2013年05月19日

村上隆 展 「めめめのくらげ」の世界


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。

六本木ヒルズ森タワーの52階で行なわれていたミュシャ展に行った帰りにエレベーターで出口の3階に降りると目の前の床に矢印が書かれていました。一瞬、で口の方向かなと思いましたが、矢印はART+DESIGN STOREのためのもので、そのお店の中に村上隆展をやっていたA/D GALLERYがありました。

そのA/D GALLERYで村上隆展「めめめのくらげ」が行われていました。
村上 隆(むらかみ たかし)はアニメ・フィギュアで有名な日本の現代美術家、ポップアーティストです。ちょっと覗いてみました。こちらの展示会もミュシャ展と同じく明日2013年5月19日で終了です。


写真撮影OKなのがうれしいです。入口から見た空間です。250cmの等身大のぬいぐるみのような生き物が「るくそー」です。
タイトルの「めめくらくらげ」は映画の題名です。予告編はこちらです。→ポチッ
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ミュシャ展を見た後にはホッとする空間でもありました。真ん中に居るのは「オーバル」です。体長は40mだそうです。
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奥から入口の方向を撮ったものです。「オーバル」の後ろ姿が印象的です。
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「ふれんど」達のフィギュアも沢山並んでいました。クリックしてじっくり見て下のどの「ふれんど」か想像してみてください。
くらげ坊、うっきー、ユピ、KO2、シーラン、ジョニー、ティラノちゃん、ハヤオ、メガロッコ、カラカッサン、しもん、えびすけ、ランプ、モモイ、ビッグアーム、シンゴー君、オニガワラン、ジョウロくん、くるくるるん、のふきんくん、ポニョンポニョン、カゲロウくん、フラフラ、ジェラチンポン、ゆーゆーれん、イガイガリン、新白銀
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入口の右側にあったのがハッピーレインボーです。こちらではミュシャのカタログも売られていました。ミュシャ展の売店は超満員なのでカタログだけなら、こちらがお薦めです。52階のミュシャ展の外でもカタログとポストカードが手に入りますがオフィシャルカタログ2000円以外にいろんなカタログが置かれていたのはビル内では、ここだけだったと思います。さらにミュシャのポスターも売られていました。128万円が2種類と4枚組で480万円のものがありましたが、さすがに手が出ませんでした。


さっそくハッピーレインボーのグッズを買ってきました。
posted by SORI at 07:54| Comment(14) | TrackBack(0) | 東京 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月18日

ミュシャ展に行ってきました。



六本木ヒルズで2013年3月9日からおこなわれていたミュシャ展(Mucha展)も5月19日で終了するとのことから、急遽ミュシャ展に行ってみることにいたしました。そのきっかけは、偶然にもNHKの番組「日曜美術館」で2013年4月7日に放送されたアルフォンス・ミュシャを見たからでした。番組のタイトルは「パリをとりこにした女神の微笑み」でした。

ミュシャ展の場所は六本木ヒルズ・森タワー52階の森アーツセンターギャラリーでした。ミュシャ財団が秘蔵するコレクションの中から選りすぐりの240点の作品が展示されていました。私は、今回のような絵画の展示会には来たことがないので、比べられないのですが、作品点数や内容から充実していたと感じました。
沢山の方、特に女性の方が多く見に来られていました。展示会場内は写真撮影は禁止されているためにパンフレットやカタログから紹介いたします。
六本木ヒルズの雰囲気を味わってもらうために52階からの景色とシンボルオブジェ「巨大クモ・ママン」を紹介します。どちらの写真もクリックすると拡大します。
 名称 ミュシャ展 パリの夢 モラヴィアの祈り
             あなたが知らない本当のミュシャ
 場所 六本木ヒルズ・森タワー52階 森アーツセンターギャラリー
 住所 東京都港区六本木6-10-1
 電話 03-5777-8600
 期間 2013年3月9日(土)~5月19日(日)
 時間 10:00~20:00
 料金 大人1500円 大学生1200円 中高生800円 小学生以下無料
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左がアルフォンス・ミュシャ(Alfons Mucha フルネーム:Alfons Maria Mucha)の1907年ごろに描かれた47歳ごろの自画像です。正式名は「パレットを持った自画像」でアメリカに滞在していた1904年~1910年の作品ということになります。右側が入場券です。
クリックすると拡大アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)は1860年7月24日にオーストリア帝国領モラヴィア(現代のチェコ)のイヴァンチツェで生まれて、78歳の1939年7月14日に亡くなりました。
19世紀末のパリに斬新なデザインでポスターに革命をもたらした。そのミュシャの伝説は、一枚のポスターから始まりました。ある時、ミュシャは、ひょんなことから、当時のフランスを代表する女優サラ・ベルナールの舞台公演のポスターを制作することになりました。それまでは全く無名の挿絵画家に過ぎなかったミュシャでした。
しかしそのポスターは、貼り出されるや、パリ中の話題をさらい公演は大成功で、一夜にして、ミュシャは時代の寵児(ちょうじ)と呼ばれるようになりました。


パンフレットの表紙に使われていた2枚の絵です。パリでの衝撃のデビューから10年、ミュシャはすべての名声を捨ててパリを去り、アメリカ(1904年~1910年)、そして祖国チェコへと向かい、そうした中で描かれた知られざる油絵の数々が展示されていました。
パリの華やかな時代の1897年作「夢想/Reverie」(左)と晩年の1927年~1935年ごろ製作の「ヤロスラヴァの肖像/Portrait of Jaroslava」(右)です。
クリックすると拡大クリックすると拡大

全く無名の挿絵画家が一夜にして不動の名声を手に入れたのが左側のポスターでした。ミュシャは、それまで名もない挿絵画家でしたが1894年、クリックすると拡大右の写真の舞台女優サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt)の芝居のポスター製作の計画が持ち上がつたとき、年の瀬で主だった画家がクリスマス休暇をとっていたためミュシャにサラのポスター制作の仕事が回ってきたのです。その時代にとって作成されたポスターは革新的なものでした。この作品をサラ本人が見た時の感動は、すごかったそうです。一夜にして彼のアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を得たのでした。この時、ミュシャ34歳ごろ、サラ50歳ごろのことでした。ポスターは威厳に満ちた人物と、細部にわたる繊細な装飾がなされており、当時のパリにおいて大好評を博したのでした。またサラ・ベルナールにとっても、この「ジスモンダ/Gismonda」が、フランス演劇界の女王として君臨するきっかけとなったそうです。この「ジスモンダ」より若い時の作品は、ミュシャ展内を見た限りでは1880年頃の「妹アンジェラの肖像」の1枚だけで、実質的に「ジスモンダ」がデビュー作品でもあり出世作品でもあったのです。
すぐにサラはポスターの専属契約をミュシャとしたそうで、その後も「椿姫」、「メデイア」、「ラ・プリュム」、「トスカ」など、サラ・ベルナールのポスターを制作しています。右が1898年作成のポスター「メデイア/Medee」です。38歳ころの作品ということになります。
クリックすると拡大クリックすると拡大

こちらは1917年作 「人形を抱くヤロスラヴァ/Jaroslava Holding a Doll」です。57歳ごろの作品です。1910年に故郷のチェコに帰国したのでチェコで描いた絵画です。ちなみにヤロスラヴァ(Jaroslava)は1909年に生まれたミュシャの娘です。さらに1915年にミュシャが55歳の時に生まれた息子のイージー(ジリ/Jiri) の2人の子供がいました。1920年に描いた「ジリの肖像/Portrait of Jiri」も有名です。息子のジリ・ミュシャは父のことを書いた本「アルフォンス・マリア・ミュシャ 生涯と芸術」を1989年に書いています。


こちらは1936年作 「民俗衣装を着た女性/Woman in Moravian Costume」です。76歳ごろの作品です。チェコは1910年から1939年に78歳で亡くなるまですごしました。
posted by SORI at 06:16| Comment(12) | TrackBack(0) | 東京 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月17日

「小竹城」と「小竹五郎高胤の墓」


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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千葉県佐倉市小竹地区は、辻切り不思議な風習を紹介したとおり、伝統が残る歴史のある地区なのです。その中で貴重な文化資産なのが小竹五郎高胤(おだけ ごろう たかたね)によって1390年頃に築城されたと伝えられている小竹城(おだけじょう)の城跡です。この城跡は地元の住民の方によって代々守り継がれてきた文化資産なのです。ここが小竹城であったことを示す標柱が立てられています。

この小竹城跡は2011年3月1日に佐倉市市民文化財に選定されました。車道からの入口部分に小さな看板が立てられていました。資産名は「小竹城跡と小竹五郎の墓およびその周辺の里山風景」です。
佐倉市市民文化資産

小竹城跡と小竹五郎の墓およびその周辺の里山風景

  選定年月日  平成二十三年三月一日

  種     別  自然資産

  員     数  一件及び一基

小竹城は、明徳年間(1390年頃)小竹五郎高胤によって築城されたと伝えられています。現在では一辺約50メートルの土塁や空堀が残るみですが、城址を大切に思う住民により、一帯は墓とともに代々守り継がれてきました。周辺に残る樹林や湧水を含む豊かな里山風景と合わせて、貴重な自然資産です。

平成二十四年三月                佐倉市教育委員会
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車道からの入口です。
選定地は民有地であることから小竹城跡の周囲の限られた景観のみの紹介とさせていただきます。もし見に行かれるときは住民の方に配慮していただけるようにお願いいたします。ミラーの右側の桜の木の下の黄色の〇の部分に小竹城を築城した小竹五郎高胤の墓あります。クリックするともう少しよくわかると思います。
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こちらが小竹五郎の墓です。墓石の中央には「小竹五郎之墓」と書かれており、これが小竹城を築城した小竹五郎高胤の墓であることが判りました。しかし墓石の台座には高橋と刻まれています。ネットによると小竹氏はのちに帰農して名前を高橋に変えたようです。そのために台座には高橋が刻まれていると推察いたします。そんなこともあり、この地域は高橋の姓が多いのです。地元の竜神橋さんからコメントいただいたように、分家に高橋惣兵衛さん(ネットで出てくる名前)が、おられたようです。地域の案内板の高橋さんの数を数えると15軒でした。高橋さん以外でも山崎さんと秋元さん秋山さんの名前が多かったです。
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下の縦長の2枚の写真の左側が墓石の正面の写真で、右側が墓石の右面の写真です。裏面と左面には特に文字は刻まれていませんでした。下で紹介する文字は正面からだけでは読みにくいので右の写真のように2~3文字づつ角度をつけて撮った写真で読み取りました。
墓石の正面中央に「小竹五郎之墓」と書かれていることが判ると思います。その右上には「千葉六家之正跡」と書かれています。これは「千葉六家」の「正しい場所(正跡)」という意味で、重い意味がある墓標のようです。
墓石の右面には、次のように建てられた時期と経緯が書かれていました。
 時期 維明治廿六発巳年十一月穀旦
 経緯 先祖為菩提高橋弥右エ門建之
穀旦は吉日のことです。つまり築城から約500年後の明治26年11月吉日(今から120年前)に高橋弥右エ門によって先祖の菩提(冥福を祈って供養)のために建てたことを表しているようです。クリックすると拡大クリックすると拡大するので文字を見てみてください。
実は「高橋弥右エ門」の名前は、すでに紹介したことがあるのです。小竹の辻切りの記事で③番の辻切りが取り付けられていた右の写真の秩父三十四ヶ所参りを記念した石柱を立てたのが高橋弥右エ門さんでした。明治33年1月吉日に建てられたので年代的にも同じ人だと思われます。
クリックすると拡大クリックすると拡大

120年前に建てられた小竹五郎高胤の墓もすばらしいのですが、その右側に小さな2つの墓石があり、そちらも気になって近づいてみました。
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左の墓石には小さな子供を抱いた菩薩像が彫られていることから、小さな子供の墓石だと思われました。その像の右側には「子」の文字が読み取れることからも子供の墓石であることが伺えました。像の左側には寛延三年十月の文字が読み取れます。つまり、この墓石は寛延三年(1750年)のものであることから今から約263年前のもので現在の120年前の小竹五郎高胤の墓石より、はるかに古いものだったのです。
小さな子供の墓石が建てられていたということは、それより古い本体の墓石があったことを示してくれているのです。
一方、右側の墓石をよく見ると古い墓石の屋根の部分でした。クリックしてもらうとわかるように非常に古いものと思われました。もしかしたら小竹五郎高胤のオリジナルの墓石だったのかもしれません。墓石が壊れてしまったことから120年前に建て直した可能性はあります。今となっては史実を確認する手立てはありませんが、いずれにしても現在の墓石を建てる以前で、且つ寛延三年(263年前)以前にも、この場所に立派な墓石があったことは間違いなさそうで、ロマンを感じさせてくれる場所でした。
クリックすると拡大クリックすると拡大

車道から入っていく道を正面から見ました。2011年に佐倉市市民文化財に選定され説明文の看板が道り右側に立てられていることが判ると思います。この看板は昨年(2012年)に建てられました。


道を進んで左に曲がると冒頭の写真の標柱が見えてきます。この城は二重土塁で守られており、手前の盛り上がった部分が一文字土塁と呼ばれるものだと思われます。標柱は城郭への入口の虎口に立てられていたのです。 <写真①>


ここが小竹城の主郭への入口であった虎口です。虎口(こぐち)とは中世以降の城郭における出入り口のことです。「こぐち」には狭い道・狭い口という意味があります。虎口を「ここう」とよむ場合は、中世の戦場や陣地における危険な場所を意味することもあるそうです。虎口の両側に土塁が続いています。 <写真①'>
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クリックすると拡大土塁の内側の曲輪と呼ばれる部分には主郭が建っていました。現在は代々受け継がれてきた方の民家が建っています。ネットによると曲輪の土塁脇には妙見社などの祠があるようで、かつて城郭であった雰囲気がありました。右の写真はネットから拝借した祠の写真です。
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立派な土塁が曲輪のまわりに続いていました。<写真②>
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虎口に建てられた標柱です。いずれもクリックすると拡大します。
この標柱は23年前の平成二年(1990年)に建てられたもので、標柱には枠内の内容が書かれていました。
小竹城は小竹氏の居城としての伝承を残す。しかし臼井氏の一族が小竹氏を称するのは十三世紀のことと考えられるのに対し、遺構の構造から判断される築城時期は十六世紀初頭とされている。遺構としては土塁・空堀・虎口等があり、居館的性格を濃厚に有する中世城郭である。
ここでは築城は十六世紀初頭と書かれていますが、同じ佐倉市教育委員会の2011年の見解では1390年ごろ築城と、より具体的な説明になりました。ただし現在残されている遺構は、原氏が臼井城主にあった16世紀(1500年代)中頃から後半の時期のものと考えられいるそうです。
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大

土塁の外側の空堀もしっかりと残っていました。は二重土塁で土塁と土塁の間が空堀になっているのです。<写真③>


北側斜面の土塁です。ここは20m近い高さの傾斜になっていました。<写真④>


こちらは一文字土塁の手前から小竹城跡の東側の臼井側に降りていく小道の入口です。<写真⑤>


この小道は整備されていましたので降りてみることにいたしました。<写真⑥>


クリックすると拡大小道を降りてみるとこのような広場がありました。
この広場はボランティアの「佐倉里山ガーディアン」の方々が整備されているそうです。
上で紹介した小道の整備も佐倉里山ガーディアンの方により行われたとホームページに書かれていました。
すぐそばには右の写真の樹齢100年のグミの大古木があり佐倉市の保存樹に選定されていました。その木には昔フクロウも住みついていたそうです。正面の竹林の向こうに小竹城跡があるのです。
クリックすると拡大 佐倉里山ガーディアンの紹介
  設立 2003年
  活動 里山のためのボランティア
  会員 10名
  代表 飯田富雄 
  住所 千葉県佐倉市小竹785-3
  連絡 (有)飯田製作所
  HP  http://www.catv296.ne.jp/~satoyama/index.html


上の写真の小道を降りて少し離れた東の臼井側から小竹城跡の方向を見た景色です。この写真では確認する目標は写っていませんが中央より少し右側あたりの奥の丘の上が小竹城跡です。
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上で紹介した写真を撮った場所と方向を配置図に記載いたしました。
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大 ①虎口と標注と一文字土塁
 ② 土塁
 ③ 空堀と二重土塁
クリックすると拡大クリックすると拡大クリックすると拡大 ④ 北側斜面と土塁
 ⑤ 東に降りる小道入口
 ⑥ 東に降りる小道
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posted by SORI at 12:08| Comment(10) | TrackBack(4) | 千葉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月16日

ビーチのカモメたち

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バハマのプライベトビーチを紹介したときにカモメさんが沢山写っていたのを気がつかれましたか。ここではカモメさんたちを紹介いたします。
この写真のようにまったく人間を怖がりません。手が届く距離まで近づくと逃げる準備態勢に入ります。上の写真は丁度そのときのものです。

砂浜ではカモメのダンス(求愛ダンス? それとも雄同士の威嚇ダンス?)が見られました。写真をクリックしてもらうと判りますが3羽の左側に1羽のカモメが踊りを見ていました。


砂浜にもカモメがいますが大部分のカモメはプライベトビーチの両側にある突堤にとまっていました。背景がホテルとビーチです。みんな同じ方向(風上)を向いているのが印象的でした。
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突堤の先端に特に沢山いました。向に見える島はパラダイス島で手前はニュープロビデンス島です。景色だけでなく名前もリゾートです。
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posted by SORI at 00:39| Comment(12) | TrackBack(2) | バハマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月15日

バハマにも大砲の飾ってあるお家がありました。

IMG_5461-50.jpg
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バハマの首都ナッソーの普通の景色を紹介いたしましたが、今回も何気ない風景です。今までインドやパキスタンで入口に大砲を飾っている家を紹介しました。バハマでも入口の門に大砲を飾っている家がありました。いずれも個人の家ではなくて政府関係の建物です。あの赤いポストがあったところでした。

地図にはGovt Houseと書かれていました。ここも政府関係(知事官邸)の建物のようです。いろんなところで大砲が飾られていますね。今まで見かけたのはインド エジプト 中国  ドイツ パキスタン トルコ フランスでした。
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別の入口ですが同じ建物です。真ん中の像はコロンブスだそうです。


このあたりはバハマの官庁街で別の建物にも大砲が飾ってありました。
posted by SORI at 12:11| Comment(10) | TrackBack(1) | バハマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バハマの郵便ポストも赤でした。

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これがバハマの郵便ポストです。バハマのポストは赤で細身のポストでした。クリックすると拡大日本のポストは赤いのでどこでも赤いと思っていたら以外と赤以外のポストが多いです。
赤いポストだったのはインドとイギリスでした。やっぱりイギリスの影響があるのかな。色は赤だけれども形は違うのが面白いです。
右のHOURS COLLECTIONの表示から判断するに日曜日と祝日を除いて毎日収集するようです。
全ての写真はクリックすると拡大写真を表示します。

下の写真の右端にポストが立っているのが、わかってもらえると思います。ここは政府関係(知事官邸?)の敷地の入口の門のようです。
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posted by SORI at 04:13| Comment(20) | TrackBack(3) | バハマ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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