今はモロッコの記事をブラシュアップ中ですが、
滝の名前は妹背の滝(いもせのたき)で雄滝と雌滝があります。
妹背(いもせ)は「夫婦」あるいは「夫婦の仲」のことだそうです。
こちらの写真が落差50mの雌滝です。
住所は広島県廿日市市大野です。
Googleマップに登録されていた上の写真に近いストリートビュー(SV)で妹背の滝の雌滝を紹介します。
直下からの妹背の滝の雌滝のSVはこちらです。→ポチッ
こちらが妹背の滝の雄滝で落差は30mでした。
妹背の滝の雄滝もGoogleマップに登録されていたストリートビュー(SV)を紹介します。
こちらが妹背の滝(雄滝/雌滝)の説明の石碑です。
この石碑の位置の住所は広島県廿日市市大野1494です。
石碑には「古来詩人文人の探訪しげく寛政七年浅野藩主をはじめ文政三年秋頼杏坪徳川末期永恭などの文人詩歌が古文書に遺っている」と説明されています。
廿日市観光協会のサイトから滝で修行している写真を転用させていただきました。

妹背の滝(いもせのたき)は大頭神社の奥にありました。
Googleマップのストリートビュー(SV)で上の写真の鳥居を探してみました。
鳥居をくぐって進んで行くと大頭神社が見えてきました。
こちらが大頭神社です。 大頭神社は嚴島神社の摂社として、今から1423年前の推古天皇11年(603年)に創祀されたと伝えられていて、大野地域の氏神様として、また疫神退散の象徴として古く全国から崇敬を集めているそうです。源流の異なる2の妹背の滝(雄滝/雌滝)の合流点でもあることから良縁・夫婦の滝とされているそうです。
住所 広島県廿日市市大野5357
電話 0829-55-0378
最寄 大野浦駅[出口]徒歩22分
こちらが大頭神社の説明です。 クリックして拡大すると説明が読みやすいと思います。
道沿もいい雰囲気でした。
厳かな雰囲気が漂っていました。
妹背の滝の位置をGoogleマップで紹介します。 嚴島神社からの徒歩でのルートも書き込みました。 フェリーのでの移動も入れた徒歩で約1時間40分と表示されました。
近くの海辺からの宮島の景色です。近くには宮浜温泉などの天然温泉もありました。
下のモノクロの写真は私が3歳から小学校4年まで広島市井口町に住んでいた家の庭からの景色です。 岩山は男明神です。 今は海が埋め立てられて同じ場所から海を見ることは出来なくなりました。
ただしカラー写真のように男明神の周辺だけは公園にして池も作り昔の雰囲気が残されているのです。



しかしながら妹背の滝の辺りの海は大規模な埋め立は行われていないことから、昔ながらの岩山も残されていて、私が住んでいた頃の雰囲気を感じることが出来ました。 右端の島は宮島です。 SV
Googleマップに登録されていた空からのストリートビュー(SV)も紹介します。
こちらのSVの中心線あたりに妹背の滝(いもせのたき)と大頭神社があります。
私が子供の頃の昔の写真を利用させてもらった過去記事を紹介します。 オリジナル記事 → ポチッ
2012年11月17日掲載 タイトル:男明神と女明神

学生時代の白川郷の写真を紹介したのを機会に、もっと昔の写真を紹介いたします。幼稚園(3歳)から小学校4年生(10歳)まで広島市の井口という場所に住んでいました。その時の住所は広島市井口町で今の住所は広島市西区井口です。私が住む以前の地名は佐伯郡井口村でした。1956年11月1日に広島市に編入されて広島市井口町となったそうです。「井口」は戦国時代以来の古い地名で、当時は広島湾に突き出す半島であった鈴ヶ峰が「猪の口」の形に似ていたことに由来するという説と、隣接する古江の入り口すなわち「江の口」が転じたという説があるそうです。
防波堤が先端まで写っている写真を、実家のアルバムで見つけたので追加させてもらいました。私の生まれたころの写真や祖母と祖父の写真も見つけたので、後ろの方に追加させてもらいました。
その井口では昔は海岸に面しており、私が住んでいた家も海に面していました。上の写真も下の写真は住んでいた家の庭から撮った景色で真中の島のように見えるのが小己斐明神(こごいみょうじん)で別名で男明神(島)または小己斐島です。私が引越して来た時にはありませんでしたが、昔は女明神(島)という小山もあり夫婦島として有名だったそうです。

今は、この海は埋め立てられて海岸線は遙かかなたですが、赤い線(━━)が私が住んでいたころの海岸線です。通っていた広島市立井口小学校と聖モニカ幼稚園などの近所の場所も記載いたしました。
私の住んでいたころには男明神の横は漁港でした。上の写真でも小舟が沢山停泊しているのがわかってもらえると思います。

Google地図に直接マークを入れました。赤色マーク(
左が男明神で右が庭の中にあった小山の写真です。庭と言っても国道と庭との間にありました。この山の上に登ったり、くりぬいて作られた防空壕に入ったりして遊んだ記憶があります。右の写真の小山は無くなって今は手打うどん店の敷地になっています。お店の名前は純手打うどん香房・広島本店です。


女明神の明確な写真がなかったのでネットで探して拝借して掲載いたしました。この写真の角度はよくわからないのですが、2つの明神の接近ぐあいから見て、庭にあった小山は女明神ではないかもしれません。さらに調べると女明神は1933年に姿を消したそうなので庭にあった小山は女明神ではないことがはっきりしました。

もう一枚、1924年の写真を拝借いて紹介いたします。右が男明神で真中が女明神です。左の線路の向こうに小山が見えます。その中の一番手前が庭の中にあった小山だと思われます。それ以外の小山は我々が引越してくる前には削られてなくなったようです。上の写真は東から撮られたもので、この写真は西の方角から撮られたものようです。それにしてもずいぶんと海岸に近いところを線路が走っていたものです。私が住んでいた頃は線路と海岸の間に国道2号線がありました。

さらに古い一枚をお借りいたしました。明治初期のころの写真だそうです。

こちらの写真も家の庭から撮った男明神です。近所の子供たちが、このコンクリートの壁の上から海に飛び込んでいました。実は冒頭の写真を見てもらうとわかるようにこの壁から海までは高いだけでなく距離もありました。霞んでいますが男明神の向こう側に宮島が写っています。

幼稚園の遠足で宮島に行った時の写真です。黄色い丸印(○)が私です。クリックすると拡大いたします。

コンクリートの壁がどのくらいの高さであったか知ってもらうために、この写真をを掲載いたしました。コンクリートの壁の下には人が通れる段がありました。この上から海に飛び込むのは勇気が必要だったと思います。この右の壁の上に我々の住んでいる家が建っていました。
この段の部分ではよく親父が夜釣りをしていました。チヌ(黒だい)が目的で潮が引いた時に餌のゴカイを一緒に採りました。アサリもよく採れたので、お袋とはアサリ採りでした。そんな思い出の場所でした。
我々(姉と私)のバックに男明神が写っているのがわかってもらえると思います。男明神と一緒に撮った我々にとっては、たった一枚の貴重な写真でもあります。
瀬戸内海の島々もきれいに見えました。家に来た近所の同級生の写真ですが、庭から海の方を撮った写真はこの一枚だけだったので使わさせてもらいました。当時、親しかった2人の同級生の1人です。右の方の綺麗な稜線の山は安芸小富士です。同級生が座っているコンクリートの下が私と姉が写っている上の写真です。

同級生には申し訳ないけれども海の景色だけに加工してみました。目の前の海は埋め立てられたので、今はこの場所から海を見ることはできません。埋立地の先端まで行けば見ることが出来ることをGoogleマップのストリートビューで確認いたしました。直線距離で、この場所から安芸小富士までは7.61kmで、埋立地の先端までは1.28kmです。

こちらが住んでいた家です。 幼稚園から小学校4年までの短い7.2年間でしたが海の近くの生活を体験できました。 この後、神戸市東灘区の岡本に引越しました。小学校は神戸市立本山第一小学校です。 突然に生徒数が6倍の学校に変わるなど田舎から突然に都会に出てきて戸惑うことが多かったです。 電車が空中を走る(高架)は絵本の中の世界だけのだったが現実になったのが印象的でした。 現在は、この場所にマンション「ヴェルディ井口明神公園」が建っています。 現在の住所は広島市西区井口明神2丁目です。

別の写真でも住んでいた家を紹介します。 こちらの人物は私の母です。

このころから写真を撮っていたようです。買ってもらった子供用のカメラです。家の感じがわかりやすいと思うので紹介いたしました。庭の東方向の写真です。右側に海があります。

庭の東の端で撮った写真です。 右下は私です。
後の3人は父が勤めていた銀行(現在:みずほ銀行 前身:日本最古の銀行(1873年創設) )の同僚の子供たちでよく遊んでもらいました。

庭は結構、広かったです。 庭の西方向に撮った姉との写真です。左側に海があり、左側に上で紹介した庭の中の岩山があります。
その岩山が右の写真で男明神くらいの大きさがありました。
そのことからも庭の広さが分かっていただけると思います。海に沿った長い庭だったので父は実際に玉を打つゴルフの練習をしていました。

聖モニカ幼稚園で山口県の錦帯橋に遠足に行ったときの記念写真です。

聖モニカ幼稚園での学芸会の風景です。真中が私ですがなぜか男の子は私一人です。


餞別にいただいたことが、今でも鮮明に記憶に残っています。 下の写真の右端に座っている若い先生が担任の先生でした。 右の小さな写真は全体の写真から、その先生のアップに移動して最後は私の写真になります。 写真をクリックすると大きな全体写真を表示します。

懐かしく思い最近、引越ししてから初めて井口に行きました。そのときに小学校にも寄りました。写真の大きな桜の木が上の写真の花が咲いている桜の木だと思います。長い間に大きくなったようです。新しいシーソーも昔のシーソーと同じ場所か近い場所にありました。クリックすると拡大します。3D航空写真

昔の校舎が写った写真を紹介します。私が2年の時の運動会の写真です。私が真中です。両端の二人が学年のライバル同士です。お互いを意識しているのが分かってもらえると思います。その右端の人が私の友達で、いろんな場面で守ってくれたことを覚えています。今は、この校庭には校舎が建っています。

右の写真の広島の担任の先生に頂いた携帯版の牧野新日本植物図鑑が
ボロボロになったので買い替えたのが下の写真のフル版の牧野新日本植物図鑑です。こちらもボロボロになりました。右の写真は入学式の写真ですが、1学年1クラスだったので、4年生まで同じ先生が担任でした。私が引越してからクラス増え始めて1学年10クラスを越えるほどになったそうです。
男明神の昔の写真と最近訪問した時の写真を比べてみます。松の形は変わってしまったようです。


現在の男明神の大きな写真も掲載いたします。

男明神の裏側からの写真です。昔は海でしたが男明神の周りは池として残されていました。白い建物のあたりが私が住んでいた家が建っていたあたりです。鳥居は昔もありました。

こちらが昔の鳥居です。 どうやら朱色ではなく白木のようです。
右の写真が私と姉の記念写真です。 下の写真の野球帽の男の子は私の同級生で、数枚上の運動会の写真の右端の人です。
平安時代の終わりごろ、平清盛が厳島神社や鳥居を新築した際に鈴ケ峰から木を切り出して、井口で製材し、刻印をうち、いかだに組んで厳島に向けて送り出した由緒あるところで「刻印の明神」と名付けて祀ったそうです。
18世紀末、新開地造成の時、己斐・旭山神社の分身がその守護神としてここに合わせまつられ、小己斐明神と呼ばれるようになったそうです。
子授けの神としても敬われ、子乞(ご)い明神ともいわれてきたそうです。この写真は私が4年生なので神戸に引越しが決まったので小己斐明神(男明神)で記念撮影をしたのだと思います。
写真をクリックすると拡大します。

海が近かったので海水浴にもよく行きました。

ちょっとした悪ガキでもありました。裏山の鈴ケ峰のハイキングは近所の人たちとよく行きました。後ろの真ん中は姉で両サイドが近所のお友達です。

ブログのアイコンに使っている写真はこの頃の写真です。写真のピントが姉の方に合っていることから、おそらく写真を撮る瞬間に私が前に乗り出したのだと思います。
これも今となってはいい思い出になります。
撮ってくれた親父に感謝です。

私が1歳のときの写真です。私は9ケ月で歩いたそうです。私は2歳の時に兵庫県西宮市夙川から広島市平野町に引越してきたので、
こちらは夙川に住んでいたころの写真だと思います。左の建物は野球場だと思いますが場所は思い出されませんが1歳から2歳までは兵庫県西宮市夙川に住んでいたのでネットで画像を探した結果、2004年に取り壊された阪急西宮球場の可能性が高いです。実家に帰った時にでも確認してみます。阪急西宮球場は阪神甲子園球場に対抗して1937年に完成した大きな球場で完成当時で57000人収容の日本屈指の球場だったとそうです。もし阪急西宮球場だとしたら昔の貴重な写真になるかもしれません。そして右手に見える山は六甲山ということになります。このころは舗装されていない地道(土の道)でした。
昔の航空写真に上の写真を撮影した場所を、正確ではありませんが黄色の丸印で示します。写真はヒョーゴアーカイブスから転用させていただきました。西宮球場の跡地はショッピングセンター(阪急西宮ガーデンズ)となっています。

こちらは武庫川の河原です。服装や持ち物のカバンが西宮球場近くを歩いている写真と同じなので、西宮球場近くを歩いている写真は武庫川の河原に行くために歩いていたのだと思います。この時は夙川に住んでいたので阪急電車に乗って西宮北口駅まで来て武庫川の河原までは歩いたのだと思います。

武庫川の河原で遊んでする写真を、もう一枚紹介します。西宮球場近くを歩いている写真で、かぶっている帽子と同じだと分かってもらえると思います。

現在の航空写真に上の写真の撮影場所に
お揃いの服です。これは手作りかな。上の写真よりも少し大きくなりましたが年齢からみて、これも夙川時代だと思います。この後に広島の平野町に引越したのでした。洋服は黄緑に近い緑色と茶色が混ざった模様だったようです。

こちらは会社のクラブハウス(宝塚)で撮った家族の記念写真です。1月生まれなので私は6~7ケ月目ぐらいだと思います。これ以降の写真も今回追加したものです。建築家の村野藤吾の設計の東京銀行宝塚クラブハウスだと思います。建物の写真は村野藤吾作品集の 第1巻(1928-1963)に掲載されているようなので、いつか確認したいと思っています。1980年に建てられた宝塚市庁舎も村野藤吾の作品です。
赤色マーク(

上のGoogleマップに位置を書き込む根拠にしたのが1961年5月13日に撮影されたこちらの国土地理院の航空写真です。
1985年の航空写真でもこの場所を見つけました。この航空写真はWikipediaに掲載されていました。

東京銀行宝塚クラブハウスが建っていた場所を探している中で同じ場所で撮った写真を2枚見つけたので紹介します。クラブハウスは写っていませんが服装や周囲の松林の雰囲気から同じ時に撮られた写真だと分かりました。2021年7月25日早朝から実家の宝塚に行くので、滞在中にこの場所に行ってみたいと思っています。

もう1枚が父がクラブハウスの横のテニスコートで撮った写真です。

こちらは東京銀行が三菱銀行と合併(1996年4月1日)した2年前の1994年の航空写真です。東京銀行の敷地はまだ住宅地になっておらずグラウンドやテニスコートはあります。ただしクラブハウスと思われる建物は1961年5月13日の航空写真と形や大きさが違うことから1961年から1994年までの間に建替えられた可能性があります。

こちらが山口県熊毛群周防久保にあった父方の祖母と祖父の家です。子供のころはよく行いった思い出の家です。写っているのは祖父です。

こちらが祖父と祖母です。今は亡くなっていませんが私の大切な写真なので掲載させてもらいました。

こちらが母方の祖母と祖父です。右端が祖母で左の2人が母の妹でその右側が祖父です。それ以外は私と姉と母と父です。母の兄弟にはここに写っている以外に弟が2人います。この写真は山口県岩国市にある母方の実家の家です。今は母の弟である長男(私の叔父さん)が住んでいます。

生れてから今までに住んだ場所をプロットいたしました。住んだ順番は兵庫県(2)→広島県(2)→兵庫県(3)→大阪府(1)→兵庫県(1)→千葉県(2)でした。
兵庫県 6ケ所
広島県 2ケ所
大阪府 1ケ所
千葉県 2ケ所








nice!です。
桜はないのかな?
滝は 心洗われますね
雄滝の岩肌、迫力ありますね (゚Д゚)!
「いもせ」とは、意味がありそうな・・・
写真は、時代を感じます。
デジカメの時代ではないので、貴重です。
素晴らしい滝があるのですね。
nice! ありがとうございます。
気が付きませんでしたが、きっと、桜もあると思います。
やっぱり滝はいいですね。
地元の人の遊び場になっているように感じました。
ナイス ありがとうございます。
ほんと思い出の写真です。
最近はAIでカラー化も出来てしまいますね。
ほんと、岩肌が荒々しい感じで雄滝になったのも分かる気がします。
滝の下は広場になっていて地元の人の憩いの場所になっていました。
妹背(いもせ)は「夫婦」あるいは「夫婦の仲」のことだそうです。
妹背(いもせ)の意味は本文にも追記させてもらいました。
ほんとフィルム写真は貴重な写真です。
残っていた沢山のネガはデジタル化しました。
宮島に何度も行かれたことがあるとはすばらしいです。
広島の井口に住んでいた子供の頃は、廿日市(はつかいち)には遊園地があったので、何度もいきましたが立派な滝(30mと50m)があることは知りませんでした。
nice! ありがとうございます。
Nice‼ ありがとうございます。