

先日、関西の実家に帰った時に私の小学校から中学校時代に住んでいた町を訪れてみました。住んでいたのは阪急岡本駅の北東方向で今の地名は神戸市東灘区本山北町で、住んでいたころは北畑という地名だったと思います。そこからは保久良神社(


右は航空写真です。






━━ 阪急岡本駅から保久良神社へのルート
━━ 保久良神社への別ルート(天上川ルート)
━━ 保久良神社から金鳥山へのルート
保久良神社の住所
現在 神戸市東灘区本山北町680番地
過去 神戸市東灘区本山町北畑680番地 より大きな地図で保久良山を表示
鷺宮八幡宮は古くより鷺宮八幡宮・鷺宮・産宮と親しまれ、大和・貞享・元禄5年(1692)の寺社改帳に記載され、熊野・古山・山・塞の神々を合祀し、北畑を中心に崇敬されているそうです。神社の屋根の上に保久良山(ほくらさん)が見えます。山の頂上近くに見える白い点が保久良神社の鳥居です。私が住んでいたのは鷺宮八幡宮の道路を挟んだ北に住んでいたので庭から鷺宮八幡宮の屋根に


その白い点の付近を拡大してみました。鳥居の上の部分だけが見えていますが、私が住んでいたころは鳥居全体が見えました。手前の木が大きくなったのだと思います。保久良山の奥にも金鳥山という山が広がっています。保久良山は独立した山ではなく金鳥山への登山道の途中にある少し平らな場所(金鳥山中腹)でもあります。

せっかく、ここまで来たので保久良山に登ってみることにしました。住宅街を抜けると道が急になってきます。

これが保久良山への道で何度か折り返しながら登っていくます。

最後の折り返しが近づくと山頂の石灯龍が見えてきます。この石灯籠は文政8年(1825年)のもので、往古は、かがり火を燃やし、中世の昔より、油で千古不滅の御神火を点じつづけ、最初の灯台として『灘のひとつ火』と呼ばれ、海上の船人の目標にされたそうです。古くから、麓の北畑村の天王講の人々が、海上平安を願う祖神の意志を継承し、交替で点灯を守り続けてきたという由緒あるものだそうです。

こちらが石燈籠からの景色です。高校時代には月に1回以上登っていました。目的の場所は保久良山(189m)の奥の金鳥山(346m)の奥のロックガーデン(434m)の奥の横池でした。その頃は横池まで休まないで駆け足で登っていました。小学校や中学校の時代も金鳥山(346m)までは一気に登るので保久良神社(185m)の拝殿に寄ることはありませんでした。ただし保久良山(189m)には虫とりに、よく来たので保久良山の森の中の印象は深いです。今回は保久良神社をじっくりとみることにいたしました。

こちらが山の下の鷺宮八幡神社や住宅地から見えていた正面の鳥居です。
保久良山の標高(海抜)は189mです。鳥居の場所の標高は185mなので地元の方が健康とコミュニケーションのために、ここまで毎日、山登りをされているようです。
大きな石の鳥居なので阪神淡路大震災では倒壊して脚の部分が折れたそうです。その2本の脚は鳥居の東側の林の中に建てられています。先代の結晶を復旧し、阪神淡路大震災の鎮魂を祈り、次代に承継する記念石としているそうです。

鳥居から拝殿までまっすぐに道が伸びています。

奥に進むと拝殿が見えてきました。拝殿の裏側に本殿があります。
創立に関する詳細は不明ですが境内外に多数の磐座群が見られ古代祭祀の場であったと考えられ、境内外地より石器時代、青銅器時代、弥生時代後期の弥生式土器や石斧、石剣など種々の遺物、特に有名な物として儀礼的用途に使われたと考えられている約20cmの銅戈(重要文化財)が出土していることからも紀元前3世紀以前の非常に古い時代の創立と考えられています。祝部土器、玻璃性勾玉も発見され祭祀も行われていたようです。

拝殿から鳥居の方をみた景色です。

手水舎(ちょうずや or てみずや)で参拝者が身を浄めるために手水を使う施設で水盤舎(すいばんしゃ)とも呼ばれています。不思議なことに神社でも寺院でもあり作法も基本的に同じです。一般的な作法は枠内の通りです。
右手で柄杓を取り、手水を掬う。最初に左手を清め、柄杓を左手に持ち替えて右手を清める。もう一度右手にその柄杓を持ち替え、左の手のひらに少量の水を溜めて(柄杓に直接口をつけない)その水を口に含み、音を立てずにすすいで口を清めた後、左手で口元を隠してそっと吐き出す。そして、柄杓を両手で持ち、やや立てるように傾け、残った水が柄の部分を洗うように流す。柄杓を元の位置に静かに戻す。

拝殿です。拝殿の裏に本殿があります。
現在の社殿は阪神大震災で被災した社殿を1996年12月に修復したもので、それまでの社殿は1940年の紀元2600年を記念して、その前年の1939年に改築したものだそうです。その時に、それ以前(1766年造)の本殿を末社殿に、拝殿は絵馬堂に移設したそうです。

拝殿を別の角度から撮ったものです。

沢山のおみくじが結ばれていました。

こちらが1939年以前の本殿(1766年造)を移設した末社・祓御神社です。拝殿の右手にありました。

境内の全景です。紹介の建物以外にもいくつかの建物がありました。

境内各処に大きな岩が沢山点在していました。写真の岩は立岩(たていわ)といわれ、神様に祈るために人々が立て起こした祈願岩の一つだそうです。社務所の裏の大きな岩は神生岩(かみなりいわ)呼ばれています。神社の建物の裏の岩群を中心に境内にかけ、大きな円形状に大岩が配置されており、このように配置された岩群は磐座(いわくら)と呼ばれ磐境(いわさか)とも言われているそうです。
昔の人は大きな岩に常世(とこよ)の国より神様をお招きして、農業生産、諸業繁栄、村里安全を祈願したそうです。このように古代人が祈願した神聖な場所であることから現代では古代祭祈遺蹟地と呼ばれています。ここからは祈りに使用された「つぼ、かめ、さら」などの土器破片や「やじり、おの」の石器も多数出土しているそうです。それらは弥生式と認定されたことから紀元前200年頃より、ここで古代人が神様を祭祈していた証拠となっているそうです。

こちらが子供のころに虫取りに来た保久良神社全体を覆ってる鎮守の森です。いろんな鳥も沢山いました。ここに写っている岩群も磐座と思われます。

熱心に保久良神社の写真を撮られている方もおられました。この近くには梅林もあるので、今は見ごろになっていると思われます。

金鳥山への登山道です。ここからロックガーデン(風吹岩)や六甲山頂に登山道が続いています。

紹介の写真を大きなスライドショーで見れるようにYouTubeに登録いたしました。
上で航空写真を紹介しましたが地形図も掲載いたします。+のアイコンをクリックすると等高線がわかりやすくなると思います。
より大きな地図で 保久良山 を表示
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鎌倉には一度だけでした。確かに似ているのは興味深いです。
歴史を感じる場所は良いです。
雰囲気があるとは思っていましたが、ネットで調べて歴史の深さに驚きました。古代に山の上で儀式が行われていたことが神社につながったのは興味深いです。
でも、そこから山側に歩いたことなかったです…。残念。
意外と保久良神社のようなところは少ないと思います。今回は初めてじっくりとみることが出来ました。後で調べて、撮り損ねたものが沢山ありました。事前に調べないとありえますね。
岡本には美味しいお店が沢山出来ましたね。どれも買ってきたいものばかりでした。
ただ上っていくのだと、疲れてしまいそうですが、
途中で見て歩ける場所があると、また楽しいですね。
神戸の街と海が見える山です。鎮守の森のような山が保久良山でした。
ほんと、偶然とは岡本にお住まいだったとは驚きです。
岡本に住んでいたころに神戸市立本山第一小学校と神戸市立本山中学校に通っていたので懐かしい場所なのです。
雑談していたら、上品な御尊母様のアクセントに少しだけ、関西弁のアクセントを感じた言葉があったので、どこから来られたのか伺ったら、神戸と言われるのです。神戸のどこかと、更に伺ったら、何と、住吉にお住まいでした。
住吉の山手と理解できる母娘さんでした。御蔭で、話が進み、サグラダファミリア内で、一緒に写真を撮らせて頂きました。
私の連れは、建築家だったので、サグラダファミリアの構造をすこし説明してくれたのですが、母娘さんは、感激しておられたようです。
ところで、本山第一小学校の校区と理解していましたが、お坊ちゃん学校ですね。良いところにお住まいでしたね。昔、神戸の市立中学は、丸刈りだったので、私立を目指す子が余計多かったそうです。
SORIさんのお写真を拝見すると、良家の御子弟と言うのが理解できます(笑)。
私は、中学の時は、大阪の豊中に住んでいたのですが、高校に入る時に、親の転勤で、東京に行きました。その後、社会人となり、神戸の方に行きました。フランスの方では、英語がなかなか通じないのは、大変でしたね。スーパーでは、電子辞書か不可欠でした(笑)。何しろ、広いスーパーだと、どこに探しているものか゜あるのか、判らないのですよ。CASINOというスーパーは、初め、ギャンブルをするところかと思いましたよ(笑)。
10月12日~13日は千里に行っていたので豊中市も縁がありますね。驚きでした。確かに偶然に、思わぬところで出会うことがありますね。
半年だけですが万博公園の裏の茨木市にも住んでいたことがあります。万博公園の周りは緑が豊かですね。
リンクをありがとっ・・・でも・・・山登りは大っ嫌いなので行くときは車でって思ってるかも(爆)
彼女の実家に近いのですね。きっと保久良山はご存じたと思います。お祭りもありました。
東灘区には小学校4年から高校2年まで住んでいました。そのあとは結婚するまでは宝塚に住んでいました。