2014年07月31日

累積nice数が20万に到達いたしました。 ありがとうございました。

2009年5月5日にブログを始めて、もうすぐ5年3ケ月となる2014年7月30日に累積nice数が20万に到達したことを報告申し上げます。これはすべて皆様のおかげです。お礼申し上げます。
そして20万nice目はtsunさんでした。ありがとうございました。
 199,999 ぶらり爺 さん 爺のぶらり日記
 200,000 tsun さん   チンチコチンでトキントキン、時々ダランダラン
 200,001 (た) さん    機能の黒板みたび

下のグラフは累計アクセス数と累計nice数の推移です。2014年7月30日12時10分時点のアクセス数とnice数などの数値は以下の通りです。
     累計アクセス数 5,577,577件
     累計nice数     200,001件
     niceと思った人     7,654人
     読者数           318人


一日当たりアクセス数とnice数をグラフにしたのがこちらです。最初の数ケ月はniceがいただけませんでした。一日のnice数は直接に集計できないので累積niceの数日分の増加から一日のnice数を算出してプロットしています。従って移動平均化されています。


一日当たりアクセス数と訪問者数のグラフも紹介いたします。日によって、ばらつきます。2009年5月5日からの全データーをプロットしています。従って2014年7月30日の時点で、それぞれ1912点以上がプロットされています。


こののグラフは2009年5月からの月あたりのアクセス数と訪問者数の推移です。2012年11月に手違いで掲載記事をすべて削除してしまい2013年1月1日に再開いたしました。そのためにアクセス数と訪問者数が落ち込んでしまいましたが、1年以上が経過して、やっと記事を削除してしまう前の状態に近づきました。ミスで削除してしまった記事も完全には消えていないことが判ったために、ブラシュアップをしながら再掲載をしています。


このグラフはYahooやGoogle等の検索エンジンによる月あたりのアクセス数です。最近はYahooからの検索が増えていることが判ります。


検索エンジンの比率が判るように円グラフにいたしました。検索によるアクセス数はYahooとGoogleが大部分を占めていることが判ります。
本集計はSo-netのアクセス解析によるもので、実際には、本数値よりも多い可能性がありますが、傾向に関しては参考になると思います。
パーセンテージ(%)で表現すると次のようになります。
Googleが減ってYahooが急速に増えているのが判ります。スマホからのアクセスが増えてきているのと関係がある気がします。
       累計   '14年6月
 Yahoo 69.22% 91.44%
 Google 29.49%  7.54%
 goo    7.57%  0.55%
 biglobe 0.25%  0.21%
 excite  0.29%  0.25%
近いうちに検索エンジの変化も詳しく調べて掲載したいと思います。ブログ閲覧ツールの変遷も2009年から2012年までを紹介したことがありますが、その後も調べてみたいと思います。

こちらは2014年7月30日23時59分のアクセス状況です。
ラベル:アクセス数 nice
posted by SORI at 20:10| Comment(76) | TrackBack(1) | SNS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月30日

キエフの朝の景色



この日は昼の便でヘルシンキ経由で日本に帰る日でした。前日は夜遅くまでキエフの町の中を散策しましたが、キエフをさらに見るチャンスは朝の散歩のため朝早く起きて街に出てみました。ホテルを出たのは4時55分でした。上の写真はホテル前の道ですがさすがに車は通っていませんでした。ホテルは急な坂道の途中にあり、この坂道を登っていきました。

朝早いと車が通っていないので道の真中からの写真が撮れるメリットがあることがわかりました。急な坂道を登りつめてホテルの方向を見下ろしているところです。


坂道を登りつめると、そこから先は全て石畳でした。ホテルの前の急な坂道は、まさにキエフの世界に入っていく入口だったのです。ここからさらに石畳の緩い坂道が続いていました。
 同じ場所のGoogleのストリートビュー→ポチッ


そこからさらに石畳を登っていくと世界遺産がある町並みが待っています。その場所は高級オフィス街でも有り、この道を歩いて通勤する人も沢山いるとのことでした。


石畳がどこまでも続きます。石畳の場合は道路の真中で写真を撮っていても安心感あります。実は車が近づいてくると大きなタイヤの音がするので車の位置が見ていなくても把握できるのです。


石畳の上り坂はまだまだ続きました。


さらに登りが続いていましたが、ほぼ丘の上に到達いたしました。
 同じ場所のGoogleのストリートビュー→ ポチッ


登りつめたところで左に曲がりました。さらに石畳が続いていました。朝だから、全て道の真中から写真を撮ることが出来ました。帰る時間帯は車が増えてきて、さすがに車道に出ることは出来ませんでした。


石畳の最後の目的地は前日の夜景で紹介した世界遺産の聖ソフィア大聖堂でした。ここでも車道の真中から写真を撮ることが出来ました。でも車が少しづつ増えて来たので、この日、車道の真中から撮った最後の写真となりました。時間は5時42分でした。キエフの朝の景色は石畳でした。
posted by SORI at 14:49| Comment(18) | TrackBack(3) | キエフ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

これはなに? コアラ?


クリックすると拡大
クリックすると拡大帰国の日の早朝にウクライナの首都キエフの町を散歩しているときに教会と思われたGolden Gate(Золоті ворота / 黄金の門)の敷地内の木に、変わったものが取り付けてありました。コアラのような生き物のお人形ですが独特の風合いがありました。
伝統的なものなのか現代アートなのか単なる飾りなのかはわかりませんが楽しい雰囲気がありました。

鳩たちを撮った写真にも不思議な人形が写っていました。階段の奥に教会があります。これが古代キエフ帝国のGolden Gateだったのです。


不思議な人形があった場所の航空写真です。
右側の が不思議な人形の場所で左側の がGolden Gateです。写真内のアイコンを数回クリックすると、この位置が判ってくると思います。アイコン「地図」をクリックすると航空写真から地図に切り替わります。

より大きな地図で 不思議な人形 表示
Googleのストリートビュー(S.V.)でも不思議な人形を確認することができました。黄色の丸印が不思議な人形です。この画像はストリートビューのハードコピーです。


写真を拡大してみるとプラスチックのフォークで作られた人形であることがわかりました。少なくとも伝統的なものではなさそうです。
しいて言えばプラスチック・フォーク・アートかな?
洒落心のある神父さんの、しわざかもしれません。
posted by SORI at 05:14| Comment(18) | TrackBack(4) | キエフ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月29日

ログハウスな教会 と思ったら

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると拡大
早朝にキエフの街の裏通りを散策中に不思議な教会を見つけました。
あの不思議なフォークのコアラ(?)があった場所です。なにが不思議かと言うと真中は石造りですが左右は木で出来ていることでした。それもログハウスのようなつくりでした。

ログハウスの雰囲気を判ってもらうために正面からの写真も追加掲載いたしました。
十字架が屋根の上に建てられており左右対称なところが教会らしい感じです。
クリックすると拡大

真横から撮ると完璧にログハウスでした。子供が喜びそう(?)
クリックすると拡大

教会の敷地の真中に、今回の不思議な教会がありました。右側の青いマークの場所に不思議な人形(コアラ?)があったところです。赤のラインは裏通りを散策したコースです。ストリートビュー(S.V.)でも確認できました。
地図の中ではЗолоті ворота(Golden Gate)と名付けられていました。日本語訳を読んでみるとどうやら中世の城壁の門だったようです。
  S.V. http://goo.gl/maps/Y17dy

より大きな地図で キエフの町を散策 を表示
地図の中の呼び名Золоті воротаからネットで調べた結果、下記の町を守る城壁の中央の城門の部分であることが判りました。歴史的建造物を復元していたのです。
Золоті ворота(黄金の門)はウクライナの首都キエフの歴史的地区にある史跡で、キエフ大公国時代のキエフの中央門だそうです。
文献「原初年代記」によれば、1037年にヤロスラウ賢公がキエフを開発し、町の境界線に土塁を盛り、その上に城壁を作らせ、西へ向かう入り口に大門を構築したそうです。この門の名称は、当時の欧州にとって文化の源であったビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスの門にちなんで、「黄金の門」と呼ばれたそうです。キエフの黄金の門は土塁の間に大きな赤色の煉瓦と石で造られ、塔のように聳え立っていました。
キエフはキリスト教の町であることを見せるために、門上に受胎告知教会が造られました。それで屋根の上に十字架が立てられていたようです。1240年に黄金の門は、モンゴル帝国の軍勢によって破壊され、それ以後再建されることがなかったそうです。門の跡は完全に土に埋まっていましたが1832年のK・ロフヴィーツィクィイは発掘調査を行い史跡として保存したそうです。
現在の黄金の門は1982年に復元されたものださうです。
クリックすると拡大

クリックすると拡大建物の内部の写真があったので転用して紹介させていただきます。クリックすると拡大するように設定させていただきました。
門の入口の広さは約7.5mで、門内はモザイクと壁画によって装飾されており、壁の高さは9.5m以上であったそうです。形式は東ヨーロッパの古代建築様式だそうです。
 住所 40-a Volodymyrska str. Kyiv
 電話 044-278-6919
 開館 火曜~日曜
 時間 0:00~17:00
 HP  http://goldengate.sophiakievska.org/uk/

ここにも銅像が飾られていました。よく見ると銅像の人が持っているのは、この建物のようです。キエフは本当に銅像が多い街でした。
posted by SORI at 19:20| Comment(32) | TrackBack(2) | キエフ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月28日

裏通りの銅像



ウクライナの首都キエフの街の中には沢山の銅像がありました。裏通りを歩いていて見つけたのが上の銅像です。ちょっと不思議な雰囲気の銅像なので近づいて見ました。

馬に乗り手には剣を持っていますが服装が変わっています。なんとなくアジアの雰囲気があります。


クリックすると台座の文字頭も変わっています。頭髪を一部を残して剃りあげ、残りの毛髪をチョンマゲのようにしています。丁髷(ちょんまげ)と違うのはまっすぐなところです。その髪の毛を三編にすると北東アジア民族の辮髪(べんぱつ、弁髪)ですが、三編ではないようです。この人物が何者なのか知りたいところですが、台に書いてあるウクライナ語はわかりませんでした。いつの日が教えてくれる人が出てくることを願って掲載いたしました。
剣が日本刀のよう反りがあるのも特徴的でした。


ウクライナ語を読んでくれる人が出てくることを願って台座の文字も掲載いたします。


銅像が立っていた場所は青いマークのところですが、マイナスのアイコンを何度かクリックすると町の中の位置がわかってくると思います。ストリートビューでも確認できました。銅像でも自動的に顔に「ぼかし」が入っていました。→全体 顔拡大

より大きな地図で キエフの町を散策 を表示

追伸
クリックすると拡大ネットで調べていて右の写真を見つけました。このスヴャトスラフ1世の銅像に似ていることから、上の銅像はスヴャトスラフ1世に間違いないと思います。そして、その髪型の名前もオセレーデツィの可能性が高いこともわかりました。右の写真はネットで見つけたスヴャトスラフ1世の銅像でクリックして拡大するとわかりますが雰囲気が似ています。スヴャトスラフ1世(Святослав Ігорович 942年頃~972年)はキエフ大公国の大公(在位945年~972年)でした。945年に父イーゴリ大公は冬の巡回徴税の最中にドレヴリャネ族よって殺害されて、スヴャトスラフ1世は幼くして大公となりました。964年に成年に達しからは積極的な拡大政策を展開しはじめて多くの戦争において常に戦陣に立って戦うことを好む君主であったそうです。
チョンマゲのような髪型はオセレーデツィ(Оселедець)と呼ばれてウクライナ・コサックの伝統的な髪型だそうです。近世にはチューブあるいはチュプルィーナと呼ばれたそうです。オセレーデツィの由来について二つの仮説が存在するそうです。一つが欧亜の遊牧民の辮髪に類似することからアジアに起源を持つ説です。もう一つが北欧のルーシ族の髪型の一種でヨーロッパに起源を持つ髪型である説です。この2つではアジア起源説が有力とされています。

キエフ大公国は9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家でした。下記の地図の赤い部分がキエフ大公国の勢力範囲を示しています。正式な国号はルーシ(Рѹсь)で、日本語名キエフ大公国はその大公座の置かれたキエフに由来するそうです。ルーシ族と呼ばれる北欧系のヴァイキングによって建国され、リューリク朝によって統治されたそうです。10世紀までに同地の東スラヴ人との混血によってスラヴ化し、キリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となったそうです。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つでしたが12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退していきました。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊したそうです。国民国家史観を中心とした研究史においては、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの三国の共通の祖国とされています。
クリックすると拡大

この地域の国の歴史です。
 7c–13c   ヴォルガ・ブルガール
 7c–10c   ハザール
 9c–12c   キエフ大公国
12c–14c   ウラジーミル・スーズダリ大公国
12c–15c   ノヴゴロド公国
13c–15c   タタールの軛
1340–1547 モスクワ大公国
1547–1721 ロシア・ツァーリ国
1721–1917 ロシア帝国
1917      ロシア臨時政府 / ロシア共和国
1917–1991 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国/ソビエト社会主義共和国連邦
1992–現在  ロシア連邦 + ウクライナの一部
Sviatoslav_oseledec(Sviatoslav I)で検索して出てきた銅像です。
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大
posted by SORI at 22:27| Comment(14) | TrackBack(0) | キエフ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

マレーシア航空撃墜事件後のウクライナ上空の飛行機

画像の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
クリックすると広範囲を表示します。
ウクライナで墜落したマレーシア航空に乗っていた乗客乗員の方々のご冥福をお祈りいたします。マレーシア航空が撃墜されて18時間後の2014年7月18日16時20分(日本時間)のウクライナ地域の飛行機の位置を上に表示してみました。画像をクリックすると広範囲を表示します。実は撃墜された場所に近い地域に行ったことがあったので本記事を掲載させてもらいました。
世界中の飛行機の飛んでいる場所をフライトレーダー(Flightradar24)というサイトで確認することが出来ます。ウクライナでのマレーシア航空が撃墜されたことで、各国の航空会社がウクライナの戦闘地域の上空をさけたルート(航路)に変更したことで、どのようになったのかを確認するためにウクライナあたりの飛行機の位置を表示してみました。
過去と比較は出来ませんがウクライナの上空を飛んでいる飛行機は少ないように感じます。赤丸は墜落位置です。墜落した場所は、下の2010年の大統領選挙の勢力地図でも判るように親ロシア派の地域です。ウクライナ東端の国境地域では明らかにウクライナ上空を避けて飛んでいるように感じられます。

下が2014年7月18日18時30分(日本時間)の飛行機の位置です。上の画像から2時間10分後ですが、こちらの方が明らかに墜落地域を避けていることが判ります。
   フライトレーダー      → ポチッ Flightradar24
   リアルタイム航空便追跡 → ポチッ Flight Aware


こちらは2014年7月19日4時20分(日本時間)の飛行機の位置です。クリックすると2014年7月19日5時12分(日本時間)の飛行機の位置を拡大画像で表示します。事件のあったDonetsk辺りは飛行機が飛んでいないことが判ってもらえると思います。
クリックすると拡大

墜落したマレーシア航空のアムステルダムからの飛行ルートです。



こちらはネットから転用させていただいたウクライナに入ってからの飛行ルートです。
赤色の破線はアムステルダムとクアラランプールを結ぶ直線(最短)コースです。協定世界時(UTC)12時8分から撃墜寸前の13時21分(日本時間22時21分)までの飛行機の位置を動画で表示しています。


墜落した時刻2014年7月17日22時22分(日本時間)のフライトレーダーの画像がネットに掲載されていたので転用します。
協定世界時(UTC) では7月17日13時22分(日本時間-9時間)となります。
画面にMH17と書かれた赤色の機影が撃墜されたMH17です。この時、シンガポール航空SQ351便と、エアインディアAI113便が近くを飛んでいたことが判ります。この画像を引用したツイートにはSingapore Airlines SQ351 (B777) and Air India AI113 (B787) were about 25 km from #MH17 when it disappeared.と書かれていました。緑色の丸が地対空ミサイルが発射された場所です。
ロシアの領空を飛んでいるS71024SU1104SU1124NN355UN9885N41909QD106R39725はモスクワ発着のロシアの航空会社の飛行機ですが、最短コース(直線コース)であればウクライナの上空を飛ぶことになります。以前からこのコースなのか、紛争後に、このコースに変更したのかは、知りたいところです。
驚いたことに、1ケ月前からウクライナ東部の、この地域を飛ぶ飛行機が減ってきていたことから、撃墜のリスク回避を行っている航空会社も多かったと想像されます。1ケ月前と言えばウクライナ空軍のイリューシン76輸送機が親ロシア派武装勢力によって撃墜された2014年6月14日のころです。さらにカンタス航空(オーストラリア)、大韓航空(韓国)、アシアナ航空(韓国)、中華航空(台湾)は数ケ月前からルートを変更していたそうです。安全と経済性のバランスに対する考え方は航空会社によって差が見られるようです。
クリックすると広範囲を表示

2010年の大統領選挙の古い資料ですが親ロシア派の地域が判りやすいと思い掲載いたしました。枠内は2014年7月18日の報道内容です。
ウクライナ東部のドネツク州のロシア国境近くで2014年7月17日夕(日本時間22時20分)、マレーシア航空の17便(MH17)のボーイング777型旅客機が墜落した。イタル・タス通信はロシア航空当局者の話として、乗っていた295人が死亡したとみられると伝えた。現場ではウクライナ政府軍と親ロシア派武装勢力による激しい戦闘が続いており、撃墜されたとの見方も出ている。


こちらの画像は2012年9月22日4時20分(日本時間)に世界を飛んでいる飛行機を表したものです。過去の画像のハードコピーを探しました。残念ながらウクライナあたりの画像は残っていませんでしたが、記事「えっ 町の中に飛行機が!!」を掲載した時に世界全体の画像のハードコピーを残していました。画像はクリックすると拡大するので多少はウクライナあたりが確認しやすいかもしれません。
クリックすると拡大

上の2012年の画像はクリックすると拡大しますがクリックするのが面倒な方のために拡大画像を掲載いたしました。赤丸が2014年7月17日にマレーシア航空MH17が撃墜された位置です。ウクライナの政情が不安になる前は同じように沢山の飛行機が飛んでいた想像されます。
クリックすると全体表示

こちらが墜落18時間後の2014年7月18日16時20分(日本時間)の飛行機の位置です。判りにくいのですが上の2012年の画像に比べるとウクライナあたりの飛行機が少ないように感じられます。4時20分の時間帯の画像も明日には追加したいと思います。
クリックすると拡大

こちらは墜落30時間後の2014年7月19日4時20分(日本時間)の飛行機の位置です。時間帯の差もあるかもしれませんが、時間が経過するほど飛行機が減ってきています。2012年9月22日の時と同じ時間の画像です。こちらでは黒海の少し北のウクライナの上空に飛行機が飛んでいないことが判ります。2012年の同じ時間帯の画像と明らかに違います。
クリックすると拡大

上の2014年の画像はクリックすると拡大しますがクリックするのが面倒な方のために拡大画像を掲載いたしました。赤丸が2014年7月17日にマレーシア航空MH17が撃墜された位置です。類似縮尺の2012年の拡大写真と明らかに違います。ウクライナだけでなく黒海やクリミヤ半島も機影に隠れることなく見ることが出来ます。2012年の画像では沢山の機影に隠されてウクライナや黒海を見ることが出来ませんでした。


比較のために再度2012年の拡大画像を表示します。


参考に乗員・乗客の内訳を記載します。MH17便はKLMオランダ航空とのコードシェア便(KL4103便)であり、オランダ人の乗客が多く乗っていました。
本データーはフリー百科事典Wikipediaに記載されていました。

マレイシア機(MH17)が地対空ミサイル(BUK / SA-11)によって 撃墜され、墜落したウクライナ・ドネツィク州グラボベ村の近くの地図です。この辺りでは約1ケ月間の間にウクライナ軍のヘリコブターや2機の輸送機が撃墜されていました。
クリックすると拡大いずれも親ロシア派武装勢力よるもので、緊迫した状況にあったと言えます。また6月14日の撃墜は空港近くでロケット砲により撃墜でしたが7月14日の撃墜は6500mの高い高度を飛行中の輸送機が地対空ミサイルで撃墜されており、マレイシア航空のMH17が撃墜された場所は非常に危険な地域であったと言えます。右の写真が地対空ミサイル(BUK missile system)です。
正確ではありませんがその場所をGoogle地図にプロットしました。青色枠は地対空ミサイルが発射されたと発表された地域です。
 2014年6月14日 ウクライナ空軍 Il-76輸送機 撃墜  ルガンスク
 2014年7月14日 ウクライナ空軍 An-26輸送機 撃墜 トレーズ市近郊 
 2014年7月17日 マレーシア航空 MH17便 撃墜    グラボベ村近郊
  2014年7月17日 マレーシア航空 MH17便 飛行ルート
 2014年7月17日 ミサイル発射地域(トレーズ市とスニジネ市の間)
グラボベ(又はグラボボ)村はウクライナ語でГрабове、英語ではHraboveです。
過去にも民間航空機の撃墜事件がありました。
   1983年09月01日 ソビエト連邦    大韓航空007便   
   1988年07月03日 アメリカ      イラン航空655便  誤射
   2001年10月04日 ウクライナ     シベリア航空1812便 誤射 
   2014年07月17日 親ロシア派武装勢力 マレーシア航空17便  
     マレーシア航空撃墜事件に関する詳しい説明→ポチッ

より大きな地図で ウクライナ・ドネツィク州グラボベ村 を表示
ここが墜落場所です。今までは近傍(500m)にマークをしていましたが、公表された墜落の衛星写真から、正確な位置に赤色マークを移動させました。


こちらがマークを正確な位置に移動するのに参考にした公表された7月20日の衛星写真です。


フライトレーダーでマレーシア航空の飛行機だけを表示されました。
画面は2014年7月19日22時42分(日本時間)です。撃墜された22時22分に近い時刻です。MH17が予定通りに飛び立っていれば黒海に近いところを飛んでいるはずでしたが、出発が遅れて、この時点では、まだアムステルダムを飛び立っていなかったためにロンドン便のコースを表示させました。
ロンドン発のMH 3便(LHR→KUL)とクアラランプール発のMH 4便(KUL→LHR)ですが、ウクライナ上空を通らないコースに変更されているのが判りました。
クリックすると拡大

4時間15分遅れでアムステルダムを飛び立ったMH17の2014年7月20日2時50分(日本時間)の位置とアムステルダムからのコースです。ロンドン便と同じようにウクライナを避けて黒海の南側のコースを通っています。MH17はフライトレーダーの画面ではMAS17と表示されました。
クリックすると拡大

こちらはクアラランプール到着寸前の2014年7月20日10時46分(日本時間)の画像です。この瞬間に空中にある飛行機とMH17の飛行コースを同時に表示いたしました。クリックするとわかりやすいと思います。赤丸が2014年7月17日にマレーシア航空MH17が撃墜された位置です。
クリックすると拡大

コースが判りにくいのでマレーシア航空だけを記載させました。MH17が飛行したコース上に他のマレーシア航空の飛行機が5機も飛んでいます。ヨーロッパ線はヨーロッパ近隣以外は同じ飛行コースを通ることが判りました。つまりマレイシア航空のヨーロッパ線の飛行機は、すべて撃墜される可能性があったわけです。今はすべてウクライナは回避しています。
MH17が撃墜された場所から僅か12kmのトレーズ市近郊でウクライナの空軍のAn-26輸送機が 撃墜された3日前の7月14日の時点でMH17の飛行コースを下記の飛行コースに変更する判断するマレイシア航空のトップの人材がいなかったことが悔やまれます。
クリックすると拡大

クリックすると拡大ウクライナの国内で、私が今回の撃墜事件の場所に最も近くに行った町がドニプロペトロウシク ( )でした。この時は首都キエフとドニプロペトロウシクを右の写真の飛行機で往復いたしました。地図の中のがマレーシア航空の民間機やウクライナ空軍の輸送機が親ロシア武力勢力によって撃墜された場所です。撃墜事件があった場所からドニプロペトロウシクは260km離れています。今回、使用された地対空ミサイルは射程が30~35kmなので射程外です。

より大きな地図で ウクライナ国内 飛行ルート を表示
MH17撃墜事件前と後でFlight Awareのサイトを使って飛行ルートがどのように変わったのかを比較してみました。比較したのはマレーシア航空です。MH17便と撃墜時刻に近くを飛んでいたシンガポール航空SQ351便と、エアインディアAI113便です。クリックするとわかりやすいと思います。撃墜事件前の画像はクリックすると撃墜事件前の2例を表示ます。赤い点がMH17の撃墜された場所です。

MH17便は撃墜事件後はすでに紹介している通り黒海の南側を通るルートに変更されました。変更前の7月18日以前の飛行ルートは偶然にも地対空ミサイルの設置場所の真上だったのです。7月17日も計画通りのルートを飛んでいたようです。
 MH17便7月16日計画ルート        MH17便7月24日計画ルート
クリックすると拡大クリックすると拡大

SQ351便は撃墜事件当時はウクライナ上空を飛んでいましたが、本来のルートはロシア領空を通るルートでした。撃墜事件後も類似のルートですがウクライナから少し遠いルートに変更されました。
 SQ351便7月17日計画ルート       SQ351便7月25日計画ルート
クリックすると拡大クリックすると拡大

AI113便は事件前はMH17便に近いルートでしたが撃墜事件後は大きくウクライナから離れたロシア領空を飛ぶルートに変更されました。AI113の7月17日以前の飛行ルートは地対空ミサイルの設置場所の少し北側を通る計画ルート通りでした。
 AI113便7月17日計画ルート        AI113便7月19日計画ルート
クリックすると拡大クリックすると拡大

マレイシア航空MH17便が地対空ミサイルにより撃墜されて墜落寸前の動画が2014年7月18日にYouTubeに掲載されていました。
人が乗っていると思うと、見るのはつらい映像ですが、皆さんに現実を知っていただきたくて、あえて掲載いたしました。
機体の右側が炎上しています。地対空ミサイルが発射された方向です。機体の右側の少し離れた場所でミサイルが爆発したと想定されていることとも一致した状況です。
撮影開始から20秒後に爆発音が入っています。高度10kmで飛行していたことから、撮影位置からミサイルの爆発位置までは最低で10km離れていることになります。真上が一番近いからです。撮影場所とミサイルが爆発した位置までの距離が仮に12km(10km)だとすると爆発音の35秒(29秒)前にミサイルが爆発したことになります。つまりミサイル爆発から15秒(9秒)後から撮影が開始されたことになります。
と記載しましたが最近タイトルが「Watch Ukrainian Military Plane An-30 Shot Down & Falling by SA-7 Missile - incredible video 」に変更されました。墜落機種はAn-30と書かれていることから、どうやらこれも偽映像だったようです。タイトルにAn-30と書かれていますが2014年7月14日にウクライナ空軍の輸送機An-26が撃墜された時の映像かもしれません。


こちらはYouTubeから切り取った墜落してすぐの画像です。
右の画像は左の画像から20秒後の画像です。
クリックすると動画クリックすると動画

偽(にせ)の動画もあるので注意が必要です。マレーシア航空MH17便(B777-200ER) はエンジンが2つですが、こちらの動画の飛行機はエンジンが4つの上に、右側のエンジンから火が出ていません。
さらに高度1万mから墜落してきたとは思えないゆっくりなスピードです。タイトルには「マレーシア航空機 撃墜の瞬間 ウクライナより」と書かれていますが、明らかに別の墜落映像です。調べてみると、B747-400型機(ナショナル・エアラインズ102便 貨物機)が2013年4月29日にアフガニスタンの空港で離陸直後に急激な重心移動により失速して墜落したところを偶然に車のドライブレコーダーが撮影していたものでした。→ポチッ


下の写真をクリックすると、削除された上の動画のオリジナル動画(B747-400墜落)を表示します。
クリックすると動画を表示
posted by SORI at 17:57| Comment(42) | TrackBack(6) | ウクライナ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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