

こちらが日光東照宮の徳川家康が埋葬されているの墓の上に建てられた宝塔です。拝殿なども含めて奥宮あるいは奥社と呼ばれており日光東照宮の中でも標高の最も高い位置になります。徳川家康は元和2年(1616年)に駿府で数え年の75歳(満73歳)で亡くなり、家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て元和3年に江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬されました。それが現在の日光東照宮なのです。久能山東照宮は今も徳川氏祖廟として尊ばれています。
徳川家康
生誕 天文11年12月26日(1543年1月31日) 470年前
死没 元和
2年
4月17日(1616年6月
1日) 397年前 満73歳(数え75歳)
改名 竹千代(幼名)→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康
1543年~ 1555年・元服~ 1563年~ 1567年~
神号 東照大権現
戒名 安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士

徳川家康は死後の処置に関して下の遺命(遺言)を残しました。勧請とは神仏の分霊を他の地にも祭ることです。
右の狩野探幽により描かれた家康の肖像画はWikipediaから転用させていただきました。
1.遺体は駿河の久能山に葬ること
2.葬式は江戸の増上寺で行うこと
3.位牌は三河の大樹寺に立てること
4.一周忌後に下野の日光山に小堂を建て勧請すること
こちらが陽明門(

)から奥宮(

)までの参道(

)です。

陽明門 →

眠り猫 →

坂下門 →

奥宮拝殿
眠り猫から奥宮まで順番に紹介します。

奥宮への入口にあたる東回廊にある入口で、この入口の上に「
眠り猫」の彫刻があることで有名な場所です。入口の奥に坂下門があるのが判ってもらえると思います。ここから奥宮への石段を登り始めます。

こちらが坂下門です。右側の立て看板には「坂下門 この門を潜り石段を約二百段登ると家康公の御墓所奥宮がある。」と書かれていました。
正確な石段の数知りたいところです。坂下門からの石段の段数として一番多い表現が「約200段」で、次に多い表現が「207段」でした。眠り猫の位置と坂下門の間にも数段の石段があります。江戸時代には、坂下門は将軍しか入れなかった「開かずの門でした。奥宮が一般に公開されたのは1965年からだそうです。
全体的には清楚な感じですが柱や天井の金具は七宝焼の上、軒下の欄間には鶴などの彫刻がありました。

石段の上から見た坂下門です。

坂下門から少し進むと長い行列になっていました。待たされながら一歩一歩進むので奥宮に着くまでかなりの時間を要しました。撮った写真の時間で確認すると坂下門を潜ったから拝殿に着くまで16分を要しました。200段を普通に歩けば3分弱だと思うので待たされながら進んだことが判ってもらえると思います。もし自分で石段の数を数えるとすれば、待たされない下りで数える方が楽だと思います。

石柵は石をくり貫いて作ったものだそうです。

石段は結構な幅がありますが一段毎に一枚石を用いられています。やっと奥宮の鳥居が見えてきました。

鳥居近くから見た石段です。

鳥居には徳川家康の神号「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」が書かれていました。鳥居は最初は石製でしたが1683年の大地震で破損して唐銅鳥居にかえられたそうです。

鳥居の横には1654年創建の御宝蔵がありました。案内板によると、御宝蔵には朝廷から家康公並びに東照宮におくられた官符宣命等の文書を収められていたそうです。

御宝蔵の屋根の部分は青銅で包んである感じでした。

御宝蔵の脇から、やっと奥宮の拝殿が見えてきました。

拝殿に昇る最後の階段の両脇には狛犬が置かれていました。2体の狛犬は松平右門大夫正綱と秋元但馬守泰朝の二人から寄進されたもので二人は徳川家康の遺臣であり、寛永年間の奥宮造営の功により特に奉納を許されたそうです。こちらが右側の狛犬です。

こちらが左側の狛犬です。頭の真中に角がある狛犬でした。
角がある狛犬は珍しいと思われがちですが、元々は2体のうち1体には角がありました。1体は角がなく口を開いた阿形(あぎょう)で、1体は角があり口を閉じた吽形(うんぎょう)と呼ばれていました。阿(あ)と吽(うん)は、息がぴったり行動することを「阿吽の呼吸」といわれている由来にもなっているそうです。昭和時代以降は左右ともに角が無いものが多くなったそうです。

最後の石段です。拝殿が目の前でした。

やっと長い行列が出来ている理由が判りました。一人一人が拝殿に参拝されていたのでした。

拝殿正面です。神社の参拝作法が書かれていました。二礼・二拍手・一礼です。

拝殿の全景です。

拝殿の飾りです。

こちらが鋳抜門(いぬきもん)と宝塔です。石造りの玉垣の中心に放蕩があります。

見事な鋳抜門を拡大いたしました。鋳抜門の前にも狛犬があり、拝殿階段下の狛犬と同じように左側の狛犬の頭には角がありました。

南東方向から見た宝塔です。高さは5mです。
宝塔は最初は木造でさらに石造に改められましたが天和3年(1683年)に大地震で破損したものを5代将軍綱吉公が現在の唐銅製(金・銀・銅の合金)に造り替えたそうです。

宝塔は八角九段の基盤を築きその上に設置されており、前面には寛永20年に朝鮮から献上された三具足(香炉、燭台、花立)が備え付けられています。八角九段の基盤や朝鮮からの献上品が写っていたので、この写真だけは今回ではなく2008年11月14日に撮ったものを使いました。


上の写真の朝鮮から贈られた三具足の部分を切取り・拡大・露出調整いたしました。奥から花立(花瓶)、香炉、燭台です。鶴のクチバシの部分がロウソク立てになっているようです。日本の真宗大谷派・真宗仏光寺派・真宗高田派では燭台に鶴亀燭台(亀の上に鶴が乗った形)を用いるそうです。
右の写真はネットから拝借したもので、朝鮮国王から対馬藩に贈られた三具足(万松院所蔵)ですが、日光東照宮のものに似ています。

南西方向から見た宝塔です。ここの標高は700mを越えています。
宝塔の製作者は幕府お抱えの鋳物師衛椎名伊豫です。
納められているのは家康公の遺骸(神柩)は建立以来、一度も開けられたことがないそうです。

こちらが奥宮だけで売られている眠猫絵馬(魔除け)と眠猫守(開運招福)です。奥宮限定だけに人気でした。

宝塔の西側にも短い行列が出来ていました。
これは叶杉(かのうすぎ)で、皆さん順番に拝まれていました。


説明文には「諸々の願い事をこの杉のほこらに向かって唱えると願い事が叶うと伝えられている」とありました。なるほど、皆さん、叶杉にお参りしているわけです。案内板を見ると叶鈴守もあるようです。
上の写真の中に叶鈴守の見本が写っていました。


ムサシママさんから鬼門に関してコメントをいただいたので方向を示した地図を追加掲載させていただきました。
よく「日光は江戸の鬼門に当たる」あるいは「江戸の鬼門に寛永寺が建立されその延長線上には日光がある」との記載があります。地理的な方向は次の通りで、江戸からは北方向なのです。鬼門方向と言われている理由は謎のままです。
赤色ライン 江戸城(

)→日光東照宮(

) 北
緑色ライン 江戸城(

)→寛永寺(

)の延長上 北東(鬼門方角)
青色ライン 久能山東照宮(

)→日光東照宮(

) 北東(鬼門方角)

大樹寺 家康位牌

高野山 徳川家康霊屋
マークやラインをクリックすると写真を表示します。