2013年05月24日

戦国時代の城 先崎城


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先日、千葉県佐倉市小竹地区の小竹城と、その城を築城した小竹五郎高胤の墓を紹介いたしました。→ポチッ
小竹城があった戦国時代に隣の先崎地区も先崎城がありました。城があった周りで先崎城という表示を探した結果、上の写真のように「先崎城主 墓石」の標柱(墓守記念碑)を見つけました。

臼井城のあった東の方向から先崎城の方向を撮った写真です。赤い矢印のところに先崎城がありました。高台から平地に睨みを利かす形でお城があったことが判ると思います。今から400年前の戦国時代はどのような景色だったのでしょうね。
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先崎城があったあたりを拡大いたしました。写真の中央の高台に主郭があったものと思われます。


震災のあと、このあたりも、新しい家が増えましたが、昔からの家もたくさん残っています。タイムスリップした気分にさせてくれる場所です。



航空写真で先崎城を紹介します。青いマークのところが先崎城です。現在の先崎城のある場所の住所は千葉県佐倉市先崎1567番~1580番です。先崎の明確な経緯はネットでは記載されていないので千葉県や印旛郡や佐倉市の沿革から想定される経緯は次の通りです。
 江戸時代~          下総国印旛郡先崎村   佐倉藩管轄
 1871年07月14日(明治04年) 佐倉県印旛郡先崎村   廃藩置県
 1871年11月14日(明治04年) 印旛県印旛郡先崎村 
 1873年06月15日(明治06年) 千葉県印旛郡先崎村      
 1889年04月01日(明治22年) 千葉県印旛郡志津村先崎 1町7村が合併 
 1954年03月31日(昭和29年) 千葉県佐倉市先崎    佐倉市が設立

より大きな地図で 先崎城 を表示
城があった高台の崖下に小さなお堂があります。これが先崎地蔵尊で、お堂の中に高さは90cmの丸彫りで一心に合掌する坐像の石仏が奉られています。
クリックすると拡大右の説明書きには次のように書かれていました。
先崎地蔵尊

 願主 友野河内

 一.慶安三年二月二十四日創建

 二.地蔵信仰と庚申信仰が習合の文化

 三.座像の地蔵尊は珍しい

    佐倉市文化財審議委員会談

慶安三年は1650年です。
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お堂の格子の間から地蔵尊を見ることが出来きました。右側のお地蔵さんは明治四十二年一月に友野富三郎さんによって収められたものです。お地蔵さんは「子供の守り神」のためか、左側に子供の人形も収められていました。


地蔵尊の左側に冒頭の写真で紹介の先崎城主の墓石がありました。墓石の右側には先崎城主墓石と書かれた標柱があり、標柱の裏には「慶安三年ニ月建立 (1650年)」と書かれていました。時代背景はよくわかりませんが1650年は江戸時代に入って47年目の年です。そして今から363年前です。
墓石に掘られている年代をは右から次の通りです。真ん中の墓石には桂岳道照と書かれています。この墓石は宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれる形式だそうです。
 慶安三年四月四日   1650年
 慶安三年六月      1650年
 寛文二年八月十八日  1662年
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上で紹介の年代はそれぞれの台座に掘られており写真をクリックすると読み取れます。下の方は読み取れませんが戒名と思われる「楓早紅禅定門 」「禅定尼・ 」「禅定門霓・ 」の文字も見れます。
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上で紹介の墓石以外にも沢山の墓石がありました。明治三年四月廿二日に友野幸太郎さんが再建した石碑(墓石)などもありました。小竹城の場合は小竹五郎高胤が築城したものですが、先崎は人の名字ではなく印旛沼の中の岬(先崎)に由来する地名です。ネットで調べても築城者の当時の氏名は判りませんが、先崎地区で沢山ある名字の友野氏の祖先にあたるものと思われます。
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同じ場所に沢山の庚申塔もたてられていました。


さらに別の石碑も建てられていました。
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ネットで先崎城を検索した結果、歴史的背景の記載されたものはほとんどありませんでしたが謙信、下総臼井城攻めの章 関東騒乱(七)内で永禄8年(1565年)に臼井城を上杉謙信が攻めて敗退した時の記述に先崎城の名前があったので転記しました。戦国時代の厳しさが伝わってきます。少なくとも1565年以前に先崎城が存在したことになります。

剛勇の武士。その働きは北條家の赤鬼とまで異名されたと関八州古戦録にある。
此方から援軍に駆けつけるはずの大和田砦から、反対に松田孫太郎が援軍に来たのであれば、小田原からの援軍も期待できるとの思いを持った上野介胤貞、松田の援軍を臼井城に案内すると直ぐに自兵をその主要な支城である小竹城、先崎城、志津城、師戸城、岩戸城を固め、臼井城周辺に置かれた洲崎、仲台、宿内、手繰、稲荷台の各砦に人数を詰める事にした。...

謙信は先陣である長尾顕長、富岡重朝の手勢を印旛沼の北側に送り込み、岩戸城、師戸城を取り囲ませると、中備えの本庄繁長、北条丹後守、新発田治長の手勢を印旛沼南岸の西北方面から、先崎城に向かわせ、他国衆の本庄秀綱、三上兵庫介正秋、石毛平馬持之、森下三河守の手勢には臼井城南西にある志津城を囲ませている。...

印旛沼対岸でも先崎城から崩された原上野介の兵が仲台砦にばらばらと逃げ帰っており、志津城からも同様に越後兵に追われた城兵が手繰砦に逃げ込んでいた。
謙信本陣もこれを見て陣を動かし、目の前の小竹城に寄せると、これも三月十日までには総崩れとなって手繰砦へと入って行った。...

高台の淵は絶壁になっています。こちらが東側です。写真をクリックすると東方向の景色を表示します。
クリックすると東方向の景色

こちらが南側の絶壁です。写真をクリックすると崖下の景色を表示します。
クリックすると崖下の景色

絶壁の淵は土塁のように盛り上げられていました。写真の右側が絶壁です。当時の地形が残っているものと思われます。写真をクリックすると内側を表示します。
クリックすると内側を表示

高台から奥に入ったところにも古い墓石のような石碑がありました。左の墓石には寛文九年五月(1669年)先崎村と書かれておりました。形式は五輪塔(ごりんとう)で高野山の墓石でよく見かけました。右の石碑には享保十年十月四日(1725年)先崎村と書かれていました。
クリックすると拡大クリックすると拡大

古い墓石あるいは石碑がさらにありました。年代は宝永四年(1707年)、寛政六年(1794年)、天明六年(1786年)が読み取れました。


先崎城のそばには鷲神社があります。鷲神社の開創は承平七年七月七日(937年)とのことなので先崎城が出来る以前からあったものと思われます。ただし建物は応永年間(1394~1428年)に火災により被害を受けたことから1844年に再建されたものだそうです。石の鳥居は寛文十三年(1673年)に建立された当時のままだそうです。


先崎城、先崎城主墓石、地蔵尊、丘の上の墓石、鷲神社の位置関係です。
クリックすると広範囲の地図を表示
参考にさせていただいた先崎城に関するネットでの記述を紹介いたします。
サイトによっては正確でないものもあるかもしれませんが、サイトに記載されている通りの内容で転記いたしました。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1577/sakurasi3.htm
佐倉市の城館跡
先崎(まつざき)城(佐倉市先崎字領替)

 先崎城はすっかり破壊されてしまった、といったようなことを前回来たときに地元の方に伺っており、遺構はほとんどないのかと思っていた。しかし、先年、左衛門尉殿より、「台地先端近くの鉄塔の建っている辺りに遺構が残っている」というお話を伺って、近くまで来たついでに再訪してみることにした。台地にあがってみて、鉄塔のある所まで来てみたが、どれが遺構なのかよく分からない。印旛沼に続く、南側の水路のような小川から見て、北側正面の比高115mの台地先端部辺りが城址ということになる。とうど1郭の真下に先崎地蔵尊が祭られている。

 地蔵尊から少し西側に進んだ辺りから台地上の鷲神社方向に登っていく道がある。ただしその途中の台地縁辺りには民家があるので勝手に進入することもできない。台地に上がってみると、墓地や地蔵などが点在していて、どうもかつてこの辺りに寺院があったようだ。その辺りから進んでいくと鉄塔のあるところに出た。
 鉄塔の建っている平坦地辺りが、台地を削って均した部分であるらしい。しかし、どうも一番先端の部分が一段高く削り残されているように見える。そこで、鉄塔の脇から回り込んで、その先端部分周辺を見てみることにした。しかし、なんともヤブがひどい。それに先のほうまで進むと民家の敷地内に入ってしまいそうで、台地縁辺りしか見ることができなかった。

 しかし、この縁には土塁で囲まれた1の郭が残存していた。先端の土塁との間には2段の折れを伴った堀も見られる。しかし、1は背後の尾根状の高台よりも低いところにあり、この地勢からすると、尾根状の部分が主郭、その下の1は腰曲輪の一種というように見るべきであるかもしれない。(あるいは1が主郭で、背後の尾根状の高まりは櫓台の一種とするべきであろうか。) だがいずれにしても、その先の北側部分が削られてしまっているようなので、本来の城の形態は不明であるとしか言いようがない。ただ、「領替(要害)」という地名からすると、小規模な砦ででもあったのだろうか。

 この削り残された台地の北側下、Bの部分にも堀の名残らしいものが見られる。その下、Aの部分には、横堀の名残らしきものが見られるが、これは切り通しの通路であるに過ぎないかもしれない。
 鉄塔の周囲、民家の脇などにも土塁や土手のようなものが見えている。また、隣接した鷲神社の周囲にも土手が見られる。しかし、そこまで城域を拡大すべきではないだろう。上記の通り、小規模な砦が先端に存在していた、といった程度のものだったのではなかろうか。

(以前の記述)先崎城は、佐倉の小竹地区から保科地区に向かう道を北に走り、先崎に入るとすぐ小川を渡るが、その突き当たりに見える比高15mほどの丘陵上にあった。この辺りは「領替」と呼ばれているが、これは要害がなまったものと思われる。城址は先崎地蔵尊の辺りで、土塁、空堀、虎口、櫓台などが残っているというが、どれが遺構なのかはよく分からなかった。切り通しの道が空堀のように見えるし、その脇の土手は土塁のようにも見えるが、後世の変造なのかどうかはっきりしないのである。

 城址の西に隣接して写真の鷲神社がある。この神社は創立が古く、承平年間の頃だと言うから、平将門のいた頃からあったことになる。写真の鳥居は寛文年間に建てられた石鳥居で、境内にあるケヤキと共に佐倉市の文化財に指定されている。この付近にも土塁や腰曲輪のような部分がある。

http://homepage2.nifty.com/mori-chan/sakusaku/1_3_2.htm
臼井城の支城(師戸城、志津城、志津大口館、上峠城、小竹城、井野城、先崎城)
先崎(まつさき)城(佐倉市先崎(まつさき)字領替)

先崎城は、臼井城の西北西約3Km、青菅の台地と水田になっている谷を挟んだ台地先端部にあった。この城址は「領替」という地名を元に歴史家によって発見されたが、現状土取のために台地が削られており、原形を留めていない。台地端に数郭展開されていたようで、今も土塁痕が崖になっている竹藪にある。城址ある台地下には有名な先崎地蔵尊があり、台地上の城址近くには鷲神社がある。先崎地蔵尊の横の墓地には、慶長年間の銘のある石塔が2基たっている。

先崎城址の南方約1Kmには井野城址があり、小竹城址も比較的近い。やはり臼井城を中心とした支城の一つと考えれる。

http://tsenda222.web.fc2.com/siro-yukari.htm
城跡をあるく  -悠久の歴史散策-
先崎(まっさき)城址

先崎は印旛沼西端の丘陵地に位置し東側に新川、(印旛疎水路)南境を手繰川の支流(小竹川か?)が東流する。先崎干拓の地域には印旛沼がゆるやかに大きく湾入しほぼ西北から東南に細長く連なる。集落は東西に細長く連なる。先崎の地名の由来は印旛沼が、近くまで岬になっていた事からきている。

先崎地区の古老友野さんをお訪ねした。城のことをもっとお聞きしたかったが、聞き伝えによる事しか、話を伺う事が出来なかった。

先崎城址アンテナの東側に僅かな遺構があり、友野さんのお供をして土塁の横から、私達2人が入って見る。網が張ってありその先の藪をかき分けて行くと、20畳位の広場があり、建物の跡であると説明される。
すこし先、木々の間から小竹方面を見れば、ゴルフ場その周辺が俯瞰出来、城が存在して居れば眺望が良く利いた、展望台であったのかも知れない。 眼下は崖になっていて、土を採取した後か崩れた土が露出している、此処は地蔵尊の真上で、木に掴り乍ら下り地蔵尊横の墓場の右手に出る。

僅かしか残っていない遺跡資料によると(破壊前の概念図によると3つの曲輪からなる特異な形態で土塁、空堀、櫓の規模も大きく戦国盛期まで機能していた。また城の性格として城直下の寺院が、臼井氏菩提寺の末寺であることにより、臼井氏系の城館であったと思われる。現存する発達した形態は戦国盛期のものであり、臼井原氏の影響下に大改造が行われたと考えられる)とある。

「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査調査表」による昭和43年以前は、かなりはっきりした遺跡が残っていたとのこと、現在であれば土採取時に、かなり綿密な調査がされたであろう。惜しまれることである。

http://www.geocities.jp/tsukayan0112/joukan-tiba/matuzaki-jou-sakura/matuzaki-jou-sakura.html
凸臼井城の支城か
印旛沼西方の上小竹川(A-2)北岸の台地崖線沿いに占地し、それぞれ経緯・性格は不明ですが、西方約500mには下高野館、北北東約800mには保品竜害城が所在し、特に下高野館とは同一の台地上に所在することからその関連性が想定されます。

 伊礼正雄氏によりますと、1968年3月現在までは2か所からなる連続した郭と外郭部が現存していた旨が当時の現地調査により明らかにされています。また、城郭としての伝承は不明とされていますが、字名として「領替」(⇒要害の転訛)という地名が残され、高橋三千男氏(当時:佐倉市教育委員会)によりその所在について明らかにされたとのことです。(「佐倉市史」より)

 なお城名の読みは「まっさきじょう」で、別名を宮ノ越城(みやのこしじょう)とも。
訪れることができたのは3月の末とはいえ、時刻は既に黄昏時の然も薄暗い山林の中。近くに民家があるものの、なかなかに森閑とした佇まいを呈しておりました。「佐倉市史」によりますと一対の櫓台を含む遺構の凡そ北半分ほどについては、1968年末頃に宅地開発等に伴う土取等により完全消失したとのことで、現在(2009年3月30日現在)は建築関係の資材置場となっておりました。

 残りの南側部分も電波中継塔建設等による地形の改変(A-4)が見られますが、南東部分に所在する郭とこれに伴う土塁・堀跡は明確に残存しています。けれども主郭と思われる郭内部は木々が繁殖し見通しは殆どなく、無論土塁上も枝が障害物となり円滑な移動は困難な状況でした。

 取分け麓に先崎地蔵尊(A-3)が所在する南東側では、オーバーハングした崖線となり自然崩落が徐々に進行している様子でありました。このため雨上がりの後などに土塁の辺縁部上を迂闊に歩行すると、土塁と諸共に崩落していく危険性も潜在している模様です。まして周囲は次第に夕闇が濃厚となり始め、一応遺構の残存範囲を特定できたということにして即時撤収へ。

 なお、「宮ノ腰」の地名と関係が深いものと推定される城跡西方の鷲神社(A-5)境内周辺にも土塁状の地形(A-6)が確認できますが、当該城域の広がりとの関連から神社の普請に伴うものと見るかどうかその判断に迷うところです。
posted by SORI at 01:41| Comment(27) | TrackBack(2) | 千葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
SORIさん、こんばんは。

先崎城の事を詳しく調べられましたね。
いつもながら感心致します。

東側の絶壁は数十年前に京成バスのUターンの場所として、残念ながら削られてしまった場所です。
志津から先崎行きのバスが出ていました。私も会社に行く時、数十年間利用しましたが、車の時代になり利用者が少なく廃線になってしまったのです。

鷲神社の再建は1844年(天保15年)「天保15年12月2日に弘化と改元」下高野の宮大工、立石菊衛門が棟梁でした。

この家は今でも先崎地蔵尊の青菅寄り、ハウスで花卉を栽培している立石さんです。
Posted by kazu at 2013年05月22日 19:25
ホントに、よく調べられたものですね。
地元の人でも、あまり知らないのでは、無いでしょうか。
学校で、我が郷土の歴史とかなんとかで、教えていれば別ですが。。
Posted by なんだかなぁ〜。横 濱男です。 at 2013年05月22日 20:41
kazuさん こんばんは
先崎城は小竹城と違い築城者も作られた時代もわからない謎の多い城でした。少なくとも戦国時代の1500年代にはあったことだけは何となくわかりました。
東側にもっと広かったのですね。削られた部分は京成バスのUターン場所でバスが通っていたとは想像もしていませんでした。そのバスを利用されていたのですね。
Posted by SORI at 2013年05月22日 20:47
なんだかなぁ〜。横 濱男です。さん こんばんは
墓石が建てられたのが363年前のことなので、城が活躍したのは400年前のことになります。我々には想像もできないことですが、その頃の遺構や形が残されているのはすばらしいことだと思います。
Posted by SORI at 2013年05月22日 20:56
こんばんは!
いつもながら、詳細な記事ですね!!
千葉県で働いているので、今度ネタにします。ありがとうございました。
Posted by アマカワ at 2013年05月23日 01:06
拝見していると、佐倉市は古い街の風格を持っていますねぇ。
歴史的な行事や、建物がまだまだたくさんあって、
住民が誇れる町だと思います。
Posted by まほ at 2013年05月23日 02:25
何気なく道端にある石碑や墓石には
古の謂れとか色々あるのですね
Posted by moto_mach at 2013年05月23日 06:43
アマカワさん おはようございます。
私も、近い場所にあるのに先崎城があったこと自体を知りませんでした。臼井城のことを調べていて、初めて知りました。
身近なところでは井野城と、すでに記事に書いた小竹城があります。
Posted by SORI at 2013年05月23日 06:52
まほさん おはようございます。
佐倉市に住んで長くなるのに、今まで何も知りませんでした。これから、さらに調べてみます。
Posted by SORI at 2013年05月23日 06:55
おはようございます^_^いつもありがとうございます。色々調べられて、いつも本当に凄いなと思います。調べてみると、新しい発見があり、楽しいですね。
Posted by youzi at 2013年05月23日 06:58
moto_machさん おはようございます。
何気ない石碑が200年、300年前のものだと知ると歴史の重みを感じでしまいます。歴史は記録に残っている有名な場所だけのものではないのですね。あの小さな先崎地蔵尊も363年前のものでした。
Posted by SORI at 2013年05月23日 06:59
youziさん おはようございます。
記事に掲載するために何度も行って年代などを確認してきました。古い石碑なので文字が読みにくいのです。斜めから日の当たる時間に再度挑戦という具合です。
Posted by SORI at 2013年05月23日 07:30
おはようございます
佐倉は歴史がいっぱいですね
素敵なとこですね~
Posted by kazu-kun2626 at 2013年05月23日 07:53
kazu-kun2626さん おはようございます。
地域の人たちが、400年近くも大切に守り続けてきたおかげだと思います。
Posted by SORI at 2013年05月23日 10:21
大変ご苦労様です。良く御調べになられました。佐倉市西部から八千代市東部にかけて千葉氏系、馬加の臼井氏が勢力を持った時代。北条氏と上杉氏が北総で争った時代、印旛郡も南の方面では土気城の酒井氏と根古谷城主の戦い(八街市小間子)、遡っては将門の反乱(大佐倉)や田村麻呂の東征(夷隅市清水寺)に至る合戦跡には今でも時々矢尻等が発見されると古老から伺った事も有りました。然し、今迄唯漠然と見過ごしていました。此の様に足で歩き具に御調べになられたとは驚きました。有難う御座いました。精読させて戴きます。
Posted by つむじかぜ at 2013年05月23日 17:28
ていねいに調べられていますね。
お城に最近興味があり、
生まれ故郷の越後高田城については
原稿も書きました
(大きいお城より中小の方が物語があって好きです)。
ブログを保存して
老後の楽しみのひとつにさせていただきます。
Posted by ちずのこ at 2013年05月23日 22:12
つむじかぜさん おはようございます。
こんなに近い場所に戦国時代のしろがあるとは知りませんでした。
300年、400年経って痕跡がのこっているのはすばらしいことだと思います。是非とも後世に伝えてもらいたいものです。
Posted by SORI at 2013年05月24日 06:16
ちずのこさん おはようございます。
次は、下高野館のことを記載したいと思っているのですが、情報が少ないです。近いうちに郷土博物館に足を運んでみるつもりです。
今まで地元のことを知ら無すぎました。
Posted by SORI at 2013年05月24日 06:23
SORIさん、こんばんは。

確かに下高野館跡の情報は少ないですね。
あの高台に館があったことは間違いないのですが、その場所にはあまりその証拠がないのです。
八千代郷土博物館には、その場所から出た「板碑」が保存されています。
また、館跡についての小冊子もあると思います。
下高野の伝統行事をよく取材にいらっしゃる、学芸補助員の「石田 香」(女性)さんを訪ねて行ってみてください。
私の名前を告げれば、見せてくれると思いますが...。
後ほど電話をしておきます。
Posted by kazu at 2013年05月26日 21:26
SORIさん、追伸です。

下高野館跡の下にはあの辻切りのハウスの家がありますが、館が滅びるか廃止になったかした後に、下の家の池には甲が落ちていました。
その甲をハウスの家の先祖が天神様の境内に祀ったとされています。

天満宮本殿の右奥から2社目には「甲大明神」という祠が今でもあります。
Posted by kazu at 2013年05月27日 12:45
kazuさん こんにちは
石田様に連絡いただきありがとうございます。話が聞けるのを楽しみにしております。よろしくお伝えください。
下高野館を掲載するための遠くからの写真を撮りました。地図も下記のアドレスのように用意しました。
http://blog-imgs-50.fc2.com/m/a/k/makurokurosk/simokouya-yakata-477.jpg
実は5月25日に息子の結婚式が関西であったので明日まで関西です。帰ってからいってみるつもりです。
Posted by SORI at 2013年05月27日 13:54
SORIさん、

息子さんのご結婚おめでとうございます。
これからはお孫さんの顔を早く見られるようになるのが、楽しみではないのでしょうか。

館には、天満宮に行く道から行くのがわかりやすいと思いますよ。
天満宮の坂を登り、右に行くと天満宮ですが、その道をまっすぐに行ってください。
左手に、下から見えた様なこんもりとした木々が見え始めますよ。
Posted by kazu at 2013年05月27日 20:14
kazuさん こんにちは
ありがとうございます。我が家の一大イベントが終わりホッとしております。
天満宮も昔から関係があったのでしょうね。是非とも行ってみます。
今は伊丹空港のラウンジからコメントを拝見させていただいています。
Posted by SORI at 2013年05月28日 12:42
SORIさん、

郷土博物館には電話をしておきました。
石田さんのほかに小林さんも電話口に出られましてお話をしました。
下高野館跡についてお話頂けるように頼んでおきました。
もし、私も都合がよければご一緒に博物館と、館跡にも同行しても宜しいですよ。
ご連絡ください。

館跡にはハウスの家の梨畑があって、そのそばに板碑が立ててあるようですよ。
Posted by kazu at 2013年05月28日 13:12
kazuさん こんにちは
ほんとありがたいです。是非ともお願いしたいので近いうちにご連絡させいてただ来ます。kazuさんの都合に合わさせていただきます。
Posted by SORI at 2013年05月28日 13:19
SORIさん、

それでは、明日から土曜日を除いて大丈夫ですよ。6月2日の日曜日が一番いいのでしょうか、月曜日は博物館が休館日ですよね。

SORIさんの都合のよい日をメール下さい。お願いします。
Posted by kazu at 2013年05月28日 14:12
kazuさん こんにちは
家に帰って予定を確認した上で今晩中にメールいたします。楽しみにしております。
Posted by SORI at 2013年05月28日 14:18
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下高野館
Excerpt: 千葉県の印旛沼の西側地域の今から600年~400年前には、すでに紹介した小竹城や先崎城のように防御のための城が沢山あったことが知られています。その小竹城や先崎城の近くには、同じような役目を持っていたと..
Weblog: まっくろクロスケ
Tracked: 2013-06-03 08:54

戦国時代の城 井野城
Excerpt: 写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。 戦国時代に千葉県の印旛沼の西側にあった城を紹介してきました。紹介したのは小竹城と先崎城と下高野館(下高野城)でいずれも私の家から歩いて20分以内..
Weblog: まっくろクロスケ
Tracked: 2013-06-09 15:38
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