

世界最高峰のステンドグラスが見れるサント・シャペル(Sainte chapelle)の次に訪れたのはコンシェルジュリー(Conciergerie)でした。訪れたのはフランス旅行の最終日(7日目)であり帰国日でもありました。
コンシェルジュリーはカペー朝(987年~1328年)の王の宮殿として建てられ10世紀から14世紀にかけて王宮として使用されました。パリのセーヌ川の中州であるシテ島に建っていたことからかシテ宮(palais de la Cité)と呼ばれていました。シテ島にはノートルダム寺院があるなどパリの中心的存在の島と言える場所です。宮殿と使われたてましたがヴァロワ朝第3代王であるシャルル5世らによって放棄され、ヴァンセンヌ城に居城が移された後の1370年に牢獄として使われ始められ、セーヌ川に沿って建つ建物の地上階と2つの塔が牢獄(ろうごく)に割り当てられたそうです。コンシェルジュリーは宮殿として約400年使われましたが、観光名所として有名なのが牢獄として使われたことでした。上の写真はセーヌ川クルーズの時に船の上から撮ったコンシェルジュリーです。
且つては王宮であったことから大きな建物のためGoogleマップの3D航空写真で全景を紹介します。すでに紹介したサント・シャペルが左下に写っているのが分かってもらえると思います。サント・シャペルの献堂が1248年4月26日であることから、コンシェルジュリーが王宮として使われていた時代に世界最高峰のステンドグラスのサント・シャペルが建てられたことになります。これだけ近い場所にあることから王宮と教会堂の密接な関係が伝わってきます。王宮と教会堂の間にあるのがパレ・ド・ジュスティスの中庭(cour du Mai)があります。
王宮(palais de la Cité)だったころの絵を紹介します。Wikimediaから転用させていただきました。西側から見た景観です。上の3Dの画像と見比べてほしいです。この絵からサント・シャペルは王宮の城壁の中に建っていたことが分かりました。



パレ・ド・ジュスティス(Palais de Justice de Paris)の中心的存在の中庭とファサードです。ファサードはフランス革命期の1793年4月6日~1795年5月31日に革命裁判所が置かれたそうです。ここの左側がサント・シャペルで右側が牢獄として使われたコンシェルジュリーでした。つまり裁判所の隣が監獄(牢獄)だったわけです。パレ・ド・ジュスティス自体はコンシェルジュリーなども含めた広い施設で、現在は破毀院、パリ控訴院、パリ重罪院、パリ大審裁判所、検察局及び弁護士会など複数の主要司法機関が多くの建物の中に置かれています。

こちらがコンシェルジュリーへの入口です。

非常に広い空間でした。その空間を利用した展示が行われていました。この広い部屋は「憲兵の間」と呼ばれています。床面積は1800㎡だそうで、兵士たちの食堂として使われていたそうです。

展示物の少ない見通せる一からの写真です。

中央の螺旋階段が印象的でした。

かつては王宮だった建物ですが、飾はほとんどありませんでした。そんな中でメドゥーサ(Medousa)が彫られた石板は印象的でした。

この建物が牢獄として使われたことが関係しているかどうかは分かりませんが、各所に鉄格子が使われていました。大広間を仕切るように設置された鉄格子も印象的でした。この鉄格子の奥に牢獄エリアがありました。

鉄格子を拡大いたしました。巨大で見事な鉄格子でした。

石の天井を支える柱の構造も印象的でした。

さらに奥に進むと牢獄がありました。

古い大きなテーブルが置かれた部屋がありました。

こちらが牢獄です。ベッドはなく藁の上に寝ていたのだと思います。
調べてみると最も貧しい囚人パイユー(Pailleux)が多数で入った雑居房だそうです。藁が敷かれた床に直接寝るしかなかったので、この囚人のことを「わら族」と呼ばれたそうです。

部屋は罪の重さではなく経済力で決まったそうです。
ベットがある牢獄もありました。このような牢獄は有料で経済力に応じてその待遇が異っていたそうです。支払った額で囚人は3つに分けられたそうです。こちらの部屋はピストリエ(la pistole 中流層の囚人)の部屋でした。
パイユー 貧困層の囚人 雑居房 藁敷き 不衛生
ピストリエ 中流層の囚人 雑居房 ベッドあり
プリゾニエ・ドゥ・マーク 富裕層の囚人 独居房 ベッド・机あり

上の写真は雑居房ですが、プリゾニエ・ドゥ・マーク(prisonnier de marque 富裕層の囚人)は、さらにお金を払うことで、独房(一人部屋)が与えられ、読書や書き物をすることも許されたそうです。

沢山の牢獄の中で特別な部屋がありました。有名なマリーアントワネットが投獄された牢獄です。

こちらがマリーアントワネットが投獄された部屋です。ここに2ケ月半投獄された後にコンコルド広場にて処刑されたそうです。ここに投獄される前はタンプル塔に投獄されていました。フランス革命の後の恐怖政治時代には隣接された革命裁判所で死刑判決を受けて処刑された人は2780名にもなったそうです。旧体制派の多も死刑となりました。マリーアントワネットも、恐怖政治の犠牲者の一人だったようです。
1792年08月10日 タンプル塔に投獄(幽閉)
1793年08月08日 コンシェルジュリー監獄に移送
1793年10月15日 死刑判決
1793年10月16日 死刑 集団墓地に埋葬
1815年01月21日 王政復古により歴代の王が眠る大聖堂に改葬

頑丈で大きなカギが印象的でした。

兵士の詰め所も横にありました。厳重な監視が行われていたようです。

曰くありげな石も展示されていました。

その曰くありげな石の横では、プロジェクターでコンシェルジュリーに関する説明が行われているようで、熱心に皆さん聞かれていました。フランス語が分かれば、この石がなんであるかが分かったのかもしれません。

排水溝の出口と思われる部分にも鉄格子が取り付けられていました。

階段で2階にも上がれました。

2階には、いろんな展示がありました。この部屋には処刑された人物の名前が書かれていました。ルイ16世やマリーアントワネットの名前もあるそうです。
そして2階にも牢獄がありました。実は上で紹介した3種類の牢獄は2階で撮ったものです。

当時のことを説明した絵も展示されていました。

貴重な資料が沢山展示されているようで沢山の見学の方がおられました。

別の階段で1階に下りました。

神聖な雰囲気の場所ですが2階部分には鉄格子がはめられていました。

鉄格子を拡大いたしました。

ここは「贖罪のチャペル」と呼ばれている礼拝堂のようでした。

ここは唯一鮮やかな色合いの場所であったことから、特別な場所のように

フランス革命によって犠牲となったマリーアントワネットのために王政復古後に礼拝堂が作られたと知って、少し報われた気がしました。

マリーアントワネットと同じように革命の犠牲となった夫のルイ16世や、ルイ16世の妹のエリザベート(Elisabeth)の像も飾られていました。
我々の間ではあまり知られていませんが、エリザベートは慈愛溢れる性格で、多くの人にしたわれていて、フランス革命の中、兄ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの一家と最後まで運命をともにしたそうです。この時、マリー・アントワネット 37歳、ルイ16世 38歳、エリザベート 30歳でした。
À LA MÉMOIRE À LA MÉMOIRE
DE LOUIS XVI DE MADAME ELISABETH
ROI DE FRANCE SOEUR DU ROI.


この礼拝堂にはいろんな空間が作られていました。

この空間には絵が飾られていました。調べた結果、マリーアントワネットの絵であることも判りました。

中庭もありました。女性囚人の中庭と言われているようです。男性囚人の中庭もあるそうですが、女性用に比べると狭かったそうです。

女性囚人の中庭には洗濯場もありました。ここで女性囚人達は話をしながら洗濯をしていたのかもしれません。

こちらの中庭は断頭台(死刑台)への馬車が出発する場所だったそうです。コンシェルジュリーはサント・シャペルと2枚セットにすると安くなることも訪れた理由の一つでしたが、実際に見てみて有意義な場所であることを知りました。

今回のフランス旅行でコンシェルジュリーの建物の外観を撮ったのはセーヌ川のクルーズ船の上からの冒頭の写真のみなので、2005年12月3日に撮ったノートルダム橋の上からのコンシェルジュリーの写真も紹介します。初めてフランスに来た時にセーヌ川を散策して撮った写真でが、今回が8回目のフランスとなりました。

コンシェルジュリーと周辺の訪問場所を紹介します。



━━ セーヌ川クルーズ
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マリーアントワネットが入っていた部屋。彼女はこの部屋でどんな気持ちで過ごしていたんだろう・・・と想像しています。
経済力によって部屋が違うのには驚かされましたか、昔はどの国でもありそうな気がします。
飾りがない 高さのある空間や牢獄 マリーアントワネット など まさにタイムスリップしてしまいますね
1000年前の建物だと思うとロマンを感じます。王宮として使われた建物が牢獄として使われることが多い気がします。頑丈だからでしょうか。
内部の造形美もさることながらその歴史もスゴイです。
マリー・アントワネットは悲劇の運命をたどりましたよね。
恐怖政治の「犠牲者」…まったくその通りだと思います。
民衆の怖さ、集団心理の怖さを感じますね。
囚人にもお金のランク。ウーム。
牢獄にも格差があるなんて。
藁の上には寝たくないです。
牢獄の檻や鉄格子が素敵に見えてしまいます。(^▽^)
まさに「地獄の沙汰も金次第」だったようです。
驚きです。マリ-アントワネットも過ごした
監獄、歴史をかんじますね
罪を犯しても貧富の差がそのまま牢屋にも反映されるとは寂しい気がします。
魔女狩りなど残酷な時代もありましたね。現在になって初めて、考えられなくなったのが救いだと思います。
罪を犯す前にお金を貯めておく必要がありそうです。
ほんと、興味深い建物でした。
パリの中心に数百人が入った監獄があっただけでも驚きでした。
見事な鉄格子でした。
監獄時代に取り付けられたので歯ないでしょうか。
建物の大きさと堅牢だから監獄として使われたのでしょうね。でもちょっと寂しい気がします。
片手落ちですね!
内部の様子がよく分かって興味深いです♪♪
ありがとうございました(*'▽')
最も華やかで自由な生活を過ごしたベルサイユ宮殿を見に行かれたのですね。我々もサント・シャペルを見に来たおかげでコンシェルジュリーを知ることが出来ました。
コメントを有難うございました。
江の島は古いものと新しいものが
残っているので好きです。
この宮殿の歴史は6世紀まて遡るようです。さらには紀元前にもつながりがあるようです。
説明されたことがありますがここだったかどうか?
記憶はここじゃ無かっちゃようにも思います。
他や他国にも同じようなのがあるんでしょうね。
フランスのアヌシーにも城が監獄に使われたところがありました。そのことを下記の記事に書いていました。
http://makkurokurosk.blog.so-net.ne.jp/2009-07-19-56