2015年10月31日

開封の歴史 包公祠

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

名裁判官「包公」を祭ったお寺です。この中に包公の銅像があります。皇帝の息子を死刑にしたことがもっとも有名な伝説です。よほどの信頼と権限がないと出来ない言うことだと思います。右の写真は入口で撮った記念写真です。
皇帝の息子の罪は現代風に言えば不倫だそうです。 不倫で死刑? 昔は厳しかったんですね。

日本のお寺の雰囲気もあります。包公は1000年前の人です。右側の建物が上の写真の建物で本殿になります。
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本殿の中には大きな銅像がありました。クリックすると拡大
室内は暗くフラッシュも控えたので、元々は右のような写真でしたがPCで露出調整しました。写真をクリックすると空に明るくした拡大写真を表示します。
高さは3m、重さ2.5トンの包公の銅像です。包公は開封に首都があった北宋時代の人で、中華圏では子供から老人まで、あらゆる世代に知られた人物です。若い頃は故郷の合肥で学問に励んで、1027年、29歳で科挙試験の進士に合格し、多くの官職/文官を務めた人物です。生前から庶民に人気がありましたが、没後に名声はさらに高まり、特に南宋、元以来、包公故事(伝説)は広く語り伝えられたそうです。その結果、庶民に崇拝される典型的な人物像が作り上げられ、後世の人々に伝えられていったそうです。包公は清官(清廉潔白な官吏)の代表とされたそうです。
クリックすると拡大右の絵の左側には「天性峭嚴断事電掃 關節不到闔羅包老」と書かれています。「闔」に関しては類似の文字を当てています。
  名前 包拯  包公あるいは包青天と呼ばれた。
  生涯 999年(咸平2年 生)~1062年(嘉祐7年 没)
  出身 廬州合肥  現在の安徽省合肥
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銅像の設置された部屋です。


こんな石碑もありました。


こちらの建物も趣がありました。
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真中に石碑があります。
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でも朱色は中国の雰囲気ですね。
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こちらが入口の門です。
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お寺の前の通りです。普通の道です。ほとんどがこんな雰囲気なんです。復元された町並みは沢山ありましたが、昔の古い街並みは少ししか残っていないそうです。京都はもっと昔の街並みが多いですね。


こちらが入場券です。開封の報告は終了しました。開封関係の記事をまとめてみました。タイトルをクリックすると記事を表示します。
クリックすると拡大 開封の生活道路
 開封は鳥を飼う人が多い町でした。
 開封の道教のお寺 延慶観
 開封の歴史 包公祠
 開封で最も有名な寺院 大相国寺
 古都「開封」の行列の出来る肉まん屋さん
 古都「開封」の行列の出来る甘栗屋さん
 古都「開封」の街並み
 平原の太陽
 「東京」と呼ばれた北宋の古都「開封」
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河南省には、中国八大古都のうち、4つの古都があります。殷の都の安陽と、東周から長く都が置かれた洛陽と、宋の都であった開封と、殷の都邑であった鄭州です。
ちなみに中国八大古都とは西安、洛陽(洛阳)、南京、北京、開封(开封)、杭州、安陽(安阳)、鄭州(郑州)です。開封は宋の時代には東京と呼ばれていました。西京に相当する西安は漢代(BC200年)に長安と命名され唐代の7世紀には世界最大の都市に成長しました。西都、西京、大興、中京、京兆、奉元と呼ばれた時期もありました。明の時代から西安と呼ばれるようになりました。
  四大古都 : 西安、洛阳、南京、北京
  六大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州
  七大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州、安阳
  八大古都 : 西安、洛阳、南京、北京、开封、杭州、安阳郑州
左の地図の赤色に塗られた部分が河南省で、右の河南省の地図で橙色に塗られたところが開封市です。河南省の人口は9869万人で中国で一番人口の多い省で、人口密度は591人/km²の省です。開封市の人口は527 万人で、日本の戸田市と伊賀市と伊勢市と下諏訪市の4つの市が姉妹都市となっています。
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ラベル:開封
posted by SORI at 23:09| Comment(10) | TrackBack(2) | 河南省 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

古都「開封」の行列の出来る肉まん屋さん


上海には行列の出来る1個9円の肉まん屋さんがあります。開封の書店街にも行列の出来る肉まん屋さんがありました。値段は一個6円でした。さっそく買って食べました。 

お店を正面の写真も掲載します。看板には「大梁包子館」と書かれていました。読み方は判りません。


お店の中では派手な帽子をかぶったおばさんが仕切っていました。 
町の中を散策した後なので、格別においしく感じました。
ネットで検索してみると住所は「開封市南書店街76號(开封市南书店街76号)」と書かれていました。
ラベル:開封 肉まん
posted by SORI at 18:44| Comment(12) | TrackBack(1) | 河南省 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月30日

古都「開封」の行列の出来る甘栗屋さん

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開封の書店街の中に行列がありました。よく見ると甘栗屋さんでした。さっそく買ってみることにしました。袋も趣きがありました。この甘栗はすごくおいしかったです。値段は500gが8元(152円)でした。以前にも別の町で甘栗を買って食べたことがあります。今回の甘栗はほんとうにおいしかったです。日本まで持って帰りましたがすごく好評でした。行列の出来ることは納得いたしました。

隣も甘栗屋さんでした。混んだ方のお店で買いました。場所は開封市書店街です。お店の看板には「岳記老店」と「蜜制油栗」と書かれていました。制は製の省略文字だと思うので日本語では「蜜製油栗」となるのだと思います。
上の袋には下記のように住所と電話が書かれていました。
 総店:開封市書店街1号(鉸子館)または(餃子館)
 電話:5973325(総店)


甘栗は冷えないように布団をかぶしてあります。熱々です。


製造直売です。ものすごい勢いで造っていました。
ラベル:開封
posted by SORI at 16:37| Comment(12) | TrackBack(1) | 河南省 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日帰り高級ツアー

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今までにインドには13回ほど行きました。すでに一部を紹介していますが、初めてインドを訪問した1992年7月16日から、一年目の1993年7月31日(土曜日)に行ったツアーを紹介いたします。
朝の5時にホテルをバスで出発して帰ってきたのは夜の11時でしたが、行くだけの価値はありました。高級ホテルでの食事付きで全員外人の高級ツアーですが、この時代は3食付きで約2000円でした。
冒頭のヘビ使いの写真はバスの駐車場で撮った写真ですが、みんな遠くから見るだけで誰も近づきません。それはそうでしょう。ここで命は落としたくないでしょう。
写真をクリックすると、皆が遠くから見ていることが判ってもらえると思います。
蛇使いの発祥地はインドで、昔は数十万人もの蛇使いが存在していたそうです。しかしながら、2000年代後半からインド当局が野生生物保護法の適用が厳格化しコブラの捕獲が事実上不可能となっり、警察による摘発も進んだため、2010年代に入るとインド国内からは急速に姿を消したそうです。蛇使いのは、蛇(インドコブラ)が入っているカゴやザルの前で笛を吹き、コブラを音で操るように見せる芸ですが、実際にはコブラは、笛の音ではなく、振動や笛の動きに反応しているのだそうです。

下の写真が22年前の1993年にデリーで泊まったタージマハールホテルです。このホテルからツアーに出発しました。ホテルの写真を撮ったのはツアーの翌日の8月1日でした。右の写真がネットから転用させていただいた現在のホテルです。
デリーで泊まっていたタージマハールホテルで、前日に日帰りツアーを申し込んで、出かけてみました。目的はインドに来たら一度は行って見たいタージマハールです。
タージマハールはシャー・ジャハーン皇帝が、亡くなった王妃のために1632年から22年の歳月をかけて造営されたお墓(廟)だそうです。
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このバスで日帰りツアーに行きました。途中の休憩所での写真ですが、象さんがいました。建物の中でティータイムでした。 
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ツアーメンバーです。インド人がガイドさんです。アジアの女性が台湾人で、その他は欧米人で、フランスの女性が多かったです。男性の少ないツアーでした。
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記念写真を撮ってもらいました。日本人は私だけでした。
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タージマハール 説明は不要ですね。すでに掲載した記事です。→ポチッ
でもみんないろんな言い方をします。 
タージ・マハル タージ・マハール タージマハール タジ・マハル タジマハール
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今回のツアーはタージマハールと下の写真のアーグラ城塞ともう一か所の3ケ所だけの訪問 アーグラ城塞はムガール帝国第3代皇帝アクバルによって1564年から築かれた城だそうです。
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トイレ休憩も兼ねたツアーで定番の製造販売のお土産屋さん 大理石の細工をしているところです。でも細かい細工で一年がかりなのは確かです。もう一軒の土産屋さんは、じゅうたん屋さんでした。
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こちらがインドで買った大理石の飾り皿です。記事はこちらです。→ポチッ
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ニューデリー(New Delhi)のタージマハールホテル/The Taj Mahal Hotel( A )から世界遺産タージマハール/Taj Mahal( B )までの、高速道路が無い時代に我々が車で通ったルートです。片道が204kmで昼食のホテルや他の観光地2ケ所やお土産屋2ケ所に寄っているので450km以上は走っていると思われます。
   タージマハール・ホテル ニューデリー
   タージマハール 世界遺産
   アーグラ城塞   世界遺産
posted by SORI at 06:42| Comment(16) | TrackBack(2) | インド | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月29日

ムンバイのホテルにもツインの洗面台

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スイスのホテルのツインの洗面台の記事で、今までに2回経験があると紹介しました。もう1回がこちらインドのムンバイのフォーシーズンズホテル(Four Seasons Hotel)でした。テレビも大型のものが壁に取り付けてあり普通のシティーホテルよりワンランク上の感じがしました。

ベッド周りも落ち着いた雰囲気でした。
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一番、気に入ったのがこの浴槽です。独立した焼き物の浴槽で広い浴室に独立して置かれていました。容積も大きく、こんな、お風呂に入ったのは、初めての経験でした。 もちろんシャワー室も備えていました。この写真はシャワー室の中から撮りました。
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こちらが、このホテルのツインの洗面台でした。こんなホテルですがインドでいつも泊まるホテルと価格的には同じだったのに感激いたしました。


日本人を意識しているようで衣装室の中には右の写真のように「ゆかた」が置かれていました。もちろん洋式の浴衣も浴室には用意されていました。ちょっとインドとは思えないホテルでした。

さらに到着した日には、下の写真のようにテーブルの上に御寿司と、お醤油が置かれ、2通の手紙が添えられていました。料理長からの手書きの手紙でした。一つが日本語でもう一つが英語で書かれていました。このあたりの気配りがさすがです。
日本語が出来ない日本人もいることを想定しているようです。インド便は遅く着くので食事には出ないことからすごくいいサービスです。

次の日の夕食には、ついこのホテルの日本食を食べに行きました。日本人の料理長の直筆の手紙が入っていると、やっぱり食べに行きたくなります。
料理長に会って見ようと、呼んでもらうと残念ながら、この日は出張のため会えませんでした。


上の御寿司が気になると思い拡大しました。長く部屋に置かれることもあるので、生ものは使われていませんでしたが、海苔とゴマの御寿司でした。寿司飯の具合もよくて美味しくいただきました。
ラベル:ホテル ムンバイ
posted by SORI at 05:16| Comment(22) | TrackBack(1) | インド | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月28日

「二八蕎麦」の由来は語呂合わせ?

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先日、武田尾温泉に行くために成田⇔伊丹で乗った飛行機の機内誌の中に興味深いことが書かれていたので紹介します。機内誌から転用させていただいた写真は戸隠在来種を使った、ぼち盛りのざる蕎麦だそうです。

現在、よく食べられている麺状の薄く延ばして細く切る「蕎麦切り」は江戸時代に誕生したそうです。現在でも人気なように美味しい上に、手軽に食べれることが粋な江戸っ子気質に合ったようで、江戸の市中には蕎麦屋や屋台が続々と開店しました。蕎麦屋や屋台が描かれた浮世絵が沢山あるのは蕎麦が江戸の文化の一つになっていたことを示している気がします。蕎麦切りの発祥の地は甲州または信州と言われていますが、江戸で花開いたと言えると思います。粋な江戸っ子たちの人気の食べ方は、鰹節と濃口醤油で仕上げたつゆに細切りにした蕎麦をさっとつけてすすり、咽喉しのよさを楽しむことであったようです。浮世絵の2段目の左端の絵は「大江戸芝居年中行事」です。浮世絵「大江戸芝居年中行事」は安達吟光の作品で江戸三座のひとつ「市村座」の前に出ている蕎麦の屋台を描いたものです。屋台の横で男性が食べているのは江戸時代中期に始まった「かけ蕎麦」だと思われるそうです。
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クリックすると拡大江戸時代に描かれた浮世絵には、蕎麦屋や屋台の看板に「二八」の文字が散見されます。ここでは「二八」と書かれた浮世絵をネットから12枚集めてみました。
その中に右の絵「山海名産尽信濃蕎麦」の中にあるように「二六」と書かれた浮世絵もありました。「三五」と書かれたものもあるそうです。「二六」や「三五」は足算しても10になりません。
クリックすると拡大二八蕎麦というと、現代では蕎麦粉8割に対して、つなぎの小麦粉2割で打った蕎麦を指していますが、当時は蕎麦の一人前の値段がおおむね16文だったことから「2×8=16」の語呂合わせで代価を表していたとも言われています。あまりにも二八と書かれた蕎麦屋が多いのも、その説の信ぴょう性を裏付けている気がします。さらには12枚の浮世絵の中にも「二八」の看板には、小麦粉だけで作るクリックすると拡大クリックすると拡大うんどん(うどん)」の文字も複数枚見受けられることや、右の絵のように「二六」の看板を揚げる蕎麦屋があることも語呂合わせ説の有力な理由になっています。
ちなみに「二六」は12文(=2x6)で「三五」は15文(=3x5)を表していることになります。江戸時代の平均貨幣価値が1文=16.5円とすると16文は264円で、12文は198円で、15文は248円ということになります。
「二六」と書かれた「山海名産尽信濃蕎麦」は一勇斎国芳が文政末期(1830年ごろ)に描いたもので、左手の看板に「信州名物二六」とあるように「二六蕎麦」であることを表しているようです。この作品の描かれた江戸時代から信州(長野)が蕎麦の名産地であったことがうかがえる作品となっています。下の2段目の右側の浮世絵は三代・歌川豊国が安政6年(1859年)に製作した「二八そば」です。
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徳川家康が江戸幕府を開いた1603年には江戸は数万人程度(1600年:6万人)の町で、20年後においても京都の人口に遠く及びませんでしたが、その後も増え続けて1640年頃に京都に追いつき、1695年 には人口は85万人に達し、18世紀に100万人に達しました。その後も増え続けて二八蕎麦が町中に溢れていた1837年には128万人となり、 欧州最大の都市ロンドンの85万人を大きく上回り、世界最大級都市になりました。   江戸時代 : 1603年~1868年


蕎麦のつなぎに小麦粉を加えるようになったのは元禄年間以降ではないかと言われています。初期の蕎麦切りは蕎麦粉100%のため、お湯で茹でると、麺が切れやすいことから蒸籠(せいろ)で蒸すのが一般的だったようです。現在、もり蕎麦やざる蕎麦をセイロに盛り付けるのは、このセイロで蒸していたころの名残だとも言われています。下記の写真は蕎麦ではありませんが、内モンゴルで有名な莜麦を麺にして食べる莜面(ゆうめん)です。この「ゆう面」はセイロで蒸して出されるので、蒸籠で蒸して出される麺の例として掲載させていただきました。写真をクリックすると「ゆう面」の記事を掲載いたします。
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今回の記載内容はJALの機内誌 skyward 2015年10月号 82~83ページを引用させてもいただきました。「二八そば」はごく自然に使われていたことから、語源の根拠が後世に残らずに忘れさられてしまったようです。ただし、最初の語源は判りませんが、浮世絵に「二八そば」が頻繁に書かれるようになった江戸時代後期は「二八そば」は気楽に食べれる安い蕎麦(駄そば)の代名詞になったのは間違いなさそうです。現代で二八蕎麦は高級蕎麦の代名詞なのとは違いがあります。
画面をクリックすると鮮明な画像でオリジナルの文章を読むことが出来ます。

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ラベル:浮世絵 二八 蕎麦
posted by SORI at 12:15| Comment(24) | TrackBack(1) | 蕎麦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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