2013年04月25日

109年前に設立された小さな小学校


写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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ワンコの散歩コースで桜の木が沢山植わっている場所があります。今年も桜が満開に咲きました。桜の満開の写真は2013年3月29日に撮りました。ここは昔、小学校だった場所なのです。

その校庭だった場所の写真です。小学校は廃校になりましたが、当時の桜は成長し、今も咲き続けています。ここは千葉県佐倉市青菅地区です。現在の住所は千葉県佐倉市青菅148-2です。
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少し足を伸ばしたワンコの散歩コースにある廃校となった小学校です。
この小学校は109年前の明治36年(1903年)に青菅分教場として設立され、昭和52年3月(1977年)に廃校になりました。36年前の廃校当時のままに残っているのです。


噂では映画の撮影に使われたこともあるそうです。この小学校は分校として出来ましたが、その本校(当時名 : 印旛郡第六番小学区公立井野町小学校 現在名:佐倉市立志津小学校)は明治6年(1873年)に設立された歴史のある学校だそうです。


以前の桜の季節の写真も紹介します。校庭には沢山の桜の木が植わっています。


この小学校の校庭に、もう一つ珍しいものが残っています。庚申塚(こうしんづか )です。
庚申塔(こうしんとう)とも言うそうです。確かに左の石碑には庚申塔と書かれており、右側の石碑には庚申塚と書かれています。庚申塚は中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことだそうです。庚申塚の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からで、近世を通して多数の庚申塔が建てられたが現存するものは開発から免れたものだそうです。クリックすると拡大します。
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中心に置かれている、最も立派な庚申塔を拡大してみました。青面金剛(しょうめんこんごう)の像が鉾、弓、矢、輪宝らしいものを手に持っています。災いを調伏する青面金剛のシンボルとして、両足の下に邪鬼が踏みつけられています。さらに見ざる、聞かざる、言わざると思われる三猿(さんえん)が台座に近いところに掘られています。上辺の左右には日と月が描かれている のも庚申信仰の特徴です。
年号を確認すると263年前の寛延三年十一月(1750年)でした。


庚申塔.gif右の絵はネット から拝借しました。上の写真はこの絵の青面金剛の特徴を持っています。さらに傘があるのが特徴のようです。
この周りを見ると草に隠れて小さな庚申塔を見つけました。下の写真です。
この青面金剛は斧、輪宝、数珠を持っているようです。ただし邪鬼や三猿や上辺の左右の日と月は描かれていません。
年号は寛保四年正月(1744年)と上の庚申塔より少し古い物のようです。

この2つの庚申塔(庚申塚)以外の年号も調べるてみると文政九年(1826年)、弘化五年如月(きさらぎ)(1848年2月)、享和三年十一月(1803年)、明治三十年十二月(1897年)とほとんどが江戸時代でした。急に貴重なもののように思えてきました。ここから遠くない場所(昔風に言えば隣村)でも庚申塔を13体見つけました。


庚申塔の中にまぎれて一つだけ馬が急死した路傍によく建てられた馬の無病息災の神である馬頭観世音の文字が刻まれた石碑がありました


冒頭の廃校となった小学校の校区を引き継いでいるのが、下の写真の青菅小学校です。この青菅小学校自体も明治6年に開校した志津小学校の分校で昭和61年(1986年)に志津小学校から分離独立した小学校です。
 志津小学校の沿革
  1873年 印旛郡第六番小学区公立井野町小学校として創立 
  1887年 村立上志津尋常小学校と改名
  1945年 村立志津小学校と改名
  1954年 市立志津小学校と改名
  1961年 上志津小学校 分離独立
  1967年 井野小学校   分離独立
  1976年 小竹小学校   分離独立
  1977年 青菅分校    廃校
  1986年 青菅小学校   分離独立
明治6年(1873年)と言えば、私が小学1年から4年まで通っていた広島の小学校も開校が明治6年でした。開校時の名前は「協心舎」で、今は広島市立井口小学校です。
その後は神戸に引っ越して神戸市立本山第一小学校から神戸市立本山中学校と進みました。ちなみに神戸市立本山第一小学校は明治8年(1975年 136年前)に田辺小学校として開校し、神戸市立本山中学校は昭和22年(1947年)に開校いたしました。


明治6年開校が偶然のようですが、実は明治5年8月3日の学制発布があったことが関係しているようです。ネットで書かれていた小学校の歴史です。
1872年(明治5年)8月3日の学制発布により始まった日本の近代教育制度において、初等教育は当初、小学校尋常科という名称の学校で行われ、1873年(明治6年)1月15日に設置された官立の東京師範学校附属小学校(現在の筑波大学附属小学校)を皮切りに、1875年には、ほぼ現在並みの約2万4千校の小学校が全国各地に設置された。

しかし、1874年(明治7年)の段階で、小学校への就学率は男児46%、女児17%、総計平均で32%に過ぎず、3人に1人しか小学校に通っていない状況であった。1890年(明治23年)になっても小学校数は2万6千校、就学率は49%と増えてはいるものの、ほぼ全員が就学していると言えるようになるのは明治の終りのことであった。

1886年(明治19年)の小学校令で、尋常小学校(尋常科)と高等小学校(高等科)が設置された。このときの尋常小学校(義務教育)の修業年数は4年間であり、その後に高等小学校の4年間の課程があった。1900年(明治33年)に小学校令が改正され、高等小学校の課程は「2年または4年」とされた。その後、何回かの変遷を経て、澤柳政太郎文部次官の下、1907年(明治40年)に尋常小学校が6年間、高等小学校が2年間となった。

1936年(昭和11年)の統計では、尋常小学校を卒業した者のうち、旧制中等教育学校(旧制中学校・高等女学校・実業学校)に進学する者は21%、まったく進学しない者(就職等)は13%、高等小学校に進学する者は66%だった。

第二次世界大戦下となる1941年(昭和16年)4月からの初等教育は、国民学校という名称の学校で行われた。国民学校には、6年間の初等科のほかに、初等科を修了した者が進学できる修業年限2年の高等科の制度が設けられていた。国民学校の初等科は、1947年(昭和22年)4月1日の学校教育法の施行とともに順次廃止され、戦後の新制学校である現行の小学校に移行した。

赤いマークが廃校になった青菅分校で緑のマークが現在の青菅小学校です。青菅分校の敷地には青菅会館(公民館)があります。
  青菅分校  千葉県佐倉市青菅148-2
  青菅小学校 千葉県佐倉市宮ノ台1丁目17-1
posted by SORI at 01:01| Comment(14) | TrackBack(4) | 風習・歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

113年前の姿をみせてくれる旧水戸農業高等学校


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水戸の茨城県立歴史館敷地内にある旧水海道小学校本館を紹介いたしましたが、おなじ茨城県立歴史館敷地内に旧水戸農業高等学校を立っていました。今回の建物の写真はすべてクリックすると拡大するように設定いたしましたので気になった写真があれは、是非ともクリックしてみてください。

水海道小学校本館は遠く常総市水海道から移設されてきたものですが、この水戸農業高等学校本館はもともと歴史館の敷地に1900年(明治33年)から1970年まで,茨城県立水戸農業高等学校の本館として使われていました。
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クリックすると拡大旧水海道小学校本館は洋館でしたが、こちらには純日本建築ですが、左右対称で車寄せがあるところは洋館を意識したものかもしれません。
この建物は1900年に創建し1970年の茨城県那珂市に移転するまでまで70年間、使われました。建物が使われなくなったことから同じ歴史館敷地内ですが違う場所に1975年10月に移築・復元されました。通常は外観のみの公開ですが、講座室として各種ワークショップなどに利用されているそうです。
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旧水戸農業高等学校の横には運動場があり子供たちが遊んでいました。木造の学校の横で子供たちが遊ぶ姿は、昔を思い起こさせる風景です。


水戸農業高等学校の沿革です。
 1895 明治28年 4月26日 水戸市南三の丸に創設(茨城県中央農事講習所)
 1896 明治29年 4月 1日 茨城県簡易農学校に校名変更
 1899 明治32年 5月 7日 茨城県農学校に校名変更
 1900 明治33年 6月13日 水戸市緑町の新校舎に移転 (現・歴史館敷地)

 1901 明治34年 5月30日 茨城県立農学校に校名改称

 1923 大正12年 4月 1日 茨城県立水戸農学校となる

 1948 昭和23年 4月 1日 茨城県立水戸農業高等学校となる

 1950 昭和25年 4月 1日 石塚分校設置 茨城県東茨城郡城里町

 1963 昭和38年 4月 1日 石塚分校独立常北高等学校となる

 1970 昭和45年 2月18日 那珂市東木倉(現在地)に建物竣工全校移転完了

 1975 昭和50年10月   創建当時の姿に本館を移築・復元

 1987 昭和62年 4月 1日 農蚕科募集停止
 1989 平成 1年 4月 1日 農業経済科新設
 1992 平成 4年 4月 1日 生活科募集停止 生活科学科新設
 1995 平成 7年11月 7日 創立100周年記念式典
 2005 平成17年11月 9日 創立110周年記念式典(県民文化センター)
 住所の移り変わり
 ・1895年~1900年 水戸市南三の丸
 ・1900年~1970年 水戸市緑町(現・歴史館敷地)
 ・1970年~現在   那珂市東木倉


航空写真でも旧水戸農業高等学校を紹介します。写真上のアイコンマイナスを数回クリックすると茨城県立歴史館や旧水海道小学校本館もわかると思います。

歴史館敷地内には、趣のある灯篭のような石柱がありました。これは六地蔵石憧(ろくじぞうせきどう)で、室町時代後期に花崗岩で作られたもので183cmの高さがあります。
憧(はたぼこ)は寺院の堂内の柱にかけた旗の一種で、石憧はこの憧を六枚組合せ、龕部(がんぶ)には六地蔵が浮彫りされており、県内に存在する多くのものが灯篭型となっているそうです。こちらの六地蔵石憧は茨城県指定文化財です。


こちらの建物が茨城県立歴史館です。大きな建物ですが広い敷地に建っていました。


茨城県立歴史館の展示室は写真撮影が出来ませんが、ロビーはOKとのことなので雰囲気を紹介したいためロビーの写真を掲載いたしました。
posted by SORI at 00:44| Comment(6) | TrackBack(1) | 水戸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月23日

小さな村の素敵なホテル


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ドイツの田舎の風景を紹介したシンボルタワーのマイバウムのある村に泊まりました。泊まったホテルを紹介いたします。このホテルに泊まりました。ホテルの目の前には大きな木があるので全景は見えませんが雰囲気はわかってもらえると思います。

こちらがホテルの入口です。小さな入口がなんとなくワクワクさせてくれます。
このホテルの名前はHotel zur Postです。
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この写真の右端のドアが、上の写真で紹介したホテルの入口です。その通路には沢山の写真が飾ってありました。おそらく皆さん有名な方々だと思います。ちょっとした名ホテルのようでした。その名ホテルを紹介いたします
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先ずはホテルの外観から紹介いたします。ホテルの全景は撮れないので分割した紹介いたします。こちらがホテルを正面から見て右側です。
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こちらが正面から見て左側です。
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渡された鍵の部屋番号は426でした。ヨーロッパでは日本の2階を1階と表現します。したがってルーム番号が100番台は日本で言う2階で200番台は3階、300番台は4階です。したがって400番台は日本で言う5階でヨーロッパで言うと4階と想像できました。


さっそく、エレーベーターのところに行きました。階段の右側にあるエレベーターに乗りました。ところがボタンは3までしかありませんでした。最上階の4階に行きましたが、上に登る階段はありませんでした。受付カウンターに戻って、場所を聞くと建物の外に出て別棟であることを教えてくれました。


左側の建物がその別棟でした。頭の4が別棟の番号で5もありました。この建物での部屋番号が26なので3階の部屋でした。このホテルには別棟がいくつもありました。かなり沢山の人が泊まれるホテルでした。ホームページを見ると104室あると書かれていました。
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その別棟の3階からの景色です。例の教会とシンボルタワーが目の前に見えました。
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こちらも部屋からの景色です。緑の中に民家がありました。


もう一つ部屋からの景色を紹介いたします。どちらの方向も緑があふれていました。


シンボルタワーの少し左手前にホテルがあります。クリックして出てきた拡大写真では確認できると思います。
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ホテルの1階には雰囲気のあるレストランがありました。
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そのレストランの中です。


ネットからホテルの動画を拝借いたしました。プレーボタンをクリックすると雰囲気が判ると思います。

nyankomeさんの御質問にお応えして建物の壁の絵を掲載させていただきます。建物の左端にあった馬車の絵です。


こちらは入口の上にあった絵です。こちらにも馬が使われていました。


緑のマークがホテルのあったローアドルフ (Rohrdorf) です。マークはホテルの場所につけています。青のマークはGarmisch-Partenkirchenという小さな町です。


道路を挟んで右側の建物も同じホテルで、私はそちらに泊まりました。5つの建物でホテルが構成されていました。ホテルのレストランはマークのある建物にあるので朝食と夕食はそちらでいただきました。小さな村ですが沢山の人が泊まっていました。

より大きな地図で Hotel Zur Post を表示
posted by SORI at 21:53| Comment(12) | TrackBack(3) | ドイツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小さな村の風景


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ミュンヘンからウィーンの高速道路の車窓から見える記事で小さな村々を紹介いたしましたが、そんな小さな村に泊まる機会がありました。ウィーンからミュンヘンへ鉄道で帰ってからタクシーでこの村まで来てみました。ミュンヘンから90kmでオーストリアの国境まで60kmくらいの場所です。高いところに上がって、村の写真を撮りました。この記事の写真のほとんどはクリックすると2倍に拡大するように設定しているので是非とも何気ない小さな村の雰囲気を感じて見てください。

この教会は上の写真でもわかると思います。この村で一番高い建物のようです。場所はミュンヘン(ドイツ)とザルツブルグ(オーストリア)のちょうど中間にあるローアドルフ(Rohrdorf)という村です。
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道路から住宅を撮りました。この道はすでに家の敷地です。広い敷地がうらやましいです。
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遠くから見ると大きさはわかりませんでしたが、村の通りには大きな家が並んでいました。大家族か、複数の家族が住んでいるところもあるようでした。
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離れた場所にある家も大きかったです。大きな車庫もありました。
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どの家にも薪が蓄えられていました。木が豊富な証拠です。沢山の木を使い続けても自然とバランスしてきたのでしょうね。


昔、馬たちの水飲み場だったのかもしれません。遠い昔から水が湧き続けていたのではないでしょうか。


教会が見えるメイン通りです。ホテルやレストランと思われる建物がありました。
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村のマークのようです。これは公共の建物のように感じられました。教会と道路を挟んだところにありました。地図にはGemeinde Rohrdorfと書かれていました。住所はSt.-Jakobus-Platz 2 Rohrdorf, Deutschlandです。
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泊まったホテルのあたりから教会とは反対側を撮りました。この日は小雨模様のため写真撮影としてはベストではないけれども村の雰囲気に圧倒されました。
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少し離れと村を撮ると沢山の花に囲まれたところにあることがわかりました。
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緑のマークが、今回紹介の小さな村、ローアドルフ (Rohrdorf) です。緑マークは泊まったホテルの位置につけています。青のマークは昆野誠吾さんからコメントで紹介いただいたガルミッシュパルテンキルヒェン(Garmisch-Partenkirchen)です。
posted by SORI at 05:59| Comment(32) | TrackBack(4) | ドイツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ミュンヘンからウィーンへの高速道路の風景

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ドイツのミュンヘンから高速道路を車で走ってオーストリアのウィーンへ入りました。ミュンヘンから東に450kmの距離で約4時間のドライブでしたが、素晴らしい景色が続くので車からの景色を順番に紹介いたします。ミュンヘンの町を出て30分程度、走ると緑豊な景色に変わってきます。この後の写真は家が写ったものが多いと思いますが家がある方が珍しいのです。つまり、このような景色が続くわけです。

牧草地帯でところどころに趣のある家が点在しています。
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この地図の赤い線が今回走った高速道路です。クリックすると拡大するので地名が読みやすいと思います。ウィーンがミュンヘンの真東にあることも判ってもらえたと思います。
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この時期は沢山の花が咲いていました。大きな村の近くも通ります。
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牧場の家は大きいです。
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この車でミュンヘンからウィーンまで走りました。


このあたりでミュンヘンから40分くらいの距離です。
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教会も沢山ありました。この形のオーストリアでは沢山見かけました。クリックして拡大した美しい教会を是非とも見てください。
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牛のいる景色も絵になります。小さな村には教会が建っています。この近隣を舞台にミュージカル映画サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)が作られ1965年に公開されました。サウンド・オブ・ミュージックは1938年のナチス党政権下のドイツによるオーストリア合邦(アンシュルス)及び第二次世界大戦の前夜から始まる物語です。
主人公のマリアは修道女見習で、おてんばで、いつもまわりの修道女にたしなめられていました。
ある日、院長に、オーストリア・ハンガリー帝国海軍の退役軍人であるトラップ大佐の7人の子供たちの家庭教師をするように勧められ、大佐宅へ向かう《I Have Confidence in Me「自信を持って」》ところからはじまります。


標高は500m程度でゆっくりと登り下りが続きます。
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牧草地帯ですが、少しづつ山の景色が増えてきます。徐々に映画サウンド・オブ・ミュージックの世界に入ってきました。
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独特の家々が建っていました。
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丘の斜面にに家が建っていました。


木材がたくさん置かれています。


同じような風景が続きます。このあたりがザルツブルク(Salzburg)です。残念ながらザルツブルクの近くでは高速道路の両脇に防音壁が建てられているために写真を撮ることができませんでした。ザルツブルクの都市名の語源はザルツは「塩」、ブルクは「砦」の意だそうです。15キロほど南のバート・デュルンベルクで産出される岩塩をハライン (Hallein) 市において製塩し、大司教から特権を与えられたラウフェン(Laufen)の船乗りたちがハラインからザルツァッハ川(Salzach)を通じてヨーロッパ各地に送っていたそうです。塩の積載量に応じた通行税をこの地の大司教が財源にしていた。このためデュルンベルクの塩が地名の語源と誤解されています。しかしドイツ語のザルツブルクの名が史料に初めて登場するのは755年頃成立した『聖ボニファティウス伝』においてである。当時のサルツブルクの司教はバイエルン公よりライヒェンハル(現ドイツ領)の塩泉および塩釜の利益の一部を与えられ、それを布教の財源としていたそうです。よって地名の直接の由来となったのはライヒェンハルの塩であると考えられていまする。


大きな高い山が現れてきました。オーストリア領に入りました。このあたりからウィーンまだ300kmあります。ザルツブルクからウィーンまでの間も、人の住んでいるところでは防音壁が立ち並んでいたために写真はあまり撮れませんでした。
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オーストリアの田舎の風景です。
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高い山が、次から次へと現れました。


前方にもきれいな景色が現れてきました。
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ウィーンに近づくと起伏がが少なくなってきます。
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なだらかな丘が続きました。
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城のような建物も時々見受けられました。
posted by SORI at 05:58| Comment(30) | TrackBack(8) | オーストリア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月22日

カイロを離れました。

が表示された写真はクリックすると拡大します。


エジプトのカイロを離れました。カイロ⇒ロンドンのフライトのフライト表示ですがアラビア文字が印象的でした。エジプトともお別れですが沢山の記事も書くことが出来ました。タイトルをクリックすると記事を表示いたします。
 ギザの三大ピラミッド
 エジプト考古学博物館
 エジプトぽいホテル
 カイロの夜景
 エジプトの夕日
 異国を感じさせる風景
 ラシュワン選手のパピルス店
 エジプトのナンバープレート
 ディナー・クルーズ
 ベリー・ダンス
 ハン・ハリーリ市場
 未完成建物の巣窟?
 時代ものの重量級大砲
 ムハンマド・アリ・モスク
 やっとエジプト料理が食べれました。
 辺境の地でエジプトのサンドイッチ
 日本人宅でご馳走になりました。
 この煙は? 火事?
 観光地は守られています。
 昔は日本人 今はロシア人
 エジプトにも水道橋
 ラクダはエジプトが似合います。
 ロバさんの街  カイロ
 砂漠の土産物屋さんのお祈りの時間
 高速道路脇に突然! 戦車
 ダルビーシュ・ダンス
 カイロの東は広大な土漠地帯!
 エジプトの土漠地帯を通る高速道路
 初めて! 飛行機に後ろ向きに座りました。

ロンドンに着くとエジプト(イスラム)の雰囲気はなくなります。
カイロからロンドンの飛行機の中の機内食です。これが最後のエジプトらしい料理でした。名残惜しいかったです。
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ギリシャのあたりの景色です。


カイロ⇒ロンドンの機内です。さすがは外人ばかりです。


ロンドン⇒成田の機内です。 日本人が多いです。やっと日本を感じる雰囲気になってきました。成田から来るときは新型のシートだったのでロンドンからは新型シートを期待していましたが残念ながら古いタイプのシートでした。行きと同様に後向きのシートがある機体でした。


ロンドンを飛び立ちました。


長時間の旅でした。もうすぐ日本です。BA(British Airways)のフライト表示は夜と昼とが色分けされているのでなんとなく昼と夜を感じることが出来ます。


離れるとエジプトが思い出されます。
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posted by SORI at 04:22| Comment(20) | TrackBack(0) | 機内 CY | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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