

神戸電鉄の箕谷駅に9時30分に待ち合せて初めて参加させていただいた

2019年4月20日(土) 神戸市北区の重要文化財巡りハイク
箕谷駅(待合わせ場所)→箱木千年家(国・重文)→つくはら湖畔散策→六条八幡宮(国・重文)→無動寺(国・重文 仏像5体)→若王子神社(国・重文)→(打上げ飲み会・全員)→箕谷バス停→三宮→(2次飲み会・有志)→阪急三宮駅


箕谷駅前バス停からは111系統の9時41分発のバスに乗り終点の衝原バス停まで行きました。

終点なので一番後ろに乗りました。我々以外にもハイキングに行くと思われる人が沢山乗られていました。

こちらが衝原バス停です。料金350円は関東のICカードのパスモで払うことが出来ました。

衝原(つくはら)のバス停留所から箱木千年家までのルートをを紹介します。つくはら湖周辺の散策で最初に訪れたたのが箱木千年家(箱木家住宅)でした。資料によれば北西方向の約70mの湖底が移築前に建っていた場所だそうです。とりあえずその位置に家のマークを付けました。

❸ 箱木千年家(箱木家住宅)
━━ 散策ルート(衝原バス停→箱木千年家→つくはら湖散策→衝原バス停)
バスを降りると千年家と書かれた看板がありました。

畑の向こうに茅葺屋根の家が見えました。おそらく、そこだろうと進んでいきました。

箱木千年家は左の奥にあります。箱木千年家は個人の所有で、その所有者の方が住んでいるのが左側の家です。

箱木千年家の前には説明がありました。説明板の内容を枠内に転記いたしました。ダム建設のために日本最古の住宅が移築になったのは残念なことですが、移築のための調査によって、初めて日本最古であることが分かると共に、江戸時代の改築の詳細も判明したのも事実であります。移築前の1977年(昭和52年)までは実際に住居として使用されていたそうです。さらに移築の調査結果出る12年前の1967年(昭和42年)には国の重要文化財に指定されていたことから、建設された年代が特定できなくても重要な建物であることは認識されていたことになります。
箱木家住宅 (国指定重要文化財)指定年月日 昭和四十二年六月十五日
一般には「箱木千年家」の名で知られています。
箱木家は古くからこの地方の土豪であったと伝えられ、代々庄屋を勤めた家柄です。
現代の建物は、呑吐(どんど)ダムの建設に伴い、昭和五十二年七月から五十四年三月にかけて移築工事が行われ、従来のところから数十メートル離れた高台に建っています。
移築の際に行われた解体調査及び敷地発掘調査により、現存する日本最古の民家であることが確認され、加えて十四世紀頃に建てられた「母屋(おもや)」と、後に建てられた「離れ」とを江戸時代末期に一つの屋根の下に納めた合成建物であったことも明らかになりました。
現在は「母屋」と「離れ」を建築当初の形に分離して再建し、築山、中庭、納屋、土蔵等を移築前とと同じように配置しています。平成四年三月 神戸市教育委員会

入口から見た箱木家住宅の敷地です。現在、一般の民家(住宅)において日本最古レベル(室町時代以前)と考えられているのは次の3つです。それ以外に千年家と伝承されている三大千年家も紹介します。記載している時代は、伝承を含まない学術的および科学的な検証の年代です。ちなみに室町時代は1336~1573年で、鎌倉時代は1185~1333年で、箱木家住宅に使われている木材の伐採時期は1283~1307年(放射性炭素年代測定法)です。
日本最古レベル
箱木家住宅(兵庫県神戸市北区山田町) 室町時代 or 鎌倉時代後期
古井家住宅(兵庫県姫路市安富町) 室町時代後期
堀家住宅(奈良県西吉野村) 室町時代後期
三大千年家(通称 伝承)
箱木家住宅(兵庫県神戸市北区山田町) 室町時代 or 鎌倉時代後期
古井家住宅(兵庫県姫路市安富町) 室町時代後期
横大路家住宅(福岡県糟屋郡新宮町上府) 江戸時代前期

石碑があり「史跡 千年家」と書かれていました。今は「箱木家住宅」あるいは「箱木千年家」と呼ばれているので、少し前に作られたものと推測されます。この石碑が移築されたものかどうかが気になるところです。学術的には約720年前~約620年前の建物と考えられていますが、千年家と呼ばれるようになったのは少なくとも約220年前からのようです。箱木家には大同年間(806~810)に建築と伝承されていて、1796年(寛政8年)~1798年(寛政10年)に刊行された摂津名所図会に806年(大同元年)に建てられたと記されていたからだそうです。その時点で約1000年で今であれば1200年になります。


料金 大人 300円
小・中学生 150円
団体(30人以上) 3割引
休館 12月26日~01月10日
時間 9:00~17:00 (04月01日~10月31日)
9:00~16:00 (11月01日~03月31日)
臨時休館があるようなので平日などは電話確認をお薦めします。

右の大きい方の建物が「母屋」で左の建物が「離れ」です。移築前はこの二つが一体となった一つの建物になっていたそうです。移築を機会に建設当初に戻した結果だそうです。

Google Mapの航空写真で箱木家住宅を紹介します。萱葺建物の2棟が箱木家住宅です。建物の左側の深緑色の部分が、つくはら湖です。現在の建物がある地域がダムが出来て水没する地域の人達が移転するために作られた造成地と思われます。現在の箱木家住宅の北西方向70mあたりの湖底に移設前の箱木家住宅がありました。
写真をクリックするとオリジナルのGoogle Mapの航空写真を表示します。

案内所で頂いた説明書に載っていた母屋と離れの正面図です。

今回のメンバーでの記念写真です。紹介の記念写真は、顔が判らないように人が小さく写った写真にさせていただきました。一番右側が私です。

移設前の模型も置かれていました。
上の写真の建物の状態が確認出来ました。建物の右奥側に土蔵と納屋があり、左手前に塀で囲われた築山や中庭があります。

広い範囲を表示させると左端に湖が出来る前の志染川があります。この場所が、つくはら湖の湖底に沈んだことが実感させられました。

受付場所に「母屋」と「離れ」が一体の移築前の写真が展示されていました。この状態で江戸期から移築が決まった1977年まで住居として使われたそうです。写真からも生活が行われていたことが伝わってきます。

母屋の右側に土蔵と納屋がありました。納屋の中にはいろんな展示物が置かれていました。上の写真の模型も納屋に展示されていました。

発掘で出てきた昔の基礎図も展示されていました。

発掘時の写真です。

いろんな農機具も置かれていました。

見事な土塀と茅葺でした。

茅葺の見事さを実感してもらうためにアップしました。かなりの厚みでした。軒下が低いのにも驚かされました。私の身長よりも低いのでかがむ必要がありました。今ほど室町時代だからこその高さなのかもしれません。

軒裏の構造も見事です。

ここから建物の内部を紹介いたします。そこで受付で頂いた説明書に載っていた14世紀建設当初および移設後の配置図を紹介します。

こちらが母屋の内部です。土間に竈があります。料理などをした台所だったのだと思います。配置図では「にわ」と書かれている部分です。

その土間「にわ」から見た板間の方向です。
移築時の解体調査により、母屋の建設時期の公式見解は室町時代の14世紀ごろとなっていますが、2005年に建築当初の部材について放射性炭素年代測定法による調査が行われた結果、使用されている部材が1283~1307年に伐採されたものであることが判明したそうです。発掘調査で出土した土器の年代も13世紀後半であることも考え合わせると、母屋(主屋)の建築が鎌倉時代にさかのぼる可能性も考えられています。そうすると約720年前と言うことになります。ただし室町時代の14世紀ごろでも、他の日本最古クラスの2軒が室町時代後期であることから、箱木家住宅が日本最古と推定されています。
上でも書かせていただきましたが、少なくとも元禄期には「千年家」と呼ばれるようになっていたそうです。箱木家には大同年間(806~810)に建築と伝承されていたと共に、近世の摂津名所図会などには806年(大同元年)に建てられたと記録されているそうです。確認されている範囲ではありますが、日本で室町時代にさかのぼるとされる民家は、箱木家の他では古井家住宅(姫路市安富町)と堀家住宅(奈良県西吉野村)の2つしかないそうです。

上の写真で右側の板間です。配置図では「だいどこ」と書かれています。奥にも部屋があります。配置図では「なんど」と書かれています。

南側の部屋には囲炉裏(いろり)があることから、今で言えば居間の存在だと思います。配置図では「おもて」と書かれていました。長い年月の間に多くの修理が行われことが見受けられるそうですが、この おもて の間には建設当初の柱が6本残されていて、桁梁の類には8本が残されているそうです。

別の方向から見た土間「にわ」です。囲われている部分は馬屋です。配置図では「うまや」と書かれていました。昔は同じ屋根の下に人と馬が住んでいたことが分かりました。

現在の馬屋の中には沢山の農機具が保管されていました。

真上を撮った写真です。天井板はなく屋根裏がむき出しの構造の建物でした。

よく見ると屋根裏に「おたふく(おかめ)」の面が飾られていました。

その「おたふくの面」を拡大いたしました。上棟式で取り付けられたものと思われます。

母屋の梁行断面図も紹介します。

こちらが「離れ」です。

手前が8畳で、奥が6畳の畳部屋です。

茅葺の裏側の写真です。

上で建設当初の配置図を紹介しましたが、ここでは江戸期(少なくとも1792年)から1977年までの配置図を紹介します。室町時代か鎌倉時代に母屋が建てられて、その後に離れが建てられたそうです。さらに江戸時代ですが2棟をつなぐ2部屋が作られて一つの建物にしたことが移転時の調査で判ったそうです。1796年(寛政8年)に刊行された摂津名所図会には一棟として描かれていたので、1796年までには一体に改造されていることがわかっているそうです。

入母屋造りの茅葺屋根の一番上の飾りも独特でした。茅を束ねて丸太状に9本の上に竹を置いている構造です。2本の竹をそれぞれ根元側を外にして真中をつないで1本に見せています。母屋と離れが一体の移設前(江戸期改築)は丸太状の茅の束は17本でした。移設するときは建設当初(室町期か鎌倉期)の姿に戻すが、そのままの江戸期の姿で移設するか議論になったことでしょう。

構造が分かるように端の部分を掲載しました。

離れの屋根の飾りも同じだったと想像されます。ただし竹は頂部から外れてしまったようです。

同じタイプの屋根の飾りを別の場所で見つけたので紹介します。
この屋根があったのは、この日の午後に行った無動寺でした。お寺の屋根ではなく住職のお住まいの建物の屋根でした。住所は兵庫県神戸市北区山田町福地100で箱木家住宅から直線距離で3.1kmの距離です。

竹の根元を使った部分を拡大いたしました。この地域の特徴の飾りなのかもしれません。

そういえば前々記事で紹介した下谷上農村歌舞伎舞台の屋根の飾りも似ていました。こちらも神戸市北区山田町です。根っこの部分は折れて取れてしまったように見えます。

案内所で頂いた説明書を紹介します。クリックすると読める大きさに拡大いたします。

呑吐ダムが出来る前の1970年に国土地理院が発行した50,000分の1の地形図が我家にあったので、箱木家住宅あたりを紹介いたします。当時の道路は現在は湖底になっているので、当時と現在と比較するのは等高線になります。つくはら湖の湖面の標高は139mであることから標高140mの等高線が分かるように「標高140m(湖面)」を追記しました。この標高あたりに現在の湖の湖岸があります。参考に標高200mの等高線の位置が分かるようにも注記いたしました。盛り土をして造成地にしたと思われる部分を赤い線(━━)で囲みました。


上で紹介した地形図と同じ範囲の現在の航空写真を紹介します。
両者を比較して結果、移設前の箱木家住宅は地形図の中央の■と想像されます。移設後の箱木家住宅の位置は地形図では標高140mより低いことから、移設後の箱木家住宅が建てられは造成地は盛り土をして作られたことも判りました。クリックすると拡大するので、より分かりやすくなると思います。オリジナルのGoogle地図→ポチッ

箱木千年家の場所を紹介します。神戸と言っても港に近い中心部から離れています。阪急の三宮駅から歩くルートで紹介します。正しいかどうかは判りませんがGoogle地図のシステム計算によれば上りの累計は421mで、下りの累計は286mで、最も高いところが小部峠(371m or 369m Google:359m )になります。紹介の画面では表示されていませんが、別の画面では箱木家住宅の場所の標高は145mと表示されました。
名前 箱木家住宅 国指定重要文化財
通称 箱木千年家
住所 兵庫県神戸市北区山田町衝原字道南1-4 → ポチッ
電話 078-581-1740

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お守りする家は大変です。
そしてご無沙汰しています
国指定の重要文化財巡りのハイキング・・・良いですね~
素晴らしい日本の歴史を感じます
じっくりと画面を大きくして拝見しました。
まだまだ日本にも見る場所沢山ありますね
それで↓で気になったのが。。。。ワッフルスライサー
早速買いに行きたいです。いろいろと利用できそうです。
家の中を見学すると遠い時代に想像が膨らみますね^^
古民家と共に訪れた令和、おめでとう御座います。
良い年になるといいですね。
千年家は 古い民家を指す通称でいろんな場所にあるそうですね。Wikipediaに書かれていたのは9家ありましたが、そのうち2家は焼失したそうです。
ご無沙汰しています。懐かしい仲間とのハイキングは初めての経験でした。今回は4ケ所の国指定の重要文化財を見ることが出来ました。いずれも見事でした。神戸の里山にこのような重文が沢山あることも初めて知りました。ワッフルサライスは人参でもやってみました。写真を追加したいと思っています。
ほんと、維持するのは大変だと思います。靴を脱げは上にあがることも出来ます。これからも
今までと同じ年代以上に大切に保存してほしいと思います。
令和はよい響きです。ほんと、おめでたいことです。
古いものが大切にされるのはすばらしいです。
木造の民家が、これほど長く使われた例は世界的にも珍しいでしょうね。世界最古の木造建築物は法隆寺ですが、世界最古の木造民家はどこになるのでしよう。
平均身長が140㎝くらいなのかしら?
確かに現代よりも平均身長は約15cm低かったようです。
室町時代の平均身長は男性157cm 女性147cmだそうですが、移設前は江戸時代に改築された状態だそうです。江戸前期の平均身長は男性155cm 女性143cmだそうです。軒が低いのは夏や冬を過ごしやすくする理由もあるのかもしれません。
行き方もバッチリです。
茅葺の保存は職人さんも少なく、これからは保存難しいでしょうね。
見学に行くなら今のうちかな。。
日本最古の古民家なんですね
貴重な文化財は後世まで長く
残してほしいですね。
ここに来て初めて日本最古の民家であることを知りました。行くまでは単に国の重要文化財としか理解していませんでした。ハイキングに参加しなければ知ることもなかった訳ですから、偶然に出会えた日本最古の民家でした。
神戸市北区山田町は、今でも茅葺屋根の家が沢山残っている特別の場所のように感じました。だからこそ少ないながらも職人さんがおられるのかもしれません。
白川郷のように観光収入があれば保存も楽なのだと思います。有名な観光地に比べて知名度は少ないためか、訪れる人は少ないけれども、箱木家住宅は日本最古の称号がある上に周辺には国指定の重要文化財が沢山あることから工夫さえすればチャンスはあると思います。神戸市に広げると建造物の指定重要文化財(重文)だけで、国宝1、国・重文22、県・重文17、市・重文22もあります。
神戸市北区山田町の重要文化財
箱木家住宅(国・重文)
六条八幡宮(国・重文)
無動寺(国・重文 仏像5体)
若王子神社(国・重文)
下谷上農村歌舞伎舞台(国・重文)
上谷上農村歌舞伎舞台(県・重文)
内田家住宅(県・重文) など
箱根芦ノ湖の1本桜に、コメントを有難うございました。
最近、テレビで良く放送されているので、
見に行って来ました。標高が高いので都内の桜より
1ヵ月ほど開花が遅いようです。
こんなに古い住宅がまだ残っているのには
驚きです、神戸には古いものがたくさん
残っているんですね(^_^)v
知りませんでした☆
車ではなくて1時間に1本の公共交通機関に
乗って移動だなんて、SORIさんの並々ならぬ
好奇心というか、情熱を感じます(^^)
港に近い北野町の異人館もいいのですが、昔の日本の建物も癒されます。洋と和の昔のロマンが楽しめるのも神戸なのかもしれません。
公共機関を使った移動の旅もいいものですね。公共機関の時刻表に合わせてスケジュールを作っていただいたおかげでスムースに見ることが出来ました。