佐倉市青菅
 お焚き上げ
 おんべ焼き
 御柴灯
 道祖神祭り
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どんどれえが行われる1月14日の意味を検索するとずばりどんど焼きを行う日と出てきました。写真は2013年1月14日の大雪・強風の日に撮った千葉県佐倉市青菅の「どんどれえ」です。
 1月14日の年中行事
  左義長・どんと祭 どんど焼きを行う日
  十四日年越し   小正月(1月15日)の前日にあたる
  飾納・松納    正月飾りや門松を取り外す日
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2017年1月14日追記 
タイトル:青菅の「どんどれえ」の点火は今日の18時
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クリックすると拡大今日2017年1月14日の18時に点火されます。ニュースで報道されているように最強寒波に見舞われ今日の夕刻から日本各地で大雪が予想されています。幸いにも千葉県佐倉市青菅のどんど焼きである「とんどれえ」が行われる佐倉市の18時~20時の天気の予報は最強寒波の影響は少なく「晴れ」との予報です。今日は「どんどれえ」を見に行くつもりなので、天気予報通りであってほしいです。ただし気温はこの時間帯にしては寒く1℃から-1℃なので、どんどれえ始まるまでの防寒対策は考えた方がよさそうです。始まってしまえば暖かいです。

気象庁の1月14日4時48分の「大雪と暴風雪及び高波に関する全般気象情報 第10号」の発表内容の一部を枠内に掲載いたします。
東日本の上空約5000mには氷点下36度以下の数年に一度の強い寒気が流れ込んでおり、日本付近は強い冬型の気圧配置となっています。あす15日にかけて、北日本や北陸地方の上空にはさらに強い寒気が流れ込み、西日本の上空にも強い寒気が流れ込むため、冬型の気圧配置はさらに強まる見込みです。


どんどれえ本番を追加しました。次に掲載した本番の記事から抜粋→ポチッ
「どんどれえ」の点火は1月14日の18時に行われるため17時43分に「どんどれえ広場」に到着いたしました。すでに周囲はカメラのセンサーが反応しないほど真暗闇でした。右の写真は露出調整したものです。1月14日は小正月(こしょうがつ)の前日で、日本各地では下記の年中行事が行われます。
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  左義長・どんと祭 どんど焼きを行う日
  十四日年越し   小正月(1月15日)の前日にあたる
  飾納・松納    正月飾りや門松を取り外す日
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今回は土曜日だったこともあり車が近くの道路には沢山駐車していました。近くの小学校の近くの駐車場にも車が停められていました。私が見学に来はじめてから一番多い気がしました。今まで土曜日と日曜日は無かったのです。ただし2018年は日曜日で、2019年は成人の日(祝日)です。
 2013年1月14日 月曜日 大雪の中のどんどれえ
 2014年1月14日 火曜日 どんどれえの様子を詳しく紹介
 2015年1月14日 水曜日 初めて餅を焼きました。
 2016年1月14日 木曜日 見に行けませんでした。
 2017年1月14日 土曜日 子供たちが沢山参加していました。 
 2018年1月14日 日曜日 来年の「どんどれえ」
 2019年:月曜日  2020年:火曜日  2021年:木曜日  2022年:金曜日
 2023年:土曜日  2024年:日曜日  2025年:火曜日  2026年:水曜日
 2027年:木曜日  2028年:金曜日  2029年:日曜日  2030年:月曜日


耐火服を着た人や消防団の消防車も横に控えていました。
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すでに正月飾りなどが置かれていました。
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こちらで1人に1個、お餅が配られました。餅焼き用の竹も用意されていました。
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18時になると点火です。
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小学生と大人の2名が、たいまつ(松明)で点火しました。
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すぐに火が大きくなりました。
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この時は皆さんは比較的近くで見ていますが火が大きくなってくると熱いので遠くにはなります。餅を先端に付けた竹を皆さんもっています。
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反対側にも点火いたしました。
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火が大きくなるにつれて見学の輪が広がっていきます。
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火が積み上げられた雑木の上の部分まで上がりました。
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見学のわが広がっ来たのが判ってもらえると思います。
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少し離れて撮りました。火の粉が高く上がっているのが判ってもらえると思います。
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動画でも紹介します。点火すると一気に火が大きくなりました。 最後のころは仕込んだ竹が爆発する音も聞くことが出来ます。


見学の人の数も私の経験の中で一番多かったです。
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遠くからの動画を紹介します。竹の割れるが続きます。


クリックすると拡大ここで竹が倒れました。
中央の竹の「ドウシンボク」の倒れた方角で一年の豊凶を占います。青菅側(南側)に倒れると青菅が豊作、先崎側(北側) に倒れると先崎が豊作と言われています。今回は南側に倒れたので今年は青菅が豊作です。暗くて分かりにくいけれども左下に葉のついた竹が倒れています。倒れる前に、竹の先端の葉の部分に火が移ると右の写真(2015年1月14日撮影)のように炎が高く上がります。今回は火が先端に移る前に倒れてしまったために右のような写真は撮れませんでしたが、それでもすごい迫力でした。
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炎はさらに大きくなりました。
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下の部分も燃え上がっています。
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完全に炎に包まれるときもありました。
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9本の竹が倒れた直後からの動画です。


竹が倒れてしばらくすると餅を焼く人が、餅を先端に刺した長い竹や木で餅を焼き始めますが、かなり輻射熱が強烈なので、まだ大人の男性の一部だけです。すごく長い竹が用意されていた理由が判りました。
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私も焼いてみました。手前から炎に向かって竹が延びているのが判ると思います。これが私の竹です。焼けたと思ったらすぐに離れました。
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焼けた私のお餅です。餅は先端の方が燃えました。どうやら前からの輻射熱が強烈なようで来年からは餅の刺す方向を変えてみます。竹は他の人に渡して撮影に専念いたしました。
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フラッシュを使うと餅がよく見えます。こちらの刺し方の方が片面ですが、餅全体が焼けそうです。
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フラッシュなしです。
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かなり熱いので焼けたらすぐに後ろに下がります。
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動画でも餅焼を紹介します。中盤から餅焼きが始まります。


まだまだ火は強いです。
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ワンちゃんも見に来ていました。
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少し離れててみました。
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さらに離れた景観です沢山の人が見学に来られているのが判ってもらえると思います。
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さらに遠くからの景色です。
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土曜日だったこともあり沢山の子供たちが来ていました。子供たちが近づけるほどの日の勢いになって来たようです。ここから子供たちを中心にほほえましい「どんどれえ」を紹介したいと思います。
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こちにも家族で餅焼きです。
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火が弱くなってきたと言えどもまだまだ火の勢いはありました。
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クリックすると拡大どんどれえの火で焼いたお餅を食べると一年間風邪をひかないそうです。こちらの女性も2人の娘さんのお母さんで、この後、右の写真のように3人で一緒に餅を焼いていました。右の写真は小さいけれどもクリックすると大きく拡大します。
実はこのお餅の焼き方は正式なやり方なのです。
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二股に分かれた栗の枝の先にお餅を刺して焼くのが正式のやり方だそうです。
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この時の炎の具合です。
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兄弟での餅焼きの記念写真もいい思い出になると思います。


驚くほど沢山の子供たちが見に来ていました。
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子供4人でお餅を焼いています。思い出になると思います。
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動画でも紹介します。今までに見に来た中で子供たちが一番多かったです。動画はインタビューの光景から始まります。


インタビューの光景です。取材をしているのは地元のテレビ局のケーブルネット296で、近いうちにこの「どんどれえ」が放送されると思います。
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こちらの子が、たいまつ(松明)で「どんどれえ」に点火しました。
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火が少し収まってきました。門松の「燃えちゃれ(=燃えさし)」を持ち帰り、門口にさすと、「盗難除け」「魔除け」になると言われます。
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弱まったと言えどもまだ火の勢いはありました。
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ほとんどの見学の人は帰られて、残っている人は僅かです。
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私が離れる時の火の状態です。見学の人はいなくなって、火が燃え尽きるまで見守の人だけが残っていました。
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家に帰ってさっそくお餅をいただきました。元々が柔らかいので、そのまま美味しくいただきました。偶然ですが、配られるお餅は私の知り合いの方が当日についたものです。その方にどんどれえ塚の前で会ってもう一ついただきました。そちらは家で焼餅にして醤油と海苔をつけて食べました。やっぱりつきたて美味しかったです。
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青菅どんどれえ塚の位置をGoogle地図で紹介します。近くの道に車を停めることは可能ですが、土曜日曜など混むときは下記の地図の駐車可能場所( )と記載した場所(広い空地)に車を停めることをお薦めします。
駐車可能場所( )からどんどれえ塚( )までは420mです。
 どんどれえ塚         千葉県佐倉市青菅69-2
 ユーカリゴルフプラザ駐車場  千葉県佐倉市先崎233
 駐車可能場所         千葉県佐倉市宮ノ台1丁目18-2
 ━━ ユーカリが丘線中学校駅からの徒歩ルート 1400m
 ━━ ユーカリゴルフプラザからの徒歩ルート   740m


最後に高い火柱の迫力の大きな写真(2015年1月14日)を紹介させていただきます。クリックすると拡大今回は風が強かったことから右の写真のように竹の先端に火が移る前に下が燃えて倒れたので下の写真ほどの火柱にはなりませんでしたが、それでも十分に迫力がありました。写真をクリックするとさらに大きな迫力の写真を表示します。
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posted by SORI at 06:17| Comment(70) | TrackBack(1) | 風習・歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月28日

下高野の奥州講の行事を体験させていただきました。 ぼんてん塚

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2019年8月24日追記
タイトル:下高野の奥州講が八千代よみうりに掲載されました。 
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2019年8月24日に発行された「八千代よみうり」に八千代市下高野地区で奥州講に参った人たちによって行われている梵天飾りの行事(風習)が掲載されました。その古くから続いている行事にいつも参加されている方から記事を送っていただいたので、クリックすると拡大以前に書いた記事に追加させていただきました。私が2012年からほぼ毎年参加させていただいている年初めの右の写真の辻切り(藁の大蛇)作りに参加させていただいているメンバーの方も何人か写真に写っております。
クリックすると拡大1度だけですが、2012年に、その奥州講の行事を体験させてただいて記事を掲載させていただきました。その記事に「八千代よみうり」の記事"五穀豊穣祈る「奥州講」梵天飾り 立てて参拝"を追加させていただきました。2019年7月に八千代よみうりの担当の方が取材に来られてたそうです。八千代よみうりは読売新聞をとられている方に折り込みで入ってくるそうです。
今回の新聞記事で200年間続いてきた行事であることを知りました。確かに、右の写真のように江戸時代(1603年~1868年)中期の寛政六甲寅年(1794年)と書かれた最も古い奥州参り記念石碑が建てられてから、225年が経過していることが分かりました。この地区の庚申塔で最も古いものは享保十二年(1727年)で、古さは3番目の寛政二年(1790年)の庚申塔に相当します。

八千代よみうりの記事の内容を枠内に転記いたします。記事内の「三山拝司」の内容は2012年に拝辞として記載させていただいています。
五穀豊穣祈る「奥州講」 "梵天飾り"立てて参拝

下高野地区に200年続く風習

クリックすると拡大古くからの農村の風習を守り続けている下高野地区(立山利明区長)で、奥州参りに行った人々が、"梵天(ぼんてん)飾り"を三山塚に立てて参拝する「奥州講」が7月21日に行われ、参加者が太陽の恵みに感謝し五穀豊穣わ祈った。

奥州参りは山形県にある月山・羽黒山・湯殿山の出羽三山を巡拝するもので、江戸時代に全国に広まり、八千代でも北西部を除く多くの集落で農家の長男たちが講をつくり出かけた。帰ると地元の三山塚に記念碑を建て、毎年7月下旬に参拝。同地区でも最も古い記念碑には寛政6(1794)年と記されている。

梵天飾りは、篠竹の先に稲藁の小さな俵を刺し、5色の色紙や白の半紙の飾りをつけたもので、地域によって切り方や折り方が異なる。これを6本むつくり、三山塚に刺してタコ糸つなぎ一同が三山拝司を唱える。下高野では2月14日の「ボンテンハキ(梵天祭り)」でも梵天飾りを作るほか、講のメンバーが亡くなり、その家から要望があると講の仲間が梵天を作り、その家の仏壇が見える場所に立てて三山拝司を唱え、その後、墓地に行って梵天を立て、再び三山拝司を唱える風習が現在もあるとという。

この日は朝から地区の公会堂にメンバー7人が集まり、分担作業で立石区長が茂り出してきた篠竹を削ったり、慣れた手つきで色紙を折ったりして梵天飾りを製作。トラックで三山塚に運び、塚の落ち葉を掃き清め、飾りを地面に刺して神妙な面持ちで三山拝司を三唱。クリックすると拡大公会堂に戻ると直会で親睦を深めた。

メンバーの一人で地域の民族風習に詳しい小澤一雄さんは「奥州講で梵天を飾るのは、神仏習合により仏教の梵天祭りと出羽三山信仰がひとつになったのではないか」と話している。


2012年7月22日掲載 
タイトル:下高野の奥州講の行事を体験させていただきました。
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千葉県八千代市には奥州溝(出羽三山溝)と呼ばれる風習が残っています。
この辺りでは江戸時代に始まった風習です。集落の50歳前後になった長男が十数年に1度の割合で奥州参りを行い集落に戻ってきて記念碑を建てます。その記念日に奥州参りに行った人たちだけで毎年二月と七月に梵天(ぼんでん)飾りを行う風習で、八千代市の下高野では今でも、この風習が続いているのです。右の写真は奥州参りをする時のスタイルです。
上の写真が新しく作ったボンデン(梵天)です。白い梵天が一本とカラフルな梵天が五本で構成されています。私は下高野に住んでいないし奥州参りに行ったことはないけれども、下高野で続いている風習・辻切りに参加させてもらった縁で、今回の奥州溝の年行事に誘ってもらえました。
二月は14日(梵天ハギ/ぼんでんはぎ) と決まっており七月は20日前後の日曜日と決められており、今回は7月22日でした。9時にうかがって梵天を作るところから参加させてもらいました。行事のことをボンデン飾りと呼ぶとこもあるようです。写真をクリックすると大きく拡大いたします。

梵天を作るところから紹介いたします。
先ず準備するものは竹と藁に半紙にタコ糸です。


先端の飾りのために色紙も準備されていました。普通の色紙は片面だけに色がついていますが、両面ともに鮮やかなものを準備する必要がありますが、これは簡単には手に入らないとのことです。これは葬儀屋さんから手に入れられたと教えてもらいました。この辺りの葬儀の風習で、この色紙を使うことがあるそうです。
準備する色紙は黄色、青色、緑色、赤色に紫色です。真白の半紙も準備します。


色紙をカットする型板が2種類です。それにカッターのための台です。
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色紙は4分の1にカットします。先端に取り付ける白い紙は半分にカットして二つ折りにします。


色紙は溝にそってカットします。


カットしたものを、このようにおります。


私も入れて5人で色紙を折りました。


先端に取り付ける白の飾りも専用のプラスチックの型板でカットします。昔は段ボールを使っていたそうですがプラスチックにしてからは作業が、はかどるようになったそうです。


先端の飾りは対象に折っていきます。


先端の飾りは大きいものが一つに対して三角形の飾りが三つです。この三角形の飾りは出羽三山を表現しているそうです。出羽三山とは月山(がっさん)と羽黒山(はぐろさん)と湯殿山(ゆどのさん)のことです。奥州参りの時はこの三山登山も含まれています。


竹の両側は突き刺さるように鋭くカットします。


こちらは先端に取り付ける飾り用の台座を作るメンバーです。


ワラを束ねて台座を作ります。


台座が完成しました。胴に巻かれた2本のタコ糸に色紙を挟みます。


台座に色紙を取り付けているところです。


色紙をつけた台座を竹の先端に突き刺すと梵天の完成です。こちらもクリックすると大きく拡大いたします。
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これが完成した6本です。
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完成した梵天を軽トラックに積んでボンデン塚(梵天塚)に持って行きます。その時に奥州参りを行った人が全員一緒に行きます。


こちらがボンデン塚(梵天塚)です。建てられている碑は奥州参りに行った参拝記念碑(三山碑)で参加した人の名前と年月日が刻まれています。
一番古い三山塚(右の写真)は中心に立っている大きな木の右脇にありました。
寛政六申寅年と書かれていることから1794年ということになり今から218年前の参拝記念碑ということになります。
一番新しい三山塚のは右手前の大きい碑です。奥州参りが最も最近行われたのが昭和59年(1985年)なので27年前ということになります。この碑には今回の参加者の名前が刻まれていました。並んでいる三山碑の参拝日か下記のとおりです。
  寛政 6年       1794年
  文久 3年 3月吉日   1863年
  大正 7年 7月20日  1926年
  昭和15年 7月21日  1940年
  昭和28年 7月25日  1953年
  昭和34年 7月13日  1959年
  昭和44年 7月26日  1969年
  昭和51年 7月14日  1976年
  昭和59年 7月15日  1984年
この参拝記念碑を建てる行事をイシタテ(石建て)と言われています。立っている古いボンデン(飾り)は半年前(2012年2月14日)のものです。先ずは皆でボンデン塚の周りを掃除をしました。


梵天塚(三山塚)の参拝記念の石碑です。クリックすると一番右手前の昭和59年の石碑を拡大いたします。石碑には16名の名前が刻まれています。
クリックすると拡大

古い梵天(ボンデン)を抜いて新しいものに交換します。色紙の梵天を真中にしてそれを色紙の梵天4本で四角く囲みます。白い梵天は少し離れて北西方向に建てます。ボンデン塚の大きな木は「すだじい」で、クリックすると記念石碑を表示昭和51年2月24日に八千代市の保存樹木に指定されている木です。
右の写真は1985年(昭和59年)の記念碑を建てた時の記念写真と奥州講に行った時の写真をスライドショーで表示しています。つまり今回の参加者の方々の写真です。右の写真をクリックすると記念碑を表示します。ぼんてん塚は不思議な世界でした。
クリックすると記念石碑を表示

梵天を全て交換したところでタコ糸で6本の梵天をつなぎます。先ずは真中の梵天にタコ糸を結び、次に北西の方向の梵天に巻きつけ時計回りに四本の梵天をつなぎ最後に白い梵天にタコ糸を回します。プレーボタンをクリックすると動画が見れます。


これで完成です。こちらの写真はクリックすると拡大するよう設定いたしました。完成したところで次の手順で拝辞(おがむことば)を全員で奏(そう)します。拝辞は下高野の奥州講のことを書いた2019年の「八千代よみうり」の中の「三山拝司」にあたります。
 ① 一拝、二拍手、二拝
 ② 拝辞(三山拝司)を奏す。
 ③ 一拝、二拍手、二拝
拝辞は次の通りです。月山と羽黒山と湯殿山のことを言っているようです。
 あやにあやにくしくたふと月のみ山の上の御前を拝みまつる
 あやにあやにくしくたふと羽黒のみ山の上の御前を拝みまつる
 あやにあやにくしくたふと湯殿のみ山の上の御前を拝みまつる
               御前 : みまえ   拝 : おろが
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クリックすると拡大別の角度の写真も掲載します。この写真は一番手前のボンデン飾りにピントを合わせております。こちらも写真はクリックすると拡大するよう設定いたしました。6本の梵天飾りの配置を図式化したのが右の図です。上方向が北でボンデン塚があります。白のボンデンは北西方向に配置します。
クリックすると拡大平成20年の八千代地郷土博物館の資料によると出羽三山参拝記念碑(三山碑)が建てられている場所は34ケ所で合計で193基の三山碑があるそうです。ただし梵天飾りが行われているのは珍しいようです。右の写真は隣の上高野地区の梵天飾りですが、1本1本の飾りも違うし、配置も右下の図のように全く違っていました。クリックすると拡大1985年の奥州講は下高野と上高野が合同で参っている関係でありながら梵天飾りが全く違うのは不思議です。
下高野のボンデン塚には9基の三山碑がありますが、2012年に奥州参りが行われたとのことなので近いうちに10基になるのでしょうね。
クリックすると拡大

クリックすると拡大一週間後(2012年7月29日)の下高野のボンデン(梵天飾り)の先端の状況です。作った時に比べると少しシナッとしてきましたが雨が降っていないこともあり、まだ鮮やか姿を見せてくれていました。
右の写真が隣の地区の上高野のボンデン(梵天飾り)の先端です。赤色の梵天飾りのみ下にずれて竿の途中になってしまっています。右の写真はクリックすると大きく拡大いたします。


サンダーソニアさんのコメントで梵天飾りが、注連縄の紙垂(しで)に似ているとのコメントを頂いたので下高野の菅原神社の注連縄の写真を掲載させていただきました。下高野に注連縄作りの名人がおられます。紙垂の形も色々あるようで使い分けておられるようです。


八千代市下高野が緑色マークで、赤色マークが出羽三山の位置です。下高野から羽黒山までの直線距離は329km(━━)で、徒歩だと450km以上にもなります。実際には月山や湯殿山にも参り、沢山の宿がある場所にも行くので往復では寄り道なしでも1000kmを超えると思われます。そのため徒歩で行く江戸時代は現在のような直線的な車道もないことからさらに沢山の距離を歩いたのだと思います。ある文献によれば約2ケ月間の日程だったそうです。
 八千代市下高野 出羽三山(羽黒山月山湯殿山) 出羽三山神社

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より大きな地図で 出羽三山 を表示  より大きな地図で 徒歩ルート を表示
posted by SORI at 06:05| Comment(36) | TrackBack(7) | 風習・歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月02日

下高野の辻切り 2019年 大蛇作りに参加させていただきました。

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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千葉県八千代市の下高野地区では以前にも紹介した通り、疫病や災いが地区に入ってくる防ぐ願いを込めて、他地区との境界に藁の大蛇を飾り風習があります。私は下高野地区の人間ではないけれでも、大蛇作りと大蛇を飾る行事に2012年から参加させていただいており、今年も2019年2月3日に参加させていただきました。今回が6回目の参加となります。初参加のきっかけは、2010年に掲載した下高野の辻切りの記事が下高野の方の目にとまり連絡を取り合う中で行事に誘われたことでした。2010年1月の記事に下高野の方から最初にコメントを頂いたのは2011年10月4日13時06分でした。
辻切り行事は毎年1月25日に決まっている地域もありますが、下高野地区では1月25日から節分までの間の都合の良い日に行われています。上の写真は6体の藁の大蛇の中の1体です。右の写真は2010年の記事の写真です。着色文字をクリックするとその時の記事を表示しまクリックすると拡大す。
 対象年 行事が行われた日
 2010年 1月24日(日) 大蛇発見
 2011年 不明
 2012年 1月29日(日) 初参加 
 2013年 1月27日(日) 海外のため不参加
クリックすると拡大 2014年 2月02日(日) 参加
 2015年 2月02日(月) 参加
 2016年 1月31日(日) 参加
 2017年 1月29日(日) 参加
 2018年 2月03日(土) 関西のため不参加
 2019年 2月03日(日) 参加 ←今回

下高野地区を紹介します。赤色ラインで囲ったところ()が千葉県八千代市下高野です。藁の大蛇を作った場所は6つの赤色マークの大蛇を設置する中の「1」のすぐ傍、戦国時代に下高野館(下高野城)があった麓です。マイナスのアイコンを5回クリックすると東京からの位置方向が判ると思います。
 下高野の辻切り(蛇)  上高野の辻切り(蛇)  井野の辻切り(蛇)
 小竹の辻切り(注連縄)


こちらのビニールハウスが藁で大蛇を作る作業場所です。
クリックすると拡大クリックすると拡大写真の右上が小高い山になっていて戦国時代に下高野館(城)があったところです。集合時間は9時だったので8時53分に作業場所に着きました。左の2枚の地図は左側が八千代市で右側が同じ縮尺の下高野のエリアを示した地図です。
八千代市全体の0.1%以下の人口のエリアに八千代市全体の約10%の石造物があるエリアでもあります。
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クリックすると拡大作業場所のビニールハウスの中を覗くと、すでに大蛇作りに使われる藁が置かれていて、いつでも作業できるようになっていました。使われる藁は「藁すき」を済ませたもののようでした。右の「藁すき」の写真は2017年の写真は辻切りの時に撮ったものです。
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藁は2種類が用意されていました。コシヒカリの藁と、藁細工のためのミトラズ(古代米)の藁です。実を収穫しないのでミトラズと呼ばれているそうです。ミトラズは注連縄(しめなわ)を作る藁でもあります。
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そのミトラズの種もみです。つまりミトラズは実が出来ないのではなく、実をとらないで刈り取ってしまうようです。
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最初に蛇の頭を作り始めます。
今回は「千葉日報」さんと「八千代よみうり」さんの2つの新聞社の方が取材に来られていました。最後に、掲載された記事を紹介したいと思います。
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完成した蛇の頭です。
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蛇の頭が完成すると次は胴体作りです。
藁の大蛇の作り方は今までに何度も詳しく紹介したので省略いたしますが、今回初めて新しい蛇の作り方を採用したそうです。蛇の胴体には藁を沢山使うので表面の部分はミトラズで中はコシヒカリを入れるのですが、昨年までは胴の部分を編みながら内側にコシヒカリを入れて外側にミトラズを巻きながら作っていましたが、その部分で新しい作り方を採用したそうです。
胴を作る前にコシヒカリだけを束ねて2mの棒状のものを作るのです。写真は注連縄作りの名人がコシヒカリを束ねているところです。蛇全体は3mを越えるので尻尾の先の方はミトラズの藁だけということになります。


今までの記事で藁の大蛇を作るところの動画を紹介しましたが、コシヒカリの藁で芯を作るのは初めてなので記録の意味もあり動画を撮りました。1体の大蛇を作るのに、このコシヒカリの藁の芯が3本必要です。6体だと18本になります。芯の太さは同じにするそうです。動画の中でもそのことを後輩に伝授されていました。胴を編むときの胴体の太さは古代米のミトラズの藁の量で調整するのだと思います。


束ねたコシヒカリの周囲にミトラズを巻きながら胴体を編んでいくのです。昨年までは胴体の一部が太くなることがありましたが、新方式はきれいに出来上がることから採用したそうです。この方式は太い注連縄を作るときに行っていた方法とのことでした。この方法は2018年12月1日~2日のに行われた八千代市の「ふるさとの歴史展」の展示物として作った大蛇にも採用し、その経験を活かして本番の辻切りで初めて採用することになったそうです。


こちらが「ふるさとの歴史展」で展示されていた大蛇です。
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さらに胴体をきれいにするために表面をなめします。まさに注連縄のような表面になります。近隣の他の地域の大蛇では採用していないため、きれいな差別化された大蛇と言うことになります。
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作業場を離れて撮りました。軽トラックの荷台が作業台として使っているのです。写真に写っているビニールハウスが蛇を作った作業場です。
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ここまで作業が終わったところでティータイムです。恒例の鏡餅を割って作ったあられも出てきました。これはいつも大人気でした。
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次の作業は藁の蛇の飾りつけです。最初に目と舌を取りつけて、その後にヒイラギとスギの小枝と塞神のお札と幣束(ごへい)を取りつけます。写真は唐辛子の目と舌を取りつけるための針金を取りつけているところです。
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こちらはヒイラギとスギの小枝と塞神のお札と幣束(ごへい)を取りつけているところです。順番は決まりがあり、頭の方から次のように取り付けていきます。塞神のお札と幣束(ごへい)は神社でもらうそうです。お札には塞神(さいのかみ)と「八衢比古神(やちまたひこのかみ)・八衢比女神(やちまたひめのかみ)・久那戸神(くなどのかみ)」の三柱の神様が書かれていました。
クリックすると拡大 ① ヒイラギの小枝
 ② 塞神のお札
 ③ 杉の小枝
 ④ ヒイラギの小枝
 ⑤ 幣束(ごへい)
 ⑥ 杉の小枝
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クリックすると拡大完成し右の記念写真を撮ったら昼食の予定でしたが、時間の関係で昼食前に①の大蛇(大辻)のみ取り付けました。初めて大辻という言葉を使いましたが、大辻は地域の境界に取り付ける大蛇のことです。大辻に対して小辻がありますが、小辻は個人宅の入口に取り付ける小型の藁の蛇のことなのです。私も大辻作りを手伝うと同時に、自宅用の小辻も作りました。6体の大辻はこの地図の赤いマークのところに設置します。①を取り付けた後に昼食にして②~⑥の順番に軽トラックに乗って、みんなで取り付けにいきました。境界となる地域は次の通りです。その地域の方向にヘビの頭を向けて取り付けます。頭の方向に矢印()を書き込みました。
  ① 青菅/井野  ② 上高野 ③ 米本  ④ 保品  ⑤ 先崎  ⑥ 青菅
クリックするとGoogle地図

青菅/井野との境
これは1年前に取り付けた大蛇です。これを取り外して新しいものを取りつけます。
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古い大辻を取り外しているところです。6体の大辻(大蛇)の中で最も車が沢山通る場所の大辻です。私が初めて2009年に下高野の藁の大蛇に気が付いたのもこの場所でした。
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新しい大辻を取りつけているところです。
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取付終わった大辻です。今年も迫力の大辻になりました。
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1体を取り付けたので残りは5体の大辻です。
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一旦、昼食にするので持参のお弁当を広げました。12時55分~13時40分までいろんな話題に盛りあがりました。
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上高野との境
こちらは鏡餅のあられも持ってきた方の担当の大辻です。6つの大辻にはそれぞれ担当の家があります。境に一番近い家が担当するので担当の家は決まっているのです。その家の方が大辻作りに参加されるのです。
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米本との境
6人の方で新しい方が覚えるために6体の取付(ヒモで結ぶ)を行います。ヒモの結び方が独特で1回ではなかなか覚えられないので6体とも担当するようです。今年は、この大辻の担当の家の方が最後までヒモを結んでおられました。
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保品との境
こちらの大辻も迫力の顔をしています。
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先崎との境
こちらは、私が一番お世話になっている方の担当の大辻です。写真は古い大辻でこれを取り外して新しい大辻を取りつけます。
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取りつけている途中の新しい大辻です。周囲の枝を切って、少しでも迫力の大辻が見えるようにします。
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最後の1体が荷台に乗っています。最後は青菅との境の大辻です。
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青菅との境
こちらでも、少しでも目立つように取り付ける工夫をします。
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これで6体全ての大辻の取付完了です。
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写真の左端に取り付けが完了した大辻が写っています。
取付完了と同時に佐倉市コミュニティバスが通ったので驚きました。私が知っているコミュニティバスは、ここを通らなかったのです。最近ルートが追加されて通るようになったことを教えてもらいました。クリックすると拡大確かにこの辺りはバスなどの交通機関がないので便利になったと思います。この時間帯は1時間45分に1本のバスに出会えたおかげで緑色部分のルートが追加になったことを知ることが出来ました。
 従来 ⑦→⑧→⑨→⑫
 改正 ⑦→⑧→⑨→⑩→⑪→⑩→⑨→⑫
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クリックすると拡大終わった後の夜会はお蕎麦屋さんでした。夜会と言っても始まったのは15時30分でした。先日、右の写真の藁の亀を紹介したお店です。
 名前 味楽庵
 住所 千葉県佐倉市宮ノ台3-3-8
 電話 043-487-3926
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先ずは大ジョッキで乾杯です。
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前回、鶏のモツ煮込みが美味しかったので最初に頼みました。
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揚げニンニクも頼みました。実は下高野地区で昔ながらの節分の行事を行っている方がおられて、この日に辻切りを取材に来ていた方が、そのことを知って、節分行事も取材することになったことから、その人は参加できないかもしれないと言われていましたが、遅くなりましたが参加していただいて、話が盛り上がりました。その節分の行事が載った新聞記事は最後に掲載させていただきました。
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その方もそろったのでイカ焼きなどの料理も追加しました。鶏のモツ煮込みも追加しました。
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ビールだけにするつもりでしたが、前に座った方が日本酒を飲まれていたので、私も飲んでしまいました。
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お蕎麦屋さんですから,〆はやっぱりお蕎麦にいたしました。
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翌日2月4日に、2月3日に作った写真の小辻を家の入口に取り付けました。
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こちらが取材に来られていた「千葉日報」さんの辻切りに関する記事です。辻切りが行われた翌日の2019年2月4日付けで掲載されました。さすが日刊紙です。対応が素早いです。
 社名 株式会社 千葉日報社
 本社 千葉市中央区中央4-14-10
 設立 1956年
 創刊 1956年
 種類 日刊紙
 発行 16万9899部/日
 HP https://www.chibanippo.co.jp/
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そしてこちらが「八千代よみうり」の記事です。上で紹介した貴重な昔ながらの節分の記事が赤枠で囲ったところです。緑枠で囲った部分が上高野の辻切りに関する記事です。こちらは2019年2月22日(金曜日)付けで掲載されました。今回の「八千代よみうり」は月刊紙で毎月第3金曜日(か第4金曜日)に発行されているようです。
 社名 北総よみうり新聞社
 発行 千葉東部読売会八千代支部
 住所 千葉県成田市花崎町959
 種類 月刊紙(月に1回)
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ラベル:辻切り 下高野
posted by SORI at 23:51| Comment(30) | 風習・歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月09日

辻切りの大蛇づくり名人の作った藁の亀さん

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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今年2019年も千葉県八千代市の下高野地区の辻切り(大蛇)作りにクリックすると拡大参加させていただきました。上の写真はみんなで作った6体の藁の大蛇の中の1体です。2019年の大蛇作りは2月3日(日曜)に行われました。近くの井野地区では毎年1月25日に行われていますが、下高野地区では1月月25日から節分までの間の都合の良い日に行われています。クリックすると拡大といってもほとんどが日曜日に行われました。右の2枚の写真は藁の大蛇の胴の部分を作っているところと、完成して藁の大蛇持った記念写真です。皆さん大蛇造りが上手ですが、その中でも名人と言われている方がおられます。近くの神社などの注連縄(しめなわ)を全て作られている方です。

偶然にも、その方が作られた藁の亀を見る機会がありました。辻切りの行事が終わった後にいつも飲みに行くお蕎麦屋さん「味楽庵」に飾られていたのです。その名人の方がお店のご主人のために作られたそうです。それが下の写真の藁の亀です。親亀の上に子亀がが乘っていました。
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尻尾の部分は親亀と子亀では違う稲を使って色を変えているのが見事だったので、尻尾の部分を拡大いたしました。
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顔の正面から撮った写真です。親亀と子亀が離れてしまわないに、藁の縄でつながっていました。
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つけられたお札には「鶴は千年 亀は萬年 親の背中に子をのせて 親の背を見て 子は育つ」と書かれていました。一見の価値があると思ったので、お店の場所を紹介いたします。
 名前 味楽庵
 住所 千葉県佐倉市宮ノ台3-3-8
 電話 043-487-3926
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鶴は千年 亀は萬年
親の背中に子をのせて
親の背を見て 子は育つ

追伸
2019年2月7日から2月16日まで関西に行ってきます。また皆さんのところへの訪問が難しくなることお許しください。辻切り作りに参加した記事も早く書きたいとは思っていますが、写真枚数も多くて整理に時間がかかることから、帰宅後になることもお許しください。

sigさんにすばらしい伝統行事「へび撚り」の動画をコメントで紹介いただいたので掲載させていただきたいと思います。
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2018年12月29日

ふるさと歴史展 2018年は下高野

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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千葉県八千代市で2018年12月1日~2日に、ふるさと歴史展がありました。よく見ると正確には「ふるさと歴史展」ではなく「ふるさとの歴史展」でした。今年のテーマは上に書かれているように下高野(しもこうや)地区で昔から続いている伝統文化でした。私が住んでいるのは佐倉市ですが下高野は隣接した場所で私の家から歩いて行けることから今までに下高野の伝統行事の記事を下記のように掲載させて戴いました。最初の記事に下高野のkazuさんからコメントを頂いたことをきっかけにいろんな行事に参加させていただきました。今回のふるさと歴史展に関してもkazuさんに教えていただいて12月1日に見に行きました。そのふるさと歴史展に関して報告させていただきます。ふるさと歴史展が行われたのはオーエンス八千代市民ギャラリーです。着色タイトルをクリックすると記事を表示します。
2018年12月 ふるさと歴史展 2018年は下高野
2018年11月 小島泰堂が青菅に作った学校 泰楽文園(泰堂塾)
2017年02月 下高野の辻切り 2017年 今年も参加させていただきました。
2016年02月 下高野の辻切り 2016年
2015年10月 下高野の例大祭の幟倒し
2014年03月 十九夜塔の建立式典 下高野
2014年02月 下高野の辻切り 2014年
2013年10月 下高野の例大祭の幟(のぼり)
2013年06月 戦国時代の城 下高野館(しもこうや やかた)
2013年02月 下高野の辻切り行事に参加させていただきました。
2013年01月 辻斬りではありません。辻切りです。
2012年07月 下高野の奥州講の行事を体験させていただきました。ぼんてん塚
2011年10月 下高野の庚申塔
2010年01月 下高野の辻ぎり

左が八千代市の範囲で右が下高野の範囲で、同じ縮尺の地図です。下高野の人口は八千代市全体の約0.1%で、今回の多くの伝統行事が残っている地域に限ると八千代市全体の0.05%以下なのに対してに石造物は八千代市全体の数の10%近くが下高野に残っているそうです。さらに生活の中に古くからの伝統行事も沢山残されている特別な場所でもあるのです。地図をクリックするとそれぞれオリジナルGoogle地図を表示します。
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今回のテーマの舞台となった下高野の景観を動画で紹介いたします。 是非ともプレーボタン( )をクリックしてみてください。下高野地区の雰囲気を感じてもらえるかもしれません。戦国時代の、この周辺には臼井城を守る出城(井野城先崎城小竹城など)がいくつかあった場所でもあります。前で書いている3つの城と比べると、史文書の記述は少ないようですが、下高野にも高台に下高野館(下高野城)が建っていたと伝えられているそうです。動画の中の途中でズームしていく小高い場所が下高野館があったところです。


こちらが「ふるさと歴史展」が行われたオーエンス八千代市民ギャラリーがある建物(施設)です。施設の日本語と英語の正式名は次の通りです。TRCは株式会社図書館流通センターの略称のようです。そのことからオーエンスは株式会社オーエンスのことではないでしょうか。
 日本語 TRC八千代中央図書館・オーエンス八千代市民ギャラリー
 英語  Yachiyo City Central Library & Public Gallery
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施設の航空写真です。3年前の2015年7月1日に開館したそうです。最寄駅はここから南東方向にある東葉高速線の村上駅で徒歩約10分(865m ━━)です。航空写真の中のマイナスのアイコンを2回クリックすると駅が表示されます。
右上のアイコン[拡大地図表示]をクリックすると、下高野と上高野と井野と小竹の辻切り(藁の大蛇)の設置場所を表示します。


下高野の「ふるさと歴史展」の展示場の入口です。入口の左側に小さくオーエンス八千代市民ギャラリーと書かれています。
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午後1時になるとオープニングセレモニーが始まりました。八千代市郷土歴史研究会の会長の挨拶で始まりました。
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今回のふるさと歴史展を開くに際して協力した下高野の方々も沢山参加されていました。
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八千代市の服部友則市長からの挨拶もありました。
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今回のふるさと歴史展は八千代市郷土歴史研究会の人達によってまとめられたそうですが、下高野の方々も協力して展示資料が作られたそうです。そのため郷土歴史研究会から下高野の人達に感謝状が贈られました。受け取っておられるのは下高野地区長の方で、辻切りの行事などに参加させてもらった時にはお世話になった方でもあります。
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下高野の方へのセレモニーの続きです。
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郷土歴史研究会と下高野の方の記念写真です。感謝状には八千代市下高野の皆様と書かれていました。内容は次の通りです。
感謝状 八千代市下高野の皆様

当会では本年「旧村下高野の総合研究」に取り組み大きな成果をあげると共にこのたびシ団八千代第四三号の発刊並びに市民文化祭において展示発表を行うことが出来ました。

これはひとえに下高野の皆様の絶大なご支援の賜物であります。

よってここに衷心より感謝の意を表します。

 平成三十年十二月一日  八千代市郷土歴史研究会  会長 田中 巌
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ケーブルテレビ「J:COM」の方も取材に来られていました。
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会場の風景です。奥の方に藁で作られた大蛇(辻切り)が天井から吊り下げられています。
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クリックすると拡大こちらが辻切り(藁の大蛇)です。地区長さんが作られたそうです。実は地区長さんは注連縄作りの名人なのです。藁の大蛇と注連縄は作り方が共通しているそうです。右の写真は実際に境界の辻に藁の大蛇を取り付けているところです。
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郷土歴史研究会の方々が、それぞれ研究テーマを決めて調査した内容を発表する形式だそうです。研究した方がそれぞれ説明をしていただけるのです。
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郷土歴史研究会では、下高野の歴史調査・研究は10のテーマを決めて2017年12月から2018年11月までの1年間かけて行われて今回の展示会の一部に使われたようです。10テーマは①庚申講、②天神ビシャ・初午ビシャ、③不動ビシャ、④梵天飾り、⑤天道念仏、⑥彼岸念仏、⑦奥州講、⑧ひつじまつり、⑨十九夜講、⑩菅原神社例祭でクリックすると拡大す。
ここでは④の出羽三山にまつわる伝統行事に使われる実物の6本のボンテン飾り(梵天飾り)も置かれていました。右の写真は実際に行われた伝統行事「梵天飾り」で、クリックすると拡大いたします。
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ここは百姓一揆に関する説明が展示されているコーナーです。人形も置かれていました。
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すすきの可愛い飾り物も置かれていました。
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時間と共に見学者が増えてきました。第1展示室(78.70㎡)と第2展示室(110.90㎡)と展示室ホール(84.30㎡)が使われていて可動式の仕切り壁でレイアウトされていました。
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郷土歴史研究会の活動写真や今回のポスターも展示されていました。
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下高野では今でも沢山の行事が行われています。それを説明した表があったので紹介いたします。頭の※は私が過去に記事で紹介したことがある行事です。
 庚申講      1月 正月を除いた最初の申の日
 天神ビシヤ    1月 25日
 不動ビシャ    1月 28日
※辻切り      1月 月末の吉日
※ボンテン飾り   2月 14日
 天道念仏     2月 15日
 彼岸念仏     3月 春分の日
 千葉寺 ご接待  4月 10日前後
 末祭り      7月 最初の末の日
 宮なぎ      7月 15日
 奥州講      7月 末の日曜かその前の日曜
クリックすると拡大 念仏講      8月 14日
 施餓鬼念仏講   8月 16日
 孟蘭盆念仏講   8月 24日
 彼岸念仏     9月 秋分の日
 弁天ビシャ    9月 25日
 菅原神社例大祭 10月 10日
※ 幟立て    10月 8日
※ 幟返し    10月 11日
 年始参り準備等 12月 31日
 長寿会      毎月 1日
 念仏講      毎月 12日
 お不動様     毎月 27日
 十九夜講     隔月 19日
※十九夜塔石建て 7年に一度
 庚申塔石建て  上と同時 次は2021年

クリックすると拡大クリックすると拡大下が下高野の庚申塔に関わる石造物の説明パネルです。
下高野の庚申塔に関しては私も沢山記事に書きました。下高野では24基の庚申塔が現存しています。最も古いのが享保12年の庚申塔です。現在でも7年ごとに建てられていて、最も新しいのが平成26年の庚申塔です。
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下高野の神社と寺院関係の説明パネルでクリックすると拡大す。
今まで長い間、下高野の菅原神社(天満宮)の創建時期は不詳でしたが、一之鳥居の再建時(2000年)に欅造の旧扁額の裏側に元和四戌午年正月二十三日の刻記が発見されて菅原神社(天満宮)の創建年が判明したそうです。元和4年1月23日は西暦(グレゴリオ暦)では1618年2月18日になります。干支年は戊午で、干支日は甲申 で、六曜は大安で、曜日は日曜日です。ちなみに一部の教会で使われているユリウス暦だと1618年2月8日になります。江戸幕府が始まった1603年3月24日から14年10ケ月目に創建されたことになります。
クリックすると拡大右の写真をクリックすると創建時(400年前)の扁額を拡大いたします。2000年に扁額の裏の文字を見つけたのは大発見だと思います。皆さんの探求心で、今までの謎が1つ解けたことになります。
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クリックすると拡大クリックすると拡大貴重な文化財も展示されていました。右の透明ケースに入っているのは菅原神社(天満宮)の創建時の扁額で、裏に年号が書かれています。左の透明ケースの中は天神像の版木です。この版木は太宰府天満宮にある版木の写しと言われています。右の小さな写真は版木と刷った大自在天神の版画です。
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下高野の念仏関係をまとめたもので、庚申講や天神ビシャが説明されています。
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このあたりを治めていた旗本の川口氏3代に関する記述です。
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こちらは辻切りやボンテン飾りの関わるものです。
私が初めて辻切り作りに参加させていただいたのは2012年1月29日(日曜日)でした。クリックすると記事を表示2010年01月26日に掲載した記事「下高野の辻ぎり」を下高野のkazuさんが2011年10月04日に見て、コメントを頂いたのがきっかけで実現いたしました。その時にkazuさんに指導していただいているところの写真が右です。写真の左がkazuさんで右が私です。
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こちらはボンテン飾りと天道念仏に関する説明です。
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末祭りや弁天ビシャや菅原神社例大祭の説明もありました。
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下高野に遺跡や古墳があることが判りました。これは初めて知ったので近いうちに見に行きたいと思っています。
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イメキャラ やっち
クリックすると拡大約30分のミニ講演もあり、すべて聞かせていただきました。
 14時00分~ 天明3年の佐倉藩農民一揆と下高野村
 14時30分~ 郷土の偉才 小島泰堂
 15時00分~ 菅原神社の由来を考える
 15時30分~ 下高野の石造物
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クリックすると拡大今回の発表内容は雑誌「史談八千代 第43号」にまとめられています。一年に1冊発行されているようで創刊号(1976年11月)から第42号までが展示されていました。上の列の一番右が創刊号です。
創刊号を下の写真から切り取って右に掲載いたしました。創刊号のみ製本されていなかったようです。
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また第17号までは表紙のデザインが同じでしたが、第18号以降の表紙は毎回違う絵が描かれています。
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本来は有料購入なのですが、うれしいことに下高野のことが書かれた今年の史談八千代 第43号をkazuさんから頂きましクリックすると拡大た。
史談八千代の文字の右側に「白」と「鳳」の印が押されています。これは岩波白鳳先生(千葉県書道協会顧問)の書だからです。第29号から岩波白鳳先生の書が使われているようです。また中央の絵は菅原神社本殿の脇障子の彫刻です。
ISSN 1345-9694
史談 八千代クリックすると拡大
特集 旧村下高野の総合研究
                          第43号

                          2018年12月

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八千代市郷土歴史研究会
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これが中央の絵に使われた菅原神社本殿の脇障子の彫刻です。
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こちらが目次です。145ページの大作でした。貴重な資料で参考になります。
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110ページに参考資料の一覧の中に私のブログが書かれていました。郷土歴史研究会の方に参考文献扱いしてもらえるとは光栄なことです。
 参考記事URL:https://makkurokurosk.blog.so-net.ne.jp/2014-03-08
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参考文献扱いしていただいた十九夜塔の建立式典の写真を紹介します。
細長い写真をクリックすると拡大するので32基の十九夜塔を確認することが出来ると思います。建立式典での念仏講の動画も紹介します。次の建立式典はこの時(2014年)から7年後なので2021年です。
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2018年12月28日付の新聞「八千代よみうり」に今回の「ふるさとの歴史展」が掲載されていたので紹介します。八千代市郷土歴史研究会45周年記念でもあったようです。記事のタイトルは「伝統守る里・下高野を特集 地域の義民や民俗行事紹介」でした。記事の内容に興味がある方はクリックしていただくと読みやすいと思います。
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ラベル:下高野 八千代市
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2018年11月11日

小島泰堂が青菅に作った学校 泰楽文園(泰堂塾)

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

2018-11-10追記 タイトル:小島泰堂のふすま絵が見つかりました。
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今年の3月に紹介した小島泰堂の追加記事です。
いつも地域の歴史や風習に関して教えていただいているkazuさんから、千葉県八千代市下高野の個人宅に小島泰堂のふすま絵が見つかったとの連絡と共に今回紹介する写真が送られてきました。この襖絵(ふすま絵)があったのは江戸時代に下高野地区の名主をされていた名家でした。
襖(ふすま)に対して絵が小さいのは、母屋を新築した時に隠居部屋にあった泰道の書のふすまを母屋のふすまにするために隠居部屋の1間半の襖に4枚あったふすま絵を2間/4枚に表装しなおしたためだそうです。4枚の絵の内中央の2枚に小島泰堂の書が書かれています。

中央の2枚の絵を拡大いたしました。
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小島泰道の落款の部分を拡大いたしました。「泰堂」の文字が読み取れます。61歳の時に書いたしょでしょうか。
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近くにある福蔵院の敷地内に小島泰堂の書の石碑があることも判り、写真を送っていただきました。今までも見ていたのに気が付きませんでした。
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確かに落款の部分に小島泰堂と書かれていました。
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2018-03-18掲載
タイトル:小島泰堂が青菅に作った学校 泰楽文園(泰堂塾)
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千葉県佐倉市宮ノ台の青菅小学校内にある史跡の大塚・小塚があります。地名の宮ノ台は1980年代に、この地域に新興住宅地が作られるにあたり青菅の一部と井野の一部が1981年11月1日に宮ノ台に町名が変更になって出来たものです。この場所の旧名は青菅でした。
大塚は前記事で紹介した通り江戸初期に青菅の領主であった下記の旗本四代の墓所で、小塚はその夫人たちの墓所でした。上の写真は大塚の写真です。
 初代:川口宗勝 2500石 通称:久助   1548年生~1612年没
 二代:川口宗信 2000石 通称:孫作
 三代:川口宗次 2000石 通称:久助        ~1652年没
 四代:川口宗恒 2700石 通称:源左衛門 1630年生~1704年没

その大塚に小島泰堂の石碑が建てられていました。小島泰堂は青菅出身で幕末から明治にかけて、教育者・歌人・諸家・製茶業経営者として活躍された方だそうです
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大塚がある青菅小学校の周辺には小島泰道に関わる場所が5ケ所あります。ただし泰楽文園の碑( )は泰楽文園のあった辺りの土地を所有されていた個人宅の庭にあることから、個人宅が特定されないように個人宅のある下高野の代表的な場所にプロットしております。
泰楽文園( )は小島泰堂が明治13年(1880年)に千葉県印旛郡青菅村に作った学校で、多いときは200名以上の生徒がいたそうです。ただし小島泰堂は泰楽文園の時代以前の天保末年(1845年)ごろから青菅村で塾(泰堂塾)を行っており、江戸に住んでいた文久元年(1861年)から明治13年(1880年)にも江戸八丁堀で塾(泰堂塾)を開いていたことから約44年間(1845年ごろ~1889年没まで)も若者の教育に力を注いでいたことがうかがえます。
 小島泰堂の石碑(月読尊) 青菅地区(佐倉市宮ノ台)
 小島泰堂の墓および碑   青菅地区(佐倉市青菅)
 泰楽文園(泰堂塾)    青菅地区(佐倉市青菅)
 泰楽文園の碑       下高野地区(八千代市下高野)
 小島泰堂の製茶加工場跡  青菅地区(佐倉市青菅)
 小島泰堂の石碑(福蔵院) 下高野地区(八千代市下高野)


月読尊は小島泰堂が歌人としても有名であったことを表しています。月読尊は「月読みの鏡を見ればをす国の民のしあわせしろしめすかな」の歌から銘がつけられたようです。小島泰堂の図書を検索すると国立国会図書館に熱海調音詩歌集泰堂遺稿が保管されていることが分かります。熱海調音詩歌集の出版年は1886年なので小島泰堂の亡くなる3年前に出版されたようです。
泰堂遺稿(1892年出版)は表紙を入れて36ページで画像19コマで内容がネットで公開されています。→ポチッ
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左下には「泰堂翁謹書 時明治十九年・・・・・・」と刻まれていました。明治19年(1886年)は小島泰堂の熱海調音詩歌集が出版された年でもあり、無関係と言えないのかもしれません。
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右下には「菶蔫 小島稲子」と刻まれているそうです。菶蔫の文字だけが見ることが出来ました。
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真ん中下部には「能」と「民」の文字が読み取れます。真ん中下部には縦書きで「能見鏡者食国廼 民之福召所知哉」と文字が刻まれているとのことなので石碑の下部はかなり隠れてしまっていることになります。
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小島泰堂の墓( )は青菅地区の正福寺にあります。
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写真に写っている墓石および石碑群は全て小島家の関係したものでした。新しいものは昭和のものもありました。
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重要な小島家に関わる石碑がL字型に配置されていました。
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特に重要な石碑と墓石がこの4つです。一番右が小島泰堂を称えた石碑です。右から2番目には「小島家先祖代々之精霊」と書かれているのて小島家を代表する墓石だと思われます。この墓石は明治25年に小島姓の人が建てたものでした。建立年から判断して小島泰堂の子供さんが建てたのではないかと思います。右から3番目(左から2番目)が小島泰堂ではないかと考えています。左端は小島泰堂が建立した墓石ではないかと思われました。
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左端の墓石の正面から見て左側には小島勘十郎の名前が刻まれています。実は小島泰堂の本名は小島勘十郎です。本人の墓石のようにも読み取れますが、正面には2名の戒名が刻まれていて、それぞれ天保十二年十月五日と嘉永三年正月三日と書かれています。天保13年は1841年で嘉永3年は1850年です。小島泰堂が14歳と22歳の時になります。そのことから小島泰堂が大人になってから建てた墓石と考えるのが自然です。すなわち両親あるいは祖父母の墓ではないかと感じました。
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左から2番目の墓石が小島泰堂(小島勘十郎)本人の墓石と考えた理由は左面に小島翁の文字が読み取れたからです。右端の小島泰堂の石碑の中に何度も小島翁の文字が出てきました。
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小島泰堂の石碑と小島家の墓石です。両方ともに明治25年に建てられていました。小島泰堂が亡くなって3年目です。
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こちらが小島泰堂の石碑です。1889年4月1日に青菅村が志津村に統合されたので4月の前と後で住所が違います。クリックすると文字が読み取れる大きさに拡大いたします。
 本名 小島勘十郎 義精
 生誕 1827年 下総国印旛郡青菅村
 死没 1889年 千葉県印旛郡青菅村 or 千葉県印旛郡志津村大字青菅
別の資料で小島泰堂に関して書かれていた内容を枠内に転記いたします。
小島泰堂は名を勘十郎、義精といい、文政十年(1826年)下総国印旛郡青菅村に生まれた。幼少の頃から人にすぐれた才能をもち、佐倉藩儒臣吉見南山の門に入り数年勉学、帰郷し24歳で名主となり翌年には五郷取締名主、28歳の時、藩主(藩候)・堀田正睦(幕府の老中首座)の命により佐倉近治各部取締頭取となり、翌年には三三ケ村組合大総代役なった。万延元年「殖産興業述記」を藩候・堀田正睦に上書してこれを嘉納さられた。文久元年に江戸の八丁堀に家塾を起こし諸生を教授の傍ら井上文雄(国学者、歌人)に就き国歌を納め、多くの文人墨客と交わった。明治13年帰郷(53歳)、佐倉藩御林を開墾し茶園をつくり、「泰楽文園」を建て子弟の教導に当たり、遠近からの諸生を授業した。明治22年、62歳で没した。
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小島泰堂の石碑の台座の周囲4面にぎっしりと寄進者と思われる名前が書かれていました。正面の一番右に建碑費金義捐人名と書かれて、正面だけで39名なので100名近い名前が書かれていることになります。クリックすると特別に拡大するように設定いたしました。金額は3円から50銭です。物によって今の価値の数千倍から数10万倍と大きく開いており、生活様式も違うので物価は簡単に比較できませんが、当時の1円は現在の3万円程度の重みがあったのではないかと想像しています。拡大して見ると今でもこの地域に沢山ある立石、小澤、深山、蕨、友野、山崎、秋山、小林、小島などの苗字が沢山あります。近隣の青菅、先崎、井野、小竹、下高野以外の上高野、米本、村上などの離れた地域の人たちも入っているのにも驚かされました。
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小島泰堂の私学校「泰楽文園」があった場所( )です。現在は農地で私学校「泰楽文園」の痕跡はありません。遠くに見える建物が特別養護老人ホーム 志津ユーカリ苑で、沢山並んでいる温室が山万ユーカリファームです。
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泰楽文園の痕跡がないように思われますが、後で紹介する泰楽文園の碑に書かれいてる一節から、佐倉藩御林を開墾し茶園を作った場所であり、この広い土地そのものが泰楽文園の痕跡であることが分かります。一節の漢文を訳したものを枠内に紹介します。小島泰堂が江戸の八丁堀から青菅に帰郷した時の楽しみが3つあったそうです。その3つの楽しみの中の、2つ目の楽しみを記載した一節です。
その二は、広々とした荒地や山林を開墾してて茶を植えて茶園となし、傍らに塾の講堂や幾重にも曲がった堂榭(あずまや)などを築き、庭園には四季おりおりの草花を植え、門には龍が伏し蟠ったような日本の松を植え、その門柱には自分で「泰楽文園」と大書した扁額を掛けた。その臥龍松を植えたことについては、昔中国の易経という古典「飛龍在レリ天ニ・利レ見ニルニ大人ーヲ」という言葉がある。この古典の由来に基づいて、臥龍と飛龍とみたてて鑑賞するのが第二の楽しみである。
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泰楽文園の場所をGoogle地図にプロットいたしました。現在は農地となっております。この土地の中に、茶畑や泰楽文園の建物(講堂)や幾重にも曲がった堂榭(あずまや)がどのような配置になっていたか分かりませんが想像するだけでロマンがあります。泰楽文園の場所に次に紹介する泰楽文園の碑が建てられていたそうです。小島泰堂が亡くなった後は果樹園や農地となり、泰楽文園の碑だけは保存のために、土地の所有者であった現在の場所(個人宅の庭)に移して大切に保管されてきたようです。また泰楽文園の横にあった茶園で収獲した茶葉を茶に加工する製茶加工場は、クリックすると拡大志津小学校青菅分校(青菅分教場)の場所にあったそうです。実は以前に紹介した右の写真の青菅分教場は2代目であることも知りました。初代の青菅分教場跡は2代目青菅分教場から北西に200mの場所にあります。
驚いたことに、そこには小島泰堂が自ら発明した製茶蒸気釜が設置されていたそうです。つまり泰堂の製茶加工場跡に青菅分教場が出来たことになります。製茶加工場は泰楽文園から東に徒歩1kmの場所にありました。


泰堂の製茶加工場があった場所の写真です。製茶加工場があったことを示すものはありませんが、このあたりの近所の方にkazuさんが確認したそうです。この製茶加工場跡地に初代の青菅分教場が1903年(明治36年)に建てられたのです。写真の中に写っている石碑は奥州参りなどの碑で、青菅分教場や泰堂の製茶加工場とは関係がありません。
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こちらが泰楽文園の碑( )です。農地にそのまま放置されていたら120年を超える歳月の中で失われたかもしれない貴重な石碑です。本石碑は一般には公開されていませんが辻切り作りでお世話になっている下高野のkazuさんに紹介していただいて写真を撮らせていただきました。縁側でお茶までごちそうになりました。20歳になる猫ちゃんまで出てきてくれました。
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泰楽文園の碑は小島泰堂が自ら1886年9月(明治19年9月)に建立しました。泰楽文園が作られて6年目です。クリックすると大きく拡大するように設定いたしました。枠内に漢文の文字を記載いたします。
泰樂文園
夫人者不可不學餘自少志學焉抑文久二年東都苟開薫陶門然生徒日進月裒至明治五年凡行東修者殆一千有餘名也餘熟思老者若往于山張於茲告別于諸子因交諠之文士墨客况生徒乎各臨其宴餞賜詩歌揮毫或貨財之類載之船而帰郷焉今展之壁上以爲一樂也其間ト此地方頃鋤荒環以壘樹以茶築堂樹四楹三曲而擁庭庭前後都藝花菩門樹雙松偃蓋宛似龍翔扁挂之泰樂文園文焉易曰飛龍在天利見大人二樂也詩曰思皇多士生此王國所謂奉菅公廟園巽方祭人麿祠書棚孔与孟見于一榻如間如答餘登于茲數年間如一日是餘三樂也且當奎運隆渥負笈徒競入此門咿唔鏗々尓焉餘示之曰仁義者錬梁律禮者柱礎徳育禮者門性行育者家習育者桓體者田學之者果而其身泰而奕葉益盛也且夫可不樂哉
  時明治十九年秋九月園主  小島泰堂 自撰自書
 
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雰囲気を感じていただくために表面の拡大写真を掲載させていただきました。枠内に先人が漢文から和文に訳した内容を転記いたしました。貴重な内容です。
泰楽文園
夫れ人間たる者は、学問を身につけなければならない。故に、自分は幼い頃から学問に志し、佐倉に出て(天保九年)、吉見南山先生に就いて勉強と人間形成につき薫陶を受けた。文久二年、さらに江戸(八丁堀)に出て塾を開き子弟を教育する傍ら多くの人々と交流し修業した。明治五年に至って門人は前後凡そ一千余名を数うるに至った。自分の越しきたった数十年を熟々顧みて、年老いてはやはり故郷へ還ることが最も良いと思い、今まで交諠を温めてきた多くの文人墨客や、ともに手を携えてきた人々と別れることになり、その別宴を張った。その時集まった人々から詩歌や揮毫や、その上貨財の類等餞別を頂戴した。これを舟一ぱいに載せて青菅に帰郷した(明治十三年)。帰郷した私には三つの楽しみがある。
その一は、江戸をたつときの餞別の詩歌や揮毫そのた寄贈された軸物などを室内や壁に所せましとばかり披展して、しずかに此れらを鑑賞し往時を追懐する。これが第一の楽しみである。
その二は、広々とした荒地や山林を開墾してて茶を植えて茶園となし、傍らに塾の講堂や幾重にも曲がった堂榭(あずまや)などを築き、庭園には四季おりおりの草花を植え、門には龍が伏し蟠ったような日本の松を植え、その門柱には自分で「泰楽文園」と大書した扁額を掛けた。その臥龍松を植えたことについては、昔中国の易経という古典「飛龍在レリ天ニ・利レ見ニルニ大人ーヲ」という言葉がある。この古典の由来に基づいて、臥龍と飛龍とみたてて鑑賞するのが第二の楽しみである。
その三は、同じく中国の古典の詩経に「思皇多士・生ニズ此ノ王国-ニ」の語がある。それに因み菅公廟と人麿祠を奉祀し、書棚に孔子と孟子を祀り、詩経に準え、或いは問いかけ或いは答えして朝夕拝礼することを欠かさず、数年間全く一日の如く実行する。これが三楽だ。

塾のありさまをみれば奎運は多くの門人子弟たちが笈を負い来て咿唔の声が満ちあふれて、競って勉学するさまは、まさに奎運の開かれゆく思いである。仁と義し規律と礼儀と、そして特性を養うことによって心身は大いに安らぎ、ゆるやかになるのである。故に後の世まで盛に続けて楽しむようにしなければならない。これが即ち泰楽なのである。
 時明治十九年秋九月園主  小島泰堂 自撰自書 
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右から大きく泰楽文園と書かれているのが印象的でした。小島泰堂が若者の教育にささげた約44年間(1845年ごろ~1889年没まで)の内訳は次の通りです。
 前期 1845年~16年間 青菅村 泰堂塾
 中期 1861年~19年間 八丁堀 泰堂塾  
 後期 1880年~ 9年間 青菅村 泰楽文園
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泰楽文園の石碑が庭内に保存されている家には下の写真のような見事な白壁造りの土蔵がありその中に小島泰堂に関わる毎聴講讀音と書かれた資料が保管されていたそうです。その中には塾生の習書など貴重な資料が沢山入っていたそうです。泰堂翁の「泰楽文園」の構造や塾の内容なども物証的に片鱗を見ることが出来るそうです。その資料は研究者に寄贈されて今は別のところで保管されているようです。
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その研究者の報告文献から毎聴講讀音などの資料の写真を転用させていただきました。このような貴重な資料がこちらの家に保管されていたのは、この家の先祖の方が小島泰堂と親しい子弟関係にあったことがうかがえます。真中の写真は30年前の1988年5月18日に撮影されたものです。つまり寄贈されたのは、そのころだと思われます。
一番左側の写真が襖の表に貼られていた毎聴講讀音と書かれた唐紙です。
 毎聴講讀音 明治癸未之春日書千梅花薫所 泰翁
 毎に聴く講讀の声、明治十六年(癸未)の春日梅花薫る所にて書く 泰翁
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追伸
今日2018年3月18日の朝から3月27日の夕刻まで関西に行ってきます。その間はネット環境の関係から皆様のところに訪問出来ないことをお許しください。本記事のブラシュアップも4月に入ってからになりそうです。
posted by SORI at 04:00| Comment(42) | 風習・歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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