


行き:逆瀬川→(阪急)→宝塚→(JR)→新大阪→(新幹線)→徳山→(防長バス 330円)→久保駅前
帰り:周防久保→(JR岩徳線)→岩国→(JR山陽本線)→広島→(新幹線)→新大阪→(JR)→大阪→(阪急)→逆瀬川


こちらが岩徳線の周防久保の駅舎です。岩徳線は1929年4月5日に麻里布~岩国(2.3km)で開業しました。その後徐々に西に延びて周防久保駅が開業したのは1934年3月28日です。10年間(1934年~1944年)だけですが山陽本線として運用されたこともありました。現在の住所は山口県下松市大字河内795です。
タクシーは常駐していませんが、電話番号が書かれたタクシー会社の看板が立てられていました。

駅舎の中に入いると予想した通り無人駅でした。自動改札機はなく出入りが自由な駅でした。無人駅化されたのは1982年3月10日だそうです。


上の駅舎の中の写真でホームとの通路口の右の壁にあるのが時刻表です。

周防久保から大阪までの切符は事前に買っていましたが、記念のために自動券売機で1番安い切符を買いました。徳山から岩国までの全駅を紹介します。森ヶ原信号場は駅名ではありません。営業距離は47.1kmです。周防久保から150円で行けるのは大河内だけです。徳山方向の1駅の生野屋までは190円です。
徳山→櫛ケ浜→周防花岡→生野屋→周防久保→大河内→勝間→高水→米川→周防高森→玖珂→欽明路→柱野→(森ヶ原信号場)→川西→西岩国→岩国

岩徳線は単線ですが、周防久保駅は2線になっていて上りホームと下りホームがあります。

ホームに入って岩国方面を見た景色です。跨線橋(こせんきょう)には煤(すす)の汚れはないので、蒸気機関車が通っていたころは跨線橋は無かったのだと思います。私のかすかな記憶でも、線路に通路があり、そこに降りる切込みの階段があっような気がします。その頃でも珍しかったので記憶に残っているのだと思います。別の駅での記憶の可能性もありますが、周防久保以外の田舎の駅に降りる機会はなかったと思います。掲載した時は跨線橋の部分を陸橋と書いていましたが、次の記事のコメントでtommy88さんに跨線橋と教えていただいたので修正いたします。道路を跨ぐ場合が陸橋で線路を跨ぐ場合が跨線橋だそうです。

跨線橋の上から徳山方向を撮りました。

こちらが跨線橋から見た岩国方面です。

拡大すると単線であることが分かってもらえると思います。

跨線橋の上から見た駅舎です。

下りホーム(徳山方面)からみた駅舎です。

周防久保の駅名標(えきめいひょう)を撮りました。徳山方向の隣りの駅名が生野屋(いくのや)で、岩国方向の隣りの駅名が大河内(おおかわち)です。

ホームを徳山方面に進んで撮った駅舎です。

下りホームからだと徳山方向の線路のカーブがよく見えました。上の写真を撮った同じ位置から撮りました。

駅の南側に広がる景色です。

今度はホームを岩国方向の端まで歩いてきて駅舎方向を撮った写真です。長いホームです。今は、ほとんどの列車が1両編成ですが、昔は長い列車が走っていたのだと思います。調べてみると周防久保駅が出来て岩国から徳山に路線がつながった1934年12月01日から1944年10月11日までは山陽本線の一部として運用されたそうです。複線化の計画に伴いもう一本長大トンネル(欽明路トンネル)を通さないければならないことから複線化は元の山陽本線(柳井線)で行うことになり、1944年に山陽本線が元に戻ったことから岩徳線の山陽本線としての運用は10年間のみになったそうです。

気になる標識があったので写真を撮っておきました。

列車が来る時間が近づいて来たので、列車に乗る方の上りホームに戻って列車が最初に見え始めるホームの端まで行きました。この線路の先から乗る予定の列車が来るはずです。

同じ位置から駅舎の方を振り返った景色です。この写真でもホームの長さが実感されます。

11時33分発の列車がカーブの部分に見えました。

近づいて来たところでもう一枚撮りました。

さらに拡大いたしました。この写真が冒頭の写真です。 kazu-kun2626さんと旅爺さんさんに、このディーゼル車がキハ40とコメントで教えていたただ来ました。Wikipediaで確認すると1977年から1982年にかけて日本国有鉄道(国鉄)が製造した気動車(ディーゼル動車)だそうです。正式名は国鉄キハ40形気動車で、キハ40形(2代)、キハ47形、キハ48形の3形式およびこれらの改造により発生した派生形式を指し、888両が製造され、今でも日本全国ならびにミャンマー国鉄で使われているそうです。

停車しました。手前の後部の入口が開くのを待って乗りました。先頭側が降り口です。乗ってから発射するまでに十分に余裕があることが分かりました。

岩徳線は車掌が乘っていないワンマン列車でした。左が進行方向です。ワンマン列車のため切符の回収などに時間を見ているために停車時間に余裕があったのです。

乘って先頭側を撮りました。運転士の人が客室側に出てきて降りる人の切符を受け取ります。

後部側の乗車専用入口側です。右側から乗りました。

ほほえましい光景なので紹介します。私の前の人が手を振っていました。

後ろ撮りました。単線です。

周防久保から3つ目の高水駅です。周防久保との間の駅は大河内と勝間です。高水は祖父祖母と縁があると聞いていたので写真を撮りました。高水のどのような場所に縁があったのかは母も詳しくは知りませんでした。

高水の辺りも、のどかな懐かしい景色が続いていました。

小川が流れる景色です。川の名前は石光川です。瀬戸内海の光市あたりに流れ込む島田川の支流です。

6つある4人ボックス席にゆったりと1人で座りました。高水駅を出た辺りが最も人が少なくなり4人ボックス席も空のところもありました。ちなみに周防久保駅を出たところでは、全て1人でした。新型コロナの影響だと思いますが、乗車人数が増えた岩国到着寸前でも、すべての4人ボックス席は1人だけでした。残りの人は全て長椅子席に座られていました。

田園風景が続きました。

さらに田園風景を紹介します。

このような景色が続きましたが、少しづつ開けてきました。


蔵元のストリートビューはこちらです。→2013年 2018年

この道は新岩国から周防久保に車で行く時に通った道です。

車の助手席から岩徳線の列車を2016年12月25日に撮った写真がこちらです。いつかは乗ってみたいと思いましたが、3年9ケ月後に実現いたしました。

周防高森駅の次の玖珂駅です。

錦帯橋のところを流れる錦川を渡りました。

錦川の向こう岸の道もよく通りました。景色に見覚えがあります。新幹線の新岩国駅に近い場所です。

左に線路が見えてきて我々の岩徳線に合流いたしました。錦川鉄道が運営する錦川清流線でした。錦川清流線を左に進んだ最初の駅が清流新岩国駅で新幹線の新岩国駅に近接しています。錦川清流線の下の道路は山口県道1号岩国大竹線です。


2枚上の写真の中の古びた鉄橋が錦川清流線です。鉄橋の部分を切り取って拡大いたしました。

錦川清流線は1987年に旧・国鉄特定地方交通線の岩日線を転換して開業した川西駅(岩徳線)から錦町駅までの路線です。起点の正確な場所は岩徳線の川西駅と柱野駅との間の森ヶ原信号場です。まさにこの写真の少し先でした。ほぼ全線が錦川沿いを通っており、路線名はそれに因んでいるそうです。

岩徳線と錦川清流線の分岐点の森ヶ原信号場当たりの航空写真を紹介します。

ここが上でも紹介している川西駅です。駅名標(えきめいひょう)の一部しか写っていませんが、左の一番下に書かれている駅名が錦川清流線の清流新岩国(せいりゅうしんいわくに)です。岩徳線の左方向の駅名は柱野(はしらの)で、右方向が西岩国(にしいわくに)です。
錦川清流線方面の列車の発車時刻は7:06 9:39 10:02 11:20




錦帯橋および新岩国周辺をGoogle地図の航空写真で紹介します。青色ラインは記事の中で紹介した川西駅→錦帯橋と柱野駅→新岩国駅の2つの徒歩ルートを示しています。









広島の井口に住んでいたころに聖モニカ幼稚園の遠足で錦帯橋に来た時の写真を紹介します。黄色の丸印(○)が私です。クリックして出てくる拡大写真には丸印は付けていませんが右から4番目で判ると思います。

川西からは山の上の岩国城が見えます。岩国城の下には有名な錦帯橋がありますが、低い位置にあるので建物のために錦帯橋自体を見ることは出来ませんでした。錦帯橋までの距離は徒歩で行ける1.5kmです。岩国城は隣の西岩国駅からも見ることが出来ますが、若干ですが川西駅の方が近いです。岩国城が建っている山の尾根の左端に建物が見えますが、この建物はロープウェイの山上駅です。

錦川を渡りました。この川の先に錦帯橋が錦川に架かっています。

川西駅の次の西岩国駅に近づくと岩国城が再度見やすい角度になりました。

上の写真の岩国城の辺りを拡大いたしました。肉眼ではここまでは見えませんが、写真を拡大すると石垣もよく分かりました。

岩国駅の一つ手前の西岩国駅です。昔の木造の駅舎の雰囲気が残った駅でした。

岩国駅に着かづくと都会の雰囲気になってきました。

岩国駅到着寸前の時の車内の写真です。周防久保から乗ってから一番多い人数でした。

岩国駅に到着した乗ってきた列車です。

Google地図での周防久保→岩国のルート図を掲載します。見る時刻によって最適ルートが変わるために、岩徳線で周防久保から岩国に直接行くルート以外が表示されている場合もあります。地図内のPlus d'optionsをクリックすると現時点でのタイムスケジュールを表示します。
跨線橋からここから進む広島方向を撮りました。

乗り継ぎ時間は27分あったので昼食用の駅弁を買うために改札の外に出ました。駅構内では駅弁の販売所は見つからなかったのです。

岩国駅の前から撮った景色です。ここから10分くらいの場所に母の実家がありました。今は弟夫婦が住んでいます。

少し駅から離れて岩国駅を撮りました。私が知っている岩国駅と違い新しい建物になっていました。

これが広島駅まで乗った電車です。

車内を紹介します。出発した時は空いていましたが、広島に近づくと通学の学生の人も乗ってきて席は70%程度埋まり、立っている人も出るほどでした。

岩国駅では昼食用の駅弁が見つけられなかったので、宮島名産の竹輪と瀬戸内名産の鯛竹輪とビールを買って旅の雰囲気を楽しむことにいたしました。大きな竹輪だったので、広島駅でお弁当を追加で買う必要もなくなりました。

宮島は大きな島なので、かなりの間、海を挟んで宮島が見えていました。

宮島口駅です。宮島口は宮島の最も北東部分(広島に近い方向)の対岸にあります。厳島神社も宮島の最も北東部分にあります。子供の頃によく行った宮島に行ってみたいです。ルートを工夫すると墓参りの時に行けるかもしれません。

ここでも幼稚園の遠足で宮島に行った時の写真を紹介します。黄色い丸印(○)が私です。クリックすると特別に大きく拡大いたします。手前から2列目の左から3番目です。

八幡川を渡りました。私が近くの井口に3歳から10歳まで住んでいたころのこの場所は目の前が海で引き潮の時は砂浜が広がっていてハマグリを獲りに来ました。私の住んでいた家の前も海で砂地を掘れば沢山のアサリが採れましたが、ハマグリは採れなかったので、ここまで採りに来たことを覚えています。



その井口から、おじいちゃんおばあちゃんが住んでいた周防久保に行く場合のルートです。ルートは今も昔も同じなので私が小さい時もこのルートで周防久保に行ったのだと思います。ただし時刻は今の時刻表です。広電からJR(昔は国鉄)への乗換場所は五日市駅になっていますが、乗り換えが出来る駅は五日市駅以外に八日市駅と宮島口駅があるので、その中の3つのどこかで乗り換えたのだと思います。





私の小学校4年の夏まで住んでいた井口の位置関係を現在の地図に書き込みました。赤色ライン(━━)が私が住んでいたころの海岸線です。通っていた広島市立井口小学校と聖モニカ幼稚園などの近所の場所も記載いたしました。
私の住んでいたころには男明神の横は漁港でした。上の写真でも小舟が沢山停泊しているのがわかってもらえると思います。オリジナルのGoogle地図→ポチッ

広島駅で新幹線への乗り換え時間が24分あったのでお土産に広島流お好み焼きと宮島口の名物の穴子飯ともみじ饅頭と広島菜の漬物を買いました。写真は広島を出発して13分後の景色です。周防久保駅→広島駅の現在時間でのタイムテーブルとルート図はこちらです。→ポチッ

夕食用に買ってきた広島流お好み焼きと宮島口の名物の穴子飯です。2つ買ったお好み焼き(900円x2 税込)は母とそれぞれ食べて、1つだけ買った穴子飯(1400円 税込)は2つに分けていただきました。食事をしながら墓参りの報告をいたしました。翌日には整理した写真を見てもらいました。
