2018年10月31日

イオラニ宮殿(ʻIolani Palace)

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結婚式が行われていたカワイアハオ教会を出た後はイオラニ宮殿を目指しました。すぐ近くにありながら、歩いている人に聞いてもいろんな方向を言われました。やっと数人目の人が指さした方向にイオラニ宮殿を確認出来ました。木々の中に建物が確認できたのです。

写真を撮っていなかったのでカワイアハオ教会の前の交差点からイオラニ宮殿方向をみたGoogleストリートビューを紹介します。正面の大きな木の幹の間にイオラニ宮殿の建物が僅かに見えました。確認が出来たので道路の横断歩道を渡ってイオラニ宮殿に向かいました。


イオラニ宮殿(ʻIolani Palace)の正面方向(南西方向)の門です。この門はイオラニ宮殿から出る時に撮りました。敷地内に入ったのは南東方向の門です。
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門に取り付けられていたハワイ王国の紋章を拡大いたしました。下に書かれている文字「UA MAU KE EA O KA AINA I kA PONO」はハワイ語でです。意味は「この地の生命は正義によって維持される / The life of the land is perpetuated in righteousness」だそうです。正確なハワイ語だと「Ua Mau ke Ea o ka ʻĀina i ka Pono」になるようです。ハワイ王国は無くなりましたがこの構図はハワイ州の紋章に使われているなどハワイ王国は今でもみんなの心の中に生きているのだと思います。
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南東方向の門から入った景色です。イオラニ宮殿の側面が見えました。
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イオラニ宮殿に近づきました。
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イオラニ宮殿の中に入るためのチケットを買った建物です。日本語ガイドも頼みました。こちらの建物は昔の宮殿兵舎でイオラニ・バラックス(ʻIolani Barracks)と呼ばれています。
クリックすると拡大1870年に建てられ王制が崩壊した1893年まで約80人の警備兵がいたそうです。カワイアハオ教会と同じくサンゴの岩のブロックの外壁で出来ていて米国の重要文化財の一つです。右の写真はWikipediaから転用させていただいた当時のイオラニ・バラックスです。
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こちらが冒頭の写真で紹介したイオラニ宮殿(ʻIolani Palace)の正面です。ハワイ王国7代目カラカウア王の命で 1882年に建てられた宮殿です。王制が崩壊した1893年までの11年間に宮殿として使われました。王制廃止後は1969年まで行政府として使用されたそうです。現在の宮殿の維持・管理はハワイ王家を継承している財団の中の人が中心になったボランティア団体が行っているそうです。我々が来た時は半旗でした。
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建物全体のイメージを感じていただくためにgoogleの3D航空写真でイオラニ宮殿を紹介します。ストリートビューでも見ることが出来ます。


日本語ガイドが付いた宮殿内の見学ツアーは10人程度でした。宮殿の北東方向の階段を上がって2階の入口から入りました。入ってすぐの内部の写真です。


こちらは2階から3階に上がる階段です。豪華な造りでした。豪華な調度品も沢山並んでいました。
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ハワイ王国は日本との関係が強かったことをうかがわせる調度品も沢山クリックすると拡大クリックすると拡大ありました。こちらは天皇家から贈られたと思われる菊のご紋が付いた壺です。この菊の紋章は八重菊を図案化した菊紋で十六八重表菊と呼ばれているそうです。日本から移民第1号の153名がハワイに渡ったのが1868年(明治元年)で、イオラニ宮殿を建てたカラカウア国王が世界一周旅行の最初の訪問国の日本に訪日し赤坂離宮で明治天皇と会談したのが1881年でした。その時にカラカウア国王から国王の姪で王位継承者のカイウラニ王女と山階宮定麿親王との縁組を提案したそうですが、明治天皇が丁重に断った為に幻に終わったそうです。その提案の背景にはその時代のアメリカ帝国主義によるハワイ王国の危急存亡を感じていたと想像されています。
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中央のホールの両側には沢山の部屋がありました。
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床を傷つけないために入口でカバーを履きました。
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豪華な部屋が並んでいました。
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それらの部屋を紹介します。
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こちらは食堂のようでした。
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王家の紋章の入ったガラスの壺も置かれたてました。
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東二を再現した食卓の上を紹介します。
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さすが宮殿という感じでした。
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3階には古いエレベーターで上がりました。3階のロビーです。こちらは下に降りる階段です。
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シャンデリアが吊り下げられた部分がステンドクラスの天窓になっていました。
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窓からの外の景色です。
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驚いたことに料理や食器用のリフト(エレベーター)もありました。
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部屋は見事な調度品でかがられていましたが、王政崩壊後に豪華な家具や調度品の多くは売られるなどして無くなったそうです。
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現在はそれらを見つけ出して買い戻して宮殿内の元の場所に戻す地道な活動が続けられているそうです。
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このような当時の写真を使って家具や調度品を探し続けているそうです。
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お陰で当時の調度品を見ることが出来るのです。こちらのベッドカバーはカラカウア王のベッドにかけられたキルトだそうです。
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宮殿の四隅の間にはコーナー側に小さな部屋が作られていました。
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いろんなタイプの部屋がありました。ここは執務室でしょうか。当時の雰囲気を再現しているようです。
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勲章も並べられていました。
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当時の書類(または手紙)も並べられていました。
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エジソンが電球を実用化したのは1879年ですが、それを採用したのです。イギリスの当時のバッキンガム宮殿にさえ無かった電気設備を備えていたそうです。
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1877年に実用化された電話機も設置されていました。ハワイ王国には驚かされることが多くありました。
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このような浴室も沢山の居間に設置されていました。当時としては先進的な設備に囲まれていたようです。
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沢山の部屋を案内してもらい説明をしてもらいました。
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当時、王宮で行われたフラダンスの写真も展示されていました。
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当時のイオラニ宮殿の写真も掲載されていました。
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こちらは王妃の寝室でしょうか。豪華なベッドが置かれていました。
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カピオラニ王妃の写真でしょうか。
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違う角度から紹介します。ベッドカバーはカピオラニ王妃のベッドに掛けられていた本物だそうです。
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最も圧巻だった部屋を紹介します。一番手前のドレスが世界で最も豪華なドレスです。
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すでに絶滅したオーオー(ʻOʻO)と呼ばれる黒色の鳥に僅かに生えている黄色い羽根で飾られたドレスです。これだけの羽根を集めるだけで何10年も必要だそうです。ハワイの王族だけが着ることが出来たドレスです。
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ここに王や王妃が座ったのだと思います。椅子の左右には先端が鳥の羽根で飾られた棒であるカヒリ(kahili)が立てられています。
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その椅子を拡大いたしました。
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王冠なども飾られていました。
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これは王政最後の頃にハワイ王国最後の君主であるリリウオカラニ女王が幽閉中に製作した有名なクレイジーキルトです。
これにも沢山の物語がありました。
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クレイジーキルトの一部を拡大いたしました。イオラニ宮殿は1795年からの98年間続いたハワイ王朝の最期の舞台でもあったのだと実感させられました。
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エレベーターで一階に降りると使用人たちの仕事場と思われるばしょがありました。このリフトで料理を上の階に運んだそうです。
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この場所にかまどがあったのでしょうか。銅板で囲まれていました。
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作業机だったのでしょう。
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1階には宝石などの装飾品も展示されていました。最も豪華だったのがダイヤモンドで作られた蝶のブローチでした。



1階にはこのような部屋もありました。
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1階の廊下です。いろんな写真が置かれていました。
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Google地図の航空写真でイオラニ宮殿を紹介します。小さな写真はカワイアハオ教会とカメハメハ大王像です。
クリックすると拡大クリックすると拡大 イオラニ宮殿
 カワイアハオ教会
 カメハメハ大王像
 アリイオラニ ハレ


追伸
2018年10月19日から関西に行きます。帰ってくるのは10月30日の予定です。その間にネットが使えるのは1日に30分程度のため、皆様のところへの訪問が出来ないことをお許しください。
ラベル:ハワイ 宮殿
posted by SORI at 07:44| Comment(26) | ハワイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月18日

素敵な時間に出会えました。 カワイアハオ教会

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ハワイ旅行3日目はワイキキビーチのレストランLu Lu’sで朝食を食べた後に路線バスを使ってワイキキの街の中にあるイオラニ宮殿を目指しました。イオラニ宮殿に近いバス停で降りたのですが歩き出す方向を間違えたために道に迷って、きれいな教会の前に出たので門の中にはいってみることにいたしました。教会の名前はカワイアハオ教会(Kawaiahao Church)でした。教会の名前にはハオ王女の聖なる水の池(Ka wai a Haʻo)という意味があるそうです。
横からのストリートビュー:https://goo.gl/maps/bBWnisJHGiM2

Google地図の航空写真で見るとカワイアハオ教会はイオラニ宮殿のすぐ傍でしたが、沢山の木があることイオラニ宮殿が判らなかったのです。カメハメハ大王像も近くにありました。このあとハワイ州立図書館の中にも入ってみました。ただし、図書館の中には沢山の人がおられたので写真は撮りませんでした。小さな写真はイオラニ宮殿とカメハメハ大王像です。
クリックすると拡大クリックすると拡大 カワイアハオ教会
 イオラニ宮殿
 カメハメハ大王像
 アリイオラニ ハレ


庭の中に入って撮ったカワイアハオ教会です。建物の前には白いリムジンが停まっていました。どうやら結婚式が行われているようでした。建物に近づいて中に入るかどうか躊躇していると、日本人のスタッフと思われる方が来られて、「今、結婚式のリハーサルが行われています。中に入って自由に見てください。」と言われたので中に入ってみることにいたしました。
こちらのカワイアハオ教会に関して調べてみると1842年に建てられた米国の重要文化財(1962年登録)のオアフ島最古の教会だそうです。クリックすると記事を表示外壁はすべて海面下3~6mからダイバーが掘りだしたサンゴの岩の厚板(約4kg/枚)×1万4千枚で出来ていて、ハワイ歴代君主の戴冠式や結婚式が行われた由緒ある教会でした。右の1857年の写真にも写っている塔の時計は1850年にカメハメハ三世から寄付されたボストンのHAWRD&DAVIS社製だそうです。右上の1857年の写真と今回の写真を見比べてみると塔の屋根の部分の形が変わっていました。現在は日本人が沢山結婚式を行う教会としても有名なようで、検索すると旅行会社の結婚式プランが沢山出てきます。さらに結婚式の写真も沢山掲載されていました。
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クリックすると記事を表示リムジンを拡大いたしました。海外の教会で結婚式を間近で見たのは右の写真のジャカルタの教会以来です。ジャカルタの教会は1901年に完成したジャカルタ大聖堂(Jakarta Cathedral)でした。インドネシアはイスラム教が76.5%(1億7000万人超)の世界最大のイスラムの国ですがキリスト教と共存している上に結婚式では教会が使われることがあるようです。
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教会の壁にA Centennial Memorial of HIRAM BINGHAMと書かれた石板が取り付けられていました。Hiram Bingham(1789年10月30日~1869年11月11日)に関する石板のようですが、その中に教会が完成した1842年7月21日(July 21,1842)が読み取れました。
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外壁に使われている176年前のサンゴの岩の質感を感じてもらいたくて本写真を掲載いたしました。クリックすると拡大した縦長の写真を表示します。
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中に入ると確かに結婚式のリハーサルが行われていました。
2017年のゼクシィの調査(全146ページの30ページ目)によると日本在住の日本人が海外挙式でハワイ選択はダントツ1位です。
そしてハワイ挙式の中で96.6%のカップルがオアフ島を選びました。
(オアフ島:96.6% ハワイ島:1.9% マウイ島:0.5%)
クリックすると拡大 1位:ハワイ       67.1% Σ:67.1%
 2位:グアム       16.5% Σ:83.5%
 3位:アジア        4.8% Σ:88.4%
 4位:オーストラリア    4.5% Σ:92.9%
 5位:ヨーロッパ      3.5% Σ:96.5%
 6位:南太平洋・インド洋  1.3% Σ:97.7%
 7位:アメリカ       1.0% Σ:98.7%
 8位:ニュージーランド   0.6% Σ:99.4%
 9位:サイパン       0.3% Σ:99.7%
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日本在住の日本人の7年間の海外挙式率は平均で7%で最近は約9%です。7年間を見る限りは増加傾向にあるようです。7年間の全調査数は17,959カップルです。年間64万組が婚姻してその中の35万組が結婚式を挙げると仮定すると、その9%の3万組が海外で挙式することになります。ハワイはその67.1%なので年間2万組の日本人がハワイで結婚式を行っている計算になります。
クリックするとオリジナル表示

クリックすると拡大クリックすると拡大自由に見ても良いとは言われましたが、さすがに中央の通路を通って近づきにくかったので、2階に上がって見させていただきました。祭壇の左右に立っているカヒリ(先端が鳥の羽根で飾られた棒)は王族のシンボルです。カヒリ(kahili)に用いられている羽のほとんどがオーオーという、現在では絶滅した固有種の鳥の羽から作られています。カヒリを完成させるには膨大な時間と技術と貴重な材料が必要であることから「王族のシンボル」とされてきました。この日に最後に訪れたビショップ博物館にはカヒリの部屋があり沢山の各時代の王のカヒリが保管・展示されていました。
クリックすると拡大黒い羽根の中に僅かな黄色い羽根を持つハワイ・オーオー(Hawaiʻi ʻOʻO)の日本名はムネフサミツスイ(胸房蜜吸)で、初代カメハメハ大王が着ていた黄色のケープ(ガウン)は全てこの羽根で作られたものです。他のカメハメハ王のケープは一部のみにか黄色羽根が使われないほど、その時代から貴重な鳥でした。鳥黐(とりもち)で捕獲して黄色の羽根を4枚のみ取って放したそうです。Hawaiʻi ʻOʻO以外にKauaʻi ʻOʻOOʻahu ʻOʻOBishop's ʻOʻOが生息していたようです。オーオー(ʻOʻO)以外の鳥の羽根を使う場合も飛翔に支障が出ないように数枚だけを取って放していたことから羽根から作られたケープやカヒリは貴重なものでした。
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2階から拡大した写真です。我々が建物を出るころに人が増えてきたので結婚式の本番が近づいて来たのだと感じました。本記事を見ている方の中にもこちらの教会で結婚式を挙げた方もおられるのではないでしょうか。
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庭の中の小さな建物ですが、LUNALILO KA MOI. 1874.と書かれていました。手前の説明板にはKING WILLIAM CHARLES LUNALIO と書かれていました。これらの記載からハワイ王国の第6代国王ウィリアム・チャールズ・ルナリロ(William Charles Lunalilo、1835年1月31日~1874年2月3日)の霊廟(墓)と思われます。ハワイ王国第5代国王カメハメハ5世が後継者を定めないまま1872年に亡くなったため、憲法に従い選挙によって選ばれるたのがルナリロ国王ですが、肺結核にかかり在位1年1ヶ月ほどでこの世を去ったそうです。彼の遺言によりカワイアハオ教会の墓地に母親と共に埋葬されたそうです。
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posted by SORI at 03:10| Comment(24) | ハワイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月14日

担々麺も作ってもらえました。

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大担々ごま鍋を食べた翌日には、上の写真の担々麺(坦々麺)を作ってもらえました。そのために右の写真の菊水製のラーメン用の麺と、豚挽き肉100gをスーパーで買ってきました。いつものスーパーでは挽き肉は最低でも約250gの量になるために少量も売っている別のスーパーで買ってきました。

このエバラ「豆板醤のこく! 担々ごま鍋の素」が半分(150g)残っていたことで思いついたメニューでした。
半分で2人分の担々麺が作れました。つまり1瓶だと4人分です。
前日に食べた坦々ごま鍋の記事はこちらです。→ポチッ
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担々麺にしたのは瓶に書かれた4種類の写真を見たためです。
残しておいて何日か後に、また鍋をする選択肢もありましたが、この写真をみて担々麺を作ってみたくなったようです。ポチッをクリックするとエバラのHPのレシピを表示します。クリックすると拡大
 担々麺       → ポチッ
 担々豚しゃぶサラダ → ポチッ
 担々肉野菜炒め   → ポチッ
 担々春雨スープ   → ポチッ
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メーカーのレシピでは担々麺用のスープで豚ひき肉を茹でて麺の上に掛けるようになっていましたが、家内はフライパンで写真の左側の甜麺醤(テンメンジャン)で豚ひき肉を炒めて最後に炒めた肉みそをトッピングいたしました。炒めた理由の一つは挽き肉の脂分を落とすのも目的の一つだったようです。
右の辛い豆板醤(トウバンジャン)ではなく甘い甜麺醤(テンメンジャン)を使ったのは、前日に坦々ごま鍋を食べてスープ―がかなり辛いことが判っていたからです。上の瓶のラベルを見れば分かるように、スープの素の中には豆板醤(トウバンジャン)が入っていました。ちなみに前々記事のチヂミに使ったのはコチュジャン(고추장)でした。3種類の古くからのジャン(醤)は、主な材料が次の発酵食品ですが、現在市販されているものは、その味を出すためにいろんな材料が調合されて作られているものも多いようです。
 テンメンジャン(甜麺醤)    中国  中華味噌 砂糖
 トウバンジャン(豆板醤)    中国  ソラマメ 唐辛子
 コチュジャン(고추장、苦椒醬) 韓国  もち米麹 唐辛子   
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下の大きな写真が出来上がった我家の担々麺です。
クリックすると拡大トッピングにチンゲン菜ではなくキャベツを使ったのはよく行くお気に入りのラーメン屋さんの「ごまだれタンタン麺」を意識したためです。そこのお店が右の写真のようにシャキシャキ感が残るキャベツを使っていたからです。そこでキャベツを湯通し程度に茹でてトッピングにしてもらいました。白髪ねぎもトッピングされていました。
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キャベツの食感を紹介したくと拡大いたしました。お気に入りのラーメン店にも負けないキャベツの茹で加減でした。そのキャベツのお陰もあって美味しい坦々麺が出来上がったわけです。辛いスープで美味しかったので、ほぼ飲み干してしまいました。
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肉みそなどの細かい具が入ったラーメンなどの麺類を食べるときに便利なのが、こちらの穴あきレンゲです。これのお陰で細かいトッピングもすばやく全て食べることが出来ます。この穴あきチリレンゲ(散蓮華)は2010年3月に北海道旅行に行った時に空港のラーメン店で出会いました。クリックすると拡大便利だったので帰ってから探していると偶然に金物市で手に入れることが出来ました。つまり8年間愛用しているわけです。現在の新千歳空港のラーメン道場に出店している店舗は10店舗ありますが8年前は5店舗で、その時のラーメン店で残っているのは「函館麺厨房あじさい」と「麺屋開高」の2店舗です。
現在の新千歳空港のラーメン道場の10店舗を紹介すると、弟子屈ラーメン、らーめん鷹の爪、らーめん空、札幌味噌拉麺専門店けやき、えびそば一幻、旭川ラーメン梅光軒、札幌ラーメン雪あかり、麺処白樺山荘、函館麺厨房あじさい、麺屋開高です。
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クリックすると拡大白髪ねぎを作ったのはこちらの道具です。こちらはいつ買ったか覚えていないけれども20年以上前から使っています。切れ味は変わっていません。パール金属が作ったMADE IN JAPANで、今でも同じものが売られている銘品です。クリックすると刃の部分を拡大いたします。
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下記は今までに掲載した担々麺に関する記事です。
単に担々麺と言っても下記の写真のようにいろんなタイプがあります。担々麺は中国・四川省で1841年ごろに天秤棒で売り歩いた汁なし麺がルーツと言われていて、下記の写真の中で四川省・成都の担々麺が近いと想像されます。
担担(擔擔)は成都方言で天秤棒の意味であることから担担麺のクリックすると拡大呼名のルーツも「天秤棒」あるいは「担ぐ(かつぐ)麺」にあるようです。下の写真と同時に比較出来るように今回の担々麺の写真も同じサイズで右に掲載いたしました。
タイトルをクリックすると記事を表示し、写真をクリックすると大きな写真を表示します。
 2009年06月29日 日本 太麺と細麺のラーメン屋さん
 2009年08月09日 中国 四川省・成都で一番の坦々麺は?(汁なし)
 2009年11月28日 日本 最後の晩餐は中華料理でした。
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
 2011月03月05日 中国 武漢の四川料理
 2011年05月29日 日本 中華料理店のラーメン「ねぎ坦々麺」
 2012年09月16日 中国 成都の高級四川料理店(汁なし)
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
 2014年05月07日 中国 本格四川料理は庶民の味方 北京
 2014年08月16日 日本 今回のゴルフ場でのランチ
 2017月05月11日 日本 菊水の「まぜそば」シリーズ(汁なし)
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
ラベル:担々麺
posted by SORI at 08:58| Comment(26) | 拉麺 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月11日

担々ごま鍋

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最近まで暑かったけれども鍋が食べたくなるほど冷え込むことも増えてきました。そんな日に我家でも鍋をしていました。鍋の辛いスープの「坦々ごま鍋 / 担々ごま鍋」です。前記事で紹介したチヂミで豚バラ肉が半分余っていたので豚ばに肉を使う鍋にしたそうです。今年の夏以降の初めての鍋です。

最近は鍋用のスープが沢山売られています。クリックすると拡大特にストレートのスープが安く売られていて時々、利用させてもらっていますが、今回は水で割るタイプの写真のエバラ「豆板醤のこく! 担々ごま鍋の素」を使いました。瓶1本で4~5人の鍋のスープーになります。今回は2人なので丁度半分の量にいたしました。瓶に書かれていたレシピでは豆腐と白菜と豚ひき肉が入っていましたが代わりにキノコ3種にいたしました。
 担々ごま鍋の素   150ml 半分
 水         300ml
 チンゲン菜     1束
 長ネギ       1本
 キノコ       3種
 豚バラ肉      180g
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これがスープの素(150ml)+水(300ml)です。大きな土鍋なので少ないように見えますが、具を2回に分けて入れると問題ありませんでした。野菜から水分が出て最後までたっぷりとスープがありました。
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キノコはしめじと舞茸とエノキを用意いたしました。
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こちらが野菜ですがたっぷりありました。
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こちらが豚ばら肉、つまり三枚肉です。これと同じ肉をチヂミに使ったわけです。
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半分の具を土鍋に入れたところです。三枚肉とキノコを先に入れて少し煮えたところで野菜を入れた瞬間の写真です。
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クリックすると拡大今回は千葉県佐倉市の地酒「特別本醸造 旭鶴 冷酒」にいたしました。佐倉市にある国立歴史民俗博物館で企画展示「ニッポンおみやげ博物誌」の招待券を頂いたので、見に行った時のお土産として今回の日本酒を買ったのです。右の写真がいただいた招待券です。
 蔵元 旭鶴
 住所 千葉県佐倉市馬渡918
 電話 043-498-0002
 創業 天保元年(1830年)
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ピリッとした辛みが付いて美味しくいただきました。味が十分についているのでスープを器に入れる必要がありませんでしたが、写真のことを考えると少し入れればよかったと反省しております。
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冷酒も進みました。
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冷酒の次はビールにいたしました。辛い鍋にビールも進みました。冷酒はもう少し楽しむために、少し残しております。
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ラベル:
posted by SORI at 18:01| Comment(24) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月09日

市販の粉でチヂミを作ってみました。

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我家ではお好み焼きは作りますが、本格的なチヂミはほとんど作ったことがなかったので市販のチヂミの粉を買ってきて作ってみることにいたしました。

使ったチヂミの粉はこちらのオーマイ(日本製粉)の製品でした。
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小麦粉で竹の子チヂミを作ったことはありました。その時は市販のチヂミのタレを買ってきました。今回、市販のチヂミの粉を使ったのは本格的なチヂミを作ってみたかったからです。焼時間を含めて詳しく作り方が書かれているのです。食べてみて分かったことですがチヂミのタレの味が大切なことが判りました。そのタレの作り方も書かれていたのです。クリックするとチヂミの基本の作り方のところをすべて(①~⑤)を表示します。
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下記の材料を混ぜ込みました。最初に水と粉を混ぜてダマが無くなったところで具を入れることをお薦めします。これで2人前です。
 チヂミの粉  1袋(200g)
 卵      1個
 水      250ml
 にら     1束(100g)  長さ3cmに切る 万能ネギもお薦め
 玉ねぎ    1/4個(50g) 薄切りにする
 豚バラ肉   100g     長さ2cmに切る イカやエビなどにすると海鮮チヂミ
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チヂミのタレに使った材料です。幸いにも全て家にあるものばかりでした。出来上がったタレは2人用にしては多め(1.5倍)でしたが、これより少ないと正確な量にならないので初めての場合は、記載通りで作ることをお薦めします。
クリックすると拡大 醤油     大さじ2
 酢      大さじ2
 酒      大さじ2
 ごま油    小さじ1
 コチュジャン 小さじ1.5  好みの量で!
 白ごま    小さじ1   好みの量で!
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これが出来上がったタレです。
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ホットプレートを強(250℃)にセットした熱くなったところで2枚を同時に焼きました。
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焼く時の厚みと時間が大切です。お玉で1cmの厚みに広げます。そのまま3分間焼きます。
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3分焼いたところで裏返して、時々フライ返しで軽く押しながら2分焼きます。ただし豚ばら肉を入れているので念のため1分余分に焼きました。焼きあがったところで1枚に対して香りづけのために、こま油小さじ1杯をチヂミの周囲の鉄板に流し入れてチヂミを動かして両面にごま油がつくようにします。写真は最初に裏返したところです。


焼きあがる前からビールを飲みながら焼きあがるのを待ちました。
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これが焼きあがったところです。裏返してから3分焼いたので焼き色は濃い目ですが両面ともにパリッと焼けました。先ずは1枚を半分に切って2人で食べました。残った1枚はホットプレーを保温にセットして1枚目を食べ終わってから食べたので2枚目も熱々でした。
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出来上がったチヂミの断面です。
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このタレが本格的なチヂミの味にしてくれていました。豚ばら肉のチヂミは美味しかったです。この次は海鮮チヂミに挑戦してみたいと思います。
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上の写真もクリックすると拡大しますが、クリックするのが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。本写真をクリックするとさらに特別に大きく拡大するので食感と味わいを感じてもらえると嬉しいです。
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もちろんビールが進む味でした。
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ラベル:韓国料理 チヂミ
posted by SORI at 19:47| Comment(32) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月08日

奈良の興福寺 阿修羅像に出会えました。

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2018年9月10日に2人目の孫娘が生まれたので、2018年9月14日に奈良の近くの病院に孫娘の顔を見に行きました。少し早めに着いたので駅の近くの興福寺に行ってみることにいたしました。その時に撮った写真を紹介いたします。
クリックすると拡大右が興福寺の配置図です。
実際に歩いた通りに東金堂、五重塔、中金堂(再建工事中)、南大門跡、不動堂、南円堂、一言観音堂、三重塔、国宝館の順番に紹介したいと思います。上の写真は東金堂の前から五重塔の方向を撮った写真です。興福寺(こうふくじ)は奈良市登大路町にある法相宗の大本山の約1300年の歴史のある寺院です。さらに、ユネスコ世界遺産「古都奈良の文化財」にも含まれています。

大きな建物が国宝の東金堂です。奥に見えている五重塔も国宝です。
興福寺の起源は天智天皇8年(669年)に山背国山階(現:京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)です。その後、壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)に藤原京に移り厩坂寺(うまやさかでら)となり、さらに和銅3年(710年)の平城遷都に際し現在地に移転して興福寺と名付けられたことから、この710年が実質的な興福寺の創建年といえるそうです。
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正面から見た東金堂です。東金堂は聖武天皇の発案で神亀3年(726年)に造営されました。5度の焼失に会いその都度再建されたそうです。現在の建物は応永22年(1415年)に再建されたものです。
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東金堂の拝観券(300円)です。左が表で右が裏です。
拝観券の注意事項には「文化財の写真撮影、スケッチならびに万年筆、サインペン等の使用はお断りします。」と書かれていました。注意事項は国宝館でも同じです。鉛筆でのメモはOKのようなので、インクなどで仏像などの文化財が汚れることを恐れているのだと思います。
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東金堂の賽銭箱が置かれた正面です。ここはすでに有料エリアです。賽銭箱の前の白い布がかぶった台に注目してみてください。
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不思議なことに賽銭箱の奥側に氷が置かれていました。気になって調べてみると9月14日の9時から下記のスケジュールで氷室神社・神職の先導により、純氷が運ばれ、東金堂にて神仏習合の法要(純氷式)が執り行われたそうです。これは、かき氷のイベント「ひむろしらゆき祭」の中の一つだそうです。
 純氷式 2018年9月14日(金) 
     9:00~ 氷室神社出立
     9:30~ 興福寺東金堂にて献氷
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東金堂の中には21躯(く)の仏像が置かれたおり、その内の18躯(く)は国宝で、3躯(く)は重要文化財です。躯(く)は仏像の数を言う時の1つの呼び方です。その1躯(く)以外に1体、1頭(かしら)、1座(ざ)、1尊も使われます。両資料共にパンフレットから転用させてもらいました。仏像が載った方はクリックすると特別に大きく拡大いたします。
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中央の金色の大きな仏像が本尊の薬師如来坐像です。両脇の立像が月光菩薩立像(左)と日光菩薩立像(右)です。東金堂の中は写真撮影が禁止されているのでネットの写真やパンフレットの写真を転用させていただきました。クリックするとWikipediaに掲載されている別角度の写真のオリジナルを表示します。


本尊の薬師如来坐像です。拝観券販売所でもらった説明パンフレットに載っていた写真です。
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月光菩薩立像(左)と日光菩薩立像(右)も紹介します。


現在の五重塔は室町時代中期・応永33年(1426年)に再建されたもので、本瓦葺の三間五重塔婆です。初代の五重塔は天平2年(730年)に創建されました。高さ50.1mで、現存する日本の木造塔としては、東寺五重塔(54.8m)に次いで2番目の高さだそうです。
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再建工事中の中金堂です。落慶法要が2018年10月7~11日に営なまれることから現在は足場は取り払われていると思われます。写真は工事中の最後の姿だと思います。中金堂は興福寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定されています。
クリックすると拡大のちに東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれていました。創建以来何度も焼失と再建を繰り返しましたが江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)に仮堂が再建された状態が今日まで約200年続き、クリックすると拡大元の中金堂の姿で再建するために傷みの激しい仮堂を2000年に解体して2010年に着工して現在に至っているそうです。右の小さな2枚の写真はネットから転用させていただいた199年前の文政2年(1819年)に建てられた仮堂です。
再建される中金堂は創建当時と同じ東西36.6m(9間)、南北23m(6間)、高さ21.2mの建物だそうです。
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真横から撮った中金堂です。9月14日時点では中金堂歓進所などがありました。再建される中金堂は古式のままの木造建築だそうです。今回の落慶法要は中金堂だけですが、将来は中門や回廊も再建して昔の姿にしたいと考えられているようです。中金堂は下記リストのように過去7回も焼失と再建を繰り返してきたそうです。つまり初代336年、2代12年、3代29年、4代77年、5代83年、6代27年、7代318年、8代181年と短い期間で焼失してしまったこともありました。明治5年12月3日(1873年1月1日)以前は西暦と和暦の月日は違います。つまり永承元年12月24日を計算すると1047年1月22日になります。
  創建 和銅3年( 710)      被災 永承元年(1046)12月24日 336年 
  再建 永承3年(1048)03月02日 被災 康平3年(1060)05月04日 12年
  再建 治暦3年(1067)02月25日 被災 嘉保3年(1096)09月25日 29年
  再建 康和5年(1103)07月25日 被災 治承4年(1180)12月28日 77年
  再建 建久5年(1194)09月22日 被災 建治3年(1277)07月26日 83年
  再建 正安2年(1300)12月05日 被災 嘉暦2年(1327)05月04日 27年
  再建 応永6年(1399)03月11日 被災 享保2年(1717)01月04日 318年
  再建 文政2年(1819)09月22日 解体 平成12年(2000)07月31日 181年
  再建 平成30年(2018)10月07日   
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本図は 応永6年3月11日(1399年4月17日)の再建時の梁行断面図と平面図です。このような図面が残っていたからこそ忠実に再建出来たようです。
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中金堂の正面には南大門跡がありました。南大門は奈良時代に創建されましたが11~18世紀に7度の火災に遭い享保2年(1717年)に焼けてからは再建されていないそうです。発掘調査により東西5間(23.4m)、南北2間(9m)の規模だったことが分かったそうです。
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南大門跡を少し離れて撮りました。五重塔も写っています。
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南大門跡の脇にある不動堂と呼ばれる小さな建物がありました。東を向く南円堂と向かい合う形で西向きに建っている小さなお堂でした。お堂は不動明王をお祀りしているようでした。
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不動堂の中を撮らせていただきました。堂内で火を焚きあげながら行われる護摩法要が頻繁に実施されていて、お堂の中は不動明王像も含め黒いススで覆われていました。
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こちらは南円堂です。現存する南円堂は江戸時代の寛保元年(1741年)に再建された建物です。正面に拝所が付属した八角円堂です。1986年12月20日 に重要文化財に指定されたそうです。南円堂正面の銅製の高さ236cmの燈籠は南円堂創建時(813年)の唯一の伝来品で弘仁7年(813年)に造られたことが火袋扉に書かれた銘文から判るそうです。本物は最後に紹介する国宝館に置かれていると書かれていたので、これはレプリカのようです。本物は頂上の宝珠が無くなっているそうです。現存する日本の金属燈籠としては東大寺大仏で前の八角燈籠(推定752年)の次に古いものだそうです。
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遠くから見た南円堂です。左側が南大門跡で右側の方向に再建工事中の中金堂が建っています。
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南円堂の傍にある鐘楼です。朝の6時と正午と夕方の18時を知らせる鐘のため、一般の人は撞くことができないそうです。
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南円堂の脇にある一言観音堂です。「一言だけ」願いを聞き入れてくれるということでこの名が付いたようです。
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入口で清めを行う手水舎(てみずやorちょうずや)です。水盤舎(すいばんしゃ)とも呼ばれています。井戸と思われる部分に南円堂と彫られているので南円堂のための手水舎と思われます。
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南円堂の南西方向に三重塔があるはずなのですが見当たりませんでした。実は地面の低い位置に立っていたのです。
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この石段を下りて右に曲がると三重塔がありました。
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これが興福寺の三重塔です。興福寺三重塔は康治2年(1143年)に崇徳天皇の中宮・皇嘉門院によって創建されました。現存する興福寺三重塔は鎌倉時代前期に再建されたものだそうです。記録は残っていないそうですが時期的に治承4年(1180年)の大火により焼失して再建されたと考えられています。
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三重塔が建っている辺りにはお地蔵さんが沢山並べられているエリアがありました。延命地藏尊です。
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三重塔辺りから見上げると南円堂が見えました。
興福寺の住所等を紹介します。
 住所 奈良県奈良市登大路町48番地
 山号 なし
 宗派 法相宗
 寺格 大本山
 本尊 釈迦如来
 開基 藤原不比等
 創建 天智天皇8年(669年) 京都・山科
 移転 天武天皇元年(672年) 藤原京(飛鳥)
 移転 和銅3年  (710年) 現在地に実質創建
 札所 西国三十三所9番(南円堂)
    南都七大寺2番
    西国薬師四十九霊場4番(東金堂)
    神仏霊場巡拝の道16番
    大和北部八十八ヶ所霊場 第62番(菩提院)
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最後に国宝館に行きました。国宝館は文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で1959年に食堂(じきどう)及び細殿(ほそどの)の跡地に建てられたそうです。鉄筋コンクリート構造ですが、外観は創建時の食堂を模したものになっているそうです。建物の地下には奈良時代以降の食堂の遺構がそのままの形で保存されているそうです。正面35.3m、奥行き31.8mの建物です。なお、興福寺に関する本や土産が売られている売店は国宝館の中の無料エリアにあります。
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こちらが拝観券(700円)です。実は東金堂との共通券(900円)がありましたが、東金堂の拝観券を買うときに気が付かなかったために個別に買うことになりました。国宝館の拝観券販売所では変更出来ないので、東金堂の拝観券販売所に戻って買いなおしてほしいと言われましたが、面倒なので個別券を購入いたしました。そのために一人100円高くなりました。拝観券に印刷されている仏像は教科書にもよく出てくる阿修羅像です。
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クリックすると拡大館内は写真撮影が禁止なだけではなくスケッチも許されないほど厳格でした。そのため雰囲気を紹介したくてネットの写真を転用されていただき紹介いたします。国宝館には有名で貴重な仏像が沢山展示されていて圧巻でした。中央には食堂の本尊であった高さ5.2mの千手観音立像が安置されています。主な国宝を紹介します。
 阿修羅像 (旧西金堂) ※1
 木造千手観音立像 (旧食堂)
 乾漆八部衆立像 8躯 (旧西金堂) ※1
 乾漆十大弟子立像 6躯 (旧西金堂)
 木造金剛力士立像 2躯 (旧西金堂)
 板彫十二神将像 (旧東金堂)
 銅造仏頭 (旧東金堂)
 木造天燈鬼立像 / 木造龍燈鬼立像 (旧西金堂)
※1:阿修羅像は乾漆八部衆立像 8躯(8体)の中の1躯(1体)です。


こちらが阿修羅像です。阿修羅像のすばらしさは、その表情に隠されていると言われています。阿修羅は帝釈天と戦った戦闘神ですが、元々は帝釈天と阿修羅は仲間でした。阿修羅の娘を帝釈天が力ずくで奪ったことから戦いが始まったそうです。何度も戦を挑んだことから、ついには仏世界から修羅道に追放されしまったそうです。そんな中でお釈迦様の説法を聞く機会があり、再び正義の神に戻ったそうです。像は三面六臂(さんめんろっぴ)と呼ばれる形式です。三面六臂は3つの顔と6つの腕をもつ意から一般的に1人で何人分かの働きをすることを表しています。作者を検索すると百済から渡来した仏師・将軍万福との記述が多く出てきます。興福寺のホームページによれば正倉院文書である西金堂造営記録「造仏所作物帳」に八部衆像や十大弟子像の作者が将軍万福(仏師)と秦牛養(画師)と書かれていました。仏師の将軍万福は百済からの渡来人で姓が「将軍」で名が「万福」です。画師の秦牛養は百済からの渡来人で姓が「秦」で名が「牛養」です。2011年4月25日の朝鮮新報によると天平6年5月1日(734年)に将軍万福が造像し、秦牛養が彩色したことも造仏所作物帳に書かれていたそうです。十大弟子像も八部衆像(阿修羅像含む)と同じ乾漆造です。
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阿修羅像が含まれる乾漆八部衆立像を紹介します。八部衆像は廃絶した西金堂に本尊釈迦三尊像を中心に梵天・帝釈天像、十大弟子像などと共に安置されていたそうです。現在は国宝館に展示されています。八部衆像は麻布を漆で貼り重ねた乾漆造で、いずれも1体が15 kg程度で度々の火災での焼失を免れた要因としてこの軽さが挙げられています。興福寺の八部衆が、五部浄沙羯羅鳩槃荼乾闥婆阿修羅迦楼羅緊那羅畢婆迦羅なのに対して、法華経や金光明最勝王経では、衆、衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆となっていて緑色の最初の3つが違います。左上から順番に次の通りで、いずれも奈良時代の制作です。数値は像の高さです。
 五部浄(ごぶじょう)  50.0cm
 沙羯羅(さから)   154.5cm
 鳩槃荼(くばんだ)  150.5cm
 乾闥婆(けんだつば) 148.0cm
 阿修羅(あしゅら)  153.4cm
 迦楼羅(かるら)   149.0cm
 緊那羅(きんなら)  152.4cm
 畢婆迦羅(ひばから) 155.4cm


将軍万福と秦牛養が造ったとされている十大弟子像も紹介します。名前の通り元は 10躯(10体)あったと思われますが、興福寺に現在あるのは下の写真の 6躯(6体)の十大弟子像です。経典によって誰が十大弟子に入るかは異なるそうですが維摩経弟子品では次の通りで記載の順番は出家順です。興福寺での仏像の呼名を右側に書いています。丸の数字は写真の左からの順を表しています。十大弟子は釈迦の弟子達の中で主要な10人の弟子のため十大弟子はインド人ではありますが興福寺の十大弟子像は日本人の顔立ちです。
 釈迦の十大弟子(維摩経弟子品)    興福寺の十大弟子像(写真)
 舎利弗(しゃりほつ)         ① 舎利弗像(しゃしほつぞう)
 摩訶目犍連(まかもっけんれん)    ② 目犍連(もくけんれんぞう)
 摩訶迦葉(まかかしょう)        
 須菩提(しゅぼだい)         ③ 須菩提(すぼだいぞう)
 富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし) ④ 富楼那像(ふるなぞう)
 摩訶迦旃延(まかかせんねん)     ⑤ 迦旃延像(かせんえんぞう)
 阿那律(あなりつ)            
 優波離(うぱり)            
 羅睺羅(らごら)           ⑥ 羅睺羅像(らごらぞう)
 阿難陀(あなんだ)            木骨のみ(東京芸術大学)
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動画も公開されていたので紹介します。雰囲気がよく分かると思います。紹介されている仏像の何倍も展示されていました。


Google地図でも紹介します。紫色ライン(━━━)で囲ったエリアが興福寺の敷地です。エリアの外側を南側と東側と北側と4分の3周を廻ってみて広さを実感いたしました。航空写真上のアイコンマイナスをクリックすると広範囲表示になるので興福寺の全体エリアや近鉄奈良駅の場所が分かると思います。計3回クリックするとJR奈良駅との位置関係も判ると思います。航空写真の中に北円堂がありますが北円堂に関わる歴史ファンタジー小説をomachiさんから紹介していただきました。タイトルは「北円堂の秘密」で、その1からその18まで続く大作で、作者は大町阿礼さんです。
 本記事で紹介
 今回未紹介
posted by SORI at 23:59| Comment(36) | 奈良 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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