2015年08月04日

開封の道教のお寺 延慶観


ここは古都「開封」の唯一の道教のお寺である延慶観(延庆观 イアンチングアン)です。この写真はその中の最も有名な建物である玉皇閣です。創建当初の元時代の建物だそうです。延慶観は全真教(道教の一つの派)を開いた王重陽(1112年~1170年)を記念して1233年(元太宗5年)に建てられた道教の建物で、当初の名前は重陽観でしたが1373年(明洪武6年)に延慶観に改名されました。

玉皇閣(玉皇阁)の中です。
祀られている像は、道教の全真教を開いた王重陽だと思います。王重陽を王詰 と記載している記事もありました。


玉皇閣の裏側の建物です。


その建物の中です。こちらは全真教を広めるつくした弟子で七真人と呼ばれる馬丹陽、譚長真、劉長生、丘長春、王玉陽、郝広寧、孫不二の7人の中の人の可能性があると考えています。


玉皇閣の前で線香をあげていました。道教は中国三大宗教の一つです。中国三大宗教とは儒教、仏教、道教です。道教は「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼ぶことがあります。道教の派閥を大きく分けると正一教と全真教になります。


こちらが入場券です。
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開封の町の位置を紹介いたします。河南省の省都である鄭州の東にある中国でも最も歴史が古い都市の一つであり、北宋の首都でもありました。


右のマークが入口の門にありました。


道教の陰陽魚太極図→




大極図は白い部分と黒い部分を魚に見立てて「陰陽魚」とも呼ばれています。また、もともと「陰陽儀」だったのが、発音が近いため「陰陽魚」になったとの説もあります。作られた当初は「天地自然河図」と呼ばれていたそうです。白い部分は、「陽の気」を表し、黒い部分は「陰の気」を表しているそうです。大きな白い部分の中の黒い点は「陽」の中に「陰」があることを表し、同様に、大きな黒い部分の中の白い点は「陰」の中に「陽」があることを表します。「陰」と「陽」の基本的内容は次の通りだそうです。
  陰・陽は互いに対立・制約する
  陰・陽は互いに依存し,単独では存在しえない。
  陰・陽の消長と平衡
  陰・陽の相互転化
ラベル:開封 北宋
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2015年07月21日

開封は鳥を飼う人が多い町でした。

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中国河南省の開封の大相国寺の境内で、鳥籠を沢山見かけました。いい雰囲気の趣味ででした。鳥の種類は「画眉鳥(ガビチョウ)」のようです。画眉鳥は中国南部から東南アジア北部にかけて広く生息しています。右下の画眉鳥の写真はネットから転用させてもらいました。クリックすると拡大日本では、ペットとして輸入された個体が逃げて定着して南東北、関東、中部、九州北部で沢山見られるようです。我家の近くでもよく見かけるようになりました。そんなこともあり、日本においては、画眉鳥は特定外来生物に指定されていて、届出をしなければ飼育することは出来ません。場所が違えは扱いも違いますね。
本種が多く観察されるポイントとして、東京都内では高尾山が有名だそうです。体長約 22-25cmで、嘴と尾が長いく、体色は全体的に茶褐色でかなり地味であるが、眼の周り及びその後方に眉状に伸びた特徴的な白い紋様を持ちます。嘴の色は黄色で、 かなり大きな音色で美しく囀ります。ウグイスやキビタキ、オオルリ、サンコウチョウといった他種の囀りをまねることがあるそうです。

鳥売りかな? それとも自分の鳥を運んでいるのかな?
これを見ただけでも開封は鳥を飼う人が多い気がします。
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日本だと、高そうな立派な籠でした。
ガビチョウ(画眉鳥)の鳴き声に興味をもたれた方も多いと思います。そこで、別の場所で撮影した動画をYouTubeに登録いたしましたので、鳴き声を右の動画で紹介します。見ての通り画像は良くありませんが、鳴き声はよく聞こえると思います。是非ともプレーボタン( )をクリックしてみてください。
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これはカナリアのようです。いろんな鳥がいました。やはり鳴き声を楽しむために愛好家が集まっているようでした。
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ラベル:画眉鳥 開封
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2015年07月20日

開封で最も有名な寺院 大相国寺

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大相国寺は大きなお寺です。敷地も広く僧侶の数も多く見かけます。北斉の西暦555年に建国寺として創建されたそうです。後に寺院は戦火で壊され、唐の西暦711年に再建されました。クリックすると拡大そして唐の睿宗が西暦712年に相王から皇帝になったことを記念して大相国寺という名前をつけたそうです。右の写真の扁額の文字から想像するに、上の建物は蔵経楼(藏經樓)のようです。

北宋時代は相国寺は皇族に深く尊崇され、何度も拡張され敷地面積は33ヘクタールとなり、64の禅院・律院、そして千人以上の僧侶がいたそうです。現在は、それほど大きくありませんが天王殿、蔵経楼、大雄宝殿、山門殿、牌坊、八角瑠璃殿(羅漢殿)などが、残されており、八角瑠璃殿の中には、高さ7mの大木で彫刻された千手千眼観音像があり、古代木彫り芸術の傑作と言われています。1992年以後、仏教活動が復活し、鐘楼・鼓楼などが再建され、この鐘楼のなかには清時代に作られた大鐘が今でも保存されています。こちらが天王殿です。33ヘクタールは0.33k㎡、つまり330m x 1000mの広さです。
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ここが入口です。門の扁額には「大相國寺」書かれています。大相国寺は、黄河の氾濫15回、兵火にかかること11回、大火6回など、大きな災害のたびに開封城と盛衰を共にしたそうです。
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こちらが入場券です。
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京都の相国寺と友好関係にありました。石碑の除幕式は1994年9月27日に行われたと、ネットで書かれていました。石碑には「佛暦二千五百三十七年佛吉祥日」と書かれていました。釈迦が入滅した翌年が元年となる佛暦2537年から543年を引くと西暦1994年になります。釈迦が入滅した年を元年とするミャンマーやスリランカでは、佛暦から544年を引くと西暦になります。
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広い敷地には沢山の建物がありまいた。この建物と同じ形の建物が左側にもありました。鐘楼と鼓楼と思われます。こちらは、清時代に作られた大鐘が保存されている鐘楼です。
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この屋根を見ると大きなお寺だと感じてしまいます。
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敷地の大きさも感じます。
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僧侶の人です。まだ若い人が多いです。
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ラベル:河南省 北宋 開封
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2015年07月12日

世界遺産 殷墟  甲骨文字発掘の町 安陽

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安陽は古代中国殷王朝(BC1600 - BC1046)後期の遺構である「殷墟」があった場所で甲骨文字発掘の町でもあります。その安陽に2度来る機会がありました。今回の報告は1回目の時です。ちなみに2回目は「霧による大渋滞を経験してしまいました。」の記事で紹介したのが鄭州から安陽に車で行く途中のことでした。上の写真は車馬坑です。高貴な人の古墳で、馬車や馬とを副葬した竪坑を車馬坑と言います。馬車は殷の時代より前の時代から存在ようですが、発見された中では殷墟の車馬坑が中国最古の馬車遺跡だそうです。

中国最古の車馬坑をもう少し紹介します。ここには6台の馬車が展示されていました。
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馬車の遺跡からは馬骨も発掘されました。


これは甲骨文字(こうこつもじ)の発掘の状態を再現したものです。ここの人に聞くと、ここにある甲骨文字は、すべてレプリカで、本物は、台湾や北京などに持っていかれたと言っていました。2006年7月に世界遺産に登録されてからは北京などに保管されていたものが、併設されている博物館に徐々に戻ってきているようです。
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こちらが甲骨文字ですが、Wikipediaから転用させてもらいました。
甲骨文字は、殷の後期に使われていた漢字書体の一つで、現在確認できる最古の漢字です。古代中国で生まれ発達してきた漢字と、獣骨を用いる占い(占卜)とが結びついて文字記録となったもので、亀甲獣骨文字や甲骨文ともいうそうです。甲骨文字は古来から農民により発見されていたそうですが、価値を知らないため大部分は捨てられたそうです。清の国子監祭酒(文部長官相当)であった王懿栄が竜骨と呼ばれていた骨に刻まれた文字を1899年に発見したことで、価値あるものとして発掘が行われはじめたそうです。
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甲骨文字(BC1600年~)とその後の時代の文字の比較です。金文(きんぶん)は青銅器の表面に鋳込まれた文字で、殷・周のものが有名で、年代的には甲骨文字の後(BC1300年頃~)にあたるそうです。さらに後の小篆(しょうてん)の起源は戦国期(BC403年~BC211年)の石鼓文に用いられた書体・大篆が直接の起源と言われています。BC221年に中国統一を成し遂げた秦は、各地方で独自に発達していた文字を小篆に統一したそうです。
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こちらのケースの中をよく見てください。 ご安心をレプリカです。殷墟からは人骨も沢山発掘されたようです。
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建物跡です。柱が再現されています。他の世界遺産に比べて見た目では迫力はありませんが、殷墟は約3500年前から3100年前の遺跡であることから残っているものが少ないので仕方だないのだと思います。その古い歴史に世界遺産としての価値があるのだと思います。
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発掘場所も公開されていました。
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殷墟からは沢山のものが発掘されたようです。発掘した時の状態も残されていました。
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写真の右端の石碑には「甲骨文発現地」と書かれていました。日本語だと「甲骨文字発見場所」というところでしょうか。


大型の青銅器も発掘されました。その中で最も有名な「司馬戊」鼎の大きなモニュメントも入口にありました。実物は長さ1100mm、幅780mm、高さ1330mm、重さ875kgです。北京の博物館から、こちらの博物館に移設したと聞きました。


併設された博物館は景観に配慮してか半地下になっておりました。
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左の地図の赤色に塗られた部分が河南省で、右の河南省の地図で緑色に塗られたところが安陽市です。安陽市の人口は533万人で、人口密度は719人/km²の町です。埼玉県草加市が姉妹都市になっています。
河南省には、中国八大古都のうち、4つの古都があります。殷の都の安陽と、東周から長く都が置かれた洛陽と、宋の都であった開封と、殷の都邑であった鄭州です。
ちなみに中国八大古都とは西安、洛陽(洛阳)、南京、北京、開封(开封)、杭州、安陽(安阳)、鄭州(郑州)です。開封は宋の時代には東京と呼ばれていました。西京に相当する西安は漢代(BC200年)に長安と命名され唐代の7世紀には世界最大の都市に成長しました。西都、西京、大興、中京、京兆、奉元と呼ばれた時期もありました。明の時代から西安と呼ばれるようになりました。
  四大古都 : 西安、洛阳、南京、北京
  六大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州
  七大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州、安阳
  八大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州、安阳郑州
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殷墟を訪れた、初めて安陽に来た時は、初めての在来線での長距離列車の旅でした。今まで飛行機か車ばかりだったので8時間の列車の旅は新鮮でした。冷えた缶ビールを駅で買いこんで乗り込みました。つまみは日本から持ってきたスルメです。
ビールを飲んでいるのは我々だけ(日本人は一人)でした。外では、中国の人は宴会や会食以外は飲む習慣がないと言っていました。列車の写真は出発した湖北省の武漢の駅で撮ったものです。武漢の駅の売店でも冷えたビールは少ししか置いてなく、そのお店の人が別のお店に買いに行ってくれました。列車の中で飲む習慣がないのは事実のようです。驚いたのが、大型のスーツケースが網棚(荷台)に置けることでした。寝台ではなく軟座です。座り心地は新幹線よりはいいです。ただし座席は対面で、方向は変えられませんでした。対面の椅子の間に机があります。
途中から赤ちゃん連れの人が前に座り、その赤ちゃんにおしっこを少しだけかけられてしまいました。田舎はオムツなしなのです。安陽から北京も列車で移動いたしました。
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posted by SORI at 07:00| Comment(22) | TrackBack(2) | 河南省 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月11日

霧による大渋滞を経験してしまいました。

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この日は車で中国の鄭州から殷墟のある安陽への1時間50分の移動の移動の予定でした。1時間20分は霧も薄く順調に走ってこれました。しかし急に霧が濃くなってきました。そして突然渋滞です。今回の記事では上の写真だけクリックすると拡大写真を表示するように設定いたしました。
上の写真は渋滞直後30分ぐらいの9時51分の写真です。少し霧が晴れてきましたがトラックの後ろは見えません。渋滞直後の霧は、さらに濃かったです。そしてこの同じ場所で4時間15分停まったままでした。
そのため1時間50分の道のりのはずが7時間かかってしまいました。
あまりに長い渋滞だったので我々が外国人であることから閉鎖されている反対車線を別の車で迎え来ることも段取りしてくれていましたがその前に何とか動き始めました。

われわれの直前にいたパトカーも渋滞で走るのあきらめました。


少し霧が晴れてきました。すごい車の数です。ほとんどが長距離大型トラックです。


さらに霧が晴れてきました。我々の後ろにもパトカーがいました。この時、10時42分で渋滞から1時間半が経過したところです。この後晴れてきましたが、さらに同じ場所に2時間45分停まったままにとなりました。不思議に思い、知り合いの中国の人に歩いて前に歩いて見に行ってもらいました。


すると500m先で追突事故がありました。ここから下の写真は前を見に行った人に撮ってきてもらったものです。私は車の廻りから離れないようにしていました。
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結構、激しく壊れている車が沢山ありました。
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トラックだけでなく乗用車も沢山被害にあっていました。
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乗っていた女性が運転手に対して文句を言っているようでした。事故当初はもっと激しいやり取りもあったかも知れませんが、見に行ってもらったころにはあきらめた雰囲気でした。
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高級車も被害にあっていました。これはドアの窓が壊れている程度の軽い接触事故度のようでした。
最初は「この事故処理のために渋滞しているのかな」と思っていましたが実はこの事故のためだけで渋滞しているのではないことが後でわかりました。この先10kmも渋滞が続いていたことが先に進んで判りました。
こんな追突事故が沢山あったための渋滞だと思います。
事故に巻き込まれなかったのは「ラッキーの中のラッキーの中のラッキー」だったかもしれません。
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ラベル:高速道路
posted by SORI at 04:04| Comment(38) | TrackBack(2) | 河南省 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月10日

鄭州のHOTEL

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ここではホテルの人が笑顔で特別に2階建の部屋にアップグレードしてくれました。
部屋代は普通の値段(数千円)で!
オープンの階段が豪華に感じますが!意外と不便なこともあります。上の写真が2階の寝室です。

こちらが1階です。もちろんトイレ、テレビ、シャワー(バスは上だけ)は両方にありますが着替えを取に行くのに階段を上り下りするのでチョットだけ不便でした。贅沢言うなと言われそう!
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2階建も珍しいのですが地方でもサービスが良くなっているのにのがすごい!
河南料理も満喫していたのでこの日は中国で初めてイタリアレストランで食事をしました。
味も良かったのでビールをおいしく飲めました。
地方都市では数年前以前は考えられない。
あのころは中華料理以外ではケンタッキーフライドチキン店を探すのが精一杯!
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泊まったホテルは前記事の「中国の地方都市でのイタリアン」で紹介したHotel Sofitel Zhengzhou(ソフィテル)です。中国名は索菲特鄭州国際飯店です。
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ラベル:鄭州 ホテル
posted by SORI at 11:33| Comment(16) | TrackBack(0) | 河南省 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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