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ワンコの散歩コースで桜の木が沢山植わっている場所があります。今年も桜が満開に咲きました。桜の満開の写真は2013年3月29日に撮りました。ここは昔、小学校だった場所なのです。
その校庭だった場所の写真です。小学校は廃校になりましたが、当時の桜は成長し、今も咲き続けています。ここは千葉県佐倉市青菅地区です。現在の住所は千葉県佐倉市青菅148-2です。

少し足を伸ばしたワンコの散歩コースにある廃校となった小学校です。
この小学校は109年前の明治36年(1903年)に青菅分教場として設立され、昭和52年3月(1977年)に廃校になりました。36年前の廃校当時のままに残っているのです。

噂では映画の撮影に使われたこともあるそうです。この小学校は分校として出来ましたが、その本校(当時名 : 印旛郡第六番小学区公立井野町小学校 現在名:佐倉市立志津小学校)は明治6年(1873年)に設立された歴史のある学校だそうです。

以前の桜の季節の写真も紹介します。校庭には沢山の桜の木が植わっています。

この小学校の校庭に、もう一つ珍しいものが残っています。庚申塚(こうしんづか )です。
庚申塔(こうしんとう)とも言うそうです。確かに左の石碑には庚申塔と書かれており、右側の石碑には庚申塚と書かれています。庚申塚は中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことだそうです。庚申塚の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からで、近世を通して多数の庚申塔が建てられたが現存するものは開発から免れたものだそうです。クリックすると拡大します。

中心に置かれている、最も立派な庚申塔を拡大してみました。青面金剛(しょうめんこんごう)の像が鉾、弓、矢、輪宝らしいものを手に持っています。災いを調伏する青面金剛のシンボルとして、両足の下に邪鬼が踏みつけられています。さらに見ざる、聞かざる、言わざると思われる三猿(さんえん)が台座に近いところに掘られています。上辺の左右には日と月が描かれている のも庚申信仰の特徴です。
年号を確認すると263年前の寛延三年十一月(1750年)でした。


この周りを見ると草に隠れて小さな庚申塔を見つけました。下の写真です。
この青面金剛は斧、輪宝、数珠を持っているようです。ただし邪鬼や三猿や上辺の左右の日と月は描かれていません。
年号は寛保四年正月(1744年)と上の庚申塔より少し古い物のようです。
この2つの庚申塔(庚申塚)以外の年号も調べるてみると文政九年(1826年)、弘化五年如月(きさらぎ)(1848年2月)、享和三年十一月(1803年)、明治三十年十二月(1897年)とほとんどが江戸時代でした。急に貴重なもののように思えてきました。ここから遠くない場所(昔風に言えば隣村)でも庚申塔を13体見つけました。

庚申塔の中にまぎれて一つだけ馬が急死した路傍によく建てられた馬の無病息災の神である馬頭観世音の文字が刻まれた石碑がありました

冒頭の廃校となった小学校の校区を引き継いでいるのが、下の写真の青菅小学校です。この青菅小学校自体も明治6年に開校した志津小学校の分校で昭和61年(1986年)に志津小学校から分離独立した小学校です。
志津小学校の沿革
1873年 印旛郡第六番小学区公立井野町小学校として創立
1887年 村立上志津尋常小学校と改名
1945年 村立志津小学校と改名
1954年 市立志津小学校と改名
1961年 上志津小学校 分離独立
1967年 井野小学校 分離独立
1976年 小竹小学校 分離独立
1977年 青菅分校 廃校
1986年 青菅小学校 分離独立
明治6年(1873年)と言えば、私が小学1年から4年まで通っていた広島の小学校も開校が明治6年でした。開校時の名前は「協心舎」で、今は広島市立井口小学校です。
その後は神戸に引っ越して神戸市立本山第一小学校から神戸市立本山中学校と進みました。ちなみに神戸市立本山第一小学校は明治8年(1975年 136年前)に田辺小学校として開校し、神戸市立本山中学校は昭和22年(1947年)に開校いたしました。

明治6年開校が偶然のようですが、実は明治5年8月3日の学制発布があったことが関係しているようです。ネットで書かれていた小学校の歴史です。
1872年(明治5年)8月3日の学制発布により始まった日本の近代教育制度において、初等教育は当初、小学校尋常科という名称の学校で行われ、1873年(明治6年)1月15日に設置された官立の東京師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を皮切りに、1875年には、ほぼ現在並みの約2万4千校の小学校が全国各地に設置された。
しかし、1874年(明治7年)の段階で、小学校への就学率は男児46%、女児17%、総計平均で32%に過ぎず、3人に1人しか小学校に通っていない状況であった。1890年(明治23年)になっても小学校数は2万6千校、就学率は49%と増えてはいるものの、ほぼ全員が就学していると言えるようになるのは明治の終りのことであった。
1886年(明治19年)の小学校令で、尋常小学校(尋常科)と高等小学校(高等科)が設置された。このときの尋常小学校(義務教育)の修業年数は4年間であり、その後に高等小学校の4年間の課程があった。1900年(明治33年)に小学校令が改正され、高等小学校の課程は「2年または4年」とされた。その後、何回かの変遷を経て、澤柳政太郎文部次官の下、1907年(明治40年)に尋常小学校が6年間、高等小学校が2年間となった。
1936年(昭和11年)の統計では、尋常小学校を卒業した者のうち、旧制中等教育学校(旧制中学校・高等女学校・実業学校)に進学する者は21%、まったく進学しない者(就職等)は13%、高等小学校に進学する者は66%だった。
第二次世界大戦下となる1941年(昭和16年)4月からの初等教育は、国民学校という名称の学校で行われた。国民学校には、6年間の初等科のほかに、初等科を修了した者が進学できる修業年限2年の高等科の制度が設けられていた。国民学校の初等科は、1947年(昭和22年)4月1日の学校教育法の施行とともに順次廃止され、戦後の新制学校である現行の小学校に移行した。
赤いマークが廃校になった青菅分校で緑のマークが現在の青菅小学校です。青菅分校の敷地には青菅会館(公民館)があります。
青菅分校 千葉県佐倉市青菅148-2
青菅小学校 千葉県佐倉市宮ノ台1丁目17-1
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温かみをかんじますね。
子供時代には「暖かい手触りの感覚」なんて、わかりませんでしたけど、鉄筋て無粋でしたね。
窓から中をのぞいてみると、懐かしい雰囲気の教室がありました。
高校まで木造だったとはすごいです。
私は広島時代に通った小学校が木造でした。アルバムで校舎を見ると懐かしいです。
ドラマの撮影に使われている…というのが、納得できる作りですね。
よく、この状態で放置されて34年ももっていますね。
それが、すごいです。
このあたり自体が茅葺の家も沢山あのタイムスリップしたような場所でした。割れた窓ガラスも少ないのに驚かされました。
校舎の色も桜色だったのではないでしょうか。数十年前の鮮やかな色の校舎も見てみたい気がします。
二十四の瞳は1954年に発表の映画です。時代設定は1928年です。この年に大石先生は新任の女教師として小豆島の岬の分教場に赴任するところから物語が始まりました。
今回、紹介の小学校は1903年から1977年まで使われていることを考えると、まさに二十四の瞳の時代ですね。
通っていた中学校も、私が中学校の時には
昔からの木造の校舎が残っていて、一時期、その校舎を
使っていた事がありました。
庚申塚、市内のあちこちにあるようです。
庚申塔の信仰は今でも続いていることを知りました。いつまでも続いてほしいです。
明治維新から第二次世界大戦勃発前までの時代に存在したそうですね。尋常小学校はドラマの世界だけかと思っていましたが、実際に通われている方がブログもされていることを知って感激です。