
今帰仁城の駐車場近くにある今帰仁村歴史文化センターの猫ちゃんです。
写真はクリックすると拡大します。
この猫ちゃんは有名みたいでネットにも登場していました。
今帰仁城の城の茶屋あたりの別のネコちゃんもネットに出てきていました。
いろんなポーズを3枚紹介


長いシッポが自慢かな。

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安政7年3月3日(1860年3月24日)の早朝、浪士一行は決行前に訣別の宴を催して一晩過ごした東海道品川宿の旅籠を出発した。一行は東海道に沿って進み、愛宕神社で待ち合わせたうえで、外桜田門へ向かった。現地に着いた襲撃者たちは、武鑑を手にして大名駕籠見物を装い、井伊の駕籠を待った。
当日は季節外れの大雪で視界は悪く、護衛の供侍たちは雨合羽を羽織り、刀の柄に袋をかけていたので、襲撃側には有利な状況だった。また、江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠を襲った前例はなく、警護は薄かった。もっとも、井伊のもとには以前より警告が届いていたが、護衛の強化は失政の誹りに動揺したとの批判を招くと判断し、あえてそのままに捨て置いた。登城する井伊の駕籠は、彦根藩の藩邸上屋敷を出て、内堀通り沿いに江戸城外桜田門外に差し掛かり、そこで浪士たちの襲撃を受けた。
駕籠が近づくと、まず前衛を任された水戸浪士・森五六郎が駕籠訴を装って行列の供頭に近づき、取り押さえに出た彦根藩士・日下部三郎右衛門にやにわに斬りかかった。こうして護衛の注意を前方に引きつけた上で、水戸浪士・黒澤忠三郎(関鉄之介という異説もある)が合図のピストルを駕籠めがけて発射し、浪士本隊による駕籠への襲撃が開始された。
発射された弾丸によって井伊は腰部から太腿にかけて銃創を負い、独自に修錬した居合を発揮すべくもなく、動けなくなった。襲撃に驚いた丸腰の駕籠かきはもちろん、藩士の多くも算を乱して遁走した。残る数名の供侍たちは駕籠を動かそうと試みたものの、銃撃で怪我を負った上に襲撃側に斬りつけられ、駕籠は雪の上に放置された。護衛の任にある彦根藩士たちは、ベタ雪の水分が柄を濡らし刀身が湿るのを避けるため、両刀に柄袋をかけており、銃創と鞘袋が邪魔してとっさに抜刀できなかった。このため、鞘のままで抵抗したり、素手で刀を掴んで指や耳を切り落とされるなどした。
こうした不利な形勢の中、二刀流の使い手として藩外にも知られていた彦根藩一の剣豪・河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷をかけて刀を抜き、駕籠脇を守って浪士・稲田重蔵を倒すなど、さらなる襲撃を防いだ。同じく駕籠脇の若手剣豪・永田太郎兵衛も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重傷を負わせた。しかし、河西が斬られてたおれ、永田も銃創がひどく闘死した。
もはや護る者のいなくなった駕籠には、次々に襲撃者の刀が突き立てられた。さらに、有村次左衛門が荒々しく駕籠の扉を開け放ち、虫の息となっていた井伊の髷を掴んで駕籠から引きずり出した。井伊は無意識に地面を這おうとしたが、有村が発した薬丸自顕流の「猿叫」とともに、振り下ろした薩摩刀によって斬首された。襲撃開始から井伊殺害まで、わずか数分の出来事だったという。