2013年12月19日

東崖賓館 九華山

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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九華山で宿泊した宿舎を紹介いたします。なんと仏教の聖地、九華山にも四つ星ホテルがあり、こちらに泊まりました。町の中を散策しましたが近代的と言えるホテルはここだけでした。ホテルの名前は東崖賓館です。
 名前 東崖賓館(东崖宾馆 DongYan Hotel)
 住所 安徽省池州市青阳县化城路8号
 電話 +86 566 283 1370 ( 0566-283-1370)
 開業 1982年 2004年改装
有名な聖地なので国のVIPの人が訪れていると思いますが、九華山に泊まる時は<唯一の近代的なホテルのため、この東崖賓館に泊まられたと思います。ネットで調べてもこのホテルのことはほとんど出てこなかったので紹介いたします。
見た目は中華風のホテルですが部屋の中は近代的でした。

こちらのホテルをすこし紹介いたします。おそらく、こちらのホテルで一番大きなスイートのリビングだと思います。
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ネットで調べると開業以来、やはり朱鎔基を始め中国の指導者及び著名人に利用されたとありました。こちらが寝室です。


大きな浴槽もかた片隅に、ぽつんとあるほどの大きな浴室でした。


航空写真で東崖賓館を紹介します。臙脂色マークが玄関のある本館です。東崖賓館は、いくつかの棟で成り立っていることが判ります。

より大きな地図で 九華山 東崖賓館 を表示
posted by SORI at 12:15| Comment(16) | TrackBack(2) | 九華山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月18日

皆様から頂いたniceが180,000に到達いたしました。



本日、皆様から頂いたniceが180,000に到達いたしました。
到達したのは2013年12月18日7時41分で、プログを始めた2009年5月5日から1688日(4年7ヶ月13日)目でした。すべて皆様のおかげです。お礼申し上げます。
キリ番に到達しても、表示はタイムリーではないことから、そのキリ番の表示に出会えることは意外と少ないので、すぐに画面のハードコピーをとって掲載させてもらったわけです。

記念の180000目のniceをいただいたのは、ぼんさん様でした。
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下のグラフは累計アクセス数と累計nice数の推移です。2013年12月18日7時41分時点のアクセスとniceなどの数値は以下の通りです。
     累計アクセス数 4,602,952件
     累計nice数     180,000件
     niceと思った人     7,484人
     読者数           317人


一日当たりアクセス数とnice数をグラフにしたのがこちらです。最初の数ケ月はniceがいただけませんでした。一日のnice数は直接に集計できないので累積niceの数日分の増加から一日のnice数を算出してプロットしています。従って移動平均化されています。


こちらは一日当たりアクセス数と訪問者数をグラフにしたものです。日によって、ばらつきます。2009年5月5日からの全データーをプロットしています。
posted by SORI at 15:05| Comment(48) | TrackBack(1) | SNS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

総本山と大本山

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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2015年(平成27年)には高野山は開創1200年を迎えます。その高野山に来て高野山の総門である大門の次に訪れたのが、お寺散策と言う記事で、すこし紹介した寳壽院です。
高野山真言宗・総本山は、すでに紹介した金剛峯寺ですが、高野山真言宗・大本山と呼ばれている寺院があることを偶然知りました。それが、この寳壽院(ほうじゅいん)なのです。不思議なことに地図に寳壽院が書かれていませんでした。不思議に思って門に書いてあった寳壽院で検索した結果、大本山があることを知りました。

寳壽院は、高野山真言宗総本山・金剛峯寺の建物を模して作られているそうです。これは金剛峯寺が災害などで、使えなくなった場合に復旧するまでの間、寳壽院に高野山真言宗の総本山を置くことになっているためだそうです。これは高野山真言宗の宗務が、一日たりとも滞(とどこお)らないようにするなどの理由があると書かれていました。院内には、高野山真言宗僧侶の育成を目的とする高野山専修学院(こうやさんせんしゅうがくいん)を置かれています。寳壽院は、もとは無量壽院と称されていた。無量壽院は、1016年(長和5年)に深覚僧正が開基となり創建されたそうです。
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1839年(天保10年)に本堂は焼失してからは再建されませんでしたが、1970年(昭和45年)には本堂が新築されました。
1973年(昭和48年)に大本山に昇格したそうです。
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本堂は右の写真の金剛峯寺ほどではありませんが、大本山だけクリックすると拡大のことはありました。全国に3554寺ある高野山真言宗の2番目の格式である大本山なのです。大本山の主殿(下)の形は総本山の主殿(右)の形に非常に似ていました。
高野山には118の寺院があります。格式順に言うと次の通りです。数値は高野山の各格式の寺の数です。
  総本山    1 金剛峯寺
  大本山    1 寳壽院
  遺跡本山   0 (京都:神護寺 大阪:観心寺)
  別格本山  27 総持院 親王院 龍光院 明王院 宝城院 西禅院 正智院など
  準別格本山  2 無量光院 大楽院
  別院     0 (全国に9寺+海外3寺)
  一般寺院  87 熊谷寺など
  合計    118 全国合計=3554寺
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posted by SORI at 05:46| Comment(12) | TrackBack(2) | 高野山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月17日

お寺散策



高野山には118のお寺があり、道を歩くだけでも趣のある景観に出会えます。その道の景観で一番気に入ったのが今回紹介する金剛峰寺の西側の通りです。上の写真は総持院のあたりから西の通りを撮ったものです。
手前から総持院、親王院、龍光院です。趣のある風景なのは、この通りは商店はなく、人通りも少なく、お寺だけが立ち並んでいるのも影響していると思います。でも、この通りに格調高い雰囲気があるのには、それ以外の理由があるような気がしました。

場所を地図で紹介すると緑の楕円で囲ったあたりです。西から順番に紹介いたします。


クリックすると拡大Google地図でも場所を紹介します。今回紹介の寺の門の位置あたりに青色マークを配置いたしました。マークをクリックすると写真を表示します。大門から右の写真の深山隧道( )を通って青色ラインの道で、こちらのエリアに来ました。

より大きな地図で 高野山 寺院 を表示
これがこの通りの一番西の奥にある寳壽院(ほうじゅいん)です。このお寺は地図には載っていなかったので書き込ませていただきました。このお寺はちょっと、いわくのあるお寺なので後日、詳しく紹介いたします。
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正智院です。こちらのお寺は高野山の中でも格式の高い別格本山です。右の石柱には別格本山・正智院と書かれており、左の石柱には準別格本山・大楽院と書かれていました。


宝城院のあたりから東の方向を撮った写真です。宝城院も別格本山です。


となりの西禅院も別格本山です。この写真はクリックすると拡大します。
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こちらの道の奥にあるのが明王院です。こちらの明王院も別格本山でした。


こちらが龍光院です。龍光院も別格本山でした。


こちらが親王院で、こちらも別格本山でした。枯山水の庭を紹介した寺院です。
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こちらが、この通りの一番東にある総持院です。こちらも別格本山でした。
高野山には118の寺院があります。格式順に言うと次の通りです。驚いたことに、この通り沿いにある7つ寺院は、すべて格式の高い別格本山だったのです。そのことがこの通りが別の場所とは違う雰囲気の理由だったのだとネットで調べてわかりました。

  総本山    1 金剛峰寺

  大本山    1 寳壽院

  別格本山 27 総持院 親王院 龍光院 明王院 宝城院 西禅院 正智院など

  一般寺院 89 熊谷寺など



別格本山の27寺を紹介いたします。
下の地図はクリックすると拡大するので別格本山を、いくつか見つけることが出来ると思います。バス停の奥の院前から緑のラインを歩いて女人堂まで散策しました。
  宝亀院、桜池院、天徳院、正智院宝城院西禅院明王院龍光院親王院

  総持院、西室院、南院、金剛三昧院、龍泉院、光台院、福智院、本覚院、

  本王院、普門院、一乗院、普賢院、西門院、大円院、持明院、多聞院、三宝院、

  遍照光院、清浄心院、円通律寺

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さちこさんのちらっと高野山をみてきました・・・にトラックバックしています。
posted by SORI at 22:24| Comment(16) | TrackBack(2) | 高野山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

奥宮(奥社) 徳川家康の墓


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こちらが日光東照宮の徳川家康が埋葬されているの墓の上に建てられた宝塔です。拝殿なども含めて奥宮あるいは奥社と呼ばれており日光東照宮の中でも標高の最も高い位置になります。徳川家康は元和2年(1616年)に駿府で数え年の75歳(満73歳)で亡くなり、家康の遺言により、始めは駿府の南東の久能山(久能山東照宮)に葬られ、一周忌を経て元和3年に江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬されました。それが現在の日光東照宮なのです。久能山東照宮は今も徳川氏祖廟として尊ばれています。
 徳川家康
  生誕 天文11年12月26日(1543年1月31日) 470年前
  死没 元和 2年 4月17日(1616年6月 1日) 397年前 満73歳(数え75歳)
  改名 竹千代(幼名)→松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康
     1543年~   1555年・元服~   1563年~ 1567年~
  神号 東照大権現
  戒名 安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士
クリックすると拡大徳川家康は死後の処置に関して下の遺命(遺言)を残しました。勧請とは神仏の分霊を他の地にも祭ることです。
右の狩野探幽により描かれた家康の肖像画はWikipediaから転用させていただきました。
   1.遺体は駿河の久能山に葬ること
   2.葬式は江戸の増上寺で行うこと
   3.位牌は三河の大樹寺に立てること
   4.一周忌後に下野の日光山に小堂を建て勧請すること

こちらが陽明門( )から奥宮( )までの参道( )です。
  陽明門 →  眠り猫 →  坂下門 →  奥宮拝殿
眠り猫から奥宮まで順番に紹介します。

より大きな地図で 日光東照宮 奥宮石段 を表示
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奥宮への入口にあたる東回廊にある入口で、この入口の上に「眠り猫」の彫刻があることで有名な場所です。入口の奥に坂下門があるのが判ってもらえると思います。ここから奥宮への石段を登り始めます。
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こちらが坂下門です。右側の立て看板には「坂下門 この門を潜り石段を約二百段登ると家康公の御墓所奥宮がある。」と書かれていました。
正確な石段の数知りたいところです。坂下門からの石段の段数として一番多い表現が「約200段」で、次に多い表現が「207段」でした。眠り猫の位置と坂下門の間にも数段の石段があります。江戸時代には、坂下門は将軍しか入れなかった「開かずの門でした。奥宮が一般に公開されたのは1965年からだそうです。
全体的には清楚な感じですが柱や天井の金具は七宝焼の上、軒下の欄間には鶴などの彫刻がありました。
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石段の上から見た坂下門です。


坂下門から少し進むと長い行列になっていました。待たされながら一歩一歩進むので奥宮に着くまでかなりの時間を要しました。撮った写真の時間で確認すると坂下門を潜ったから拝殿に着くまで16分を要しました。200段を普通に歩けば3分弱だと思うので待たされながら進んだことが判ってもらえると思います。もし自分で石段の数を数えるとすれば、待たされない下りで数える方が楽だと思います。
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石柵は石をくり貫いて作ったものだそうです。


石段は結構な幅がありますが一段毎に一枚石を用いられています。やっと奥宮の鳥居が見えてきました。
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鳥居近くから見た石段です。


鳥居には徳川家康の神号「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」が書かれていました。鳥居は最初は石製でしたが1683年の大地震で破損して唐銅鳥居にかえられたそうです。
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鳥居の横には1654年創建の御宝蔵がありました。案内板によると、御宝蔵には朝廷から家康公並びに東照宮におくられた官符宣命等の文書を収められていたそうです。


御宝蔵の屋根の部分は青銅で包んである感じでした。
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御宝蔵の脇から、やっと奥宮の拝殿が見えてきました。
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拝殿に昇る最後の階段の両脇には狛犬が置かれていました。2体の狛犬は松平右門大夫正綱と秋元但馬守泰朝の二人から寄進されたもので二人は徳川家康の遺臣であり、寛永年間の奥宮造営の功により特に奉納を許されたそうです。こちらが右側の狛犬です。
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こちらが左側の狛犬です。頭の真中に角がある狛犬でした。
角がある狛犬は珍しいと思われがちですが、元々は2体のうち1体には角がありました。1体は角がなく口を開いた阿形(あぎょう)で、1体は角があり口を閉じた吽形(うんぎょう)と呼ばれていました。阿(あ)と吽(うん)は、息がぴったり行動することを「阿吽の呼吸」といわれている由来にもなっているそうです。昭和時代以降は左右ともに角が無いものが多くなったそうです。
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最後の石段です。拝殿が目の前でした。
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やっと長い行列が出来ている理由が判りました。一人一人が拝殿に参拝されていたのでした。
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拝殿正面です。神社の参拝作法が書かれていました。二礼・二拍手・一礼です。


拝殿の全景です。
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拝殿の飾りです。
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こちらが鋳抜門(いぬきもん)と宝塔です。石造りの玉垣の中心に放蕩があります。
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見事な鋳抜門を拡大いたしました。鋳抜門の前にも狛犬があり、拝殿階段下の狛犬と同じように左側の狛犬の頭には角がありました。
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南東方向から見た宝塔です。高さは5mです。
宝塔は最初は木造でさらに石造に改められましたが天和3年(1683年)に大地震で破損したものを5代将軍綱吉公が現在の唐銅製(金・銀・銅の合金)に造り替えたそうです。
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宝塔は八角九段の基盤を築きその上に設置されており、前面には寛永20年に朝鮮から献上された三具足(香炉、燭台、花立)が備え付けられています。八角九段の基盤や朝鮮からの献上品が写っていたので、この写真だけは今回ではなく2008年11月14日に撮ったものを使いました。
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クリックすると拡大上の写真の朝鮮から贈られた三具足の部分を切取り・拡大・露出調整いたしました。奥から花立(花瓶)、香炉、燭台です。鶴のクチバシの部分がロウソク立てになっているようです。日本の真宗大谷派・真宗仏光寺派・真宗高田派では燭台に鶴亀燭台(亀の上に鶴が乗った形)を用いるそうです。
右の写真はネットから拝借したもので、朝鮮国王から対馬藩に贈られた三具足(万松院所蔵)ですが、日光東照宮のものに似ています。


南西方向から見た宝塔です。ここの標高は700mを越えています。
宝塔の製作者は幕府お抱えの鋳物師衛椎名伊豫です。
納められているのは家康公の遺骸(神柩)は建立以来、一度も開けられたことがないそうです。
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こちらが奥宮だけで売られている眠猫絵馬(魔除け)と眠猫守(開運招福)です。奥宮限定だけに人気でした。
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宝塔の西側にも短い行列が出来ていました。
これは叶杉(かのうすぎ)で、皆さん順番に拝まれていました。
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説明文には「諸々の願い事をこの杉のほこらに向かって唱えると願い事が叶うと伝えられている」とありました。なるほど、皆さん、叶杉にお参りしているわけです。案内板を見ると叶鈴守もあるようです。
上の写真の中に叶鈴守の見本が写っていました。


クリックすると拡大ムサシママさんから鬼門に関してコメントをいただいたので方向を示した地図を追加掲載させていただきました。
よく「日光は江戸の鬼門に当たる」あるいは「江戸の鬼門に寛永寺が建立されその延長線上には日光がある」との記載があります。地理的な方向は次の通りで、江戸からは北方向なのです。鬼門方向と言われている理由は謎のままです。
 赤色ライン 江戸城( )→日光東照宮( )    北
 緑色ライン 江戸城( )→寛永寺( )の延長上  北東(鬼門方角)
 青色ライン 久能山東照宮( )→日光東照宮( ) 北東(鬼門方角)
 大樹寺 家康位牌
 高野山 徳川家康霊屋
マークやラインをクリックすると写真を表示します。

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posted by SORI at 07:22| Comment(27) | TrackBack(1) | 日光 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月16日

仏教の聖地の夕食は精進料理じゃなかった! でも岩茸料理は美味しかった。

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九華山は断崖絶壁にお寺があるような中国仏教の四大聖地の一つ ここはホテルといえどもお寺と宿坊が立ち並ぶ場所 当然、精進料理と思っていたら精進料理は中止して肉も魚もありの料理でした。
精進料理ではなかったけれども究極の山の幸の料理と呼べると思えたので紹介させていただきます。コース料理のように一人ひとりに料理が出されました。
調味料として酢と醤油以外に豆板醤系のものがいくつか置かれていますが特に付ける必要はなくそのまま食べれました。
飲み物はワインと白酒(パイチュウ)でした。白酒(パイチュウ)はアルコール濃度が濃いので最後に我慢できなくて私だけビールを頼んでしまいました。(笑)

これが今回のメニューです。上の写真の右端の「菜単」と書かれているのがこのメニューです。16品になります。出てきた順番とは違うようです。写真は出てきた順番に並べています。メニューと料理の写真で前菜とデザート以外に①~⑭]の番号をつけたのでなんとなく中国名がわかると思います。100%の自信がないので、間違いがあればご指摘願います。
   ⑤  ⑬  ⑭  ⑩  ⑧  ⑫  ⑨  ④  ⑪  ⑥  ⑦  ③  ②  ①

ここからは出てきた順番に料理を紹介します。
①先ずはスープから 具は豆腐と野菜です。日本の中華料理と雰囲気が違う中華料理を目でお楽しみください。


②中央は百合根とキノコで右のは蛙だと思います。たぶん!  この蛙は渓流に住んでいる石蛙と呼ばれるもので高級食材です。メニューには石鶏と書かれています。これは石蛙のことのようです。石鶏(石蛙)と石茸(岩茸)と石魚(小魚)が三石料理と言われています。今回は石茸料理もあり小魚ではないけれど石桂魚もあったことから三石料理が含まれていることになります。 
味付けはなかなかよかったです。


③金華ハムと干し竹の子 チンゲンサイも乗っています。


④竹の中に入っているのは栗と鹿肉です。栗が沢山入っていて山の料理料理だと実感させられました。


⑤揚げ物です。徹州満口香との料理名がつけられていました。


⑥包み物です。


⑦岩茸(石茸)と肉団子のスープ
岩茸は木耳(きくらげ)とは違い野生でしか取れないし断崖絶壁で採取するため貴重なものだそうです。 感触は木耳のような歯ごたえのあるものではなく厚めの海苔のようでした。一度は食べてみたいものだと思います。岩茸はこのあたりの名物で別の食事でも沢山食べることが出来ました。日本では岩茸と呼ばれており非常に貴重なものです。日本でも同じような食べ物「岩茸の"おやき"と"天ぷら"」が放送されていました。


⑧韓国のチヂミのような食べ物です。


⑨料理名は「清蒸石桂魚」 この魚は美味しかったです。メニューから判断して中国名は「石桂魚」かな? 日本名は判りません。身は「ころっと」とした感覚の身でした。川魚の王様といわれる有名な桂魚より細身で小さい魚でした。コロッとした身は桂魚に似ていますが、桂魚より、さらに臭みはなく、場所がら大きな川がないので清流の魚と思われます。一人前のお皿に丁度いい大きさでもありました。


⑩きのこのホイル蒸しです。いろんなキノコが入っていました。


⑪「腐れ豆腐」を揚げたものです。いつもは生なので熱を加えた料理ははじめてでした。お酒に合います。
当然ですが「腐れ豆腐」は発酵した豆腐で腐ったものではありません。(笑)


⑫鍋物もありました。料理を載せる目の前の銀の皿の上にドーンと置かれました。もちろん一人前です。


⑬キノコのスープです。⑫の鍋が目の前の皿の上に置かれていたのでキノコのスープは、その横に置かれました。


⑭野菜炒めです。この後は果物で終了でした。


このテーブルを見ると「ほんとうに仏教の聖地ですか?」と思ってしまう雰囲気なのです。


宿坊が沢山ある中でこのホテルだけが際立っていました。4星のホテルであることは確かでした。インターネットも出来ました。接続は無料です。
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posted by SORI at 16:40| Comment(26) | TrackBack(1) | 九華山 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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