2014年07月28日

裏通りの銅像



ウクライナの首都キエフの街の中には沢山の銅像がありました。裏通りを歩いていて見つけたのが上の銅像です。ちょっと不思議な雰囲気の銅像なので近づいて見ました。

馬に乗り手には剣を持っていますが服装が変わっています。なんとなくアジアの雰囲気があります。


クリックすると台座の文字頭も変わっています。頭髪を一部を残して剃りあげ、残りの毛髪をチョンマゲのようにしています。丁髷(ちょんまげ)と違うのはまっすぐなところです。その髪の毛を三編にすると北東アジア民族の辮髪(べんぱつ、弁髪)ですが、三編ではないようです。この人物が何者なのか知りたいところですが、台に書いてあるウクライナ語はわかりませんでした。いつの日が教えてくれる人が出てくることを願って掲載いたしました。
剣が日本刀のよう反りがあるのも特徴的でした。


ウクライナ語を読んでくれる人が出てくることを願って台座の文字も掲載いたします。


銅像が立っていた場所は青いマークのところですが、マイナスのアイコンを何度かクリックすると町の中の位置がわかってくると思います。ストリートビューでも確認できました。銅像でも自動的に顔に「ぼかし」が入っていました。→全体 顔拡大

より大きな地図で キエフの町を散策 を表示

追伸
クリックすると拡大ネットで調べていて右の写真を見つけました。このスヴャトスラフ1世の銅像に似ていることから、上の銅像はスヴャトスラフ1世に間違いないと思います。そして、その髪型の名前もオセレーデツィの可能性が高いこともわかりました。右の写真はネットで見つけたスヴャトスラフ1世の銅像でクリックして拡大するとわかりますが雰囲気が似ています。スヴャトスラフ1世(Святослав Ігорович 942年頃~972年)はキエフ大公国の大公(在位945年~972年)でした。945年に父イーゴリ大公は冬の巡回徴税の最中にドレヴリャネ族よって殺害されて、スヴャトスラフ1世は幼くして大公となりました。964年に成年に達しからは積極的な拡大政策を展開しはじめて多くの戦争において常に戦陣に立って戦うことを好む君主であったそうです。
チョンマゲのような髪型はオセレーデツィ(Оселедець)と呼ばれてウクライナ・コサックの伝統的な髪型だそうです。近世にはチューブあるいはチュプルィーナと呼ばれたそうです。オセレーデツィの由来について二つの仮説が存在するそうです。一つが欧亜の遊牧民の辮髪に類似することからアジアに起源を持つ説です。もう一つが北欧のルーシ族の髪型の一種でヨーロッパに起源を持つ髪型である説です。この2つではアジア起源説が有力とされています。

キエフ大公国は9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家でした。下記の地図の赤い部分がキエフ大公国の勢力範囲を示しています。正式な国号はルーシ(Рѹсь)で、日本語名キエフ大公国はその大公座の置かれたキエフに由来するそうです。ルーシ族と呼ばれる北欧系のヴァイキングによって建国され、リューリク朝によって統治されたそうです。10世紀までに同地の東スラヴ人との混血によってスラヴ化し、キリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となったそうです。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つでしたが12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退していきました。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊したそうです。国民国家史観を中心とした研究史においては、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの三国の共通の祖国とされています。
クリックすると拡大

この地域の国の歴史です。
 7c–13c   ヴォルガ・ブルガール
 7c–10c   ハザール
 9c–12c   キエフ大公国
12c–14c   ウラジーミル・スーズダリ大公国
12c–15c   ノヴゴロド公国
13c–15c   タタールの軛
1340–1547 モスクワ大公国
1547–1721 ロシア・ツァーリ国
1721–1917 ロシア帝国
1917      ロシア臨時政府 / ロシア共和国
1917–1991 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国/ソビエト社会主義共和国連邦
1992–現在  ロシア連邦 + ウクライナの一部
Sviatoslav_oseledec(Sviatoslav I)で検索して出てきた銅像です。
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
posted by SORI at 22:27| Comment(14) | TrackBack(0) | キエフ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。
ヘアースタイルで変わって居るのは何と云ったって「ちょんまげ」に適うものは無いでしょうね!(笑)
Posted by musselwhite at 2011年09月26日 11:06
musselwhiteさん こんばんは
ネットで検索していて銅像の主を探り当てました。スヴャトスラフ1世と言うキエフ大公国の大公だった人です。ちょんまげの名前も判りました。詳しくは追記したところ(追伸)を見てください。
Posted by SORI at 2011年09月26日 19:18
こんばんは。
ロシアの歴史も興味ありますね。実際のその地に立たれて、素晴らしい体験をされましたね。
Posted by sig at 2011年10月03日 00:02
sigさん おはようございます。
銅像にも歴史があることを知りました。何気なくネットで調べていていろんなことがわかりました。
Posted by SORI at 2011年10月03日 06:13
銅像の人、顔はアジア系ではないのに、
髪型と服装はアジア系で、不思議な感じがしますね。
Posted by youzi at 2011年10月16日 11:21
youziさん こんにちは
昔のこの地域のが、このようなオリエントな雰囲気を持っていたのかもしれません。それにしても、この人物の名前がわかってよかったです。
Posted by SORI at 2011年10月16日 15:25
あの銅像は、近世時代イに活躍したコサックの銅像です。
スヴャトスラヴ1世でも、アジア系の人物でもありません。
ウクライナ人にとってはコサックが祖先であるので、
変なとこでコサックの銅像・石像・絵画を立てるのが好きです。
Posted by Alex at 2011年12月14日 14:15
Alexさん こんばんは
コサックの銅像と教えていただきありがとうございます。すごく気になっていました。
Posted by SORI at 2011年12月14日 22:25
銅像の人物はアジアっぽい感じがしますね。
Posted by koni at 2014年07月28日 09:25
koniさん こんにちは
ヨーロッパとアジアの中間だけのことはあります。勇猛な戦士の雰囲気が漂ってきます。
Posted by SORI at 2014年07月28日 11:20
衣装と髪型から欧州の亜細亜・中東が
ミックスされて印象を受けました^^
Posted by 昆野誠吾 at 2014年07月28日 16:28
昆野誠吾さん こんにちは
裏通りに不思議な雰囲気の銅像が建っていたので印象に残りました。キエフの歴史をしる機会になりました。
Posted by SORI at 2014年07月28日 16:57
遠目には、武士のような雰囲気で、
パッと見、モンゴリアンかと思いましたが、ハズレでした。。(^_^)
下の写真の人と戦っているのか。蹴り倒しているのか分かりませんが、
この様な銅像も珍しいですね。
Posted by なんだかなぁ〜!! 横 濱男 at 2014年07月28日 21:58
なんだかなぁ〜!! 横 濱男さん こんばんは
不思議な風貌の銅像でした。銅像が作られるだけのことはある人物なのでしょうね。
Posted by SORI at 2014年07月28日 22:13
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