

かつて但馬国出石郡出石にあった出石城の城下町であった兵庫県豊岡市出石町(2005年まで兵庫県出石郡出石町)のシンボル的存在なのが上の写真の辰鼓楼(しんころう)です。本記事では辰鼓楼を撮った写真や、出石で撮った写真の中に偶々辰鼓楼が映り込んでいたものや、過去(数十年前)に撮った写真を紹介したいと思います。辰鼓楼は出石城が廃城となった1871年(明治4年)の同じ年の1871年6月1日(明治4年4月14日)に鼓楼(ころう)あるいは太鼓楼(たいころう)として建てられ、太鼓で時を告げていたそうです。今から152年9ケ月前のことです。辰鼓楼が建てられる以前は、山上にあった寺院が出石藩から給金をもらって鐘をつき、城下に時刻を知らせていたけれども、廃藩置県で寺への給付が途絶えたため、太鼓を鳴らして時を知らせる楼閣として辰鼓楼が建てられたと言われてるそうです。辰鼓楼の高さは、高さ約5mの石垣を含めて19.6mだそうです。辰鼓楼本体は木造4層だそうです。掲載した全ての写真に辰鼓楼が写っています。
こちらが142年6ケ月前に取り付けられた時計です。
現在のように時計が取り付けられたのは、辰鼓楼が建てられて10年後の1881年9月8日だそうです。その経緯は前記事でも紹介したように1881年に地元の旧藩医の池口忠恕が大病を患った際に、地元民から御見舞いや全快祝いを受けたことへの御礼として機械式大時計を寄贈し、同年9月8日から時計台として


出石城側から見れば時計台になる前の辰鼓楼の姿です。こちらは三の丸から見た辰鼓楼を紹介したいと思います。

2枚前の写真のように一番上の部分を拡大いたしました。

大時計と大時計を寄贈した旧藩医の池口忠恕(いけぐち ちゅうじょ)の説明板が建てられていました。内容を枠内に転写する形で紹介します。池口忠恕は西洋医学を勉強する中で西洋の時計台のことを知ったのだと感じました。そして遠方から来診があるほどの名医だったそうです。出石藩の弘道館(こうどうかん)は6代藩主・仙石政辰が作った学問所から始まった藩校で、天下三弘道館(水戸藩、佐賀藩、出石藩)の中で最も古いと言われています。適塾は福澤諭吉、大村益次郎などの多くの名士を輩出した蘭学の私塾です。



池口忠恕 1851年~1908年
福澤諭吉 1835年~1901年
大村益次郎 1825年~1869年
大時計と池口忠恕
辰鼓楼(しんころう)は明治4年の建設当初、太鼓櫓(たいこやぐら)とも呼ばれ太鼓により時刻を知らせていました。この建物に明治14年、大時計を寄贈したのが池口忠恕です。彼は嘉永4年(1981)に出石藩のご典医の家系に生まれ、藩校「弘道館」に学び、明治4年には大阪に出て緒方供庵の「適塾」で西洋医学を習得しました。明治13年に帰郷し開業医となった池口は、翌14年に病気の全快祝いとしてこの大時計を寄贈しました。まだ時計などあのりなかったこの時代、この大時計の寄贈のために池口は、職人2人に時計技術の習得もさせました。
池口はまた名医としても知られた人物で、遠方からも来診があり、さらに貧困家庭からは薬代をとらぬなど慈悲深い人物でもありました。

三の丸の遠くから撮った写真です。時計が取り付けられている反対側には観光客の人が沢山いますが、こちら側は少なかったです。逆光にならないのできれいな写真が撮れます。

拡大いたしました。

出石城の本丸の西隅櫓の中からの辰鼓楼の写真を3枚か紹介します。中央辺りに松の木の上に辰鼓楼の頭の部分が出ています。
辰鼓楼の辺りに大手門があったことから江戸時代にも本丸から同じように大手門と城下町が見えていたのだと思います。

西隅櫓の別の場所からは辰鼓楼がよく見えていました。

辰鼓楼の部分を拡大いたしました。

冒頭の写真に戻ります。

少し遠くからの写真ですが上の写真と冒頭の写真は、この写真から切り取ったものです。

近くから撮りました。

辰鼓楼の下は堀状の池になっていました。

下が辰鼓楼(


赤色ライン(━━)で囲った範囲が右の出石城想像図から推測される概ねの出石城の範囲です。黄色のライン(━━)が今回の出石の町の散策ルートです。

━━ 大手前通り
出石城の大手門があった場所から真っすぐに伸びる大手前通りから見た景色です、小さく辰鼓楼が写っています。

上の写真から辰鼓楼辺りを拡大しました。

こちらの大手前通りからの写真にも辰鼓楼が写っていました。

もう一枚、大手前通りからの辰鼓楼の写真を紹介します。大手前通りには土産物屋さんが沢山ありました。

今回の長男家族の記念写真です。

長女(末っ子)が7歳の時に出石に行った時の記念写真です。この写真と同じ場所で撮ろうと思ったのが上の写真です。右側2人が私の両親で、左端が私がその右隣りが長女(末っ子)です。

結婚した翌年の1月に家内の両親と雪の残った出石に行った時の写真です。左側の写真は、辰鼓楼の前で三脚を使って家内の両親と4人で撮った記念写真です。この時、皿そばは永楽そば(出石町宵田119)で食べました。この写真は記事を書く時に見つけたので、お店の前を通ったのにお店の写真は撮りませんでした。ちょっと残念です。上の写真はこの時から14年9ケ月後に撮りました。

昔の辰鼓楼の写真をヒョーゴアーカイブスさんから転用させていただきました。坂本書店發行の出石辰皷樓です。辰鼓楼は辰皷樓と書かれていました。この時代は辰鼓楼の横に電柱や電線がありましたが、今はありません。
書かれている文字は右横書きなので太平洋戦争以前の写真と思われますが、写っている車の形から100年より少し前(時計が取り付けられて約40年後)の写真だと思われます。

立派な時計台?ですね!
至る所から見ることが出来そうです、
たとえ見えなくとも、そこから鳴る音が生活にも時を・・・
市民の生活のシンボルと、なっているのでしょう!
ほんと出石町のシンボルですね。古いだけに値打ちがあります。
録音ですが、太鼓の音も鳴らしているそうです。
ほんと、似た話ですね。江戸時代は同じようなシスタモが多くのところで行われていたのかもしれません。それにしても家を建ててもらったとはすごいです。
よくわかります。貴重な写真もお持ちですね。ありがとうございました。
ございました。吊るしびなは、常設の会場が
有るので、いつでも見られます。
昔の辰鼓楼の写真には、電柱があるのに
今は、電柱を無くしその前に姿を取り
戻しているんですね(^^)v
出石では辰鼓楼が建ってから大きな大火が3回記録されています。特に明治9年(1876年)の出石大火では辰鼓楼の近くもほとんどが焼け落ちたそうです。もしかしたら必死で守られたのかもしれません。
1876年3月26日 出石大火 全焼966戸 半焼5戸 焼死5人 負傷14人
1926年6月22日 寺町の火災
1929年6月08日 寺町の火災
出石は長く行っていませんが、昔に何度も行った思い出深いところです。そこに半世紀とは言いませんが数十年ぶりに長男家族と来たのは考え深いものがあります。
出石町では観光に関わる場所の一部ですが無電柱化が進められてきているようです。やっぱりいいですね。近くの城崎温泉でも無電柱化が進められているようです。
ちゃんとふりがなが付いてるのに辰鼓楼(しんころう)・・
最後まで”蜃気楼”と誤解してスクロールしていました。
早とちりでした (; ;)ホロホロ
街のシンボルですね
威風堂々としていますね。
確かに「しんきろう」とは、1文字違い(「こ」→「き」)で、最後の文字は「楼」ですね。最初の文字も「辰」と「蜃」で似ています。
明治の初期にこれほどの時計台があったとは驚きです。それも大きな時計が個人の寄贈なのがすごいです。さぞかし高価だったことでしょう。
出石の町の人の誇りだと思います。
こういうのって、本当に思い出に残りますよね。
歴史的遺産がきちんと残っていて、素晴らしいですね。
本当に、いい思い出です。今回のことを機会に辰鼓楼のこともよくわかりました。
142年前の明治の時計台はランドマークとしても特別のような気がします。
離れてはいますが、長く過ごした兵庫県にこのように古い時計台があるのは嬉しいものです。
ただ、出石蕎麦はおいしかったのは覚えています。
私も久しぶりの訪問となりました。私も辰鼓楼のことはあまり記憶になかったけれど今回はじっくりと見させていただきました。
ほんと出石皿そばは美味しいですね。
時を、為政者から人民のもにした貴重なモニュメント。
これからも大切に後世に残してもらいたいものだと思いました。
確かに人民側が貴重で高価な時計を寄贈したことは重要な文化遺産ですね。貴重なとらえ方を教えていただきありがとうございます。
それが142年6ケ月前のことだったとはすばらしいことです。