2015年02月09日

ヴァスクレセンスキー門

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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赤の広場の記事ですでに紹介したとおり国立歴史博物館の横にはマネージ広場から赤の広場への出入口となるヴァスクレセンスキー門があります。この門は赤の広場からマネージ広場への出口にありましたがソ連時代には赤の広場での軍事パレードのじゃまになる、という理由で撤去(1931年)されていました。ソ連崩壊後、復活(1995年)したそうです。上の写真は赤の広場側からみたヴァスクレセンスキー門です。

こちらがマネージ広場側から見たヴァスクレセンスキー門です。門の真中に小さな建物があります。今回は、その建物を紹介したいのです。
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その小さな建物を拡大してみました。朝の7時54分の時点では、この小さな建物の扉は閉まっていました。そしてヴァスクレセンスキー門も閉まっていました。


赤の広場からの帰りの8時49分には、その小さな建物の扉が開いていました。実は、その小さな建物は、お祈りをささげる建物だったのです。調べてみると、この小さな建物はイベルスカヤ礼拝堂でした。
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この礼拝室で壁には聖像(イコン)が飾られ、多くの信者の方が祈りを捧げられていました。イベルスカヤ礼拝堂は「門の聖母マリア」とも呼ばれているそうです。女性の方が多かったです。


イベルスカヤ礼拝堂は沢山の信者の方によってまもられてきたことを実感いたしました。


イベルスカヤ礼拝堂の前からヴァスクレセンスキー門を見上げた写真です。礼拝堂の屋根には金色の像が飾られています。
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屋根の上の像を拡大したしました。
posted by SORI at 08:38| Comment(18) | TrackBack(0) | ロシア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月27日

モスクワ川からの赤の広場へ

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モスクワの赤の広場の南側にはゆっくりとモスクワ川が流れています。朝の赤の広場の散策の時はそのモスクワ川に架かる橋を渡りました。その橋の上からのモスクワ側の景色です。川の右側に広がっているがクレムリンでクレムリン大会宮殿、大統領府、大統領官邸、大砲の皇帝、鐘の皇帝、ウスペンスキー聖堂、グラノヴィータヤ宮殿、ブラゴヴェシェンスキー聖堂、イヴァン大帝の鐘楼、アルハンゲリスキー聖堂、テレムノイ宮殿付属教会、祭服教会、武器庫、大クレムリン宮殿などがあります。

モスクワ川を越えたところから赤の広場に戻ってくる景色を何枚か紹介いたします。この写真から徐々に近づいていていきます。正面に見えている教会は聖ワシリイ大聖堂です。


橋の上には2箇所ほど展望できるように出っ張った部分があります。そこからの景色です。
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同じ場所から倍率を上げて撮った写真です。聖ワシリイ大聖堂や国立百貨店グムなどの建物が良く見えます。


橋は一旦下がっていきます。


橋を渡りきったところから赤の広場を望んだ景色です。すばらしく広い石畳に驚かされました。これで赤の広場シリーズの報告を終了いたします。
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posted by SORI at 17:30| Comment(14) | TrackBack(0) | ロシア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月25日

モスクワでビーフストロガノフを食べました。



ロシアに行ったことはすでに紹介していましたが、モスクワで食べたビーフストロガノフ(Beef Stroganoff / бефстроганов)を紹介し忘れていたので記事を掲載いたします。実はロシアに入って数日が経過していたのですか、日本から到着した日しかホテルに泊まっていなかったのです。実はモスクワから列車で12時間のスタールイ・オルコスという町まで往復共に寝台特急で行っていたのです。その強行スケジュールのおかげて夜行でモスクワに帰ってきて仮眠が目的で赤の広場の近くのホテルに半泊(午前中)しました。この日の午後のフライトで日本に帰るためにホテルで昼食を食べることにいたしました。ここはホテルのレストランです。

先ずはボルシチ系のスープを頼みました。
必ずスープを頼むのがロシア流の食事でした。
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そしてメインで頼んだのがビーフストロガノフでした。高級レストランで本場のビーフストロガノフを食べてみたかったことが実現できました。上のスープもビーフストロガノフもクリックすると拡大するので是非とも拡大写真を見てください。高級レストランとは思えないタイプのお皿との印象でした。合理的と言えば合理的でした。いろんなピクルスとジャガイモも美味しかったです。よく考えてみると、これらを別のお皿で出すのも不自然な気がしました。やっぱり、本場のビーフストロガノフは美味しかったです。ビーフストロガノフは16世紀初頭にウラル地方で成功した貴族ストロガノフ家の家伝の一品であったとさていますが、考案者と生まれた時代については諸説存在するそうです。
サンクトペテルブルグで食べたビーフストロガノフはこちらです。→ポチッ
是非とも比べてみてください。
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上の写真はクリックすると拡大しますが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載しました。この写真をクリックすると広範囲を表示します。
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こちらのレストランの天井は素晴らしかったので紹介いたします。高い天井でした。


こちらがホテルの全景です。大きくて立派でした。こちらの写真もクリックすると拡大いたします。宿泊したホテルを紹介いたします。
 名前 Hotel Metropol Moscow ホテル メトロポール モスクワ
 住所 2 Teatral'nyy proyezd, Moscow
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こちらがロビーです。


廊下の広さにも驚かされました。赤の広場まで歩いて5分の距離のホテルでした。半泊だけなのがもったいないくらいでした。もちろん1泊分の料金ですが、2日連続の夜行の疲れはとることが出来ました。


黄色いマーク( )が宿泊したホテルで赤いマーク( )が赤の広場です。クレムリンも目の前でした。

より大きな地図で モスクワ を表示
posted by SORI at 17:08| Comment(22) | TrackBack(1) | ロシア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月09日

レーニン廟

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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上の写真のようにクレムリンを囲む高い壁に近いところの赤の広場の中に大きな石の建造物がありました。これは1924年に死去したウラジーミル・レーニンの霊廟であるレーニン廟(Lenin's Mausoleum)です。レーニン廟(レーニンびょう)の内部には保存処理(エンバーミング)が施されレーニンの遺体が安置されています。
レイニン廟は建築家アレクセイ・シューセフの設計により1930年に恒常的な施設として完成しました。当初は木造の簡易的な施設が建てられていたそうです。
1953年に死去したヨシフ・スターリンもレーニン廟に安置されたが、スターリン批判により1961年に赤の広場の別の場所に埋葬されたそうです。
過去の赤の広場で行われる国家的行事に際しては、共産党・政府の首脳はレーニン廟のひな壇から観閲し、演説を行うのが慣例となっていました。レーニン廟に並ぶ指導者の顔ぶれや序列は、西側諸国のジャーナリスト・研究者にとって、ソ連指導部の動向を知る手がかりの一つであったそうです。

ソビエト連邦解体後は、何度もレーニン廟の撤去案が持ち上がっりましたが、その都度反対も多く、現在にいたっています。2011年1月に政権与党の「統一ロシア」が廟撤去の賛否投票を行えるサイトを立ち上げました。サイトの投票結果と2011年12月のロシア下院選挙と2012年3月のロシア大統領選挙の結果次第ではレーニン廟の撤去(移設)もありうる状況になったそうです。でも2014年12月時点で赤の広場に存在するということは、撤去案は無くなったようです。
ロシアの国旗下の写真はクレムリン側の全景写真です。遠くに見える塔はスパスカヤ塔です。壁の向こう側のドームは大統領官邸です。
レーニン廟の両側には観客席が設けられていますが、その観客席は右のロシアの国旗と同じデザインでした。写真は4月28日に撮りましたが、軍事パレードは写真を撮った11日後の5月9日に行われたそうです。この観客席が使われたのでしょう。
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赤の広場の全景です。左の方にレーニン廟があります。
この写真は赤の広場の広さを実感してもらうために、いつも以上に大きく拡大するので是非ともクリックしてみてください。
ところで、レーニン廟の正面からの写真が一枚も掲載されていないことを不思議に思われた方もおられるかもしれませんが、実は赤の広場に行った時はレーニン廟が、赤の広場の中にあるとは想像もしていませんでした。知ったのは日本に帰ってからネットで赤の広場を調べて知りました。そのために、いくつかの撮った写真の中からレーニン廟を切り取って掲載いたしました。
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レーニン廟は赤の広場の中でも大統領官邸(クレムリン内)に最も近い場所にありました。この建物はソ連時代の1932~1934年にかけて建設されたそうです。
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航空写真でもレーニン廟を紹介します。
クリックするとオリジナルを表示

レーニン廟がある赤の広場は驚くほどモスクワの中心にあることが下記の地図でわかってもらえると思います。マークを立てているところが赤の広場の中心です。地図をクリックするとGoogle地図を表示します。実は、今まで赤の広場がモスクワの真ん中にあり、そこを中心に道路が、いくつも環状に走っていることを、知りませんでした。
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posted by SORI at 05:04| Comment(22) | TrackBack(4) | ロシア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月08日

赤の広場

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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少し前の記事から4月25日から4月29日にロシアに行ったことはすでに紹介していますが、4月28日はスタールイ・オルコスから12時間かけて寝台特急でモスクワに帰ってきました。その前日も夜行列車と強行スケジュールだったために仮眠が目的で赤の広場の近くのホテルに半泊(午前中)しました。でもせっかく赤の広場の近くに来たので仮眠の前に赤の広場を散策することにしました。
上の航空写真に①~⑬の番号を書いていますが、写真を撮った場所です。矢印は写真を撮った方向を示しています。赤の広場はクレムリンの横の細長い広場でした。細長いと行ってもかなりの広さです。文字がわかりにくい場合は航空写真をクリックすると拡大するので読みやすくなります。

写真-①
泊まったホテルの方から赤の広場を目指しました。高い塔の間の道を登っていくと赤の広場です。道の右側がクレムリンで左側が国立歴史博物館です。目の前に広がっているのはマネージ広場です。
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写真-②  道の正面から撮りました。
写真番号と航空写真の番号と照合するのはやりにくい場合は別画面にすると判りやすいと思います。→ポチッ
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写真-③  道を登っているところです。教会らしいものが見えてきました。


写真-④
赤の広場に出ました。これが赤の広場です。正面に見えるのは聖ワシリイ大聖堂です。この時は8時4分なので朝日で逆光のため少し全体が暗くなっていますが広さは実感してもらえると思います。右側がクレムリンですが高い塔の手前にレーニン廟があるのがわかってもらえると思います。ほんとうに広い石畳でした。
赤の広場(Красная площадь)は、地図で見てもらうとわかりますが、ほんとうにモスクワの真中に位置する広場でした。「赤」はソビエト連邦の社会主義に起因するものではなく、元々ロシア語では「美しい」という意味もあり、広場の名前は本来「美しい広場」というものであったそうです。広場は北西から南東に長く、南西側にはスターリンや片山潜などが眠るクレムリンの城壁とその中の大統領官邸、城壁に接しているレーニンの遺体が保存展示されているレーニン廟、北東側にはグム百貨店、北西端には国立歴史博物館とヴァスクレセンスキー門、南東端には葱坊主の屋根の聖ワシリイ大聖堂と処刑場・布告台だったロブノエ・メストがあります。
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写真-⑤
これが聖ワシリイ大聖堂側から見た赤の広場です。太陽を背に撮っているので上の写真より明るくて鮮明な写真になっています。この写真では左側がクレムリンですが、赤の広場を挟んでクリムリンの反対側が国立百貨店である、グムがあります。「グム(GUM)とは「国立百貨店」の略です。この百貨店はロシア最大級のデパートだそうです。
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写真-⑥  ほぼ同じ場所からモスクワ川の方を撮りました。
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写真-⑦  クレムリンのスパスカヤ塔です。
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写真-⑧
モスクワ川の上からクレムリンを撮りました。クレムリンの中には沢山の建物があります。
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写真-⑨
モスクワ川の橋を対岸まで渡ってクレムリンを撮りました。少し角度が変わっただけで雰囲気が違います。
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写真-⑩
これが聖ワシリイ大聖堂(聖ワシーリー聖堂)です。1552年10月、イワン3世の孫イワン4世(雷帝)がモンゴルのカザン・ハン国の首都カザンを陥落させます。イワン4世はカザン攻略を記念して、この聖堂を1555年から建立しはじめて1560年に完成しました。この聖堂はカザンを攻略した日が生神女(聖母マリア)の庇護祭にあたったことから「ポクロフスキー聖堂(聖母マリアの聖堂)」と呼ばれました。
後にイワン4世が崇拝していた聖人ワシリーの祭室がつくられると、この聖堂は、聖ワシリイ聖堂と呼ばれるようになりました。
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聖ワシリイ大聖堂の広場側にミーニンとボジャルスキーの像があります。1612年の動乱時代はモスクワはポーランド軍によって占領されていました。ポーランド軍を追放するために、この二人は大きな働きをしましたそうです。ミーニンはニジニ・ノヴゴロドの市民で、多額の軍資金を集めて軍隊を組織したそうです。ポジャルスキー公はその軍隊の指揮者でした。1612年12月、ポジャルスキーの軍隊はクレムリンを攻撃してモスクワをポーランドから解放したそうです。この二人は、ロシアの国民的英雄で、二人を顕彰するために、1818年にこの像が建てられました。現在の場所に移されたのはスターリン時代の1930年でした。


写真-⑪
赤の広場を挟んで,聖ワシリイ大聖堂と遠く聖ワシリイ大聖堂に対置して立派な建物が建っていました。それは国立歴史博物館でした。石器時代から19世紀までのロシアの歴史的資料30万点が展示されているそうです。
19世紀に建てられた赤いレンガが特徴的な建物で、内部には古代の装飾品やコインをはじめとして30万点を超えるコレクションが展示されているそうです。
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その建物の上にはロシアを象徴する双頭の鷲(わし)が金色に輝いていました。


写真-⑫
国立百貨店の北側には趣のある小さな教会と思われる建物もありました。
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写真-⑬
国立歴史博物館の横にはヴァスクレセンスキー門がありました。この門は赤の広場からマネージ広場への出口にありましたがソ連時代には赤の広場での軍事パレードのじゃまになる、という理由で撤去されていた。ソ連崩壊後、復活したそうです。それが今の門です。
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朝に門は閉まっていましたが、ホテルに帰るころには通れるようになっていました。この時、8時49分でした。
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赤の広場を拡大してみました。軍事パレードのためなのか線が沢山引かれていました。

Hiyoko-Onigiriさんのモスクワの街角からにトラックバックしています。
posted by SORI at 19:57| Comment(22) | TrackBack(6) | ロシア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月07日

教会が景色になったゴルフ公園



ロシアっぽい真っ白な教会の手前に広がっている緑はゴルフ場です。ゴルフ場というよりはゴルフが出来る公園と言った方がいいかもしれません。モスクワから700km離れたロシアの地方都市スタールイ・オスコル(Старый Оскол / Stary Oskol )には、このような場所もありました。一見しただけではゴルフ場とはわかりませんがよく見るとグリーがあり旗(ピン)が立っていました。

小学生か中学生くらいの子供さんがゴルフを楽しんでいる光景に出会いました。将来はプロゴルファー?


近くにはマンション群もありました。ここは新しいスポーツ施設でゴルフ以外にパターゴルフなど、いろんな娯楽施設がありました。
夜行の寝台列車に乗ってモスクワに戻るまでにたっぷりと時間があったので、チーズのフライでビールを飲んだ後に、クリックすると拡大地元出身(モスクワ在住)の方に、この場所を案内してもらえました。
この時の時刻が16時23分で、右の写真の寝台列車の発車時刻18時00分まで1時間37分でした。寝台列車はスタールイ・オルコスを4月27日18時00分に出発し12時間かけて翌日(4月28日)の6時00分にモスクワへ戻ってきました。
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posted by SORI at 09:01| Comment(14) | TrackBack(2) | ロシア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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