2025年06月19日

シュプレー川 ベルリン

2025年2月1日にSSブログからSeesaaブログに全記事を移行させました。Seesaaブログに慣れるために、昔の記事に手を加えてブラシュアップして再掲載させことから始めさせていただいています。
パリの記事の掲載が終わったので、次はベルリンの14の記事をブラッシュアップして順番に紹介したいと思います。本記事が/14です。
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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クリックすると拡大前記事で紹介したシャルロッテンブルク宮殿の横を流れている川の畔の景色が、あまりにも美しいので紹介いたします。
川の名前はシュプレー川でベルリンの町の中央を蛇行しながら流れています。私の立っているあたりには大型のリスも走り回っていました。
リスの写真をクリックすると公園の広い範囲を表示します。

シュプレー川(Spree)は、ドイツ連邦共和国を流れる川で、ハーフェル川の支流です。ザクセン州、ブランデンブルク州、ベルリンを流れる全長は約400キロの川です。ベルリンの中ではいくつかに分かれて流れるため、写真のように川幅が狭いところもあります。これがドイツの首都ベルリンの景色の1つです。
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上の写真で遠くに見えた橋がシュロッス橋です。
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写真を拡大すると遊覧船らしい船が見えます。
シュプレー川沿いには世界遺産に登録されているベルリン国立博物館など魅力的な建物が沢山あることから遊覧船もあるそうです。有名な建物ではなくても我々にとっては、すべてが魅力的な景観なのです。
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これが空中から見た写真を撮ったあたりのシュプレー川です。以前に紹介したシャルロッテンブルク宮殿の近くです。シュプレー川はチェコとの国境に近いラウジッツ山地に源を発し北へ向かいます。バウツェン、コトブスといった都市を流れ、西へ転じベルリンに入り、ベルリン郊外のベルリン・シュパンダウでハーフェル川に合流します。ヒュルステンヴァルデの付近ではオーデル・シュプレー運河によってポーランド側の水系であるオーデル川と結ばれています。数値だけ見ても規模が判りにくいと思い、ライン川と比較してみました。括弧内( )の数値は水系全体のエルベ川を示しています。
         シュプレー川              ライン川(比較)
  水系     エルベ川                ライン川
  延長     約400 km (1,091km)        1,233 km
  平均流量  36 m³/s (711 m³/s河口)      2,300 m³/s河口 
  流域面積  10,105 km² (148,268 km²)    185,000 km²
  水源     ラウジッツ山地            アルプス山脈 トーマ湖(スイス)
  河口     ハーフェル川             北海(オランダ)
  流域     チェコ、ドイツ              スイス、ドイツなど6ケ国


シュプレー川の流れているポーランドとチェコの国旗用近くの地図を紹介します。ハーフェル川につながっていることが判っていただけると思います。ハーフェル川は下流でエルベ川につながります。ベルリンの上流にはコトブス(Cottbus)があります。コトブスは10世紀にシュプレー川の中州にソルブ人が居住地を築いたのが起源とさています。写真はWikipediaから転用させていただいたコトブスのブラニッツ城です。
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ラベル:ベルリン 宮殿
posted by SORI at 07:10| Comment(11) | TrackBack(0) | ベルリン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月18日

ベルリンの地下鉄

2025年2月1日にSSブログからSeesaaブログに全記事を移行させました。Seesaaブログに慣れるために、昔の記事に手を加えてブラシュアップして再掲載させことから始めさせていただいています。
パリの記事の掲載が終わったので、次はベルリンの14の記事をブラッシュアップして順番に紹介したいと思います。本記事が/14です。
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ドイツのベルリンでは地下鉄が発達しています。地下鉄は2種類があります。UバーンとSバーンです。Uバーンは完全に地下を走りますがSバーンは高架線の部分が多く町の中心に入ると地下になる電車です。これはSバーンの駅です。ただし、随分と前に廃止になったようで電車は通っていませんでした。フクロウ保護の標識を紹介した記事の中の通りの遠くに写っていたのがこの駅です。

航空写真で見ても駅は残っていますが線路の部分は緑地になっていました。
画面内の を数回ほどクリックすると周りの雰囲気が判ると思います。

こちらは今も活躍しているSバーンの駅です。Sバーンの駅は道路を横断する高架の部分に作られているいるようです。確かに利用するのに便利ですね。ホテルの近くを通っているROHRDAMM駅からUバーン(U7)に乗り17つ目の、このYORCKSTRABE駅でSバーン(S1)にクリックすると拡大乗り換えてUNTER DEN LINDEN駅で降りてブランデンブルク門に行きました。UNTER DEN LINDEN駅は地下でした。SバーンのYORCKSTRABE駅の古さは冒頭の廃墟の駅と同じ感じでした。鉄骨は、すべてリベットで止められているところに歴史を感じました。下の写真の中に右のSバーンの駅の標識があるのが判ってもらえると思います。
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クリックすると拡大Uバーンから乗り換えたSバーン(S1)のYORCKSTRABE駅のホームです。
古い駅の雰囲気が伝わって来る気がします。
自転車も、ちゃんといました。大きな箱がキップの自動券売機で、自転車のすぐ横の赤い箱がチケットの刻印機です。
ホームに券売機と刻印機があるのです。つまり駅は基本的に無人でも大丈夫ということになります。ただし駅員さんはいたと思います。
一番下での説明の通り、駅に改札はありません。
自転車と刻印機の部分を写真から切り取っ他のが右の写真です。
写真をクリックすると刻印機がよくわかると思います。
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これがSバーン(S1)を走っている電車です。沢山の人が利用されていました。ここから3つ目の駅がUNTER DEN LINDEN駅でした。
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電車の中の自転車を掲載いたします。 本写真はすでに自転車にやさしい町の記事で紹介いたしました。


これがUバーン、Sバーン、バスおよびトラムの共通1日券です。6.1ユーロで1日乗り放題なのでお得です。ベルリンの地下鉄は改札がありません。自分で切符に最初に乗るときに刻印機に切符を入れて刻印します。後は乗り降り自由です。ヨーロッパの鉄道は乗客の良識で成り立っているのです。下の切符にはROHRDAMM駅で15時25分に押した刻印が残っています。最後にROHRDAMM駅に帰ってきたときに裏面に記念のため刻印いました。時間は18時5分でした。その刻印が右上のものです。ROHRDAMM駅で刻印したことも記録されているのでいい記念になりました。地下鉄の1回の料金は2ユーロなので4回以上乗れば1日券の方が安くなります。今回は5回乗りました。

紹介した地下鉄の駅を紹介します。目的地はブランデンブルク門(Brandenburger Tor)でした。ホテル→ROHRDAMM駅()→YORCKSTRABE駅()→UNTER DEN LINDEN駅()→ブランデンブルク門、と行きました。帰りにはシャルロッテンブルク宮殿に寄って帰りました。クリックすると拡大
  廃線の駅
  ROHRDAMM駅
  SIEMENSDAMM駅
  YORCKSTRABE駅
  UNTER DEN LINDEN駅
  シャルロッテンブルク宮殿
  ブランデンブルク門
posted by SORI at 08:30| Comment(46) | TrackBack(2) | ベルリン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月17日

ドイツの巨大企業が駅名になっていました。

2025年2月1日にSSブログからSeesaaブログに全記事を移行させました。Seesaaブログに慣れるために、昔の記事に手を加えてブラシュアップして再掲載させことから始めさせていただいています。
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上の写真はネットから拝借したベルリンの上空からの写真です。泊まっていたホテルからベルリンの中心街に出るためにROHRDAMM駅から地下鉄Uバーン(U7)に乗ったことは、すでに報告しましたが、ROHRDAMM駅の隣の駅が、当時従業員36万人、総売上10兆円、総純利益8500億円のドイツの巨大企業シーメンス(SIEMENS)社の名前がついたSIEMENSDAMM駅(ジーメンスダム駅)でした。航空写真の中の が、そのSIEMENSDAMM駅(ジーメンスダム駅)で、カーソルを持って行くと駅名を表示します。シーメンス(独語読みはジーメンス)社の本社はドイツのミュンヘンですが、ベルリンが発祥の地だったのです。ちなみにトヨタ自動車は当時総従業員34万人、売上27兆円、純利益2兆円です。 マークのSIEMENSDAMM駅の西側(左側)にある立派な茶色の屋根の建物がSIEMENS社の建物の一つです。こちらの建物に入らせていただきました。歴史ある建物であることが空の上からも判ります。

朝、ホテルの散歩をしているとSIEMENSの看板がありました。木の奥の外壁を修理中のレンガ造りの建物が創設した時代の建物ようです。
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補修中の建物の辺りを拡大いたしました。どんなにお金がかかっても、古い建物は外観は、昔のままに残して内部は最新の状態にして使い続けるのがヨーロッパです。歴史ある国立競技場を簡単に壊してしまう、どこかの国とは違います。
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右の建物もSIEMENS社です。設立は、ここベルリンで168年前の1847年でした。このあたりは地下鉄2駅分程度の範囲でSIEMENS社の敷地でした。朝の散歩のときは、まさかSIEMENS社の中に入れる機会があるとは想像もしていませんでした。
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ここには創業当初の古い建物があり、その中に入ることが出来ました。階段は鉄骨リベット構造の古い頑丈そうなつくりでした。建物の内部も百数十年前にこんな立派な建物を作っていたとは信じられないほどの出来栄えでした。その建物の中の写真を撮らなかったのは後悔しています。この門から車で入りました。SIEMENS社の人が手続きをしてくれたのですが、突然だったので、かなり時間を要しました。
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その建物の中の社員食堂で昼食をご馳走になりました。これは何種類メニューの中から選んだ肉料理です。
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記念にもらったUSBです。結構使いやすく無くしにくいタイプで気に入ったUSBでした。


SIEMENS社とはドイツ国内での発電プロジェクトを一緒にやりました。SIEMENS社には、タービンと発電機と電気品と計測機器を発注した関係なのです。
ラベル:ベルリン
posted by SORI at 04:45| Comment(56) | TrackBack(0) | ベルリン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月16日

街に天然記念物

2025年2月1日にSSブログからSeesaaブログに全記事を移行させました。Seesaaブログに慣れるために、昔の記事に手を加えてブラシュアップして再掲載させことから始めさせていただいています。
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ドイツのベルリンです。6月27日の夜にベルリンに着き、翌日の朝の散歩で梟(ふくろう)の絵が描かれた不思議な標識を見つけました。街中の泊まったホテルのすぐ側の木の横に立てられていました。標識の梟の絵の上にはNaturdenkmalと書かれていました。Naturdenkmalはドイツ語だと思うのでネット翻訳で調べてみました。→ポチッ
翻訳した結果、Naturdenkmalは天然記念物でした。このあたりは天然記念物のフクロウが生息しているとの表示だったのです。もしかしたら、この木に梟の巣があるのかもしれません。右の切手はベルリンのものです。ただし、この切手はフクロウに似たいますがオオタカ(Goshawk、Accipiter gentilis)と説明されていたので別のもののようです。
そのためネットでEule Berlin Naturdenkmalを検索すると沢山の標識が出てきました。その中に今回と同じ標識もありました。→ポチッ
いろいろ調べた結果、この標識は天然記念物のフクロウだけでなく、すべての天然記念物に使われているようでした。今回の場合は「特別な幹の木」が天然記念物の可能性もあります。

標識は道路脇クリックすると拡大の右側の木の側に立てられていました。
標識があったのは下の写真の一番道路に近い大きな木のところです。検索したネットでの記事の多さからベルリンはフクロウの保護に取り組んでいることが伝わってきました。
すでに亡くなられたと書かれていましたが、左のご夫婦がフクロウ保護などの自然保護運動に、特に尽力したことが沢山のネットに出ていました。
名前は Kurt Kretschmannさん(左) と Erna Kretschmannさん(右) です。なんと1914年3月2日に生まれて2007年1月20日に亡くなったKurt Kretschmannさん はWikipedia にまで掲載されていました。ベルリン生まれのKretschmannさんはそれほど有名な人だったようです。遠くに写っている高架は今は使われなくなったSバーンの駅です。
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上空からも紹介しておきます。写真の中央の木です。左の建物は泊まったホテルです。

Googleマップのストリートビュー(SV)で冒頭の写真の標識を見つけました。→ SV1 SV2 SV3
右後ろに写っている建物が泊まったホテル(Holiday Inn)です。
posted by SORI at 10:26| Comment(44) | TrackBack(1) | ベルリン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月15日

シャルロッテンブルク宮殿(Schloss Charlottenburg)

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今日から県外の娘家族の新しい家に泊りで見に行くので、皆さんのところへの訪問やコメントへの返信が早くて明後日になることをお許しください。
写真の上のカーソルがの場合はクリックすると拡大します。
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これはシャルロッテンブルク宮殿(Schloss Charlottenburg)で、すばらしくきれいな建物でした。1695年にブランデンブルク選帝侯フリードリヒ(のちに初代プロイセン王)が、妃シャルロットのために建てた離宮が起源で、その後フリードリヒ大王などが増改築をし、今日のように長さ約500メートルに及ぶ長大な宮殿になったそうです。どっしりした樫(かし)材を使った内装や、多数の陶磁器を壁にはめ込んだ部屋などがあります。ポツダムやベルリンの他の歴史的建造物と一緒に世界文化遺産として登録されています。

最初は「リーツェンブルク宮殿」(Schloss Lietzenburg)と呼ばれていたが、ゾフィー・シャルロッテの死後に改名されました。1943年に空襲で大被害を受けたが、復元されて現在の姿になっています。
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ドーム状の屋根の上の金色の像が一際輝いていました。
ドイツを初めて訪れたのは1992年4月22日で、それ以来ドイツに10回訪れることになりましたが、最後(10回目)に訪れたのがベルリンでした。この時の移動は成田(6月27日)→フランクフルト→ベルリン(6月27日~29日)→サンクトペテルブルグ→スランツイ→サンクトペテルブルグ→フランクフルト(7月1日)→成田(7月2日)でした。スランツイ(Сланцы)はエトトニアとの国境近くの町でした。
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シャルロッテンブルク宮殿は横に長い建物でした。幅が長すぎて全体を撮る事は出来ません。
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庭園から見える、周りの建物も絵になる景色でした。
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ヨーロッパの他の宮殿と同様に広い庭園があります。庭園側から見た宮殿です。
シャルロッテンブルク宮殿はプロイセン王国の宮殿でした。そのプロイセン王国は217年(1701年~1918年)続きました。217年の内で2009年間(1709年~1918年)は、ここベルリンが首都だったそうです。1701年~1709年の8年間だけケーニヒスベルクが首都でした。
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庭園の中央あたりには噴水がありました。上の写真同じような構図ですが、上の写真は噴水より宮殿に近いところから撮りました。こちらは噴水から遠く離れて撮りました。でも同じように見えるのは宮殿がすごく大きいからです。
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空中からの写真をネットから拝借いたしました。これが宮殿の庭園です。下(南)側に宮殿の建物があり上(北)側に池が広がっています。左(西)側には大きな森が広がっていました。右(東)にはシュプレー川が流れ、きれいな景観を見せてくれます。噴水は幾何学的な庭園の中央です。画面内ののアイコンを一回クリックすると建物全体を見ることが出来ます。

遠くからズームで撮りました。
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庭園の中に大きな池もありました。こちらの宮殿の池は自然な雰囲気のある池でした。
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庭園には沢山の花が咲いておりました。
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池の辺りから宮殿を撮りました。
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宮殿の中の写真をWikipediaから4枚転用させていただきました。右側2枚は「磁器の間」で、長崎オランダ村に再現されているそうです。
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シャルロッテンブルク宮殿( Schloss Charlottenburg)にはブランデンブルク門( Brandenburger Tor)の後に行きました。泊まっていたホテルは廃線の駅()の近くにありました。
クリックすると拡大  シャルロッテンブルク宮殿
  ブランデンブルク門
  廃線の駅  泊まったホテルの近く
  YORCKSTRABE駅
  ROHRDAMM駅
  UNTER DEN LINDEN駅


ラベル:ベルリン 宮殿
posted by SORI at 20:43| Comment(58) | TrackBack(2) | ベルリン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年06月13日

悲劇の象徴も今は楽しい広場

2025年2月1日にSSブログからSeesaaブログに全記事を移行させました。Seesaaブログに慣れるために、昔の記事に手を加えてブラシュアップして再掲載させことから始めさせていただいています。
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これがドイツのベルリンで、今は観光場所として有名なブランデンブルク門です。ここに来たときは、夕方近かったので西日のために逆光の写真になってしまいました。きれいな写真を撮りたいときは正面から日が当たる朝をお薦めします。見ていないけれどもライトアップの時間帯もいいかもしれません。
門が建っている、この場所は、第二次世界大戦後は東ベルリンに属し、西ベルリンとの境界線がすぐ近くを通ることとなり、1961年に東ドイツが国民流出を防ぐためベルリンの境界線を封鎖し後に「ベルリンの壁」と呼ばれる壁を建設すると、門の前を壁が通る形となったため、門は東ベルリン西端の行き止まりとなり通行できなくなった場所でした。クリックすると拡大
右の写真はネットから拝借した1961年8月13日のブランデンブルク門です。この日まで門の下には東西ベルリンを行き交う車や人が通っていたが、この日開始されたベルリンの壁建設により門の周辺は無人地帯となりまりました。つまり東西ベルリンに分かれた悲劇の象徴でした。
しかし1989年にベルリンの壁が崩壊し、28年ぶりに再び門の下を通行できるようになりました。門は2000年12月から巨額の資金をかけて清掃と改修工事が行われたそうです。周囲では1990年代から2000年代にかけてホテルや大使館などの再建が進み、門はベルリンを代表する観光地となって現在の雰囲気になったそうです。
ベルリン州(通称ベルリン)はドイツの首都で、ドイツ最大の都市です。

西側(裏側)から撮ったブランデンブルク門です。太陽が正面から当たっているので、きれいに撮れていますが、残念ながら、有名なクアドリガ(四頭馬車)と女神ヴィクトリアは後ろ姿です。
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Googleマップのストリートビュー(SV)でも西側(裏側)から撮ったブランデンブルク門を紹介します。


ブランデンブルク門は昔18箇所あった都城の門のひとつですが、残りの門は城壁の取り壊しとともに姿を消していく中で、唯一残されたのがブランデンブルク門です。ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家カール・ゴットハルト・ラングハンスによって古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工しました。門の上の四頭立ての馬車(クアドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像は、彫刻家ゴットフリート・シャードウが制作しました。
一番上の写真からクアドリガ(四頭馬車)と女神ヴィクトリアの部分を切り取ったのが右の写真です。下の写真は逆光を避けるために下から見上げるかたちでブランデンブルク門を撮ったものです。クアドリガ(四頭馬車)が見えます。このクアドリガ(四頭馬車)と女神ヴィクトリアはナポレオン・ボナパルトによりベルリンが征服された時にフランスへ戦利品として持ち去られました。その後のナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、ヴィクトリア像は再度ベルリンに持ち帰られ、門の上に戻されたそうです。
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ブランデンブルク門は沢山の歴史がありましたが、今は楽しい雰囲気が、漂っています。女の子たちが回転する三輪自転車に乗って歓声を上げていました。
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高校生たちがブランデンブルク門を背景にして記念撮影をしている風景も、明るい雰囲気が伝わってきます。なぜか女の子が多いです。
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門が注目されていますが左右の建物も注目してください。同じ建物が対象形に配置されていました。
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ブランデンブルク門から東側の広場を撮ったものです。沢山の木が見えると思いますが有名な大通りのウンター・デン・リンデン(Unter den Linden)です。
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開放的な二階建てバスも明るさを盛り上げてくれています。
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さらに、すでに紹介した自転車軍団も明るい雰囲気です。
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参考のためにベルリンの壁があった当時の写真をネットから転用させていただきました。クリックすると拡大冒頭の写真はこの写真のブランデンブルク門の左方向から撮ったものです。右の写真は壁が作られた1961年に撮られたブランデンブルク門です。
ベルリンの壁崩壊は、それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で1989年11月9日に発表したことで、その日の夜にベルリンの壁にベルリン市民が殺到し混乱の中で国境検問所が開放され、翌11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まった出来事でした。
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ベルリンの壁崩壊時(1989年11月9日)の写真もネットから転用させていただきました。
真中はWkipediaに掲載されていた写真で、壁崩壊の翌日の11月10日に撮られた写真です。
写真をクリックすると、いずれも拡大いたします。
クリックすると拡大 クリックすると拡大 クリックすると拡大
ラベル:ベルリン ドイツ
posted by SORI at 08:52| Comment(57) | TrackBack(4) | ベルリン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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