こちらの写真は2026年1月14日(水曜日)の、火をつける前のどんど焼きの写真です。 千葉県佐倉市の青菅地区で江戸初期の420年前~322年前(川口氏知行)の間、つまり最低でも今から322年前から行われている「青菅のどんどれえ」と呼ばれるどんど焼き/左義長です。 この伝統行事は佐倉市の無形民俗文化財(指定番号63)にも指定(2007年6月29日)されています。 上の写真は当日の昼(15時)に様子を見るために行った時に撮りました。 短い時間でしたが見に来ている6人に会いました。
本記事はSeesaaブロクからのブラシュアップではなく、4つ目の新規記事です。 ① ② ③ ④
こちらは、どんどれえ(どんど焼)が始まる10分前の17時49分の写真です。
周辺の人達が集まり始めていました。
17時56分です。もうすぐ始まります。
18時06分 青菅とんどれえが始まりました。 青菅地区の区長さんの挨拶から始まりました。
区長さんの横に立っている女の子が、今年のどんどれいに火を着ける大役行うのです。
点火時刻になりました。上で紹介された女の子が点火役です。
女の子を手伝っているのは青菅地区の区長さんです。
火がついた瞬間です。
上の写真の火がついた瞬間から2分後です。 晴れた日が続いて乾燥していたのだと思います。
沢山の人が見守っていました。竹の先についているのは、どんどれえで焼くためのお餅です。どんどれえで焼いたお餅を食べると1年間元気に過ごせるそうです。
今回は点火したのは1ケ所だけでしたが火はすぐに広がりました。
ただし反対側まではこの時点では広がっていません。
かなりの熱さなので、皆さん遠くから見ています。
火は上の方にも広がっていきました。
撮った動画も紹介します。 カメラが周りの声を拾っているのでBGMを入れさせていただきました。
無限繰返しAutoplayに設定したので、音がうるさい場合はスピーカーマーク(
最初から画面が停止している場合は、画面をクリックしていただくと動画が起動します。
9本の竹に伝って炎は上にも上がっていきました。
9本の竹の周囲の8本が焼け落ちて中心の御神木(どうしんぼく)だけが残った状態です。8本の竹の先端の葉の部分には火はあまり移らないうちに焼け落ちたので以前紹介したような高い炎にはなりませんでした。この後すぐに、どうしんぼくの太い竹が燃え始めて倒れました。中央の竹の「ドウシンボク」の倒れた方角で一年の豊凶を占います。青菅側(南側/手前側)に倒れると青菅が豊作、先崎側(北側/向こう側) に倒れると先崎が豊作と言われています。 今回は南(手前側)に倒れました。
9本の竹が立った根本です。つまり「どんどれえ塚」の頂部です。 ⑨の竹の地固めをしています。
竹を立てた順番を①→②→③→④→⑤→⑥→⑦→⑧→⑨で示しました。 中心の⑥の竹がドウシンボク(中心に立つ御神木)です。 画面をクリックすると文字が読みやすい画像を表示します。
東面:①②③ 北面:①④⑦ 西面:⑦⑧⑨ 南面:③⑤⑨


ドウシンボク(御神木)が倒れていくまでの5枚の写真を紹介します。
8本の竹は倒れて残ったドウシンボク(御神木)が、かろうじて立っています。
倒れ始める瞬間です。 時刻:18時23分28秒 (+0秒)
ドウシンボク(御神木)が少し傾きました。 餅を棒で餅を焼いている人がいますが大部分の人は熱いので待っています。 右側の人はこの後、焼くのを諦めました。 時刻:18時23分32秒 (+4秒)
ドウシンボク(御神木)が上向き45度まで倒れました。 時刻:18時23分33秒 (+5秒)
ドウシンボク(御神木)が下向きになりました。 時刻:18時23分34秒 (+6秒)
ドウシンボク(御神木)が完全に倒れました。 時刻:18時23分35秒 (+7秒)
この後燃えてしまいました。
倒れたドオシンボク(御神木)を拡大しました。
いよいよ餅焼ですが、まだまだ炎の近くは熱いので、餅を焼きたい皆さんも遠巻きで待っています。
一部の人は餅を焼き始めました。
こちらの人も熱いので顔を背けて焼いています。
餅を焼く人が増えてきましたが、まだまだ少数派です。
いよいよ餅を焼く人が増えてきました。 全国の類似の行事の呼び名を並べてみました。
どんど焼き、とんど焼き、どんど、どんどん焼き、とんど(歳徳)、どんと焼き、どんと、とんど小正月、どんどっぴ、どんどや、とんどさん、どんどれえ、とうどうさん、左義長、火祭り、さいと焼き、おんべ焼き、鬼火焚き(おにびたき)、鬼火、おねび、ほっけんぎょう、ほうけんぎょう、ほんげんぎょう、御焚上(おたきあげ)、焼納祭(しょうのうさい)、あわんとり、おねっこ、おねび、おねび焼き、おねぶ焚き、おんべ焼き、御柴灯(おさいとう)、かあがり、かんじょ、さいと焼き、さぎっちょ、三九郎、しんめいさん、道祖神祭り、ほんやり、ほんやりさま、やははえろ、どんと祭、さいの神、才の神焼き、歳の神、塞の神、かんがり、かんがりや、さいと焼き、墨塗り(婿投げ・墨塗り)、ほうげんきょう、ほっけんぎょう、ほんげんぎょう、鬼火焚き(おにびたき、おねび)、サイノカミ、グロ、トンドウ
見ている人は遠巻きです。
火の勢いが落ちてきました。
火も弱まってきたので、さらに多くの人が餅焼をはじめました。
Wikipediaに書かれていた千葉県佐倉市青菅の歴史を紹介します。
江戸期は、元禄11年(1698年)までは下総国葛飾郡青菅村で、その後は下総国印旛郡青菅村でした。慶長11年(1606年)から旗本川口氏領、元禄11年(1698年)から佐倉藩領となりました。その旗本川口氏領の時(1606年~1698年)に青菅のどんどれえ(どんど焼)が始まったとされています。つまり420年前~328年前の間に青菅のどんどれえが始まったことになります。下総国葛飾郡青菅村の時代です。
Wikipediaの青菅村の記載の続きです。
江戸時代の青菅村の村高は、元禄郷帳 141石余、天保郷帳と旧高旧領ともに151石余で、元禄14年(1691年)差出しによれば、反別田14町余・畑屋敷4町余、家数26、馬29でした。
AIに「元禄時代の141石の価値」を聞いてみると705~3807万円の答えでした。
さらにAIに「天保時代の151石の価値」を聞いてみると約151人の1年分の食料が答えでした。その後何度か入力すると別の答えで安定してきました。
延享3年(1746年)明細帳によれば、村内に御林(藩有林)が8か所あったそうです。天保8年(1837年)の免状によれば、取米は58石余で、安政4年領分村高帳によれば、小物成として夫役永425文余・野銭永1貫60文・山銭鐚4貫738文が見えるそうです。(旧佐野家文書/千葉市史史料編2)
明治6年千葉県に所属し、神社は稲荷神社、寺院は真言宗正福寺・浄土宗称念寺(印旛郡誌)、明治6年(1873年)に千葉県に所属し、明治22年(1873年)に志津村の大字となりました。昭和29年(1954年)に佐倉市が発足して佐倉市青菅となりました。
まだまだ燃え続けるし、名残惜しいけれどもここで帰ることにしました。




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