2024年04月09日

明石城の花見 第88回ハイク参加

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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今までに何度か紹介したように新入社員で配属になったのがクリックすると拡大神戸事業所でそこの仕事仲間の人達の多くとは組織ごと東京に転勤になりました。その後、転勤や退職で神戸に帰った人たちが定期的に行っておられました。そのことを偶然知ったのが2018年12月26日でした。私は千葉県に住んでいますが、2018年の年末に関西に行ったときに、その人たちの神戸駅前で行われた忘年会に初めて参加させていただき、その時に年に数回ほどハイキングを行うことを聞いて、私が関西に行ったときにタイミングが合えば参加させていただくことになりました。今までに参加させていただいたのは第72回から7回で、今回が8回目参加の第88回ハイク(2024年3月29日)で、明石公園(明石城)での花見でした。明石は隣接はしていますが神戸ではありませんが、神戸の仲間の集まりで隣の市なので、カテゴリーは神戸にしました。

今までに参加したハイキングの場所の地図も掲載しておきます。紫色マーク( )が今までに参加したハイキングです。
    2018年12月26日(水) 冬の忘年会 権太
 第70回 2019年01月19日(土) 兵庫七福神巡りハイク
 第71回 2019年03月16日(土) 金比羅宮参拝と讃岐うどんを賞味するハイク
第72回 2019年04月20日(土) 神戸市北区の重要文化財巡りハイク
 第73回 2019年05月18日(土) 奈良斑鳩の里での散策ハイク
 第74回 2019年06月15日(土) 神戸にある世界の宗教寺院巡りハイク
    2019年07月16日(火) 夏の親睦会 燦(SUN)
 第75回 2019年09月20日(土) 神戸鶉野飛行場跡各種設備など散策ハイク
第76回 2019年10月19日(土) 京都洛西の竹林と古墳巡りハイク
第77回 2019年11月16日(土) 太陽の塔の内部見学(予約)と周辺散策ハイク
    2019年12月25日(水) 冬の忘年会 権太
 第78回 2020年01月16日(木) 神戸井植記念館と周辺散策ハイク
 第79回 2020年01月30日(木) 京都迎賓館と周辺散策ハイク
第80回 2020年02月15日(土) 丹波篠山ハイク
第81回 2020年03月21日(土) 神戸市立森林植物園の散策
第82回 2022年06月21日(火) 神戸市立森林植物園のアジサイ鑑賞、散策
第83回 2023年05月13日(火) 宝塚花のみち~文化芸術芸術センターなど散策
第84回 2023年06月20日(火) 鶴見緑地散策
    2023年07月21日(金) 夏の親睦会 燦(SUN) 16名参加
第85回 2023年10月13日(火) 兵庫大仏/清盛塚など散策
 第86回 2023年11月14日(火) 有馬温泉(瑞宝寺公園 路地裏散策 金の湯)散策
     2023年12月22日(金) 冬の忘年会 燦(SUN)
 第87回 2024年02月20日(火) 須磨離宮公園での観梅
第88回 2024年03月29日(金) 明石公園での花見
第89回 2024年05月10日(金) 五月山公園の新緑散策&ラーメンミュージアム
:参加  :予定  :新型コロナを配慮して場所を選択


今までは関西に来ている時に参加したため、泊まっている実家の最寄の逆瀬川駅が出発地でしたが、今回は千葉県の自宅からクリックすると拡大直接集合場所の明石駅に行きました。自宅を5時35分に出発し、品川から新幹線に乘り新大阪で新快速に乗り換えて明石駅に向かいました。時間帯によっては'こだま'に乗り換えて西明石経由の方が早い着く場合があります。写真は新大阪駅の神戸方面に行くホームです。
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花見の差し入れに新大阪駅で赤福を買いました。関西に実家があり神戸にも行く機会が多いのに、不思議と新大阪から神戸や明石まで快速や新快速に乗ったは数十年ぶりなので窓からの景色を沢山撮りました。会社の神戸事業所に行く場合は新幹線で新神戸まで行くのが便利だし、会社の明石事業所(西明石)に行く場合は新幹線で西明石まで行くのが便利だからです。
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こちらは、私が中学生時代に通っていた神戸市立本山中学校です。この地区に小学校4年から高校2年まで住んでいて小学校は神戸市立本山第一小学校に通っていました。思い出すと懐かしいです。
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明石駅に着きました。明石駅のホームから明石城よく見えるので明石城のクリックすると拡大写真を何枚か撮りました。城のような建物が2つ見えていますが左(南西)が坤櫓(ひつじさるやぐら)で右(南東)が巽櫓(たつみやぐら)です。2つの櫓が本丸の左右の櫓になります。クリックすると特別に大きく拡大するように設定いたしました。
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クリックすると拡大本丸部分を拡大いたしました。
明石公園の右のシンボルマークのような構図です。
坤櫓と巽櫓は復元されたものではなく江戸時代の本物で国の重要文化財です。本丸には天守台は残っていますが、天守閣は建設されなかったそうです。明石城は第2代将軍の徳川秀忠の築城命令(1617年)により建設が始まり、江戸時代(1603年~1868年)の15年目の1618年(元和4年)に完成したそうです。一国一城令で廃城になった三木城、高砂城、枝吉城、船上城、伏見城などの材料が利用されたようで、坤櫓は伏見城から、巽櫓は船上城から移築されたとされています。
本丸の北東隅には艮櫓(うしとらやぐら)が、北西隅には乾櫓(いぬいやぐら)があり、本丸は四隅に櫓がある姿でしたが、残念ながら艮櫓は1881年(明治14年)に、乾櫓は1901年(明治34年)に解体されてしまったそうです。
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こちらが伏見城からの移築されたとされている坤櫓(ひつじさるやぐら)です。
クリックすると拡大天守閣が作られなかったことから、この坤櫓が天守の役割をしていたようです。位置的にも坤櫓のすこし奥に天守台があります。坤櫓は1631年(寛永8年)の寛永の大火の際に焼け落ち、現存櫓は再建したものと考えられているそうです。右の櫓内部の写真は明石公園のHPから転用させていただきました。
寛永の大火とは、築城12年後の寛永8年(1631年)の正月、本丸の高い崖下にある三の丸の台所からの出火により本丸が全焼した火災のことです。もし天守台の上に天守閣を築いていたら天守閣も全焼していた可能性が高い気がします。本丸の御殿が全焼したことで城崖の南側全体にあたる三ノ丸西部の内堀で囲まれた一郭の居屋敷曲輪が藩主の居館となったそうです。
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こちらが船上城からの移築とされたとされている巽櫓(たつみやぐら)です。
クリックすると拡大船上城は一国一城令により取り壊さることとなったことから利用されたようです。巽櫓も寛永の大火(1631年)により焼失して再建されたようです。柱や垂木(たるき)や梁(はり)の木材は規格品により統一されていたことから、寛永時代の最新技術で築かれ、廃材は一切使われていないことも分かっているそうです。
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こちらが明石駅のホームです。明石城の写真を撮っていたので人がいなくなりました。
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本来の集合時間は10時45分ですが、遠方の2人(鳥取と千葉)は11時30分に設定されていました。10時45分に集合した人は明石の魚棚に花見用の食料と飲物を買いに行っていただいていました。私と鳥取からの人が集まったところで明石城に向かって歩き始めました。
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明石駅から明石城の堀までの写真です。駅出口から堀まで40mの距離なのです。


これが駅前の中堀です。
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堀沿いに入口まで歩きます。


掘り沿いに歩くと入口に近づいてきました。
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さらに近づきました。明石城は姫路城(1346年築)を意識して造られたためか、敷地的には姫路城より広い城でした。
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明石城(明石公園)への入口です。石垣が見えているところが太鼓門の跡です。
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広い広場に出ました。明石城は本丸を中心に東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられたことから、この広場は三の丸になるのだと思います。櫓は合計20基で門は合計27棟だったそうです。
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花見の宴会場所を探しているところです。ちなみに桜の花は全く咲いていませんでした。花が咲いていないことを気にする人はいませんでした。


宴会場所に目星をつけて進んでいるところです。駅前あたりに建っている高層ビルは高層マンションのプラウドタワー明石です。
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花見宴会の準備をしているところです。



明石の魚棚で買ってきた食べ物や飲み物が並びました。
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大きな焼き鯖寿司が印象的でした。
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宴会の雰囲気をお伝えします。
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鳥取から参加された方(真ん中の写真の右端の人)とは、入社3年目に低発熱量の多量の排ガスをプラチナの触媒で酸化処理して熱をエネルギーとして回収する方式のプラントを指導されながら設計して納入させていただきました。入社1~2年目に横浜の化学会社にプラントを設計して納入した案件で指導いただいた方(右の写真の右端の人)は、ハイキングを企画してしている方です。また入社した岡山県水島に納めたプラントのお手伝いをさせて抱きましたが、そのプラントの設計納入責任者/プロマネ (真ん中の写真の左端の人)の方も参加されていました。そのほかの方も私が入社してから一緒に仕事をさせていただいた方ばかりなので話が弾みました。


記事を書いていて懐かしくなったので神戸時代に私が設計を担当したプラントの写真を4枚掲載いたしました。
こちらが入社3年目に設計担当したプラントの写真です。左側は製作した神戸事業所から出荷するときの主反応器で、この中にハニカムタイプのプラチナの触媒が2段と熱交換器が納まっています。右の写真はプラント全体の写真で鉄骨の中に左の主反応器が設置されています。こちらは世界初のシステムでした。このプラントは関西に納められました。このプラントの設計を指導してくださったのが鳥取から参加してくださった方です。
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こちらが入社1~2年目で初めて全体を設計担当して、横浜に納めたプラントの写真です。クリックすると拡大このプラントを設計した時に指導してくださった先輩が上で紹介したハイキングを企画されている方です。右の写真は、そのプラントで使われるバーナー(燃焼器)の前で撮った記念写真です。このプラントを担当するまでは、製品開発のための実験をしたり、プラントの一部を設計していました。こんな話をしながら盛り上がったのです。
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別の角度からの写真です。他にも沢山のグループが来られていました。
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片付けの写真も紹介します。



坤櫓(ひつじさるやぐら)を背景に記念写真を撮りました。
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クリックすると拡大右の写真(Wikipediaから転用)の天守台まで築かれながら天守閣が建てられなかった明石城にとっては、本丸未申の角(南西端)に築かれた坤櫓(ひつじさるやぐら)は天守の役割を持っていたようです。太平洋戦争で7つの城(水戸城 大垣城 名古屋城 和歌山城 岡山城 福山城 広島城)の天守を失いましたが、明石城の坤櫓は焼けなかったのは良かったです。
クリックすると拡大 名前   明石城
 城郭構造 連郭梯郭混合式平山城
 天守   建築されず(天守台はあり)
 築城主  小笠原忠真
 築城年  1618年(元和4年)
 廃城年  1874年(明治7年) 256年間
 主な城主 松平氏(越前系)
 主改修者 松平直常
 遺構   櫓、石垣、堀、移築門
 再建造物 巽櫓と坤櫓を繋ぐ塀(1999年)
 名城度  日本100名城
 文化財  国の重要文化財(巽櫓・坤櫓)、国の史跡
 別名   喜春城(きはるじょう、きしゅんじょう)、錦江城(きんこうじょう)
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帰りながら二次会の場所を相談しました。明石での二次会はやっぱり明石焼(玉子焼)という結論になりました。


明石焼が美味しいお店で、お酒が飲めて長居が出来る条件のお店は難しいと思っていましたが、やっぱり地元の人がいると迷わず のお店に行きました。超人気の"たこ磯"の前を通ると大行列でした。"たこ磯"は神戸市須磨区に住んでいる頃に1度行ったことがあったので懐かしく魚棚を歩かせていただきました。
 明石焼 いづも  明石焼 他店  ━━ 明石魚棚商店街


こちらが明石焼いづもです。この写真はGoogle地図に登録されていた写真を転用させていただきました。お店の外の写真を撮り忘れてしまったのです。
 名前 いづも
 住所 兵庫県明石市本町1-2-19
 電話 078-912-8120 予約不可
 営業 平日 11:00~17:30  土日祝 10:00~17:30 
 定休 水曜日
 席数 44席
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これが明石焼(玉子焼)です。
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別の角度の写真です。もちろんビールもいただきました。
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ふわふわの明石焼をつゆで食べるのが、明石焼の特徴です。
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やっぱり本場の明石焼と一緒に飲むビールは最高でした。
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沢山並んだ写真も紹介します。
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こちらは女性陣の方のテーブルです。
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ラベル:花見 明石
posted by SORI at 20:08| Comment(40) | 神戸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月08日

淡路屋(駄菓子) 第85回ハイク参加

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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第85回ハイクの最初の訪問場所の兵庫大佛(兵庫大仏) 能福寺の記事で紹介したように、新入社員で配属になったのが神戸事業所でそこの仕事仲間の人達の多くとは組織ごと東京に転勤になりました。その後、私は関東に住み続けていますが、単身赴任だった人や転勤や退職で神戸に帰った人たちがハイキングなどを定期的に行っておられて偶然に、そのことを知って第72回と第76回と第77回と第80回と第83回と第84回と今回の第85回に参加させていただきました。その第85回になるハイキング(第85回ハイク)に参加させていただいて兵庫大佛/清盛塚/兵庫津ミュージアムなどを散策して初代県庁館(兵庫縣廰)の次に目指したのは、第85回ハイクでの最後の目的地()となるタイトルの淡路屋でした。上の写真がその淡路屋です。神戸周辺で淡路屋と言えば駅弁で有名な淡路屋(1904年創業)ですが、今回の目的の場所は駄菓子屋の淡路屋(1958年に片田商店として創業)です。
青色ライン(━━)が今回の第85回ハイクの散策ルート()です。
中央市場前駅(10:50集合)
クリックすると拡大 兵庫大仏
清盛塚(昼食)
兵庫津ミュージアム
初代兵庫県庁館
淡路屋(駄菓子)
和田岬駅(15:16)

初代県庁館()を見学した後は次の目的地の淡路屋()に向かい始めたところです。我々の後ろの写真は兵庫津ミュージアムの本館です。本記事ではと紹介します。
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雰囲気を感じていただくために、みんなで歩いている途中の写真を紹介します。下段は兵庫運河(新川運河)を渡っている時に新川橋から撮った写真です。運河の写真はクリックすると拡大します。
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兵庫運河(新川運河)を渡った後の写真です。最後の写真が淡路屋のある路地に入ったところの写真です。




淡路屋に着いて最初に撮った写真です。冒頭の写真です。→検索1 検索10 動画
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正面から撮った淡路屋です。商品がお店の前に沢山出されています。開店時にお店の中の通路を確保しようとすると毎朝外に出して、閉店時に室内に入れるのだと思います。右の画面はストリートビュー(SV)です。
 店名 淡路屋
    駄菓子屋
 住所 神戸市兵庫区笠松通7-3-6
 電話 078-671-1939
 営業 11:30~18:30
 定休 月曜日
 HP https://awajiya.ko-co.jp/
 TV NHK・ドキュメント72時間 選「駄菓子屋・子どもたちの小さな宇宙」 2015年5月15日
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こちらが店内です。見たことのない駄菓子が沢山売られていました。
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せっかく来たので買うことにしましたが悩みました。
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買ったのがこちらの3種類です。「くろ棒」と「ヤングドーナツ」と金色の箱に入った「チョコレート」です。金色の箱には「FUKUSUKE GOLD CHCOLATE」と書かれています。払ったお金は1つが、数十円から百円代でした。
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何しろ価格表がすごいです。
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沢山の人が来て、お店に入れない人は価格表を見て声をかけてもらうのだと感じました。貼り紙をみると、ところてんもやっていました。
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メンバーの1人が、ところてんを注文しました。
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これで200円です。
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懐かしいものも並んでいました。
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他のお客さんも何組か来られていました。
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写真の左奥が来た方向です。帰りは神戸市地下鉄・海岸線の和田岬駅から地下鉄に乗るので同じ方向に帰ります。
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和田岬駅は、帰りに乗った神戸市地下鉄海岸線の和田岬駅とJR和田岬線の和田岬駅があります。下の写真は134年前の1890年7月8日に開業したJRの和田岬駅です。開業当時の名前は和田崎町駅でしたが1895年に和田岬駅に改称しました。
クリックすると拡大右の写真は和田岬線を走っている4両編成の207系電車です。電車の写真はWikipediaから転用させていただきましたが川崎車両(株)あたりから望遠で撮ったものと思われます。電車の後ろに見える大きな倉庫のような建物株式会社ヒョウベイです。SV
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画質は悪くなりますが、ホームの部分を拡大いたしました。クリックすると同じ縮尺で広い範囲を表示します。
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和田岬線は山陽本線の兵庫駅から分岐する全長2.7 kmの支線で、鉄道建設用の資材輸送のために1888年に作られたそうです。1911年11月1日~1984年2月1日廃線までは兵庫港とつながった兵庫臨港線も分岐していたそうです。現在は朝夕に通勤用の列車が走行するのみださうです。東側には東灘駅から分岐した神戸臨港線(1907年8月20日~2003年12月1日廃線)もありました。昔はいろんな企業が国鉄を利用して輸送していたと想像されます。和田岬線の途中にあった鐘紡前駅は神戸大空襲(1945年)などで壊滅的被害を受けた鐘紡兵庫工場が閉鎖したことから1947年頃より休止状態になり1962年3月1日に廃止されました。
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上の図で和田岬線から川崎重工に分岐した線は今も使われています。現在は分社して川崎車両になっています。下記は分岐部分のストリートビュー(SV)です。左手前側が川崎車両への引き込み線で、右から奥に向かっているのが和田岬線です。画面を水平にスクロールすると川崎車両側を見ることが出来ます。
Googleマップの航空写真でも確認できます。→ポチッ1 ポチッ2 ポチッ3


こちらがJR和田岬駅です。JR和田岬駅は1890年7月8日に開業しました。道路と一体になったような完全無人駅です。
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こちらが和田岬線の和田岬駅の時刻表です。行き先は兵庫駅です。平日と日曜・祝日が極端に違う駅です。平日でも10時台~15時台は電車がありません。
平日 17本  土曜 12本  日曜・祝日 2本
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私が乗った地下鉄の和田岬駅の入口です。和田岬駅から三宮・花時計前駅まで行き、阪急に乗り換えて逆瀬川駅まで帰りました。→路線情報
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改札口まではエレベーターを使いました。右上の部分に防犯カメラに写っている画面をエレベーター内にも写していました。
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単に防犯カメラが設置されているだけでなく、撮影画面が見えると更なる犯罪抑止になるのだと思います。後ろの壁いっぱいに下がって写真を撮っているので、死角はほとんどないことになります。
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家に帰って買った駄菓子を食べてみました。先ずは下町のブラウンケーキ「くろ棒」です。ネットでは大正9年生まれの焼き菓子と書かれていました。作っている会社を調べてみるとクロボー製菓でした。
 製造 クロボー製菓株式会社/久留米黒棒本舗
 創業 大正9年
 住所 福岡県久留米市荒木町白口字栗の内1290
 電話 0942-27-2110
 HP http://www.kurobo.co.jp/
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こちらが中身です。黒砂糖、卵、小麦粉、重曹を練って寝かせた生地を棒状に成型してオーブンで焼くそうです。
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こちらがヤングドーナツです。作られているのは宮田製菓です。
 製造 宮田製菓株式会社
 創業 1953年
 住所 岐阜県各務原市鵜沼各務原町7-71-6
 電話 058-370-6020
 HP https://www.miyataseika.co.jp/
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これが中身です。
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こちらがFUKUSUKE GOLD CHCOLATE(福助ゴールドチュコレート)です。作っているのは福助製菓のようです。
 製造 福助製菓株式会社
 創業 1950年
 住所 大阪府大阪市阿倍野区共立通1-10-2
 電話 06-6651-3231
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こちらがチョコレート本体です。3つに割って写真を撮りました。
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今までに参加したハイキングの場所が紫色マーク( )で、参加予定のハイキングが臙脂色マーク( )です。
    2018年12月26日(水) 冬の忘年会 権太
 第70回 2019年01月19日(土) 兵庫七福神巡りハイク
 第71回 2019年03月16日(土) 金比羅宮参拝と讃岐うどんを賞味するハイク
第72回 2019年04月20日(土) 神戸市北区の重要文化財巡りハイク
 第73回 2019年05月18日(土) 奈良斑鳩の里での散策ハイク
 第74回 2019年06月15日(土) 神戸にある世界の宗教寺院巡りハイク
    2019年07月16日(火) 夏の親睦会 燦(SUN)
 第75回 2019年09月20日(土) 神戸鶉野飛行場跡各種設備など散策ハイク
第76回 2019年10月19日(土) 京都洛西の竹林と古墳巡りハイク
第77回 2019年11月16日(土) 太陽の塔の内部見学(予約)と周辺散策ハイク
    2019年12月25日(水) 冬の忘年会 権太
 第78回 2020年01月16日(木) 神戸井植記念館と周辺散策ハイク
 第79回 2020年01月30日(木) 京都迎賓館と周辺散策ハイク
第80回 2020年02月15日(土) 丹波篠山ハイク
第81回 2020年03月21日(土) 神戸市立森林植物園の散策
第82回 2022年06月21日(火) 神戸市立森林植物園のアジサイ鑑賞、散策
第83回 2023年05月13日(火) 宝塚花のみち~文化芸術芸術センターなど散策
第84回 2023年06月20日(火) 鶴見緑地散策
    2023年07月21日(金) 夏の親睦会 燦(SUN) 16名参加
第85回 2023年10月13日(火) 兵庫大仏/清盛塚など散策
 第86回 2023年11月14日(火) 有馬温泉(瑞宝寺公園 路地裏散策 金の湯)散策
     2023年12月22日(金) 冬の忘年会 燦(SUN)
第87回 2024年02月20日(火) 須磨離宮公園での観梅
第88回 2024年03月29日(金) 明石公園での花見
第89回 2024年05月10日(金) 五月山公園の新緑散策&ラーメンミュージアム
:参加  :新型コロナを配慮して場所を選択  :予定
posted by SORI at 20:07| Comment(24) | 神戸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月31日

初代県庁館(兵庫縣廰) 兵庫津ミュージアム 第85回ハイク参加

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大前記事で紹介した兵庫津ミュージアムの本館「ひょうごはじまり館」の次に行ったのは初代県庁館でした。本記事ではその初代県庁館を紹介したいと思います。清盛塚の方から歩いてきたので元々の計画では初代県庁館を見学してから本館に行くつもりでしたが、クリックすると拡大入館券は本館でしか買えなかったことから、見学の順番が反対になりました。タイトルで初代県庁館を兵庫縣廰と書いたのは、入口の看板に右の写真のように兵庫縣廰と書かれていたためです。上の写真が周囲を土塀で囲まれた初代県庁館(兵庫縣廰)です。1868年(慶応4年)5月23日に兵庫県が出来て兵庫県庁と呼ばれる前は大坂町奉行所兵庫勤番所でした。初代県知事はクリックすると拡大内閣総理大臣(初代・5代・7代・10代)になった右上の写真の伊藤博文でした。伊藤博文は1841年10月16日生まれなので兵庫県知事なったのは26歳ということになります。若い時の写真も右に紹介します。現兵庫県知事の斎藤元彦さんも若いけれども、それでも20歳年上の46歳(就任時は44歳)です。初代県庁館がオープンしたのは2年前の2021年11月3日で、2022年11月24日にオープンしたひょうごはじまり館の1年前です。

2つの航空写真の青色ライン(━━)が今回の第85回ハイクの散策ルートです。
右側の航空写真が第85回ハイクの全ルート()で、左側の航空写真がの航空写真です。本記事ではの初代県庁館を紹介したいと思います。右写真は前記事(兵庫津ミュージアムの本館)で使わさせていただいた初代県庁館です。→SV1 SV2 SV3 クリックすると拡大
  中央市場前駅(10:50集合)
  兵庫大佛
  清盛塚(昼食)
  兵庫津ミュージアム
  初代兵庫県庁館
  淡路屋(駄菓子)
  和田岬駅(15:16)


こちらが初代県庁館の入口の門です。
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入口の門を拡大すると兵庫縣廰と書かれた看板を確認できます。
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入口の門をくぐってすぐの景観です。左側の建物の入口が県庁舎の玄関です。右側の門をくぐると県庁舎の庭が広がっています。
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兵庫県立兵庫津ミュージアムのホームページ(HP)からイメージ図をクリックすると拡大転用させていただきました。右側の大きな建物が兵庫県庁/県庁舎()で、左側の奥の2つの建物が勤番所時代に兵庫津に住んだ下級役人(地付同心)の官舎/同心屋敷()で、同心屋敷の手前の建物が取次役所()でカフェとして飲み物などを提供しています。一番手前の歩道に接した建物は和田岬沖を航行する船を見張る船見番小屋()で休憩処として利用できるようになっていました。兵庫県庁(県庁舎)の左奥の小さな建物が、クリックすると拡大犯罪人を短期間拘置するために使われていた仮牢()と牢番のいる番小屋です。中央の一番手前に初代県庁館への入口があり長屋門()になっています。神戸覧古(明治時代発刊)とにあった長屋門と東に続く土塀の右の勤番所の絵を元に再現したそうです。
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初代県庁館は下の2枚の上側の兵庫勤番所絵図と同じ配置で作られていることが判っていただけると思います。文字が読みにくいのでクリックすると比べてやすいと思います。
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Googleマップでも初代県庁館の配置を紹介します。


県庁舎()を紹介する前に取次役所()と船見番小屋()を紹介します。同心屋敷()と仮牢()の方にはいかなかったことを後で後悔いたしました。
こちらがの取次役所です。カフェとして利用されていました。
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カフェのメニューが入口の前に立てられていました。
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カフェのメニューの内容を紹介します。最寄り駅は中央市場前(神戸市営地下鉄)です。歩いて260mのきょりです。
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別の入口にもカフェのメニューが立てられていました。
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こちらがの船見番小屋です。こちらの建物は休憩所として利用されていました。
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昔風に条々が立てられていました。兵庫津街歩きの際の注意事項のようです。
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当時の大砲も展示されていました。
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ここからがの兵庫県庁/県庁舎/勤番所の説明です。1868年(慶応4年)5月23日に兵庫県が出来る前は同じ建物を勤番所と呼んでいたようです。こちらば県庁舎の玄関です。
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玄関の入口に近づきました。正面に説明板か置かれています。
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先ずは玄関を入ったところでボランティアの説明員の方から詳しい説明をしていただきました。
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説明してもらっている時に斜めから撮った説明板です。
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正面から撮った「初代県庁館について」の説明板です。左側が「兵庫城から勤番所へ」で、右側が「兵庫県庁の誕生」です。「勤番所(初代県庁舎)の復元」に関する説明も書かれています。クリックすると文字が読める大きさに拡大します。
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玄関の入口から建物の奥方向を撮った写真です。
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上の写真から縁側の方に出て、奥の方を撮った写真です。
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同じ位置から庭方向を撮った写真です。
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板間もありました。左の部分から仮牢を見ることが出来ました。
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近くで見なかった仮牢()と牢番小屋が県庁の建物の中から見れました。撮ったのは上の写真の左端からです。
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仮牢を撮った位置から建物の奥を撮った写真です。奥の方に家具が少し見えているところが県知事・伊藤博文の執務室の場所です。その左側の外が見えているところが罪人を裁く吟味場(お白洲)です。
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こちらが吟味場(お白洲)です。仮牢に入れられていた罪人がここに座らされたのだと思います。
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吟味場の場所の横には県知事執務室にも接していました。
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こちらが県知事の知事執務室です。
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知事執務室のテーブルです。もちろん当時の物ではありませんが、近いものを選んだのかもしれません。
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ボランティアの方から初代県庁に関することだけでなく兵庫運河が日本最大級など兵庫津の詳しい説明をしていただきました。
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知事執務室の端に「雪隠」の表示がありました。雪隠は便所のことです。
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縁側の左側が「雪隠」です。
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「湯殿」の表示もありました。
「雪隠」は知事執務室の東の縁側の端にあり、「湯殿」は知事執務室の南の縁側にありましたした。右の図が全体の配置図から「湯殿」と「雪隠」の部分を切り取り図です。
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こちらが湯殿です。
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知事執務室あたりから見た庭です。
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知事執務室の南側の縁側の西端から見た庭や建物の景色です。
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県庁舎を昔の図面通りに木材で作ると耐震性が問題となることから、鉄骨が中に入った木材が重要な部分に使われています。遠くから見ると見わけが付きませんが、この写真のように近づいてみると分かります。2本の接合面が判っていただけると思います。この柱は分かりやすかったけれども分かりにくい方が多かったです。
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庭越しに見た県庁舎の建物です。
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もう一枚庭越しの写真を紹介します。
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初代兵庫県庁は手狭であったことなどから、すぐに二代目県庁が坂本村(現在:神戸市中央区橘通)が作られ初代県庁は役目を終えたそうです。
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兵庫県が現在とほぼ同じ範囲(第3次兵庫県)になったのは明治9年8月からだったのです。明治4年11月~明治9年8月(第2次兵庫県)では飾磨県+豊岡県+兵庫県が現在の兵庫県に近い状態でした。慶応4年~明治4年11月(第1次兵庫県)に至っては兵庫県は着色された部分だけだったのです。初代県庁が出来たのは、その第1次兵庫県の時代でした。
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初代県庁(建てられた時は勤番所)は兵庫城跡に作られたことから、最後に兵庫城の復元図を紹介します。クリックすると拡大兵庫城が城として機能していたのは戦国時代の短い期間だけで江戸時代には城はなくなり、右の図の陣屋となったそうです。
 築城主 池田恒興
 築城年 1581年(天正9年)
 廃城年 1769年(明和6年) → その後は勤番所
1615年に大坂城落城後は兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれたそうです。1769年には上知令により兵庫津一帯は天領となり、大坂町奉行が支配することになり、兵庫勤番所と呼ばれたそうです。明治維新期に勤番所が初代の兵庫県庁となり、伊藤博文が初代知事として赴任したわけです。1873年までは、外郭となっていた土塁が残っていたそうですが、市街地発展のため取り除かれ、1874年に兵庫港が大幅に改修され、兵庫新川運河が出来て、兵庫城跡は完全になくなってしまったそうです。
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初代県庁館を見学した後は次の目的地の淡路屋(駄菓子店)に向かいました。我々の後ろの写真は兵庫津ミュージアムの本館です。
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posted by SORI at 23:59| Comment(28) | 神戸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月27日

2022年11月にオープンした兵庫津ミュージアム 第85回ハイク参加

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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この写真が今回紹介する兵庫津ミュージアムです。手前の和風建築が兵庫県の初代県庁を復元した初代県庁館()で、奥の近代的建物が兵庫津ミュージアムの本館となる「ひょうごはじまり館」()です。本記事では博物館設備となる「ひょうごはじまり館」を紹介したいと思います。初代県庁館は次に紹介したいと思います。我々はこの写真の後ろ側から歩いてきたので初代県庁館に最初に入るつもりでしたが入館券は本館側でしか売られていないことから先に「ひょうごはじまり館」に入りました。「ひょうごはじまり館」がオープンしたのは2022年11月24日なので、1年しかたっていなかったのです。建物の竣工は2022年9月だそうです。
建物の名前にもなっている兵庫津は8世紀の初め頃に大輪田泊と呼ばれ、近畿から西に向かう航路の船泊りとして築かれたそうです。804年に第4回遣唐使として最澄空海が船出してたことは有名いきました。平安時代の終わりごろには平清盛が日宋貿易のために大きな港に修築して重要な国際貿易港になったそうです。鎌倉時代以降に兵庫津と呼ばれるようになり、室町時代には勘合貿易の国際港として栄えたそうです。江戸時代には北海道や東北の日本海沿岸と近畿を結ぶ北前船の発着港として使われ、町は発展し江戸中期には2万人を超える町になったそうです。兵庫県の最初の県庁が兵庫城跡に置かれ、初代県知事に伊藤博文が就任し、明治になっても国際貿易港として大きく発展すると共に兵庫運河も作られたそうです。

2つの航空写真の青色ライン(━━)が今回の第85回ハイクの散策ルートです。
右側の航空写真が第85回ハイクの全ルート()で、左側の航空写真がの航空写真です。本記事ではの清盛塚を出発してからの兵庫津ミュージアムまでを紹介したいと思います。右の写真は清盛塚()からクリックすると拡大兵庫津ミュージアム()に移動すると途中で渡った兵庫運河です。
  中央市場前駅(10:50集合)
  兵庫大佛
  清盛塚(昼食)
  兵庫津ミュージアム
  初代兵庫県庁館
  淡路屋(駄菓子店)
  和田岬駅(15:16)


初代県庁館の写真は沢山撮りましたが、兵庫県立兵庫津ミュージアムの本館()となる「ひょうごはじまり館」は撮っていなかったので、ハイキングに参加した人を撮った写真の背景に本館がクリックすると拡大写った写真を紹介します。次の淡路屋(駄菓子店)に向かって歩き始めた時の写真です。
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Googleマップのストリートビュー(SV)でも紹介します。中世〜近世の呼び方の兵庫津のは 「海岸・河口・川の渡し場などの、船舶の停泊するところ。船つき場。港。」の意味です。現代で言えば兵庫港になるのだと思います。兵庫津と呼ばれていた時代は兵庫関や兵庫島とも呼ばれていたことがあるようです。


こちらが兵庫津ミュージアム「ひょうごはじまり館」の博物館エリア(有料)の入口を入ったところです。
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奥の方から入口を撮った写真です。
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入口に入って最初の展示物です。
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応仁・文明の乱(1467年~1477年)などの戦乱の時代の兵庫津の展示です。
奈良時代(710年~794年)には、僧・行基が開いたとされる摂播五泊(室生泊、韓泊、魚住泊、大輪田泊、河尻泊)の一つ大輪田泊と呼ばれていました。1162年からは平清盛によって大修築も行われ1173年には、広さ37万㎡(37ha)と推定されている人工島・経が島も完成したそうです。さらに僧・重源による改修を経て鎌倉時代(1185年~1333年)に国内で第一の港として兵庫津と呼ばれるようになったそうです。人口島の経が島は地形変化等により場所が特定出来ないそうですが、神戸市兵庫区の阪神高速3号神戸線以南・JR西日本和田岬線以東の地、あるいは兵庫区島上町の来迎寺(築島寺)周辺と想定されているそうです。
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兵庫津がにぎわった時代の展示です。今まで、これらの時代と兵庫との関りはほとんど知らなかったことを実感いたしました。兵庫津は今の神戸港より西になります。港としての中心的場所はコンテナ化などにより徐々に東の方に移っていたようです。クリックすると拡大安政5年6月19日(1858年7月29日)に結ばれた右の写真の日米修好通商条約で開港5港で選ばれた神戸は、当時は兵庫と言われていたようです。
第三條の原文 和文 英文
 下田箱館の港の外次にいふ所の場所を左の期限より開くへし
 神奈川 午三月より凡十五箇月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日
 長崎  午三月より凡十五箇月の後より 西洋紀元千八百五十九年七月四日
 新潟  午三月より凡二十箇月の後より 西洋紀元千八百六十年一月一日
 兵庫  午三月より凡五十六箇月後より 西洋紀元千八百六十三年一月一日
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立派な屏風の展示されていました。
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国際交流としての港の歴史の展示です。
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江戸時代になり北前船の発着港で発展と共に町が栄えたことが感じられます。北前船の模型も雰囲気を盛り上げてくれていました。
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北前船を拡大しました。
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横から撮った写真です。
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北前船を船尾から撮った写真です。
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江戸時代の庶民の生活の絵なども展示されていて、町が栄えた風景が実感できました。写真は当時有名だった兵庫生洲(ひょうごいけす)の様子の図で、寛政8(1796)年の「摂津名所図会」の中で、魚市のほか南浜の今出在家町にあった「兵庫生洲」を紹介した図のようです。クリックすると拡大長さ十三間×幅四間(24m×7m)ほどの屋根を持ったいけすに鯛、鱧、鱸など多彩な魚が飼われていたそうです。不漁時にはここから活魚を市場に出したり、京の御所にも献上したと伝えられているそうです。右がネットから転用させていただいたオリジナルの絵です。
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北前船の前の床には大きな地図が描かれていました。
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兵庫津の名所めぐりのすごろくでした。
クリックすると拡大右は摂陽山海古覧の神戸駅ができる前の神戸を描いた図です。湊川の右岸(右奥側)が兵庫津で、湊川の左岸(左手前)が神戸港側です。兵庫津が繁栄していたことが伝わってきます。右の図は神戸新聞のサイトから転用させていただきました。
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分かりやすくするために縦方向を拡大しました。左下端に和田岬があり、我々が訪問した清盛塚は左上にあります。戦国時代の短い期間に存在した兵庫城は、中央左側の勤番所と書かれていたところにありました。兵庫運河の記事の中で兵庫城跡と書いている辺りです。下方向が概ね東方向になります。
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兵庫大佛の記事で紹介した神戸事件もアニメを交えて詳しく書かれていました。このようなつらい事件や戦争を経験してきましたが、神戸港の歴史は古代から続いて来たことを実感しました。
 古代 摂播五泊(室生泊、韓泊、魚住泊、大輪田泊、河尻泊)の一つとして発展
 中世 遣隋使・遣唐使 日宋貿易の拠点 国内で第一の港 日明貿易の拠点
 近世 北前船などの国内輸送 日米修好通商条約による開港
 近代 日本や世界の経済発展と共に拡大
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昔の古い写真の中に自分たちが写り込む画面もありました。クリックして拡大すると4人が写り込んでいることが分かっていただけると思います。
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私が画面に写り込んでいる写真も紹介します。カメラを構えているのが私です。画像の中の建物は1874年(明治7年)に開業した初代の神戸駅です。
新橋駅~横浜駅間の鉄道開通(1872年)に続く2番目の鉄道の大阪駅~神戸駅の路線の終着駅です。
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明治時代のHiogo and Kobe Map(兵神市街之圖)も展示されていました。
真ん中あたりに日本で2番目の鉄道の大阪駅~神戸駅の路線の終着駅の神戸駅があります。
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神戸駅あたりを拡大しました。私が新入社員として配属になった神戸事業所(明治初期設立)は神戸駅の南に今でもあります。クリックすると同じ縮尺で広範囲を表示します。クリックすると拡大クリックすると拡大
明治21年に出版された右の地図でも神戸駅が確認出来ました。当時に会った会社や商店もその地図で確認出来ました。銀行だけでも、第一國立銀行第三十八國立銀行第五十八國立銀行第六十五國立銀行三井銀行横濱正金銀行クリックすると拡大神田銀行島田銀行と廣田銀行と第七十三国立銀行の10行が書かれていました。明治11年頃の右の横長の「兵庫幕下摂津國八部郡兵庫港市街地図」にも神戸駅や湊川砲台(湊川崎砲台/湊川崎台場)が書かれていました。この地図の存在は入社当時の方からLINEで教えていただきました。
クリックすると拡大右の地図の湊川(湊河)の西岸の星マーク( クリックすると広範囲を表示)が勝海舟が設計して幕府軍艦方が作った湊川砲台の位置だと思われます。明治以降は湊川砲台の砲台や石堡塔(雨覆)やその敷地は陸軍省の所管となりましたが明治24 年(1891年)火災で石堡塔の内部の木造部分が焼失したため解体されたそうです。近くの和田岬には同型の和田岬砲台の石堡塔が残されています。
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博物館エリアから出て来たロビーに置かれていたので、レストランのサンプルかと思ったら特産品を使った昔の料理のサンプルでした。
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Googleマップの航空写真で紹介しておきます。兵庫津ミュージアムを紹介します。右側が本館で左側が初代県庁館です。2023年12月の時点のGoogleマップでは本館の周囲には足場が組まれていて工事知友の時期に撮られた航空写真が使われているようでした。
初代県庁館が出来る前は納田商店さんの加工場(神戸市兵庫区中之島2丁目2-28)があったようです。納田商店さんは神戸市兵庫区出在家の3ケ所に第一加工場(2-2-21)と第二加工場(1-5-14)と冷蔵保管庫(1-4-20)があり、兵庫区中之島1丁目の神戸市中央卸売市場に営業所があるようです。
posted by SORI at 14:51| Comment(22) | 神戸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月01日

清盛塚 第85回ハイク参加

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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3つ前の記事「兵庫大佛(兵庫大仏) 能福寺 第85回ハイク参加」で紹介した兵庫大佛の次の目的地は上の写真の石造十三重塔の清盛塚でした。
この清盛塚は、平清盛が亡くなって105年後の弘安9年(1286年)に建立された平清盛(1118年2月17日~1181年3月27日)の供養塔だそうです。鎌倉幕府9代執権の北条貞時(1271年~1311年)によって建立されたと言われているそうです。在職期間(1284年~1301年)から見て、執権となって2年目(14歳or15歳)に建立したことになります。鎌倉から遠く離れた場所ですが、平家に対するあつかい見かねたのかもしれません。

2つの航空写真の青色ライン(━━)が今回の第85回ハイクの散策ルートです。
右側の航空写真が第85回ハイクの全ルート()で、クリックすると拡大左側の航空写真が本記事のの航空写真です。本記事ではの兵庫大佛を出発してからの清盛塚までを紹介したいと思います。右の写真は清盛塚の横に建てられている平清盛像です。
  中央市場前駅(10:50集合)
クリックすると拡大  兵庫大佛
  清盛塚(昼食)
  兵庫津ミュージアム
  初代県庁館
  淡路屋(駄菓子)
  和田岬駅(15:16)


こちらが兵庫大佛があった能福寺を出発したところの写真です。写真の左隅の黄色のラインで囲ったところが能福寺の出入口です。
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クリックすると拡大道の街路樹が純和風に手入れされている珍しい道でした。兵庫大佛(能福寺)もこの通り沿いだったので和風街路樹でした。この通りは平清盛に縁(清盛塚と墓所)があるので特別な通りのかもしれません。平清盛はこれから向かう先にあり、右の写真の墓所は能福寺の中にありました。
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反対車線側の街路樹も同じでした。街路樹の種類はイヌマキです。神戸市兵庫区三河口町~御崎本町にかけて続く古湊線に植えられて玉造仕立ての樹形だそうです。イヌマキの分類を紹介します。クリックすると拡大
 界 植物界     Plantae
   裸子植物    gymnosperms
 綱 マツ綱     Coniferopsida
 目 ナンヨウスギ目 Araucariales
 科 マキ科     Podocarpaceae
 属 マキ属     Podocarpus
 種 イヌマキ(犬槇) Podocarpus macrophyllus
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車道(横断歩道)からのこのアングルの写真を撮っていなかったので、ストリートビュー(SV)で和風の街路樹を紹介させていただきました。


兵庫大佛(能福寺)の入口の近くでは写真を撮っていたので写真で紹介します。
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兵庫大佛があった能福寺から清盛塚がある兵庫住吉神社の前までの歩いている風景を紹介します。





左側が兵庫住吉神社です。少し先に入口があります。
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こちらが冒頭の写真の清盛塚の入口です。
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中に入って入口の方を振り返ったところです。入口の石の門柱には昭和四年十二月建立と書かれています。その下には寄進された思われる三人の名前が書かれています。その左側にある大きな石碑は神戸市役所が大正十二年十月に建てた、清盛塚十三重塔の移設に関する説明碑でした。
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さらに清盛塚のある高さのところまで上がったところです。
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これが石造十三重塔の清盛塚を正面から撮った写真です。冒頭の清盛塚の写真は、この写真から切り取りました。
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清盛塚の横には詳しい説明板がありました。クリックすると読める大きさに拡大します。内容を枠内に転記する形で紹介します。今から737年前の1286年に清盛塚として造立された高さ8.5mの石造十三重の塔だそうです。
県指定文化財 清盛塚石造十三重塔

   指定年月日    昭和35年5月12日

   所有者・管理者  神戸市

 この石塔は古くから清盛塚と呼ばれ、北条貞時の建立とも伝えられててます。当初は現在地より南西11mにあり、平清盛の墳墓とも言われていましたが、大正時代の道路拡張に伴う移設の際の調査で、墳墓でないことが確認され、現在地に移設されました。

 石塔は、高さが8.5m、初層は一辺145cm、最上層は一辺88cmを測り、基礎部台石東面の両脇に「弘安九」「二月日」の銘があり、弘安九年(1286年)に造立されたことがわかります。

 石塔の隣には、神戸出身の彫刻家である柳原義達の作になる平清盛像が建てられています。今なお清盛塚は、地域の人々によって敬われ、大切に守られています。

  平成23年12月

神戸市教育委員会 岡方協議会
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拡大した清盛塚石造十三重塔を紹介します。上の説明板にあるように高さは8.5mで見上げると高かったです。琵琶塚が写っています。クリックすると面積で16倍に拡大いたします。
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クリックすると拡大平清盛の墓所と伝えられている場所で最初に出てくるのが、3つ前の記事で紹介した能福寺(右の写真の兵庫大佛のある寺)です。今回の清盛塚から490mの場所にある平清盛廟(平相国廟)です。クリックすると拡大下の写真の真中が、その平清盛廟(平相国廟)で、左の九重塔が忠快法印塔(鎌倉時代)で、右の小さな石塔が圓實法眼宝篋印塔(鎌倉時代)です。このことからも平清盛が兵庫のこの地と縁が深いことを実感しました。
「能福寺 平相国廟」以外で、平清盛の墓所とされているのは 「切戸 清盛塚 石造十三重塔(今回の記事の清盛塚)」、「六波羅蜜寺 平清盛塚」、「祇王寺 平清盛の供養塔」、「彦島の清盛塚」です。平清盛は平家が大敗した一ノ谷の戦い(1184年3月20日)の3年前に鴨川東岸にある盛国の屋敷で病死(1181年3月27日)しました。
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平清盛像と琵琶塚が見える角度です。
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平清盛像と琵琶塚を拡大しました。琵琶塚は平清盛の甥になる平経正の塚と言われているそうです。平経正は平家一門の中でも俊才として知られ、歌人として活躍したそうです。さらに平安貴族が愛用した楽器の琵琶の名手としても知られていたそうです。
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クリックすると拡大平清盛像の顔の部分です。清盛塚の横に建つ清盛像を作った柳原義達さんは1910年3月21日に兵庫県神戸市に生まれ東京美術学校彫刻科を卒業した彫刻家だそうです。この平清盛像は58歳の1968年10月に建立したそうです。
六波羅蜜寺の鎌倉時代・13世紀に造られた平清盛像の顔を比べるために美術展ナビから右に六波羅蜜寺の平清盛像の顔を転用させていただきました。
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琵琶塚の単独の写真も掲載いたします。碑の裏には「明治三十五年十一月建之 参議正三位備中権守平朝臣経盛卿嫡子但馬守平経正卿 寿永三年二月戦死」と書かれていることから、今から121年前の1902年(明治35年)に建立されことになります。清盛塚と同様に大正時代に傍の道路拡張工事に伴い今の場所に移設されたそうです。元あった場所は前方後円式の古墳で、その古墳が無くなってしまったことから、平経正の墓所は琵琶塚と言うことになるようです。Wikipediaでも平経正の墓所は「兵庫県神戸市兵庫区切戸町1-3 琵琶塚」と書かれています。平経正は源平合戦での一ノ谷の戦いにおいて、河越重房の手勢に討ち取られて寿永3年2月7日(1184年3月20日)に戦死しました。戦死場所は不明ですが生田の森を守っていたので、ここに比較的近い場所だと想像されます。
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こちらが清盛塚のある兵庫住吉神社の拝殿です。
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その拝殿の横で昼食を食べさせていただきました。日本酒とコニャックをみんなで飲みながら持ってきたお弁当を食べました。写真の左端に朱色が写っていますが、兵庫住吉神社の敷地内にある橋本稲荷大明神の柵です。
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クリックすると拡大昼食を食べて話が弾んだところで次の目的地の兵庫津ミュージアムに向かいました。そこには右の写真の初代兵庫県庁を復元した初代県庁館がありました。
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posted by SORI at 19:52| Comment(20) | 神戸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年11月23日

兵庫運河 第85回ハイク参加

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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前記事「兵庫大佛(兵庫大仏) 能福寺」の中で兵庫運河のことを紹介しましたが、日本最大級の運河とネット内で書かれいてるだけあって立派な運河だったので、兵庫運河を単独の記事として掲載させていただきます。
この辺りは奈良時代以来、大輪田泊(平清盛時代の呼名)や務古水門(さらに古い呼名)や兵庫湊(中世の呼名)や兵庫津(近世の呼名)と呼ばれ兵庫港を中心に栄えてきましたが、動力船が普及していない明治以前は和田岬が船の難所で被害が多かったことから豪商・神田兵右衛門によって兵庫運河の築造が計画され、1874年に着工しましたが難航して新川運河が1875年に完成したところでとどまっていましたが、約20年後に実業家の八尾善四郎が中心になって1894年に兵庫運河株式会社を設立し1896年に工事に着手して1899年12月に兵庫運河全体が完成したそうです。上の写真は大輪田橋から北方向に撮った新川運河です。つまり兵庫運河の中で最初に完成した新川運河です。中央の兵庫区のゆるキャラ「ハートン」が描かれた大きな水門は大輪田水門で、左側の小さな水門の奥が大輪田ポンプ場です。

兵庫運河は下記の表のように5つの運河(兵庫運河・兵庫運河支線・新川運河・苅藻島運河・新湊川運河)で構成され総面積が34haとなる巨大な運河です。兵庫運河の5つの区分を色分けしてGoogle地図に書き込みました。上のGoogle地図は神戸市役所の都市局未来都市推進課の兵庫運河の今昔物語の中にあった右の兵庫運河の地図を参考に作りました。臙脂色ライン(━━)が今回のハイキングで歩いたルートで、青紫色マーク( )は運河の写真を撮った橋の場所です。赤色マーク( )は兵庫城跡です。クリックすると拡大
右の地図をクリックすると拡大するので下の地図と比べてみてください。
        長さ(km) 面積(㎡)
   新川運河   1.53   57,700
   兵庫運河   1.66 114,500
   兵庫運河支線 0.76   5,700
   苅藻島運河  2.20 150,000
   新湊川運河  0.32   9,400
       合計 6.47 337,300 


ハイキングで歩いて見ることが出来たのは兵庫運河の中の新川運河の一部だけだったので新川運河の辺りを拡大しました。表示は航空写真モードにしています。青紫色マーク( )の写真1と写真2と写真3の3ケ所で写真を撮ったので下で紹介していきたいと思います。過去の運河の記事→ポチックリックすると拡大
臙脂色ライン(━━)の最も左上の部分に前記事で紹介した右の写真の兵庫大佛(兵庫大仏)がありました。
 ━━━━  ハイキングでの散策ルート
 写真1 入江橋
 写真2 大輪田橋
 写真3 新川橋      兵庫城跡



写真1 入江橋からの写真 中央市場前駅→兵庫大仏
ハイキングの待ち合わせ場所である神戸市営地下鉄・海岸線の中央市場前駅から兵庫大佛(兵庫大仏)のある能福寺を目指している時に兵庫運河(新川運河)を渡った時の写真です。入江橋から北方向を撮った写真です。漁船と思われる船が沢山停泊していました。車道から同じ方向のストリートビュー(SV)です。→SV1
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新川運河を渡っている時のハイキングのメンバーの写真です。


こちらは神戸市役所の都市局未来都市推進課の兵庫運河の今昔物語の中に掲載されていた運河が出来たばかりの頃の運河の写真です。写真の左端の日本髪の女性が印象的です。位置は分かりませんが運河の渡し船の写真です。運河が出来たころはまだ橋がなく渡し船で渡っていたようです。新川運河以外の運河が完成するまでは船舶の避難地として使われていたそうです。時代が進むにしたがって動力船の進歩により本来の目的であった難所であった和田岬の迂回路から、兵庫港周辺の経済活動を活性化させる目的に変わったようです。そのために幅広い運河になったと推測しています。新川運河の最大幅は110m、クリックすると拡大兵庫運河の最大幅は130m、苅藻島運河の最大幅は140mと兵庫運河群は幅が広く、右の写真のように昭和初期からは原木で輸入した木材の保管場所としての活用が盛んになったようです。木材の輸入方法が原木から製材へ変化したことから2005年には貯木場としての水面利用が終了したそうです。現在は散策道やプロムナードやライトアップなど市民に親しまれる空間整備を進めているようです。
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写真2 大輪田橋からの写真 清盛塚(昼食)→兵庫津ミュージアム
兵庫大佛の次に清盛塚に行き、見学の後に昼食を食べて兵庫津ミュージアムを目指しました。その途中でも兵庫運河(新川運河)を渡りました。渡った橋は1924年6月に竣工した大輪田橋(おおわだばし)でした。
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大輪田橋のひらがな読みは「おおわだばし」ではなく「おほわだはし」と書かれていました。ここは西詰北側の親柱があった場所です。この上には石柱(親柱)が立っていましたが1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災震災で崩れ落ちたそうです。実は大輪田橋は1945年3月17日の神戸大空襲での悲劇の場所でもありました。大輪田橋に避難してきた市民を空襲の炎が包み多くの命が失われた場所でもあるそうです。
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大輪田橋から景色で印象的だったのが、この大輪田水門でした。設置されている役割は高潮対策だそうです。新川運河は南と北がつながっていて北のには築島水門があり、南にはこの大輪田水門があります。新川運河以外の4つの運河には水門は設置されていないので貴重な水門のある景色です。大輪田橋から北180mの位置に兵庫城がありました。もし今でも兵庫城が残っていたらこの写真の中に写っている写真でもあります。中央の茶色のビルの少し右側あたりが兵庫城跡の石碑があるあたりです。
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クリックすると拡大このGoogleマップで兵庫城跡( )と大輪田橋(写真2)の位置関係が判っていただけると思います。右の小さな写真がWikipediaから転用させていただいた兵庫城跡の石碑と説明板です。クリックすると拡大します。


東詰北側の親柱です。カタツムリの装飾が洒落ています。
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カタツムリの装飾を拡大しました。
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東詰北側の親柱(石柱)の横に大正十三年六月竣功と書かれていました。大輪田橋の4角(東詰北側東詰南側、西詰北側、西詰南側)があったと思われますが、東詰北側を除いて3本は無いので阪神・淡路大震災震災で崩れ落ちたものと思われます。その中の1本と思わリる石柱が右側に置かれたいました。
下記の着色文字をクリックすると4ケ所のストリートビュー(SV)を表示します。
 東詰北側 東詰南側 西詰北側 西詰南側
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上の写真の折れた親柱(石柱)に説明が書かれた青銅板が取り付けられていました。それが「大輪田橋戦災・震災復興モニュメント」でした。書かれていた内容を紹介します。
大輪田橋戦災・震災復興モニュメント

平清盛公ゆかりの地名にちなむこの大輪田橋は、1924年の竣工以来、二度の大きな災害に遭っています。1945年3月17日の神戸大空襲では、水を求め、この橋に避難した多数の市民が、炎にまかれ犠牲になりました。

橋にはその時の炎で黒く焼け焦げた跡が、今も残っています。そして50年後の1995年1月17日の阪神・淡路大震災により、この橋自体の親柱が崩れ落ちる被害を受けました。

ここに、戦災と震災を経験した「生き証人」でもある親柱をモニュメントとして再構成し、その時節の冬の星座をかたどった照明によって、私たちの記憶に永くとどめるとともに、鎮魂の意を示すものです。

1998年10月 神戸市
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東詰北側の親柱(石柱)と青銅板が取り付けられ石柱とモニュメントになっている折れた石柱を一緒に撮っていなかったのでストリートビューで紹介します。横たわった2つに折れた石柱の左側の上にモニュメントの青銅板が取り付けられています。プラス(+)のアイコンをクリックすると判ると思います。


大輪田橋戦災・震災復興モニュメントの辺りから運河を撮った写真です。写っていませんがこの下の辺りに戦災殉難者慰霊碑があります。
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大輪田橋を渡った後に入った初代県庁館(兵庫縣廰)でボランティアの方から初代県庁に関することだけでなくクリックすると拡大兵庫運河が日本最大級など地域の詳しい説明をしていただきました。右の写真が復元された初代県庁です。
クリックすると拡大1615年に兵庫城の敷地には兵庫津奉行所が置かれ、1769年に廃城となり兵庫津奉行所から兵庫勤番所に名前が変ったそうです。1868年5月23日には兵庫勤番所が初代兵庫県庁となり、初代知事として伊藤博文が赴任したそうです。
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清盛塚を出発した写真と大輪田橋での2枚の写真です。



写真3 新川橋からの写真 兵庫津ミュージアム→淡路屋(駄菓子)
新川橋からの兵庫運河(新川運河)からの写真を紹介します。南に進んで行く方向で右側が西方向です。車道からのストリートビュー→SV
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新川橋から西方向を撮りました。
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ここにも沢山の漁船が係留されていました。
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兵庫運河は面積が日本最大という表現が使われていることから、同等あるいはそれ以上の面積の運河あることになります。候補としては現在約44kmの長さの貞山運河群です。運河の平均の幅が7.66m以上あればクリックすると拡大兵庫運河の337,300㎡を越えるわけです。北上運河と東名運河を含めない貞山運河(貞山堀=御舟入堀+新堀+木曳堀)だけでも471,100㎡との記述のサイトもありました。日本最大の運河で検索するとほとんどが兵庫運河であり、最大幅140mで平均幅52.1mの兵庫運河は一つの町の中の運河に限れば日本最大の運河と言えるのかもしれません。かもという言い方になってしまうのは、日本の運河一覧などから検索しても運河の長さは書かれていますが、平均幅や面積はほとんど書かれていないためです。→ポチッ
参考に日本一長い約49km(仙台新港築造後は約44km)である貞山運河群(みやぎの運河群)を紹介します。右の写真がWikipediaから転用させていただいた貞山運河です。写真の上1/4のところの広浦(湖)の手前が木曳堀で、広浦の奥が新堀です。明治元年(1868年)の約250年前から1889年まで作り続けられた運河群です。
 貞山運河・木曳堀  元和年間(1615年から1624年)頃完成説が有力
 貞山運河・御舟入堀 寛文年間(1661年から1673年)頃完成
 北上運河      1878年着工 1881年航行開始 1882年完成
 東名運河      1883年着工 1884年竣工
 貞山運河・新堀   明治初め着工 1872年落成 1883年~1889年掘り直し


日本の運河のイメージを感じていただくためにWikipediakの日本の運河一覧を紹介します。右の写真は小樽運河です。IMG_6406-400.JPG
北海道
小樽運河 篠津中央篠津運河用水 幌向運河 馬追運河
東北地方
秋田運河 北上運河 東名運河 貞山運河
東京都
有明西運河 有明南運河 曙運河 曙北運河 北砂北運河 東雲運河 東雲北運河 東雲東運河 砂町運河 砂町南運河 汐浜運河 汐見運河 辰巳運河 豊洲運河 晴海運河 平久運河 朝潮運河 新月島運河 竹芝運河 芝浦運河 新芝運河 新芝南運河 新芝北運河 芝浦東運河 芝浦西運河 芝浦北運河 高浜西運河 高浜運河 天王州運河 天王州南運河 勝島運河 勝島南運河 平和島運河 ガスミオ運河 海老取運河 京浜南運河 花畑運河
神奈川県
恵比須運河 京浜運河 大黒運河 堀割川 浅野運河 池上運河 小田川 京浜運河 境運河 桜堀運河 塩浜運河 白石運河 新川堀 末広運河 大師運河 田辺運河 多摩運河 千鳥運河 水江運河 南渡田運河 夜光運河
関東地方(東京都と神奈川県以外)IMG_6406-400.JPG
見沼通船堀 利根運河 右の写真→
中部地方
富岩運河 住友運河 岩瀬運河 中川運河 半田運河
近畿地方
深谷水道 琵琶湖疏水 高瀬川 岩崎運河 城北川 道頓堀 木津川運河 天保山運河 敷津運河 兵庫運河 尼崎運河 長堀川 境川運河 大正運河
中国・四国地方
船引運河 音戸の瀬戸 細木運河 奥南運河
九州地方
万関瀬戸 堀川運河(宮崎県) 堀川運河(福岡県西部) 堀川運河(北九州市)
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上の写真は対馬にある運河万関瀬戸です。

世界三大運河はスエズ運河、パナマ運河、キール運河と言われています。選定の理由は運河本来の役割での世界経済の発展への貢献度のようです。ちなみに世界最長運河(& 世界最大運河)は2500kmの京杭大運河(Grand Canal)です。
 スエズ運河 167km 約2万1000隻/年 → 地図
 パナマ運河   80km 約1万4000隻/年 → 地図
 キール運河   98km 約4万2000隻/年 → 地図
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一方、日本三大運河小樽運河半田運河堀川運河(宮崎)が選ばれていることから、選定理由は美しさや成り立ちや人気にあるようです。
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posted by SORI at 20:30| Comment(28) | 神戸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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