

広島の平和公園で原爆ドームや平和記念資料館の次に従妹夫婦に案内してもらったのが、下記のように今年で404年の歴史がある縮景園(しゅっけいえん)でした。現在は日本庭園として有名ですが、起源は元和6年(1620年)に広島藩浅野氏初代藩主(大名)である浅野長晟が命じて作らせた藩主の別邸でした。1940年(昭和15年)に浅野家が広島県に寄贈したことで現在に至っているそうです。
正式名が縮景園となったのは1951年ですが、Wikipediaによれば、1700年代初頭には庭園を縮景園と呼んでいたと推測されているようです。上の写真は園内の超然居(ちょうぜんきょ)から跨虹橋(ここうきょう 俗称:太鼓橋)方向を撮った景色です。記念写真を撮っている家族の光景がほほえましいです。
歴史 1620年(元和6年) 藩邸(別邸)として着工 名称:泉水屋敷
1758年(宝暦8年) 宝暦の大火(広島大火災)で建物の多くが消失
1783年(天明3年) 京都の庭師清水七郎右衛門を呼び寄せ大改修
1913年(大正2年) 一般公開
1940年(昭和15年) 浅野家から広島県に寄付 県の公園となる
1945年(昭和45年) 原爆により壊滅的被害(爆心地から約1.35km)
1949年(昭和24年) 復旧開始
1951年(昭和24年) 縮景園と改称され再開園
1970年代 復旧工事完了

形式 池泉回遊式庭園 大名庭園
面積 4.76ha(47600㎡/14399坪)
住所 広島市中区上幟町2-11
電話 082-221-3620
管理 広島県
開園 3月16日~9月15日 9:00~18:00
9月16日~3月15日 9:00~17:00
入園 一般:260円 高・大学生:150円 小・中学生:100円
HP https://shukkeien.jp/

こちらが入園券売場でいただいた縮景園の案内図です。参考に4種類の散策コースが書かれていました。
━━ じっくりコース 基本順路50分
━━ 西回りショートコース 西回り・30分
━━ 東回りショートコース 東回り・30分
━━ 車椅子コース

上の案内図には散策の4種類の推奨コースが書かれていますが、我々が歩いたのは下記の地図の臙脂色ライン(━━)です。
泉水屋敷(縮景園)の文字が確認出来る、寛永年間(1624年~1644年)の広島城下絵図を紹介します。赤色ラインで囲ったところが泉水屋敷です。絵図には御泉水屋敷と書かれています。泉水屋敷が着工したのは1620年なので泉水屋敷の最も初期の状態と思われます。作庭した当初の庭は御泉水と称し、池の中央に長い欄干橋を架け、橋の対岸には山を築き、橋の左右に一対の島を配し、橋の袂に数寄屋設けていたそうです。現在と違い植え込みは少なく、人の侵入が判るように築山のほとんどが芝生の山だったそうです。ほぼ現在の姿になったのは天明3年12月(1783年)~天明8年8月(1788年)の「天明の大改修」だそうです。
絵図はWikipediaから転用させていただきました。

こちらが入口の門くぐってところから見える景色です。まっすぐの道の突き当りに清風館が見えます。

上の写真のまっすぐな道の途中から右に入って芝生広場の方を見た景色です。

こちらは清風池だと思われます。

3月だったので植木の防寒対策の「こも巻き」が残っていました。

こちらが清風館(せいふうかん)です。数寄屋書院造りで屋根は杮葺き(こけらぶき)なっています。

池を挟々亭(ゆうゆうてい)が見える景色です。挟々亭は茅葺きの四阿(あずまや)で古くは歌会や納涼茶会などが行われていたそうです。池の名前は濯纓池(たくえいち)です。


幼稚園時代に、私と従妹がこちらの構図で写真を撮ったそうなので、同じ構図で記念写真を撮ってみました。

跨虹橋(ここうきょう)の頂上から撮った景色です。松が2本植わった小さな島にも水心島(すいしんとう)という名前が付けられています。濯纓池(たくえいち)に橋や沢山の島島が作られているのは、浅野藩は参勤交代で大阪までは船を用いたことから、船上より眺めた瀬戸の景色を7代藩主の浅野重晟の大改修時に反映されたようです。

跨虹橋から降りた場所から撮った池の景色を3枚紹介します。四阿(あずまや)がある景色です。

松と水が美しい景色です。右端の松の影に東屋らしいものが写っています。 椅子に座って景色をゆっくり眺めることが出来る駐杖榻(ちゅうじょうとう)だと思われます。縮景園には少なくとも4,826本の樹木があると言われているそうです。被爆樹木つまり戦前からある樹木が3本でその他は戦後に植えられたものだそうです。主要樹木は、クロマツ6.9%、ヤマモミジ2.7%、クスノキ2.5%、ソメイヨシノ2.0%だそうです。

松のはえている浮島を拡大しました。このような鶴島や亀島が12余り造られているそうです。ネットなどによると西池には超然居(ちょうぜんきょ)、積翆島(せきすいがん)、緑蘋洲(りょくひんしゅう)、蒼雪島(そうせつとう)、蘭舟嶼、滴翆島(てきすいとう)、水心島(すいしんとう)で、東池には清漣島(せいれんとう)、小蓬莱(しょうほうらい)、緑亀島、烟霞島、昇仙島、望春島です。

島の位置が分かる案内図をネットから転用させていただきました。画面をクリックして拡大すると島の名前が読み取れると思います。超然居、積翆島、緑蘋洲、蒼雪島、蘭舟嶼、滴翆島、水心島、清漣島、小蓬莱、緑亀島、烟霞島、昇仙島、望春島と13の島が確認できます。

池には沢山の錦鯉が泳いでいました。

驚いたことに池には海(汽水域)に住む魚も泳いでいました。写真の魚はボラのようでした。チヌ(黒鯛)に似た魚も見かけました。池は汽水域の川とつながっているそうなのです。Wikipediaで調べてみるとチヌ(黒鯛)は淡水域まで遡上することもあり、川鯛と呼ばれる地域もあるそうです。

これが京橋川(太田川水系の分流)とつながっている水門と思われます。

原爆により園内で命を落とした被爆者の遺体の大部分は火葬されましたが、火葬されず園内の丘に埋葬され遺体もあったと伝えられていたことから



慰霊碑から明月亭方向を撮りました。

こちらが明月亭です。



明月亭あたりからの景色です。

先ほど川側の水門を紹介しましたが、こちらは池側の水門です。

白龍泉の説明書きがありました。これによると1807年(文化4年)に牛田山の清水谷から取水管で白龍泉や超然居に水が湧き出るようにしたそうです。ただし現在は井戸水を使用しているそうです。

こちらが白龍泉の水だと思われます。

水の流れを追ってみました。



最も北西方向から池を見た景色です。左側が古松渓(こしょうけい)です。

こちらが夕照庵(せきしょうあん)です。東方向から見た夕照庵です。

上の写真の反対側(西方向)から見た夕照庵です。茶室です。

馬の調教訓練に用いた調馬場の跡の横には梅林が広がっていました。

縮景園の中で最も人が集まっているように感じた場所です。写真の中の四阿(あづまや)があるところが超然居(ちょうぜんきょ)です。そこは園内最大の島で、園内の池が広く見渡せる場所でもあります。

超然居からの景色を4つ紹介します。こちらは跨虹橋(ここうきょう)がある方向の景色です。

上の写真の少し左側の景色です。第7代藩主の浅野重晟(1743年~1814年)は隠居後に


さらに左側の景色で、池の最も西側の景色です。

こちらは跨虹橋から右側の景色で、大きな建物が清風館(せいふうかん)です。



左端に超然居(ちょうぜんきょ)の四阿(あづまや)の一部が写っています。観瀾・洗心の両橋で結ばれ人里離れた静寂な場所を表しているそうです。周辺の模様は、上田宗箇の代表的な作意であると言われており、清水七郎右衛門は上田宗箇の意思を尊重して縮景園の大改修でも、ここは手を加えなかったと言われているそうです。

小舟も景色の一部になっているようでした。

変わった形の石灯籠がありました。楊貴妃型石灯籠です。


清風館(せいふうかん)に戻ってきました。

清風館の正面側に来ました。

後ろを見ると入口の冠木門(かぶきもん)がありました。ここを出て広島駅前のホテルに送ってもらい、いったん休憩して18時20分から海の幸・磯の坊で一緒に夕食を楽しみました。

入園券売場でいただいた縮景園の案内を紹介します。

詳しい説明も書かれていて参考になりました。いろんな外国語の案内が用意されていました。
