2016年08月03日

ミロのヴィーナス

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ルーブル美術館で一番人気があるのがモナリザだと思います。そして2番人気なのが今回紹介するミロのヴィーナス(ビーナス)ではないでしょうか。少なくとも石像においては一番人気は間違いないと思います。それだけに沢山の人が集まっていました。おそらく連休中や土曜日や日曜日となると、さらに沢山の人が集まるのだと思います。大きな部屋に一体だけは贅沢な置き方でした。
10年5ケ月前の2005年12月1日にもルーブル美術館をを訪れました。
クリックすると拡大その時の写真が右の小さな写真です。クリックすると大きな写真を表示します。同じ部屋ですがミロのヴィーナスが置かれていた位置は少し違っていました。2005年は部屋の中央でしたが、2016年の今回は中央の奥になっていました。より沢山の人が正面方向から見ることが出来るようにしたのだと思います。

広い部屋の中央奥に設置されているので、混んでいても全身が見えるタイミングはやってきます。検索数を比較してみました。
 "ミロのヴィーナス" 約117,000件
 "ミロのビーナス"   約50,600件
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この写真のように周囲に柵が作られているので、前に進めば写真を撮ることが出来ます。ただし、周囲に沢山の人がいるので、正面から自分だけを入れた記念写真を撮るタイミングは難しいです。
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柵のところからミロのヴィーナスを正面から撮りました。
 高さ 203cm
 材質 大理石
 発見 1820年4月8日
 作者 アレクサンドロス(Alexandros)
 製作 紀元前130年頃(アレクサンドロスの活動時期)
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上の写真はクリックすると拡大いたしますが、クリックが面倒な方のために拡大写真を掲載いたしました。クリックするとさらに拡大いたします。
ミロのヴィーナスは古代ギリシアで制作された彫刻の女性像で、ギリシア神話におけるアプロディーテーの像と考えられています。
 ギリシア語 Αφροδίτη της Μήλου
 フランス語 Vénus de Milo
 英語    Venus de Milo
ミロのヴィーナスの作者は紀元前130年頃に活動していた彫刻家のアンティオキアのアレクサンドロスと考えられていますが、彼の生涯については殆ど分かってないそうです。ただしデロス島から出土したアレクサンダー大王像もアレクサンドロスが造ったと考えられています。
そのミロのヴィーナスは1820年4月8日にオスマン帝国統治下のミロス島で発見され、その後にフランス人によって価値を見出されてトルコ政府から買い上げて、ルイ18世に献上され、ルイ18世はルーヴル美術館に寄付したそうです。
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ミロのヴィーナスの顔をじっくりと見たことがなかったので、顔の部分を、さらに拡大いたしました。
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正面以外の方向だと右のように記念写真を容易に撮ることが出来ます。下の写真は正面から見て左方向から撮ったミロのヴィーナスです。
ミロのヴィーナスが海外へ渡ったのは一度だけで、それも日本でした。1964年4月~6月に東京の国立西洋美術館と京都市美術館で特別展示が行われました。この時に日本への輸送時に一部破損が生じて展示までに急遽修復された経緯があります。
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こちらは正面から見て右側から撮ったミロのヴィーナスです。
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ミロのヴィーナスが発見されたミロス島の場所を地図で紹介します。
posted by SORI at 21:23| Comment(18) | TrackBack(0) | ルーブル美術館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月02日

模写している光景も絵になっていました。

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ルーブル美術館の絵画のエリアで下記の①と②の2つの光景をを紹介しました。ルーブル美術館の特徴が絵画を模写している光景に沢山出会えることなのです。他の美術館では、あまり見かけない風景です。上の写真は美術学校の学生たちが絵をスケッチしているところです。学生と判断したのは先生と思われる年齢の使途が指導していたからです。キャンバスはまだ真っ白で、書き始めたばかりのようでした。
 ① モナリザのあるエリア
 ② 歴史を感じるエリア
 ③ 模写の光景(今回の記事)

こちらは本格的に絵画を模写していました。朝の段階なので、この日に書き始めたとは考えられないことから、模写は何日もかけて行われていると思われました。左側の風景画を模写していました。
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こちらでは女性画を模写していました。本格的な模写を行っているのはルーブル美術館でも特に静かなエリアで沢山見かけました。調べてみた結果、日本人が模写をするためには次の手順を踏むことで出来るそうです。
 ① 模写したい絵の希望をルーヴル美術館に伝える。
 ② ダメな場合は美術館の提案の中から選択する。
 ③ 日本大使館の推薦書と無犯罪証明書を入手する。
 ④ 許可されたら模写の出来る時間帯に行って模写する。
   模写時間 月曜~金曜 9:00~13:30 (土日祝日は不可)
   模写期間 一つの絵で3ケ月以内
   模写料金 無料
   その他  イーゼル(画架)と椅子とロッカーは借用可


このように静かなエリアではグループでスケッチをしに来ている人も沢山見かけました。
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スケッチをしに来ている人たちは、一日だけなのだと感じました。家に戻って絵を描くのかもしれません。あるいは単なる勉強会なのかもしれません。
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模写やスケッチが行われているすでに紹介したように静かなエリアです。本記事では、その静かなエリアに展示されていた雰囲気や絵画を紹介したいと思います。ここは偶然見つけた階段を登ってきた3階ノエリアです。もしかしたら見逃していたかもしれないエリアですが、見事な絵が並んでしました。
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静かな雰囲気を感じてもらうためにエリアの写真を紹介します。
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すでに紹介した2つの記事では大きな絵画ばかりを紹介しましたが、普通のサイズの絵が沢山展示されていました。
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気になった絵があったので写真を特別に撮りました。アントワーヌ=ジャン・グロ(Antoine-Jean Gros)が描いたアルコレの戦いの絵です。描かれている人物はナポレオンです。1796年11月15~17日に行われたアルコレの戦いは、フランス革命戦争の戦闘の1つで、北イタリアのヴェローナに程近いアルコレ沼沢地周辺で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が、ヨーゼフ・アルヴィンツィ率いるオーストリア軍を破った戦いです。ドラマティックな効果を狙って、フランス軍がアルコレ橋を渡る際の戦闘が特に取り上げられています。
 作者 Antoine-Jean GROS 1771年~1835年
 作品 Bonaparte au pont d'Arcole 1796年12月15日
    アルコレ橋上のナポレオン
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他にも見事な絵が沢山ありました。
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同じエリアですが、大きな部屋もありました。ゆっくりと鑑賞できるように部屋の真ん中にはベンチが置かれていました。
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ルーブル美術館では小さいサイズになる絵も沢山ありました。
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いろんな絵があることから沢山の作者の絵が展示されていたのだと思います。
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不思議な雰囲気の絵もありました。
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初期フランドル派の画家ヘールトヘンである・トット・シント・ヤンスが「ラザロの復活」を描いた作品です。
 作者 Geertgen tot Sint Jans 1465年頃~1495年頃
 作品 La Résurrection de Lazare (The Raising of Lazarus)
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不思議な肖像画が沢山並んだエリアもありました。
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見たことがある絵だったので撮りました。作者は不明ですがフォンテーヌブロー派の画家です。フォンテーヌブロー派ははフランス・ルネサンス期に宮廷で活躍した画家のグループですが、名の伝わらない画家が多いそうです。写真の絵は16世紀末の絵画「ガブリエル・デストレとその妹ビヤール公爵夫人」で、左の女性が右の女性の乳首をつまんでいる官能的なテーマでフォンテーヌブロー派を象徴していることから様々に引用されて有名な作品ですが、やはり筆者は不明なのです。
 作者 École de Fontainebleau フォンテーヌブロー派
 作品 Portrait Présumé de Gabrielle d'Estrées
    ガブリエル・デストレとその妹ビヤール公爵夫人
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こちらも静かに鑑賞できる空間でした。
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こちらは大きな絵が多くありました。
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こちらはウスターシュ・ル・シュウール(Eustache Le Sueur)の作品です。ル・シュウールの作品としては、これ以外に、ガニュメデスの誘拐、キリスト降架、受胎告知がルーブル美術館にあるそうです。
 作者 Eustache Le Sueur 1616年~1655年
 作品 La Prédication de saint Paul à Éphèse 1649年
    エフェソスでの聖ペテロの説教
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不思議な雰囲気の絵画でした。
 地域 PROVENCE
 作品 Le Retable de Thouzon
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このプロヴァンス派の傑作は、長い間作者不詳でしたが、同じ場所にあるカルトジオ会修道院のために、1453~1454年頃に描かれた聖母戴冠の作者アンゲラン・カルトンの作と特定されたそうです。
 作者 Enguerrand QUARTON
 作品 La Pietà de Villeneuve-lès-Avignon 1455年
    ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンのピエタ
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今回のルーブル美術館の訪問の10年5ケ月前の2005年12月1日にルーブル美術館に来たときも模写をしている人を沢山見かけました。その時の模写をしている光景を3枚紹介します。
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これは、かなりの大作です。正面の絵ではなく右の壁の絵を模写しています。
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絵の勉強をしているのでしょうね。 
コーナーに近いところの小さな絵を模写されています。
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posted by SORI at 23:43| Comment(16) | TrackBack(1) | ルーブル美術館 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月01日

伊能 忠敬(いのう ただたか)



行ってきた佐原と言えば全国を測量して日本地図を作った伊能忠敬も有名です。幼い時は伊能の姓ではなかったけれども1762年(宝暦12年)、18歳の時に、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動したそうです。伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていました。商人としてはかなりの才覚の持ち主であったようで、伊能家を再興したほか、佐原の役職をつとめたなどの記録が残されています。また、このときに、かなりの財産を築いたことから、この佐原に伊能忠敬の原点があるのです。その時代の伊能忠敬旧宅が残っています。平屋造の瓦葺で、母屋、店舗、土蔵などがあります。上の写真は忠敬が設計したと伝えられている書院か母屋だと思いますが、東日本大震災で被害を受けました。2回目に行ったときは修復中で見ることが出来なかったので、現在は修復が終わっていると思います。

こちらは店舖部分で小野川に面しています。こちらも地震で被害を受けてけて修理中でした。伊能忠敬は1795年(寛政7年)50歳で江戸に出るまでこの旧宅に住んでいたそうです。 1930年(昭和5年)4月25日、国の史跡に指定された。


以前は旧宅の敷地内に伊能忠敬記念館がありましたが、現在は旧宅前の小野川を挟んで向かいに建っている。また、旧宅の敷地内には旧宅前のジャージャー橋の愛称で呼ばれている樋橋により対岸に水を渡していた水路が残っています。この橋の道の奥に伊能忠敬記念館がありました。


こちらが伊能忠敬記念館の入口です。中に入りましたが写真撮影は出来ないので今回は紹介出来ませんでした。


昔の町並みのように見えますが、伊能忠敬記念館です。4つの民家のように見えますが一つの鉄筋コンクリートの建物なのです。入口と反対側から見た記念館の景観です。


伊能忠敬の年表を紹介します。これを見ると彼の偉業がわかります。
 西暦 年齢        内容
1745年  0 1月11日上総国山辺郡小関村の名主の家で生まれる。延享2年
1751年  6 母が亡くなり、武射郡小堤村の神保家に戻る。
1755年 10 実家の神保家に戻っていた父の元に引き取られる。
1762年 18 下総国香取郡佐原村の伊能家に婿養子に入る。
1781年 36 佐原村本宿組名主となる。
1794年 50 隠居し家督を長男景敬に譲る。
1795年 51 江戸に出て幕府天文方高橋至時に暦学・天文学を学ぶ
1800年 56 第1次測量 奥州街道~蝦夷地太平洋岸     180日間
1801年 57 第2次測量 三浦半島~津軽半島         230日間
1802年 58 第3次測量 奥州街道~津軽半島         132日間 
1803年 59 第4次測量 東海道~北陸沿岸 佐渡       219日間
1805年 61 第5次測量 幕府直轄事業となる。東海道~山陰 
1808年 64 第6次測量 東海道~四国
1809年 65 第7次測量 中山道~九州鹿児島
1811年 67 第8次測量 甲府~九州鹿児島 壱岐 対馬 五島 913日間
1815年 71 第9次測量 東海道 忠敬は参加せず。
1816年 72 第10次測量 江戸府内 
1818年 74 4月13日死去、喪を秘して地図製作を続行。
1821年 没後 大日本沿海輿地全図が完成 文政4年
1883年 没後 贈正四位 明治16年
以前に函館に行ったときに函館山で、このような石碑を見つけました。伊能忠敬が北海道の測量の基点にしたのが函館山だそうです。寛政12年(1800年)と書かれていることから第1次測量の時であることがわかりました。
ラベル:伊能忠敬 佐原
posted by SORI at 09:26| Comment(20) | TrackBack(0) | 佐原 潮来 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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