2013年11月21日

なんと、陽明門は補修工事中でした。 日光東照宮

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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2013年10月28日に日光東照宮に行きました。ところが東照宮で最も有名な陽明門が補修工事で上の写真のように見ることが出来なかったのです。私は東照宮は3度目でしたが、家内は初めてだったので、ちょっと残念がっていました。

それも工事が今年(2013年)の7月15日に始まった表示を見てなおさら、がっかりでした。今までに、いくらでも来る機会があったのに、よりにもよって補修工事が始まった年に来てしまったのでした。補修工事が終わるのは6年後の2019年3月31日と記載されていました。つまり東京オリンピック開催の前年に完成することになります。
  名称   国宝 東照宮 陽明門 保存修理工事
  工事期間 着手 平成25年7月16日 (2013年)
       完了 平成31年3月31日 (2019年)
  事業主  東照宮
  修理指導 文化庁文化財部参事官建造物担当
  設計管理 公益財団法人 日光社寺文化財保存会 
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こちらが内側から見た陽明門です。陽明門の名称は、宮中(京都御所)の十二門の東の正門が陽明門で、その名をいただいたと伝えられています。
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初めての方もおられるかもしれないので2008年11月14日に撮った陽明門の写真を掲載します。クリックすると拡大するのでじっくりと見てください。
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確かに痛んでいました。前回の根本修理工事から40年が経過したそうです。補修内容は外部廻りの漆塗・彩色・錺金具の更新を主に行なうそうです。調査を行ないながらの工事で、必要があれば部分的な木部解体修理も行なうそうです。
陽明門の通路の間天井には狩野探幽により昇竜(のぼりりゅう)と降竜(くだりりゅう)が描かれています。 昇竜は別名「八方にらみの竜」、降竜は「四方にらみの竜」とも呼ばれています。この昇竜と降竜はみることが出来ました。
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クリックすると拡大こちらの写真には天井の絵が見えると思います。天井の絵の部分を露出調整して右に掲載いたしました。竜かどうかは判別は難しいです。話は変わりますが、12本の白い柱うち渦巻き文様の向きが逆になっている逆柱(さかさばしら)が1本があります。この理由は「完成された建物は、いずれは崩壊する。正に完成した瞬間から崩壊が始まる。」という言われており未完成な状態であることを表しているそうです。場所は背面の右から2本目で残念ながら写真には写っておりません。これと同じ逆柱が、本社の拝殿と本殿に1本ずつあるそうです。同様な理由で一か所だけ仕様が異なる例は下記の通りです。
 ・五重塔の1~4層が平行垂木で5層が放射状垂木となっている。
 ・御水屋の西角だけが切り落とされた形になっている。
 ・陽明門の左右の回廊の透かし彫りで右端の一つだけ小さい。
 ・陽明門と拝殿と本殿の逆柱
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陽明門に据えられていた隋身像(神域を守る像)などが取り外されて展示されており間近で見ることが出来ました。
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こちらは陽明門に飾られていた2体の狛犬です。隋身像とは反対の陽明門の内側に置かれていましたものです。
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それでは、気を取り直して陽明門以外を紹介いたします。ここでは陽明門の周辺を中心に掲載させていただきます。陽明門から外側を見た景色です。冒頭の写真は鳥居の辺りから撮りました。この鳥居は日本で最初に青銅製で造られた鳥居です。3代将軍家光公が金2000両を費やして建ててました。柱の足元には、神社としては珍しい仏教様式の蓮の花弁が刻まれています。
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補修中の陽明門から本殿側を見た光景です。
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陽明門の左右には廻廊が延びています。こちらは陽明門の右側の回廊です。
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いずれも一枚板の透かし彫りには、極彩色がほどこされていました。
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右側の端まで行くことはないので端の写真を撮ってきました。上でも紹介したように未完成にするために右端の透かし彫りの一つだけが小さいのです。
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上の写真ではわかりにくいので、小さな透かし彫りの部分を拡大いたしました。この写真は杉の大木にピントが合った上の写真から切り取ったものなので、透かし彫りの部分は不鮮明となっていますが、なんとか雰囲気は判ってもらえると思います。


右端から陽明門のほうを撮った写真です。
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灯籠も趣があります。東照宮には燈籠が121基あるそうですが、いろんな人が寄進していることから素材もいろんな灯籠がありました。
陽明門の内側には東福門院(秀忠の娘、後水尾天皇の中宮)のみで、それより12段下がった位置に譜代大名、さらに21段下がったところに外様大名が寄進した燈籠が安置されているそうです。その中でも伊達政宗が寄進した南蛮鉄燈籠はポルトガルからの輸入鉄で造られたものとして有名です。南蛮鉄燈籠は領内の租税3年分の費用をかけて作ったと伝えられています。
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こちらは陽明門の左側の灯篭です。奥の建物は鳴竜で有名な薬師堂です。鼓楼も趣がありました。
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鼓楼の前の「廻り燈篭」又は「回転燈籠」です。昔はこの近くに「釣燈籠」があったようですが、この時はありませんでした。
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鐘楼のそばに立つスタンド型の蓮燈籠です。回転燈籠、釣燈籠、蓮燈籠はオランダから贈られたのようです。
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手前が鼓楼で奥に見えるのが鐘楼です。
言葉の通り鐘楼は釣鐘を、鼓楼は太鼓を納める建物でする。陽明門の前に左右対称に配置されています。建物の規模や構造など基本的な形式は同じですが、細部の飾り付けは違います。たとえば彫刻の種類と数です。鐘楼には鶴・竜・飛竜・麒麟・波など合計78体に対し、鼓楼には亀・竜・雲など38体です。見た目も鐘楼のほうが豪華です。鐘楼の前にも鐘が吊り下げられた小さな建物(蓮燈籠)が見えます。
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クリックすると拡大陽明門の左側の廻廊です。左側の建物が鳴竜の薬師堂です。薬師堂の内部では撮影並びに録音は禁止されているので鳴竜の画像をネットから拝借いたしました。右の写真が薬師堂の天井に描かれている鳴竜です。
竜の頭の下で拍子木を打つと、天井と床が共鳴して鈴のような鳴き声に聞こえることで有名です。もとの絵は狩野永真安信によるものですが、堂とともに焼失したため堅山南風により復元されました。
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左側の廻廊の透かし彫りも灯篭も趣がありました。
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御水舎も東照宮らしい色彩で豪華でした。御手洗・手水所といいます。
御水舎は参拝者が手と口を清める場所で、今ではどの神社にも水盤を置いた施設があります。しかし、かつては自然の川や湧き水の場がそれとされ、境内に独立した建物を構えたのは東照宮の御水舎が最初といわれています。
幅1.2m、長さ2.6m、高さ1mの花崗岩の水盤は、九州の鍋島藩主が元和4年(1618年)に奉納したものです。くり抜いた15cmの穴から、サイフォンの原理で水が噴き上がる仕組みになっているそうです。
屋根の下には、逆巻く波と飛竜の彫刻があります。飛竜は翼のある竜で、水をつかさどる霊獣とされています。西側の屋根の角が切り落とされているのは魔除け説のほか、杉の成長を邪魔しないためという説もあります。
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入場券売り場では「陽明門は工事中ですがよろしいでしょうか。」と聞かれますが、「それでは入るのをやめます。」というわけにいかないので拝観料1300円×2枚=2600円を払って入りました。
     大人    1300円
     小・中学生 450円
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posted by SORI at 18:23| Comment(18) | TrackBack(1) | 日光 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

世界遺産・日光の社寺 東照宮など

写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

先日の2013年10月28日に日光の東照宮に行きました。その時の記事を掲載するつもりですが、その前に2008年11月14日に訪問した時の東照宮の写真を紹介いたします。その理由は2013年10月28日訪問時の記事を書いた時に説明いたします。
日光の東照宮は1999年12月2日で開催されたユネスコ世界遺産委員会で文化遺産として登録されました。登録名は「日光の社寺」です。
世界遺産に登録されたのは東照宮だけでなく日光二社一寺と呼ばれている地域で下記で構成されています。
 日光東照宮   (正式名:東照宮)
 日光二荒山神社(正式名:二荒山神社)
 日光山輪王寺
103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の「建造物群」と、これらの建造物群を取り巻く「遺跡(文化的景観)」が登録されているそうです。
今回は東照宮を中心に見学したため二荒山神社と日光山輪王寺の写真は少なくなってますが、もう一度行き、時間を取ってじっくり回ってみる価値があると感じました。

先ずは東照宮から紹介いたします。入口の金色の葵の御紋が印象的です。これは東照宮の入口の石鳥居(いしどりい 重文)です。
ご鎮座翌年の元和4年(1618)、九州筑前(福岡県)藩主黒田長政公によって奉納されました。石材は、まず九州から船で小山まで運ばれ、その後陸路人力でこの日光まで運ばれたそうです。鳥居の奥に表門(おもてもん 重文)が見えます。
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石鳥居をくぐると左側に五重塔(ごじゅうのとう 重文) が建っています。
慶安3年(1648)若狭の国(福井県)小浜藩主酒井忠勝公によって奉納されたそうです。文化12年火災にあいましたが、その後文政元年(1818)に同藩主酒井忠進公によって再建たそうです。


入口側から紹介いたします。表門をくぐると三神庫(さんじんこ 重文)があります。上神庫・中神庫・下神庫を総称して三神庫と言い、この中には春秋渡御祭「百物揃千人武者行列」で使用される馬具や装束類が収いるそうです。また、上神庫の屋根下には「想像の象」(狩野探幽下絵)の大きな彫刻がほどこされています。


三神庫と同じ広場にある輪蔵(経蔵)です。
2層屋根で建物の形が12m四方の正方形をしているので、重層方形造りというそうです。仏教の経典を納める経蔵ですが、建物の真ん中に一切経1456部、6325巻を納めた8角形の回転式の書架が置かれていることから輪蔵の名がついたそうです。
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階段の上の陽明門の手前の豪華な建物は左側が鼓楼で右側が鐘楼です。 写真をクリックすると日本で最初に造られた青銅製の高さ6メートルの唐銅鳥居を見ることが出来ます。この鳥居は3代将軍家光公が金2000両を費やして建てた。柱の足元には、神社としては珍しい仏教様式の蓮-はす-の花弁が刻まれています。
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これが左側の鼓楼です。陽明門の前に並ぶ高さ12.6mの太鼓を納める建物・鼓楼です。どの建物を見ても絢爛豪華なのが驚きでした。
神様にお参りする前に、手を洗い、口をすすぎ、心身を清める為の御水舎(おみずや 重文)でさえも絢爛豪華なのでした。


東照宮で最も有名な建物なのが陽明門(ようめいもん 国宝)です。
日本を代表する最も美しい門で、宮中正門の名をいただいたと伝えられています。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」ともよばれ、故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされています。
高さ11.1mの2層造り、正面の長さが7m、奥行きが4.4m。胡粉を塗った12本の柱には、グリ紋と呼ばれる渦巻状の地紋が彫られています。有名な「魔除けの逆柱」は、門を潜り終わる左側の柱。グリ紋の向きがこの柱だけ上下逆になっています。
御所十二門の内の名称を朝廷から賜ったもので、後水尾天皇の御宸筆による「東照大権現」の勅額があるので勅額門、装飾彫刻が500余りもあり1日中見て居ても決して飽きないというところから、日暮門ともいわれています。また陽明門より奥は明治維新まで庶民は入ることができませんでした。
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陽明門は2体の武将像で守っています。右側の武将像です。名前は謎です。


こちらは左側の武将像です。


廻廊(かいろう 国宝)です。
陽明門の左右に延びる建物で、外壁には我が国最大級の花鳥の彫刻が飾られています。いずれも一枚板の透かし彫りには、極彩色がほどこされていました。こちらは右側の廻廊です。


左側の廻廊も紹介いたします。もちろん、こちらも国宝です。装飾彫刻が隙間もないほどに埋め尽くしていました。奥の建物は鳴き竜で有名な本地堂です。
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石灯篭 廻廊 陽明門などが入った風景です。鳴き竜(写真禁止)の本地堂の方から撮りました。


陽明門は豪華ですが思っていた以上に小さな門でした。全体が胡粉(ごふん)で白く塗られ、「許由と巣父(きょゆうとそうほ)」や「舜帝朝見の儀(しゅんていちょうけんのぎ)」など細かい彫刻がほどこされている唐門(からもん 国宝)もこの広場にありましたが残念ながら補修中でした。


陽明門の内側には本殿・石の間・拝殿からなる御本社(ごほんしゃ 国宝)や祈祷殿(きとうでん重文)や神輿舎(しんよしゃ 重文)があります。 写真の神輿舎には春秋渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる、三基の神輿(みこし)が納められていました。中央の神輿が家康公、右側が秀吉公、左側が頼朝卿でありいずれも重さ1120㎏あるそうです。
天上の絵が少し写っていますが狩野了琢の筆による天女舞楽の図だそうです。


拝殿・鋳抜門(いぬきもん)・御宝塔からなる御祭神のお墓所である奥宮(おくみや 重文)に通じる坂下門には有名な眠り猫(ねむりねこ 国宝)が掘られていました。眠り猫が国宝に指定されているのは東照宮で唯一の左甚五郎作と伝えられているためだそうです。牡丹の花に囲まれ日の光を浴び、うたたねをしているところから「日光」に因んで彫られたとも言われています。眠り猫以外では「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿 や眠り猫の裏の雀 などが有名な動物の彫り物です。


奥院廟塔の銅製の鋳抜門(いぬきもん)です。下に門とは雰囲気が違います。クリックすると奥宮の拝殿を表示します。拝殿の裏に鋳抜門と奥院廟塔(御宝塔)があります。


奥院廟塔(御宝塔)です。
元和2年(1616年)4月17日、徳川家康は駿府(静岡)で死去して、遺骸は遺命により直ちに駿河国の久能山(久能山東照宮)へ葬られたが、翌元和3年に下野国日光へ改葬された。同年4月に社殿が完成し、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日に奥院廟塔に改葬され、4月17日に遷座祭が行われた。
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最後に東照宮の地図を掲載しておきます。



二荒山神社です。
二荒山神社は(ふたらさんじんじゃ)と読みます。日光にある男体山(二荒山、2486メートル)、峯山(2464メートル)、太郎山(2368メートル)の三つの山の神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)を総称して二荒山大神と称し、主祭神としているそうです。
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日光の名前由来もいろんな説がありますが、その一つが二荒が日光になった説で、弘法大師空海が二荒山(男体山)に登られたとき、二荒の文字が感心しないといって、フタラをニコウと音読し、良い字をあてて日光にしたと伝えられております。「二荒(フタラ)→ニコウ(音読)→日光」
ニ荒山神社は大谷川北岸に766年に現在の四本龍寺の前身の紫雲立寺を建てられたのが始まりで東照宮より遥かに古い歴史があります。
左から本殿、 拝殿、社務所です。
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ニ荒山神社の横には家光廟大猷院(いえみつびょうだいゆういん)があります。大猷院廟(だいゆういんびょう)ともいわれています。
こちらは東照宮の絢爛豪華に対して幽玄とサビが自然に溶け込む雰囲気です。
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日光二社一寺の一寺である日光山輪王寺です。
創建は奈良時代にさかのぼり、近世には徳川家の庇護を受けて繁栄を極めた。明治初年の神仏分離令によって寺院と神社が分離されてからは、東照宮、二荒山神社とあわせて「二社一寺」と称されているが、近世まではこれらを総称して「日光山」と呼ばれていたそうです。写真は三仏堂(重要文化財)です。
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2013年11月20日

晩秋の中禅寺湖

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先日の2013年10月28日に日帰りで華厳の滝と奥日光と日光東照宮に行ってきました。華厳の滝に着いたのは午前8時だったこともあり、すいていたのですが徐々に渋滞してきたので中禅寺湖は車の中からだけの見学となりました。そこで以前に11月13日~14日に中禅寺湖の湖畔のホテルに泊まったときに14日の朝の散策の写真を紹介します。中禅寺湖あたりはすでに落葉していました。落葉した木も朝日があたたって黄金色に輝いていました。

あまりにもきれいなのでもう一枚掲載いたします。
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日の出の中禅寺湖です。上の2枚の写真を含めて時刻は6時42分です。朝早く散歩しているときれいな景色に出会えました。
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湖沿いに小さな歩道があり歩いていると13番岬 の看板がありました。標高1271mです。7時4分の景色です。
13番岬があるので12番岬や11番岬があるかと思えましたが、地図 を見るとどうもなさそうです。その代り13番別荘と12番別荘がありました。別荘が先で後から13番岬の名前が付いたのかもしれません。13番岬は釣り の絶好のポイントだそうです。


その遊歩道と中禅寺湖です。朝の散歩は気持ちがいいです。標高1269mにある中禅寺湖は、4平方キロメートル以上の面積をもつ自然湖としては日本で最も高い場所に位置しているそうです。


太陽も少し昇って来ました。時刻は7時12分です。


ホテルの前の朝の中禅寺湖の景色です。
6時57分です。


ほぼ同じ場所からの前日の日没後の景色です。
16時11分でしたがすでに太陽は山の陰に隠れていました。


中禅寺湖温泉あたりから見た湖の景色です。
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男体山も見えました。


華厳の滝に流れていく大谷川です。



2013年10月28日の車の中からの中禅寺湖の横を通る道路の写真を追加いたします。中禅寺湖は写っていませんが右側に中禅寺湖があります。
上の11月14日の写真と違い紅葉は見ごろでした。


こちらは中禅寺湖が見える湖畔の写真です。
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ロッジ風ホテルに泊まりました。

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今回ではありませんが、中禅寺湖のほとりに11月13日の晩秋に泊まったことがあります。丁度、今の時期なので紹介いたします。戦場ヶ原から中禅寺湖に下りて来て泊まったホテルです。観光に行ったとき、その町のホテルも楽しみの一つですね。この時に日光で泊まったホテルは、今まで泊まったことのない雰囲気のホテルでしたので紹介させてください。標高1271mの中禅寺湖の湖畔に中禅寺湖温泉街からは離れた、ひっそりと佇んでいるホテルでした。
見ての通り3階建で、木のバルコニーがあるロッジ風の外観が印象的でした。夕日に輝く木のホテルは特にきれいでした。

ホテルは中禅寺金谷ホテルで泊まったのは2階でした。鍵もカード式ではないところがいいですね。


その2階のバルコニーから横のバルコニーを撮りました。別荘をイメージしたホテルと言えるかもしれません。


部屋は全て中禅寺湖に面しておりミズナラの木々の合間から、夕日が沈む瞬間も見ることが出来ました。
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夜にはロビーの暖炉に火が入れられました。写真は到着時に撮ったものです。


暖炉の前はゆっくりと寛げる雰囲気にソファーが並べられていました。


中禅寺湖側からみたホテルですが木々に囲まれていて、車で通っていると気がつかない人も多いと思います。
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中禅寺湖とは反対側が広いスペースになっており駐車場や玄関も、そちら側にありました。


こちらが露天風呂です。右の露天風呂の写真はネットから拝借しました。クリックすると拡大露天風呂の写真をクリックすると拡大します。渡り廊下で連絡する別棟(下の写真)で露天風呂の温泉も楽しめました。真中で仕切られていて向こう側が女湯で手前側が男湯です。冷たい空気が気持ちよかったです。泉質は強い硫黄泉で、内湯・露天風呂ともに循環しない掛け流しで、 皮膚病をはじめ、リウマチ、糖尿病、高血圧症、痛風などに効果があると書かれていました。
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写真は朝食の風景です。ホテルの自慢はフランス料理です。
料理に関しては別途紹介させていただきました。→ポチッ


部屋も紹介しておきます。ゆったりとしておりトイレと浴室は部屋の左右に別についた豪華な雰囲気です。これらの扉も全て銘木で出来ておりました。これでも料金が一番安いスタンダードツイン の部屋です。


日光で最も有名なのが日光金谷ホテルですが、そのホテルが経営している中禅寺金谷ホテルが今回宿泊したホテルでした。金谷ホテルには感動的な長い歴史があることをホテルの説明で知ったので紹介しておきます。
江戸が明治にかわると、東照宮の門前町として栄えていた日光にも大きな時代の波が押し寄せてきました。
明治4年(1871年)、当時まだ外国人を泊める施設がなかった日光の町で、宿に困った外国人を全くの善意で自宅に招いた青年がいました。若き日の金谷善一朗です。
良心的な青年の対応にその外国人は「これから涼を求めて多くの外国人が日光を訪れるでしょう。私も友人を連れてくるから宿を生業にしてはどうか」と助言を残してくれました。
その人こそがヘボン式ローマ字を提唱し和英辞典の編纂に尽力したヘボン博士でした。彼との出会いが、ホテル業を始める大きなきっかけとなったのです。
明治6年(1873年)、「カナヤ・カッテージ・イン」として夏の間外国人に自宅を提供するようになり、家族総出でお客様のおもてなしをしました。
善一郎を筆頭に妻と妹が掃除、子供達は鶏の羽むしりなどをしていました。
明治11年(1878年)には、イギリスの旅行家イザベラ・バードがヘボン博士の紹介でカッテージ・インを訪れました。
そして同13年(1880年)イギリスで出版された彼女の著書「日本奥地紀行」の中に滞在中の印象が詳しく紹介されると、金谷の名はヨーロッパにも広まりました。
ヘボン博士による知人への紹介もあり、金谷の名は横花・東京の外国人たちにも口コミにより広まり、イギリスの外交官で、日本研究家としても知られるアーネスト・サトウなどがリピーターとして訪れるようになりました。

明治23年(1890年)、宇都宮-日光間に鉄道が開通すると日光を訪れる外国人の数も増えて、日光市内には外国人向けの大きなホテルがいくつも建つようになりました。
小さな家で経営するカッテージインの経営は苦しいものになってきました。
このホテル競争を生き残るため善一郎は、息子には立教学院で英語の教育を受けさせ、本格的ホテルを建てたいと努力をします。
資金がとぼしかった善一郎は、偶然にも30年ぶりに資産家の旧友との再開、資金の援助を受け、建設途中で嵐の為、損傷したまま放置してあったホテル用建物を取得修復し、「カナヤ・カッテージ・イン」開業から20年目にして念願の「金谷ホテル」を、現在の地で始めることが出来たのです。
以来、135年後の今日に至るまでお客様をお迎えし続けているのです。


我々の泊まった中禅寺金谷ホテルは昭和15年に栃木県営の「日光観光ホテル」として誕生し、その建設・経営を金谷ホテルが委託されたのが始まりで、その後の戦争、進駐軍の保養施設、失火による全焼を経て平成4年に現在の建物での営業が始まったとのことでした。
写真は昭和15年当時の中禅寺金谷ホテルです。


 名前 中禅寺金谷ホテル
 住所 321-1661 栃木県日光市中宮祠2482番地
 電話 0288-51-0001  Fax 0288-51-0011
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日光の紅葉

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2013年10月28日に日光に行ってきました。奥日光や中禅寺湖の辺り紅葉が進んでいましたが奥日光に比べると標高の低い日光の辺りはまだ先の状態でした。そこで以前に11月13日~14日にかけて日光に行ったときの写真を紹介いたします。その日は快晴で、もみじの紅葉をきれいに見ることが出来ました。このことから日光は今が紅葉を見るのに絶好の時期ではないかと思われます。
特に葉の裏側からはステンドグラスのような美しさがあります。無意識の内に裏側から撮っていました。

裏側からの写真をもう一枚、紹介いたします。
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紅葉(もみじ)は光によって見え方が変わってきます。
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杉の隙間から見える紅葉(もみじ)も幻想的です。
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もみじ葉は真赤に紅葉していました。
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この写真は日光の二荒山神社あたり家光廟大猷院の紅葉(もみじ)です。後で紹介する日光山輪王寺と二荒山神社には沢山の紅葉(もみじ)がありました。日光と言えば日光東照宮ですが紅葉(もみじ)の季節には日光山輪王寺と二荒山神社にも必ず訪れてください。
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有名な日光東照宮の中は杉の大木に覆われておりモミジはありませんが参道脇はきれいなもみじがありました。
写真を撮っているあたりから上には紅葉はほとんどありませんでした。この参道の左側が日光山輪王寺です。
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これは日光東照宮の参道を下から撮ったものです。沢山はありませんが杉の大木の中の紅葉はすばらしいものがあります。
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こちらも日光東照宮の参道のもみじです。
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日光山輪王寺あたりの紅葉(もみじ)のある景色です。世界遺産の日光山内の社寺は「二社一寺」と言われております。その3つとは日光東照宮、二荒山神社、日光山輪王寺です。3ケ所の紅葉(モミジ)を紹介いたしました。
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中善寺温泉あたりの街路樹はモミジでした。
ラベル:もみじ 日光 紅葉
posted by SORI at 17:00| Comment(54) | TrackBack(2) | 日光 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年11月19日

奥日光三名瀑 湯滝

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クリックすると拡大すでに紹介したとおり2013年10月28日に華厳の滝を見に行きました。その時の華厳の滝が右の写真です。華厳の滝は「日本三大瀑布」ですが、さらに「奥日光三名瀑」でもあり、「日光三名瀑」でもあります。華厳の滝を見た後は、この時に紅葉が見れる標高が1400mの奥日光に行きました。そこで見ることが出来たのが、「奥日光三名瀑」の一つである上の写真の湯滝(ゆだき)でした。これで二つの「奥日光三名瀑」を見ることが出来たことになります。
 日本三大瀑布 華厳の滝 那智の滝 袋田の滝
 奥日光三名瀑 華厳の滝 湯滝   竜頭の滝
 日光三名瀑  華厳の滝 霧降の滝 裏見滝

クリックすると拡大湯滝は右下の写真の湯ノ湖から流れ落ちる滝です。下の写真は湯ノ湖からの落ち口(銚子口/滝口)の部分で、ここから斜めに水が滑り落ちていきます。
右の写真の先が下の写真の落ち口です。
「奥日光三名瀑」以外の呼び方としては「奥日光三大瀑布」などの呼び方もありますが検索件数の結果から「奥日光三名瀑」が妥当なようです。数値はYahooで検索された件数です。日光三名瀑の検索に関しては奥日光三名瀑の検索とダブらないように"奥"の文字を含まない設定で検索しました。
クリックすると拡大 ❶ 日本三名瀑  49400
 ❶ 日本三大瀑布 260000
 ❶ 日本三大名瀑 248000
 ② 奥日光三名瀑 97400
 ② 奥日光三大瀑布  22
 ② 奥日光三大名瀑  72
 ❸ 日光三名瀑  26000
 ❸ 日光三大瀑布   30
 ❸ 日光三大名瀑   60


湯滝は華厳の滝のように垂直に水が落ちるのではなく傾斜を斜めに落ちていきます。その滝の横を歩いて落ち口(銚子口/滝口)まで登って行けました。落差は50mで幅は25mと目の前で見ることが出来る迫力のある滝でした。


滝の落ち口の標高は1475mであることから、この時は紅葉に関してはベストであったと思います。現在はすべて散ってしまっていると思われます。ここに写っている道を紅葉を見ながら登って、滝の落ち口まで行きました。


紅葉の写真を何枚か、掲載させていただきます。
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滝の欲には沢山の紅葉した木がありました。


迫力を感じてもらうために近くからの写真を紹介します。滝の斜面を構成する岸壁は、湯川の流れをせき止めて湯ノ湖を形成した三岳の溶岩だそうです。滝の下段部は左右二股に分かれているのも湯滝の景観の特徴です。
湯ノ湖から流れ落ちる滝なので湯滝と名前が付いたのだと思います。また湯ノ湖の湖畔には日光湯元温泉があり、日光白根山からの水と温泉からのお湯が流れ込んでいることから湯ノ湖の名前が付い多のではないかと思いますが、滝を流れ落ちるのは湯ではなく水です。
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湯滝を流れ落ちた水は日本有数の高層湿原「戦場ヶ原」を流れる湯川となり、さらに下って中禅寺湖へ流れていきます。
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下流側から湯滝を見た景色です。湯滝の大きさが判ってもらえると思います。
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茶店では美味しそうなものが、いろいろと売られていました。ここの見学は駐車料金のみで見ることが出来ます。


緑色マークが、今回紹介の奥日光三名瀑の一つである湯滝です。残りの2つのマークも奥日光三名瀑で、赤色マークが華厳の滝で空色マークが竜頭の滝です。奥日光三名瀑の中で湯滝が最も標高の高い1475m(落ち口)のところにあります。

より大きな地図で 奥日光三名瀑 を表示
posted by SORI at 18:50| Comment(22) | TrackBack(2) | 日光 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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