

2023年2月21日再掲載 タイトル:本佐倉城のマジを再掲載

右の図は臼井城の配置図です。臼井城も本佐倉城も佐倉城より前からあった城です。
2015年11月29日掲載
タイトル:本佐倉城のマスコットキャラクター「勝っタネ!くん」




2015年09月28日 09時ごろ EOS 5D
2015年11月24日 13時ごろ G7X
3つの城の場所と年代を紹介いたします。ちなみに江戸時代は1603年~1868年で、戦国時代は1467年~1590年です。つまり本佐倉城は戦国時代の城なのです。しいて言えば、臼井城は鎌倉時代、佐倉城は江戸時代の城なのです。戦国時代(1493~1590年)は、日本の総人口が800~1200万人の世界でした。着色文字をクリックすると過去に掲載した記事を表示します。









印旛沼の水田干拓前の地図に3つ城をプロットしました。昔は本佐倉城の脇に印旛沼があったことがわかります。本佐倉城と臼井城は印旛沼に突き出した半島状の地形に造られました。
⬤ 臼井城 ⬤ 佐倉城 ⬤ 本佐倉城

本佐倉城には10台程度の駐車場が用意されていていますが、周辺の道は細く道が判りにくいので、下記の住所をナビに入力することをお勧めします。駐車場の近くまで行けると思います。
徒歩で行く場合は最寄駅の京成本線の大佐倉駅が便利です。大佐倉駅から本佐倉城の入口まで約1㎞です。主格があった城山までは約1.3㎞です。地図をクリックすると広範囲を表示します。
住所 千葉県印旛郡酒々井町本佐倉823
━ 徒歩 大佐倉駅から本佐倉城
━ 車 京成佐倉駅から本佐倉城

地形がわかりやすい図に名称を追加させてもらいました。
城名 本佐倉城 もとさくらじょう
別名 将門山城 根古谷城
城郭構造 連郭式平山城
天守 なし

築城年 文明年間
主改修者 千葉氏
主な城主 千葉氏、小笠原吉次、土井利勝
廃城年 1615年(元和元年)
遺構 堀、土塁
文化財 国の史跡

現在の周辺は水田や畑で囲まれていますが、城があったころは沼および湿地帯で囲まれており堅牢な要塞であったことがうかがえます。この図は右下の方向が北になります。
城域は内郭と外郭に分かれており、内郭は南方に谷が刻まれた半島状の丘陵上に占地し、往時は三方を沼および湿地帯で囲まれた要害でした。一方の外郭は内郭から繋がる丘陵上を自然地形と空堀で分断した広大な地積を持ち、千葉氏の勢力が伸張したのち、家臣団の屋敷地として整備されたと考えられています。現在でも城の土塁や空堀などの遺構が、ほぼ完全な姿で残っており、1998年9月11日に「本佐倉城跡」として国の史跡に指定されました。

城はⅠ郭からⅦ郭で構成されています。Ⅳ郭以外は名前で呼ばれていますが、Ⅳ郭は城ノ内ではなくⅣ郭と呼ばれることが多いようです。内郭であるⅠ郭~Ⅶ郭の外側にも荒山、向根古谷、佐倉根小屋などの3つの外郭群が存在していました。Ⅰ郭の城山以外の郭の性格は確認調査による成果からの推測のため、調査が進むにしたがって性格が変わってくることもありうるそうです。

Ⅱ郭 奥ノ山
Ⅲ郭 倉跡
Ⅳ郭 城ノ内
Ⅴ郭 東山馬場
Ⅵ郭 東光寺ビョウ
Ⅶ郭 セッテイ山

本佐倉城の航空写真です。水田部分が昔は印旛沼および湿地帯でした。上の地図と比較するとそれぞれの郭の現在の状況が分かってもらえると思います。
本佐倉城の北側の入口である東山虎口あたりを遠くから撮った写真です。本佐倉城(もとさくらじょう)は、千葉県印旛郡酒々井町本佐倉と佐倉市大佐倉にまたがる将門山に築かれた千葉氏後期の本拠地となった城です。文明年間(1469年-1486年)の築城と考えられており、国の史跡に指定されています。城があったころは写真を撮っている位置は印旛沼の上でした。虎口(こぐち)とは中世以降の城郭における出入口のことで、守るために狭い通路になっています。

上と同じ写真で東山虎口あたりを拡大いたしました。本佐倉城の文字が読み取れると思います。



東山虎口に近づきました。右下の方に説明が立てられています。

東山虎口の説明です。東山虎口にはに二重に門が建てられて敵の侵入を守っていました。

東山虎口に向かって登っていきます。

説明の通り道が曲がりくねっていました。蛇行した狭い通路と二つの門と内枡形の長方形の空間によって非常に厳重守られていたことが伝わってきました。

登り詰めると城内の雰囲気になっていました。城の雰囲気を感じてもらうためか、Ⅳ郭と呼ばれているあたりに木製の盾が並べられていました。左側には東山馬場が広がっています。

この上がⅣ郭部分です。Ⅳ郭は城ノ内と呼ばれることもあり、段々状に家臣団屋敷などがある兵站地であったのではないかと思われています。
この写真をGoogle地図に登録してみました。→ポチッ

城の内側から東山虎口を見た景色です。右の高くなっている部分が東山と呼ばれているところです。ここにも説明が立てられていました。

こちらの説明板には、東山虎口の門と、東光寺ビョウと、南奥虎口の説明がが書かれていました。

Ⅳ郭から東山馬場方向を見た景色です。

こちらが東山馬場です。名前の通り馬場考えられています。建物跡は見つかっていないそうです。

東山馬場からさらに下りていくと車で来るルートに出ます。その入口から見た本佐倉城です。

その入口には国史跡「本佐倉城跡」の石碑が立っていました。

石碑は2002年(平成14年)に建てられたものでした。

東山馬場から登っていく方向の写真です。

こちらがⅣ郭虎口です。この奥に昔は門がありました。道には堀底道と名前が付けられていました。

Ⅳ郭虎口の説明板です。

堀底道を登っていき左に曲がると大堀切があります。ここで城山に向かうために左に曲がりました。

左がⅠ郭である城山で右がⅡ郭である奥ノ山です。城山と奥ノ山は木橋がかけられていたと推測されています。
ここお登って向側に下りていくと分かれ道になっていて、それぞれ城山への道と奥ノ山への道になっています。

大堀切の説明板には大堀切を登りきったところに木戸があったことが書かれています。

ここが分かれ道です。右に行くと奥ノ山で、左に行くと城山です。ここも厳重な守りであったことが想像できました。

左に曲がると城山への道が続いていました。右側は空堀です。ここは城山虎口です。

城山への道を登の切ったところらも門があったことが書かれていました。

このあたりに城山の門があったわけです。

城山門跡の説明板です。2006年の発掘調査で門跡が見つかったそうです。門をくぐると主殿がありました。

ここが城山です。右側から登ってきました。

城山には沢山の建物があったことが発掘でわかりました。

初めて本佐倉城に来た家内は興味深く見て回っていました。

発掘により城山(Ⅰ郭)で、下記の遺構が見つかりました。

遠侍 10.1m x 5.7m
会所 11.2m x 13.5m
園池 11m x 8m
築山 8m x 5m
建物4棟(台所・倉庫・便所など)
櫓2棟(平櫓・井楼櫓)
門2棟
塀(門連結・土塁上)
通路
木橋(城山と奥ノ山を連結)

城山にあった主殿(上)と会所(下)に類似した建物の写真です。
主殿の写真は青森県の根城で復元されたものです。会所の写真は岐阜県の江馬氏館の復元された会所です。このような建物が城山郭に建てられていた想像するだけでロマンを感じます。
500年前の城は城砦としての性格が強く、外から城内の地形が知られないように低い建物で構成されていたと想像されます。当然ですが、主殿の位置を特定されるような天守閣は設けなかったと感じました。


城山から分かれ道まで下りてきて、今度は奥ノ山の方に向かいました。

こちらがⅡ郭の奥ノ山です。

妙見郭とも呼ばれることがあるように発掘で15mx15mの基壇が見つかっており妙見宮の跡と考えられています。

奥ノ山はかなり広いスペースでした。奥ノ山には本佐倉城(根古谷城)に関する,ステンレスの説明版が設置されたてました。本佐倉城は文明年間に千葉氏21代当主の千葉輔胤により築城されて、1590年(天正18年)に姻戚関係にあった小田原の北条氏と共に滅亡するまで、戦国大名千葉氏宗家の本拠地として9代続きました。その後は徳川氏に接収されて軍事上の必要から佐倉藩の藩庁が置かれました。1615年(元和元年)に藩庁の佐倉城への移転と一国一城制により廃城となりました。本佐倉の城下町は酒々井宿に移設されて成田街道の宿場町になったと考えられています。本佐倉城の前の千葉氏の居城は現在の千葉市の中心にあった亥鼻城(千葉城 1126年築城)でした。千葉輔胤が古河公方足利成氏と結んで下総国を平定したことから1455年に亥鼻城から佐倉に本拠地を移し、その後に本佐倉城を築城したようです。史実から少なくとも1479年には完全には完成していなかったようです。


本佐倉城の城主は妙見宮で元服しており、千葉氏の守護神とされていたと説明されていました。

Ⅲ郭となる倉跡です。確認調査によって掘立柱建物が広範囲に分布していること分かったことから
その名の通り倉庫群が存在したと考えられています。炭化した米も沢山見つかりました。供膳具や調理具や貯蔵具なども沢山見つかったことから、倉庫だけでなく人の生活するための空間も存在したと考えられています。

倉跡の上にはⅦ郭のセッテイ山がありました。セッテイ山へ登っていく道です。

こちらの竹林には節と節の間に緑と薄い黄色の縞模様が表れる金明竹が沢山あることでも有名であることが散策マップに書かれていました。上のセッテイ山へ登っていく道の写真にも金明竹が写っています。金明竹は真竹の突然変異だそうです。

セッテイ山は、その名から接侍郭、あるいは場所的なイメージから人質郭と考えられています。人質郭と考えられているのは主殿から遠く離れており厳重な虎口の形態や大規模な空堀や郭の形状などからです。確認調査において、建物跡の存在がが分かっており、供膳具や調理具や貯蔵具なども沢山見つかっています。また他の郭ではあまり見られない墓石、茶壺、火箸なども見つかっているそうです。本佐倉城で倉跡だけは畑として利用されていました。

倉跡とセッテイ山の間には高さ10mの空堀があります。堀底道はⅥ郭の東光寺ビョウにつながっています。

倉跡と奥ノ山の間から南に下りていく細い道です。

下りて行ったところに妙見神社(妙見社)がありました。

社には妙見神社と書かれていました。

Ⅵ郭の東光寺ビョウです。本佐倉城で最も広い郭でしたが、その性格に関してはまだ不明だそうです。2つの物見台に守られた空間です。

南奥虎口は東光寺ビョウから城に登っていく玄関口です。発掘調査によって木戸跡や柵列跡や通路跡が見つかっています。現在は見通しが良い場所ですが、当時は木戸や柵などで虎口内部は見えない状態でした。本城には東山虎口、Ⅳ郭虎口、城山虎口、南奥虎口などの虎口がありました。

南奥虎口にも詳しい説明板が設置されていました。

東山虎口の東側が名前の通り東山で険しい自然の尾根がつづいていました。

東山虎口の西側の土手には諏訪神社(諏訪社)がありました。Ⅳ郭と倉跡の間から行くことが出来ます。

諏訪神社の社です。

諏訪神社と書かれていました。

諏訪神社の社の中です。小さな社が祭られていました。

諏訪神社の周りには小さな社や安産祈願の石像が祭られていました。



ここは立派な史跡にも関わらず訪問者が少ない場所ではありますが、3回来て初めて多人数で来ている人を見かけました。車数台で来られていました。

本佐倉城内に沢山の説明板が建てられていましたが、そこには甲冑姿のキャラクターが描かれていました。本佐倉城のマスコットキャラクター「勝っタネ!くん」です。「勝っタネ!くん」は、本佐倉城跡の第3代城主である千葉勝胤(ちば かつたね) をモデルとして作られそうです。
千葉勝胤は1514年に編さんされた連歌集「雲玉和歌集」の中で、「武に優れ、大和歌にも通じ、地に幸草の種をまいた。」 とうたわれた文武に優れたお殿様でした。その幸草の種と千葉氏の継名の胤の字をかけて誕生したのが、文武両道と勝利の神様「勝っタネ!くん」だそうです。体は 幸草の種で作られていて、 手足は、台地にしっかりと根を張る根っこでできています。
身長155cm、体重130kg、胴回り300cm
1471年11月16日(文明3年10月5日)生まれの544歳


城主 【 当主 】
初代 千葉輔胤【二十一代】
二代 千葉孝胤【二十二代】
三代 千葉勝胤【二十三代】
四代 千葉昌胤【二十四代】
五代 千葉利胤【二十五代】
六代 千葉親胤【二十六代】
七代 千葉胤富【二十七代】
八代 千葉良胤【二十八代】
九代 千葉邦胤【二十九代】
クリヤーな「勝っタネ!くん」を紹介したくて酒々井町のホームページから画像を転用させていただきました。
画像をクリックするとオリジナルを表示します。





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自然の地なんでしょうか人工的なんでしょうかね?。
自然の形を利用して作った城ですが、土塁や空堀でいくつもの郭(くるわ)に分けたのは人工なのだと思います。
500年前~400年前だと思うとロマンが伝わってきます。2013年まで本佐倉城を知りませんでした。
ここは知らなかったですね。
佐倉民族博物館の方には行くのであそこに佐倉城址があるのは知っていましたが・・・
本佐倉城は知らない方が多いので紹介の価値があると思います。これだけのものが昔のままに残っているのは、すばらしいです。
挑戦してください(^0^)”
本佐倉城に行くと勝ったネ君を応援したくなりました。酒々井町のキャラクターには井戸っこ(しすいちゃん)もあります。
本佐倉城に行って来られましたね。
私は数年前に佐倉の歴史主催の探索にガイド付きで行ってきました。
素晴らしい力作ですね。本佐倉城の案内にうってつけです。
私は本佐倉駅から歩いての散策です。
東光寺ビョウの西側から入り、東山虎口門から入りました。
東光寺ビョウの西には男女の「双体道祖神」 が祀られていて、
東山虎口の西側のある諏訪神社があって、いずれも信州にあるものですから、何代目が忘れましたが、信州から家老が赴任したとの説明がありました。
最近の情報によりますと、この「双体道祖神」が何者かに盗まれてしまったそうです。
心ない人もいるものですね。
着ぐるみ、顔はきりりとしてるんだけど
なんかとぼけてかわいらしいですね。
本佐倉城内の案内板のおかげで説明を書くことが出来ました。皆さんに知ってもらいたくて力作となりました。
2013年11月に初めて本佐倉城に行ったのはkazuさんに教えてもらった時です。それまでは知りませんでした。いいお城を教えてもらいありがとうございます。
双体道祖神が盗まれてしまったとは悲しい話です
胴体がタネとの設定らしいです。確かに愛嬌がありました。700円くらいの小さなぬいぐるみがあったら買ってしまいます。
城跡の説明板から、当時は幸だったんだろうと、
想像力がかきたてられて来ますね。
可愛らしく見えますね、勝っタネ君^^
もうどこでも何でもマスコットキャラ、
ゆるキャラは必須みたいな風潮ですね~
2013年11月に初めて行かれたのですね。
想像以上でしたでしょう。
勝胤をモデルにした「マスコットキャラクタ-「勝っタネ!くん」は初めて見ましたよ。
勝胤寺はその時、本佐倉駅から最初に行きました。
勝胤以降の歴代の城主のお墓があったように思います。
当時、このお寺のそばまで印旛沼が入り組んでいたようですね。
城址も同じように東山虎口門の下まで沼だったのでしょうね。
印旛沼から船で城に来るには「浜宿湊」から上陸していたようですね。
素晴らしい説明資料をありがとうございます。
外郭も含めると10もの郭(曲輪)で構成された大きな城に驚かされました。全盛期は勝っタネくんのモデルとなった千葉勝胤が城主であった時のようです。
2015年の、ゆるキャラグランプリに登録されただけで1727もあるそうです。順位は次の通りです。勝っタネ!くんは851位(1839pt)で井戸っこ(しすいちゃん)は1172位(823pt)でした。
・第1位 「出世大名家康くん」(静岡県浜松市) 6,953,461pt
・第2位 「みきゃん」(愛媛県) 6,915,774pt
・第3位 「ふっかちゃん」(埼玉県深谷市) 4,011,758pt
・第4位 「しんじょう君」(高知県須崎市) 2,242,317pt
・第5位 「メルギューくん・メルモモちゃん」(富山県小矢部市)
・第6位 「とち介」(栃木県栃木市 992,524pt)
・第7位 「はにぽん」(埼玉県本庄市) 903,455pt
・第8位 「政光くん・寒川尼ちゃん」(栃木県小山市) 848,973pt
・第9位 「だし丸くん」(愛知県半田市) 792,279pt
・第10位「しまねっこ」(島根県) 717,148pt
http://www.yurugp.jp/vote/result_area.php?page=2&prefectures=12
ほんと驚きました。写真が多かったので、なかなか掲載できませんでしたが、勝っタネ!くんのおかげで、やっと掲載できました。歴代の城主のお墓は是非とも見に行きたいと思います。
うちから比較的違い場所にも平山城址がありますが、
中学校の頃に行ったので、今は変わっているかもしれませんが、
周りには何もないような場所でした。
このような場所に歴史のある城跡があるとは知りませんでした。近くを知るいい機会になりました。
以前は荒れ放題でしたが、よく整備されていますね。
堀がよく残っていて感激です。
中世城郭でマスコットがいるとは驚きです。
残してほしいですね。
ご存じだったのですね。恥ずかしながら、私は近くに住んでいながら、最近まで知りませんでした。道が細くて分かりにくい場所でしたが、何百年もたっていながら遺構が昔のままに残っているのには驚かされました。これからも大切に守ってほしいです。訪れる人が増えることが守ることにつながる気がします。
SORIさんの説明に見入って
しまいました。ロマンを感じますね
よく開発されずに自然のままで
残ってましたね
説明を読んでいただけてうれしいです。ありがとうございます。
あまり知られていないけれども、実際に行ってみて国の史跡に指定された理由が分かりました。残っていて価値があるものでした。
来年は佐倉国立歴史民俗博物館と佐倉城址を見に行こうかな。
佐倉に来ていただけるとは、うれしいです。佐倉の武家屋敷や堀田亭や医学館もお勧めです。
でも割と道や階段が整備されているので、
周りやすいかも知れませんね。
ちなみに今年のランキング10位「しまねっこ」は
4年連続Top10入りです。
ゆるキャラグランプリはどんどん組織票が強くなってきているので、
大人しい島根県人は他県の方の勢いには敵わないのかもなー。
でも、お土産にグッズを持っていくと、結構好評なんです(^^)
組織票とは言え、4年連続のTop10入りはすばらしいです。これだけの数があるとすべてを比べて投票する人は皆無のような気がします。
確かに、お土産グッズは好評ですね。酒々井の方も考えられたらいい気がします。
確かに真夜中に本佐倉城址を歩くのは勇気がいりそうです。ほんと真っ暗闇です。勇気のある方は星座観測には向いた場所かもしれません。
試しに作って欲しかったです。でも予算がないのであれば仕方がないかもしれません。
保存の熱意を感じます。
山城とみていいようですね。
本佐倉城址までの道がワクワクしますね。ゆっくり歩いてみたいです。
戦国時代の大きな城の遺構が残されているのはすごいです。この時代の城を知るうえで貴重なものだと思います。
京成電車の中から見ることが出来ます。ここを訪れてらは電車から確認してしまいます。
こんな広い城跡があるなんて知らなかったです。
当地は
本厚木と書いて ほんあつぎ と読みます
読み方は面白いですね
私も、この辺りを通っていて標識を見て初めて知って知って見ることにしました。思っていた以上に規模が大きいので驚きました。
歩く距離も長く、そして調査大変でしょうが頑張ってください
私は、東京の坂道に興味を持ち、本郡、赤坂などの坂道を歩き
そして隅田川の橋巡りなどをしましたが、今は無理になりました
フリー百科事典Wikipediaに「もとさくらじょう」と書かれていて初めて読み方を知りました。ほんと読み方は面白いですね。
ありがとうございます。いろいろと調べて書いてみました。国の史跡と言うことは史跡としての価値が高いことを示しているのだと思います。
本佐倉城の東山虎口、京成本線の車両から見える感じですね。大佐倉駅〜京成酒々井駅区間を、乗る機会あれば、眺めてみたいです。城山の建物「・・・低い建物で構成されていた」意外でした。権威の象徴と言うより、防御・戦いに備えていた感じですね。本佐倉城の「勝っタネ!くん」着ぐるみもいい感じですが、ご当地キャラが沢山なり、戦国時代ですね!?(=^・ェ・^=)
展示されてるんですかね。見れば当時の様子も分かりますね。
城址はロマンがありますよね(^^)
僕が住む宮城県多賀城市の<多賀城史跡>は太宰府・奈良と並んで
日本三大史跡で、日本百名城にも選ばれています。
4月からサンデー毎日になるので、ボランティアガイドやります。
近く?にこのような史跡があることは幸せなことと思いました。
成田空港の行き帰り見ています。そうなんです。京成本線の車両から見えるのです。
新型コロナ渦で成田空港を利用する機会が減って長く見ていませんでしたが、昨年12月に成田にあるDining Port 御料鶴で友人と食事するときに久しぶりに京成電車から見ました。下記URLはDining Port 御料鶴の記事です。
https://makkurokurosk.blog.ss-blog.jp/2022-12-26
三代の千葉勝胤に気が付いていただけたのですね。ありがとうございます。やっぱりマスコットキャラクターがあると愛着がわきます。
下記URLによると、新しく作られた国史跡本佐倉城跡案内所で発掘品展示や紹介映像での紹介が行われているそうです。
https://www.town.shisui.chiba.jp/docs/2017122100011/
さらに下記URLによると京成佐倉駅北口にあるミレニアムセンター佐倉2階でも出土品の展示が行われているようです。
https://tabi-mag.jp/ch0439/
日本三大史跡で日本百名城とはすばらしいです。ボランティアガイドもされているのですね。
お恥ずかしい。とてもそんなレベルではありませんが、掲載する以上は高いレベルを目指しています。
ありがとうございます。ご無沙汰しています。
もっと精進してからですね。
案内所も出来たそうです。そこにトイレもあるようなので行きやすくなったようです。さすがです。酒々井町役場の方ありがとうございます。
行ってみたくなりますね〜
目のお薬師様(一畑薬師)にコメントを
有難うございました。
本佐倉城は良く調査されてますね(^^)v
マスコットキャラクター(勝っタネくん)
可愛いです。
ほんと、埋もれたお宝と言う感じの場所でした。みんなに見てほしいところです。
初めて行った時の感動で書きました。見ごたえがありました。
函館五稜郭で高い建物を建ててしまってねらわれたことは聞いたことがあります。太鼓の櫓だったのですね。長距離大砲の時代になると特に目標があると致命的ですね。昔は広い迷路のような敷地で敵を惑わすので、高い建物は目標にされて攻められるので見えないようにしたようです。
東京の坂道を歩いたり隅田川の橋めぐりはいいですね。近かったら行ってみたいです。
私は、仕事でよく佐倉に行くのですけど、この地元の人でもこの本佐倉城のことを余りご存じでない方が多いのに驚かされています。
歴史というと畿内中心に語られてしまいますが、こうした遺跡を歩いて東国の歴史にも目を向けてくれるようなってもらえればと思います。
この記事を見つけてもらえたのですね。嬉しいです。
幹線道路から直接入る道がなく、幹線道路が渋滞の時に通る向け道的道路に、本佐倉城に行く入口の細い道があるので見つけるのも難しいところにありました。建物は残っていませんが地形は昔のままに残されている城跡なので、沢山の人に知ってもらいたいです。